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怖い話_続2026年度読切  作者: 三葉


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3/6

冷コーの底の指輪

七月の終わりだった。


大学の講義が終わって、外へ出た瞬間。


あ、無理。


そう思った。


日差しが強すぎた。


地面から熱が上がってくる。

空気がぬるい。

息を吸うだけで、体力を取られる。


駅まで歩けば十五分。


いつもならどうってことない距離なのに、その日は五分も歩かないうちに、頭がぼんやりしてきた。


汗で前髪が額に張りつく。


スマホで気温を見る気にもならなかった。


「……どっか、入ろ」


そう呟いた時だった。


視界の端に、看板が見えた。


喫茶すずらん


古い木の看板。


白い文字は少し剥げている。


入口のドアには、薄いレースのカーテンがかかっていた。


こんな店、あったっけ。


そう思った。


けど、その時の私は、とにかく日差しから逃げたかった。


考えるより先に、ドアを押していた。


カラン。


小さなベルが鳴った。


入った瞬間。


鼻の奥に、煙の匂いが刺さった。


思わず、声が漏れた。


「たばこくさ、、」


その瞬間。


目の前に、店員が立っていた。


いつからいたのか分からなかった。


白いブラウス。

黒いスカート。

髪はきっちりまとめている。


年齢は、よく分からない。


若いようにも見えるし、ずっと年上にも見える。


店員は、私をじっと見ていた。


変な顔だった。


怒っているわけじゃない。


驚いている。


まるで、私が知らない言葉を喋ったみたいに。


「あの、一人です」


私が言うと、店員は少し遅れて笑った。


「はい。お一人様ですね」


声は丁寧だった。


でも、笑顔が薄かった。


「こちらへどうぞ」


案内された席は、店の奥だった。


店内は薄暗い。


冷房は効いているはずなのに、空気が重い。


壁には古いポスター。

黒電話。

木の柱時計。

レジ横には、ガラス瓶に入った砂糖菓子。


全体的に、昭和っぽい。


というより。


昭和そのものみたいだった。


客は何人かいた。


全員、男性だった。


スーツ姿の人。

作業着の人。

新聞を読んでいる人。


そして全員が、たばこを吸っていた。


白い煙が、天井の方に溜まっている。


今時、こんな店ある?


私はスカートのポケットからハンカチを取り出して、口元を押さえた。


それから、スマホを開いた。


アンテナは一本。


たまに二本。


最新機種に変えたばかりなのに。


いや、でも通信会社を先月、激安プランに変えたんだった。


こういう時だけ、安さの理由を思い知る。

人間、月額を削ると怪異への防御力も削れるらしい。


私は友達の梨乃にLINEした。



【LINE】


14:08 美咲

暑すぎて喫茶店入った


14:09 梨乃

え、講義終わった?


14:09 美咲

終わった

駅まで無理だった


14:10 梨乃

どこの店?


14:10 美咲

喫茶すずらんってとこ


14:11 梨乃

どこそれ


14:11 美咲

大学から駅行く途中


14:12 梨乃

そんな店あった?


14:12 美咲

私も初めて見た



メッセージは送れる。


でも、妙に遅い。


送信中の丸が、ずっと回っている。


私はメニューを開いた。


紙が黄ばんでいた。


文字は縦書き。


冷コー 百二十円


冷コー。


アイスコーヒーのことだろうか。


「ご注文は」


また、店員が立っていた。


近い。


気配がなさすぎる。


「あ、冷たいコーヒーで」


「冷コーですね」


「はい」


店員は伝票に何かを書いた。


その手元を見て、少し違和感があった。


ペンじゃない。


鉛筆だった。


短く削られた鉛筆。


今どき店で鉛筆?


そう思ったけど、口には出さなかった。


店員が去った後、隣の席の男たちの会話が聞こえた。


「今年の夏は、また暑うなりそうやな」


「大阪万博の年より暑いんと違うか」


「そら言い過ぎや」


私は思わず顔を上げた。


万博?


何の話?


