おばあちゃんの小さなお客さん
その知らせが来たのは、昼休みだった。
会社の休憩室で、コンビニのおにぎりを開けたところだった。
スマホが震えた。
母からだった。
⸻
【LINE】
12:08 母
今、大丈夫?
12:08 恵
昼休みだよ
どうしたの?
12:09 母
おばあちゃんが亡くなりました
12:09 母
今朝早くに
12:10 母
急だけど帰ってこられる?
⸻
一瞬、文字の意味が分からなかった。
おばあちゃん。
母方の祖母。
千代さん。
関東の、県境に近い田舎町に住んでいた。
小さい頃は夏休みのたびに泊まりに行っていた。
縁側。
蚊取り線香。
古い扇風機。
冷えた麦茶。
そういうものが、一気に頭の中へ戻ってきた。
でも私は、もうずっと行っていなかった。
仕事が忙しいとか。
遠いとか。
休みが合わないとか。
便利な言い訳は、だいたい後から自分を刺す。
人間、言い訳の製造だけは本当に上手い。
⸻
【LINE】
12:12 恵
帰るよ
今日中に行く
12:12 母
ありがとう
12:13 母
黒い服ある?
12:13 恵
ある
12:14 母
駅まで航くんが迎えに行くって
12:14 恵
助かります
12:15 母
あと
12:15 母
着いたら庭には出ないでね
12:16 恵
庭?なんで?
12:16 母
ごめん
間違えた
12:16 母
着いたらまず仏間に来て
⸻
その一文だけ、妙に引っかかった。
庭には出ないでね。
何を間違えたら、そんな文章になるんだろう。
でも、その時は深く考えなかった。
考えたくなかったのかもしれない。
私は午後半休を取り、家に戻って喪服を詰めた。
東京から電車を乗り継いで、祖母の町へ向かう。
都心のビルが減って、住宅が減って、田んぼが増えていく。
窓の外は、夏の夕方だった。
空だけがやけに広かった。
⸻
【LINE】
17:42 航
恵ちゃん、何時着?
17:43 恵
18:08につく
17:43 航
駅前いるわ
17:43 恵
ありがとう
17:44 航
ひとり?
17:44 恵
ひとりだけど
17:45 航
了解
17:45 航
いや、ごめん
なんでもない
⸻
まただ。
ひとり。
母も、航も、そこを気にする。
私は独身だ。
子どももいない。
彼氏も、今はいない。
だから、ひとりで帰る以外にない。
それだけの話なのに。
駅に着くと、航が軽トラで待っていた。
「恵ちゃん、久しぶり」
「久しぶり。ごめんね、迎え」
「いいよ。ばあちゃんも喜ぶと思う」
言ってから、航は少し黙った。
「あ、ごめん」
「ううん」
車は田んぼの間を走った。
窓を少し開けると、湿った草の匂いがした。
祖母の家へ近づくにつれて、昔の記憶が戻ってくる。
曲がり角の古い酒屋。
用水路の小さな橋。
夏になると蝉がうるさい竹やぶ。
何も変わっていないようで、少しずつ古くなっていた。
祖母の家は、昔のままだった。
瓦屋根の平屋。
広い庭。
奥に畑。
縁側の前には、古い石の祠がある。
子どもの頃は、ただの石の箱だと思っていた。
近づくな、と言われたことはない。
でも祖母は毎朝、そこに水を置いていた。
小さな湯呑みに入れた水。
「お客さんに出すんよ」
そう笑っていた。
私はその言葉を、今になって思い出した。
家の中は、人でいっぱいだった。
親戚。
近所の人。
葬儀屋。
知らない顔。
線香の匂いがした。
母が私を見つけて、すぐに手招きした。
「恵、こっち」
仏間に入る。
祖母は、白い布団の上に寝ていた。
顔は小さくなっていた。
でも、思ったより穏やかだった。
私は手を合わせた。
遅くなってごめん。
それしか浮かばなかった。
⸻
夜。
通夜が終わって、人が少しずつ帰っていった。
親族だけが残った。
私は台所でお茶を運んだり、座布団を片づけたりしていた。
母がふいに言った。
「恵、今日、庭に出た?」
「出てないよ」
「そう」
「何?」
「ううん。ならいい」
台所の隅で、叔母が小さく言った。
「やっぱり来てるのかね」
母が鋭く見た。
「やめて」
「でも、千代さんがいなくなったんだから」
「今はそれを言わなくてもいい」
私は聞こえないふりをした。
聞こえていたけど。
日本の親族会議というのは、どうして本人の目の前で隠し事を始めるのか。
隠すならせめて音量を下げろ。
人間の配慮、だいたい途中で力尽きる。
そのあと、私は廊下でスマホを見た。
航からLINEが来ていた。
⸻
【LINE】
22:31 航
恵ちゃん
22:31 恵
なに?