別の席では、新聞を読んでいる男がいた。


新聞の日付が見えた。


昭和五十二年 七月二十八日


私は目を細めた。


見間違いだと思った。


でも、何度見てもそうだった。


昭和五十二年。


そんなわけがない。


スマホを見る。


日付は、ちゃんと今日。


なのに、アンテナは一本のまま。



【LINE】


14:17 美咲

なんか店の中変


14:18 梨乃

どう変なのさ?


14:18 美咲

昭和みたい

みんなタバコ吸ってる


14:19 梨乃

え、屋内で?


14:19 美咲

そう


14:20 梨乃

店名もう一回教えて


14:20 美咲

喫茶すずらん


14:21 梨乃

検索しても出ない


14:21 美咲

古い店っぽいからかな


14:22 梨乃

美咲

そこ出た方がいいかも



その時、コーヒーが運ばれてきた。


銀色の丸いトレー。


細長いグラス。


中には、黒いコーヒーと、角ばった氷。


表面に、小さな泡が浮いている。


店員は、私の前にグラスを置いた。


「お待たせしました」


「あ、ありがとうございます」


私はストローを手に取った。


その時。


グラスの底に、何か光るものが見えた。


最初は、氷の反射だと思った。


でも違う。


丸い。


金色。


指輪だった。


コーヒーの底に、指輪が沈んでいた。


「すみません」


私は店員を呼んだ。


「これ、何か入ってます」


店員はグラスを覗き込んだ。


そして、にこっと笑った。


「お忘れ物でございます」


「私のじゃないです」


「いえ」


店員は、私の左手を見た。


「お客様のものです」


背中が冷えた。


「違います」


「お客様のものです」


同じ声。


同じ笑顔。


言い方だけが、少し固くなった。


私はグラスから手を離した。


コーヒーの中で、指輪がゆっくり揺れている。


まるで底から、こっちを見ているみたいだった。



【LINE】


14:26 美咲

コーヒーの中に指輪入ってる


14:27 梨乃

は?


14:27 美咲

店員が私のだって言うの


14:28 梨乃

飲んじゃだめだよ


14:28 梨乃

触るのもだめだからね


14:28 梨乃

出て


14:29 美咲

出たい


14:29 梨乃

今どこ座ってる?


14:30 美咲


14:30 梨乃

入口見える?


14:31 美咲

見える


14:31 梨乃

立って

そのまま出て



私は立とうとした。


その瞬間、店内の客が一斉に黙った。


新聞をめくる音も。

煙を吐く音も。

コーヒーカップを置く音も。


全部、止まった。


全員が私を見ていた。


目だけで。


顔は笑っていない。


でも、目だけがこっちに向いている。


店員が、すぐ横に立った。


「お客様、、お会計は?お済みではありませんが」


「あの、まだ飲んでないので」


「お飲みにならないと、帰れません」


その言葉が変だった。


飲まないと、帰れない。


店を出られない。


という意味に聞こえた。


「すみません、やっぱりいいです」


「お飲みにならないと」


「いりません」


「冷めてしまいます」


「もう冷たいですよね」


私がそう言うと、店員の顔から笑みが消えた。


「冷たいままでは、いけません」


意味が分からなかった。


その時。


奥の席の男が、煙を吐きながら言った。


「指輪が先や」


別の男が笑った。


「そうや。指輪が先やな」


新聞の男も言った。


「待たせたら、かわいそうや」


誰を。


何に。


私はスマホを握りしめた。



【LINE】


14:34 美咲

やばい

客がこっち見てる


14:34 梨乃

今から電話する


14:35 美咲

たぶん繋がらない


14:35 梨乃

鳴らすだけ鳴らすから



すぐに着信が来た。


画面には、梨乃の名前。


私は通話ボタンを押した。


ザー。


雑音。


ザー、ザー。


遠くで、梨乃の声がした。


「……美咲? 聞こえる?」


「聞こえる! 梨乃、変なの、ここ」


「今どこ?」


「だから、喫茶店」


「違う」


梨乃の声が震えていた。


「私、今その辺にいる」


「え?」


「大学から駅までの道、来てる」


「うん」


「喫茶店なんかない」


通話が、ぶつっと切れた。


私は画面を見た。


圏外になっていた。


さっきまで一本あったアンテナも消えている。


なのに、LINEだけは動いた。



【LINE】


14:37 梨乃

美咲


14:37 梨乃

そこ本当にない


14:38 梨乃

今いる場所

シャッター閉まった古いビルしかない


14:38 梨乃

一階も空き店舗


14:39 梨乃

看板だけある


14:39 美咲

何の看板?