22:32 航
庭、見た?
22:32 恵
見てない
22:33 航
そっか
22:33 恵
何かあるの?
22:34 航
いや
22:34 航
さっき祠の前に
子どもがいた気がして
⸻
背中がすっと冷えた。
私は廊下の奥を見た。
ガラス戸の向こうに、庭がある。
外は暗い。
月明かりで、祠の形だけがぼんやり見える。
⸻
【LINE】
22:35 恵
親戚の子じゃない?
22:35 航
今日、小さい子は来てないよ
22:36 恵
近所の子とか
22:36 航
夜だよ
22:37 恵
見間違いでは
22:37 航
そうだと思う
22:38 航
でも
22:38 恵
でも?
22:39 航
祠の前で
家の方を見てたんだ
⸻
私はガラス戸へ近づいた。
やめておけばいいのに。
人は怖いものを確認したがる。
確認しても怖いだけなのに。
本当に学ばない。
庭を見る。
祠の前。
そこに、何かいた。
子どもだった。
いや、子どもの形をしていた。
背は低い。
小学校に入る前くらい。
髪は短い。
服はよく見えない。
裸足のようにも見えた。
ただ、変だった。
輪郭がはっきりしない。
暗いからじゃない。
そこだけ、湯気みたいに揺れている。
その子どもが、祠の前に立っていた。
そして、家を見ていた。
顔は見えない。
でも、こっちを見ていると分かった。
私は息を止めた。
その時、背後から声がした。
「見ちゃった?」
母だった。
振り返ると、母は疲れた顔をしていた。
怒ってはいない。
ただ、困っていた。
「お母さん、あれ何」
母はすぐに答えなかった。
「見なかったことにしなさい」
「無理でしょ」
「こっちに来るだけだから」
「何が?」
「おばあちゃんの、お客さん」
その言い方が、昔の祖母と同じだった。
お客さん。
私はもう一度、庭を見た。
子どもの形をした何かは、まだいた。
祠の前で、じっと家を見ている。
「危ないの?」
母は首を振った。
「危なくはないと思う」
「思う?」
「少なくとも、私たちは何もされてない」
「じゃあ、何なの」
母は小さくため息をついた。
「私も知らない。おばあちゃんが若い頃からいたって」
「いたって、子どもが?」
「子どもみたいなもの」
母はそう言った。
「おばあちゃんは毎朝、あの祠に水を置いてた」
「覚えてる」
「あと、月に一回だけ、小さい湯呑みを二つ置いてた」
「二つ?」
「ひとつは祠。もうひとつは、縁側の下」
私は思わず聞き返した。
「なんで」
母は、庭から目を逸らさずに言った。
「家に上げないため、だって」
その夜、私は仏間の隣の部屋で寝ることになった。
寝られるわけがなかった。
襖一枚向こうには、祖母がいる。
外には、祠がある。
そして、何かが来ている。
スマホを見ると、航からまたLINEが来ていた。
⸻
【LINE】
23:18 航
まだいる?
23:18 恵
いる
23:19 航
やっぱり?
23:19 恵
見たの?
23:20 航
外から見えた
23:20 航
祠の前にいる
23:21 恵
これ、いつもなの?
23:21 航
たまに
23:22 航
ばあちゃんが元気な時は
家の中から見えなかった
23:22 恵
どういう意味?
23:23 航
祠の前までは来るけど
そこで帰ってた
23:24 航
今日は帰らない
⸻
その文を読んだ時。
廊下で、小さな音がした。
ぺた。
ぺた。
裸足で歩くような音だった。
私は布団の中で固まった。
ぺた。
ぺた。
音は、縁側の方から近づいてくる。
廊下。
仏間の前。
そして、私が寝ている部屋の前で止まった。
襖の向こうに、何かいる。
私は息を殺した。
すると、小さな声がした。
「ちよちゃん」
祖母の名前だった。
千代。
でも、呼び方が変だった。
子どもが友達を呼ぶみたいな声。
「ちよちゃん」
返事はない。
当たり前だ。
祖母はもう亡くなっている。
「ちよちゃん」
三回目。
その声は、怒っているわけでも、泣いているわけでもなかった。
ただ、待っている声だった。
私は耐えきれず、布団の中でスマホを握った。
⸻
【LINE】
23:31 恵
廊下にいる
23:31 航
絶対に開けないで
23:32 恵
何か言ってる
23:32 航
なんて?
23:33 恵
ちよちゃんって
23:33 航
ばあちゃんだ
23:34 恵
どうしたらいい
23:34 航
母さん呼ぶわ
⸻
その直後、廊下の反対側から叔母の声がした。
「今日はもう帰りなさい」
声は静かだった。
でも、強かった。
「千代さんは忙しいから。明日の朝、ちゃんとお水を出すから」
廊下の向こうが静かになった。
ぺた。
ぺた。
足音が遠ざかっていく。
私は布団の中で、ずっと目を開けていた。
夜が明けるまで、ほとんど眠れなかった。
⸻
翌朝。
庭に出ると、祠の前に小さな湯呑みが置かれていた。
母が水を入れていた。
「お母さんがやるんだ」
「今日だけね」
「今日だけ?」
「おばあちゃんがいないから」
母はそう言って、祠の前にしゃがんだ。
「お待たせしました」
その言葉に、ぞっとした。
まるで誰かが本当に待っているみたいだった。
いや。
待っていたのだ。
私は昨夜、見た。
子どもの形をした何かを。
祠の横には、古い石がいくつか並んでいた。
その中のひとつに、小さな丸いくぼみがあった。
湯呑みを置くには、ちょうどいい大きさだった。
「おばあちゃんは、何でこれを続けてたの」
母は少し迷ってから答えた。
「聞いたことあるのは、昔、おばあちゃんが小さい頃にね」
そこで言葉を切った。
「やっぱりいい」
「そこまで言ってやめるの、逆に怖いんだけど」
母は困った顔をした。
「怖い話じゃないのよ」
「もう十分怖いよ」
「ただ、おばあちゃんが小さい頃、よく一緒に遊んでた子がいたって」
「近所の子?」
「分からない」
「分からない?」
「誰に聞いても、そんな子はいなかったって」
蝉が鳴き始めた。
朝なのに、もう暑かった。
祠の周りだけ、少し涼しい気がした。
母は湯呑みを置いて、手を合わせた。
「千代さんは、今日でお別れだからね」
その瞬間。
祠の奥から、小さく音がした。
こつん。
石を指で叩いたような音。
母は驚かなかった。
ただ、もう一度頭を下げた。
⸻
葬儀は、何事もなく終わった。
親族が泣いて、近所の人が昔話をして、葬儀屋がてきぱき動いた。
祖母は火葬され、小さな骨壺になった。
現実は、残酷なくらい手順がある。
悲しむ暇もなく、次に何をするか決まっている。
人間、死まで段取りにされる。
便利なのか、むごいのか分からない。
夕方、祖母の家に戻った。
家は急に静かだった。
祖母がいない。
それだけで、同じ家なのに別の場所みたいだった。
私は片づけを手伝った。
祖母の部屋に入ると、古い引き出しの中に手帳があった。
母が言った。
「それ、おばあちゃんの」
ページを開く。
細い字で、予定が書かれていた。
病院。
薬。
近所の法事。
畑のこと。
そして、毎月同じ日に、同じ言葉があった。
小さいお客さん 水二つ
別の月にも。
小さいをお客さん 待たせない
さらに別のページ。
恵が来たら、見せないこと
私は手を止めた。
母も覗き込んで、黙った。
「私?」
「……小さい頃、あんた、よく庭で遊んでたから」
「覚えてない」
「一回だけ、いなくなったことがあるの」
初耳だった。
「私が?」
「三歳くらいの時」
母は、手帳を見つめたまま言った。
「家中探してもいなくて。みんな慌てて。そしたら、おばあちゃんが祠の前に行って」
「うん」
「“返して”って言ったら、縁側の下から泣き声がした」
「私の?」
母は頷いた。
「誰かと遊んでたって、あんた言ってた」
私は、何も覚えていなかった。
「誰と?」
「“小さい子”って」
部屋の空気が、少し冷えた気がした。
私は手帳をめくった。
最後の方のページに、震えた字で書かれていた。
私はもうすぐ行く
あの子を待たせることになる
悪い子ではない
ただ、ひとりが長い
その下に、もう一行。
恵には、まだついて行かせない
私はそこで手帳を閉じた。
母は何も言わなかった。
夜になる前に、私は東京へ戻ることにした。
本当は泊まる予定だった。
でも、母が言った。
「帰れるなら、帰りなさい」
「いいの?」
「いい」
「庭のこと?」