14:40 梨乃

喫茶すずらん


14:40 梨乃

でも営業してない



私は入口を見た。


ちゃんと営業している。


カウンターには店員がいる。

客もいる。

コーヒーの匂いもする。

たばこの煙もある。


でも、梨乃のいる外には。


この店はない。


私は喉が乾いていた。


暑さのせいなのか、煙のせいなのか、恐怖のせいなのか分からない。


目の前のコーヒーは、ひどく冷たそうだった。


グラスの表面についた水滴が、テーブルに落ちる。


一滴。


また一滴。


その音だけが、やけに大きく聞こえた。


「お飲みください」


店員が言った。


「お相手様がお待ちです」


私は小さく首を振った。


「相手って誰ですか」


店員は答えなかった。


かわりに、私の前の席を見た。


誰も座っていない席。


でも、灰皿には、吸いかけのたばこが一本置かれていた。


煙が細く上がっている。


さっきまで、なかった。


「……誰のですか」


「お待ちです」


「だから誰が」


店員は、私の左手を見た。


「お忘れです」


私は自分の左手を見た。


何もつけていない。


指輪なんて、持っていない。


それなのに、薬指だけが妙に冷たかった。



【LINE】


14:44 美咲

左手が冷たい


14:45 梨乃

出て

ほんとに出て


14:45 美咲

ドアまで行く


14:46 梨乃

私、外で待ってる


14:46 美咲

見える?


14:47 梨乃

見えない


14:47 梨乃

でも看板の前にいる


14:48 梨乃

美咲から変なLINE来てる


14:48 美咲

今送ってるやつ?


14:49 梨乃

違う


14:49 梨乃

「席につきました」って来た



私は凍りついた。


送っていない。


そんな文面、打っていない。


なのに、梨乃は続けた。



【LINE】


14:50 梨乃

また来た


14:50 梨乃

「指輪をいただきました」


14:50 美咲

送ってない


14:51 梨乃

分かってる


14:51 梨乃

今すぐ立って


14:51 梨乃

名前呼ぶから

こっち来て



その瞬間。


店の外から、かすかに声がした。


「美咲!」


梨乃の声だった。


遠い。


水の向こうから聞こえるみたいに、くぐもっている。


でも、確かに梨乃だった。


私は椅子から立ち上がった。


今度は、客たちがざわついた。


「行くんか」


「まだやろ」


「指輪がまだや」


「冷コー、残したらあかん」


店員が私の前に回り込んだ。


「お客様」


私は横をすり抜けようとした。


その時、店員が私の手首を掴んだ。


冷たかった。


人の手じゃないみたいに。


「お客様」


店員が言った。


「お式の途中でございます」


「離してください」


「お戻りください」


「離して!」


私は振り払った。


その拍子に、テーブルのグラスが倒れた。


黒いコーヒーが、テーブルに広がる。


氷が床に落ちる。


カラン、と音がした。


指輪も落ちた。


床の上で、金色に光っていた。


私はそれを踏まないように、ドアへ走った。


あと少し。


入口のベルが見える。


外の光が、カーテン越しに揺れている。


「美咲!」


また、梨乃の声。


私はドアノブに手をかけた。


開かない。


押しても、引いても、動かない。


古い木のドアが、壁みたいに固かった。


後ろから、たばこの煙が近づいてくる。


喉が痛い。


目がしみる。


息が浅くなる。


スマホが震えた。



【LINE】


14:55 梨乃

美咲!