母は少しだけ笑った。
「それもあるけど」
「けど?」
「おばあちゃん、あんたは帰しなさいって言ってたから」
私は、返事に困った。
⸻
駅まで、航が送ってくれた。
車に乗る前、私は庭を見た。
祠の前に、小さな湯呑みが二つ置かれていた。
ひとつは祠の前。
もうひとつは、縁側の下。
「今日も置くんだ」
私が言うと、航は気まずそうに頷いた。
「今夜だけだって」
「誰が言ったの」
「母さん」
「そう」
車に乗ろうとした時。
背後で、子どもの声がした。
「めぐみちゃん」
私は振り返った。
祠の前に、あの子どもの形をした何かが立っていた。
昼間なのに、輪郭がぼやけている。
顔は見えない。
でも、首を少しかしげているのが分かった。
航も見えているらしく、息を止めていた。
「めぐみちゃん」
もう一度、声がした。
私は返事をしていいのか分からなかった。
すると、家の中から母が出てきた。
「行ってらっしゃい、って言ってるのよ」
「本当に?」
母は答えなかった。
ただ、祠の方へ軽く頭を下げた。
私も、ぎこちなく頭を下げた。
「……行ってきます」
そう言うと。
子どもの形をした何かは、祠の陰にすっと隠れた。
まるで、最初からそこにいなかったみたいに。
でも、祠の前の小さな湯呑みの水だけが、少し揺れていた。
⸻
電車に乗ってから、母にLINEした。
⸻
【LINE】
18:52 恵
無事乗った
18:53 母
よかった
18:53 恵
最後のあれ
何だったの
18:54 母
私にも分からない
18:54 恵
おばあちゃんと仲良かったのかな
18:55 母
そうかもしれないね
18:56 母
千代さん
昔からひとりで祠に話しかけてたから
18:56 恵
怖くなかったのかな
18:57 母
怖かったと思う
18:58 母
でも
かわいそうだったんじゃないかな
⸻
その一文で、胸の奥が変なふうに痛んだ。
怖い。
確かに怖かった。
でも、昨夜の声を思い出すと。
「ちよちゃん」と呼んでいた声を思い出すと。
あれは、何かを奪いに来たというより。
いなくなった人を、ただ探しに来たようにも思えた。
それが余計に怖かった。
怖さと寂しさは、たまに同じ顔をする。
⸻
東京の部屋に着いたのは、夜遅くだった。
玄関を開けると、いつもの部屋だった。
狭いワンルーム。
洗濯物。
ノートパソコン。
読みかけの本。
祖母の家とは、何もかも違う。
私は荷物を置いて、シャワーを浴びた。
それから、祖母の手帳のことを思い出した。
母が、持って帰っていいと言ってくれたのだ。
バッグから出して、机の上に置く。
ページを開く。
最後のページ。
さっき見た文字がある。
恵には、まだついて行かせない
その下に、家では気づかなかった文字があった。
薄くて、鉛筆で書いたような字。
祖母の字ではない。
もっと丸い。
子どもが書いたような字だった。
まだ?
私はしばらく、その二文字を見ていた。
スマホが震えた。
母からLINEだった。
⸻
【LINE】
22:48 母
言い忘れてた
22:48 恵
なに?
22:49 母
おばあちゃんの手帳
最後のページ、何か書いてあっても
22:49 母
返事を書かないでね
⸻
私は、机の上の手帳を見た。
最後のページには、もう一行増えていた。
今度は、はっきり読めた。
ちよちゃんは?
部屋の中は、冷房を切っているのに少し涼しかった。
私はペンを握らなかった。
返事も書かなかった。
ただ、手帳を閉じて、そっと机の引き出しにしまった。
その夜、夢は見なかった。
けれど、明け方。
目が覚める直前に、どこか遠くで子どもの声がした気がした。
「お水、まだ?」
それきりだった。
命の危険は、たぶんない。
でも私は今でも、夏の朝に小さな湯呑みを見ると、少しだけ息が止まる。
そして思う。
おばあちゃんは、あの子と何を約束していたんだろう。
あの子は今も、祠の前で待っているんだろうか。
それとも。
私の名前を覚えたまま。
いつかまた、どこかで。
「めぐみちゃん」
と呼ぶんだろうか。