14:55 梨乃

今そっちからベル鳴った


14:55 梨乃

でもドアない


14:56 梨乃

壁の中から鳴ってる



私は叫ぼうとした。


でも、声が出なかった。


煙を吸い込みすぎたせいか、頭がぐらぐらする。


店員が、ゆっくり近づいてきた。


床に落ちた指輪を拾っている。


「お客様」


その声だけが、はっきり聞こえた。


「落とされましたよ」


違う。


私のじゃない。


そう言いたいのに、舌が動かない。


店員が、私の左手を取った。


やめて。


やめて。


やめて。


指輪が、薬指に触れた。


氷みたいに冷たかった。


その瞬間、スマホの画面が勝手に明るくなった。


LINEの入力欄に、文字が出ていた。


私の指は動いていない。


なのに、文字だけが増えていく。



【LINE】


14:57 美咲

冷コーをいただきました


14:57 美咲

指輪もいただきました


14:58 美咲

こちらで待ちます



私は必死に削除しようとした。


でも、送信された。


梨乃から、すぐ返事が来た。



14:58 梨乃

美咲じゃない


14:58 梨乃

それ美咲じゃない


14:58 梨乃

返して



返して。


その言葉を見た瞬間。


店内の客たちが、一斉に笑った。


低い笑い声だった。


喉の奥で煙を転がすような笑い。


私は左手を見た。


薬指に、指輪がはまっていた。


古い金色の指輪。


サイズはぴったりだった。


ぴったりすぎて、皮膚と指輪の境目が分からないくらいだった。


「お似合いです」


店員が言った。


その向こう。


誰もいなかったはずの向かいの席に、うっすら人影が見えた。


煙の中に、男の形だけがある。


顔は見えない。


ただ、灰皿に置かれたたばこから、白い煙が上がっている。


私は逃げようとした。


でも、足に力が入らなかった。


喉が渇いていた。


どうしようもなく。


目の前に、倒れたはずのコーヒーがあった。


グラスは元に戻っていた。


黒くて、冷たい。


底にはもう、指輪はない。


店員がストローを差し出した。


「どうぞ」


私は首を振った。


でも、体が勝手に前へ傾いた。


ストローが唇に触れた。


冷たいコーヒーが、舌に触れた。


苦い。


甘い。


たばこの匂いがする。


そして、ひどく懐かしい味がした。


懐かしいはずなんてないのに。


視界がゆっくり暗くなった。


最後に見えたのは、スマホの画面だった。


梨乃からのLINE。



【LINE】


14:59 梨乃

美咲

今、看板消えた


14:59 梨乃

そこ何もない


14:59 梨乃

返事して


15:00 梨乃

お願い


15:00 梨乃

美咲



私は返事をしようとした。


でも、指が動かなかった。


かわりに、画面に勝手に文字が浮かんだ。



15:01 美咲

たばこくさ、、



そこで、意識が切れた。


次に目が覚めた時。


私は大学近くの歩道に倒れていた。


夕方だった。


梨乃が泣きながら、私の肩を揺すっていた。


「美咲! 起きた!?」


私は返事をしようとして、咳き込んだ。


喉が痛かった。


服に、たばこの匂いが染みついていた。


手には、スマホ。


画面は割れていない。


時間は、17時42分。


あの店に入ってから、三時間以上経っていた。


でも、財布の中のお金は減っていなかった。


レシートもない。


コーヒーを飲んだ跡もない。


梨乃は、何度も言った。


「あそこ、空き店舗だった」


「ずっとシャッター閉まってた」


「中からベルの音だけ聞こえた」


「でも、入口なんかなかった」


私は左手を見た。


薬指に、指輪があった。


古い金色の指輪。


外そうとしても、外れなかった。


指の内側に、何か文字が刻まれている。


梨乃にスマホのライトで照らしてもらった。


小さな文字だった。


古くて、少し潰れている。


でも、読めた。


昭和五十二年 七月二十八日


その下に、もう一行。


美咲 御席


梨乃が、息を呑んだ。


私は何も言えなかった。


その夜。


家に帰ってから、何度も指輪を外そうとした。


石鹸をつけても。

冷やしても。

引っ張っても。


外れなかった。


夜中。


スマホが震えた。


LINEの通知だった。


相手は、梨乃じゃない。


知らないアカウント。


名前はなかった。


ただ、アイコンだけが黒かった。


メッセージは一行。



【LINE】


00:12 不明なアカウント

冷コー、まだ冷えております



そのあと、もう一通。



00:13 不明なアカウント

明日も、お待ちしております



私はスマホを伏せた。


部屋の中に、たばこの匂いがした。


窓は閉めている。


誰も吸っていない。


なのに、どこかで、氷がグラスに当たる音がした。


カラン。


と。

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