白黒の脇道
七月の終わり。
日曜の昼。
外は、嫌になるくらい晴れていた。
窓の外では蝉が鳴いている。
部屋では野球中継が流れている。
テーブルの上には、溶けかけた氷入りの麦茶。
俺はソファに沈んでいた。
妻の実瑠は、買い物に出ていた。
⸻
【LINE】
12:41 実瑠
スーパー行ってくるね
12:41 高尾
いってらっしゃい
12:42 実瑠
アイス買う?
12:42 高尾
買う
チョコのやつ
12:42 実瑠
またそれ
12:43 高尾
信頼できるものに限る
12:43 実瑠
大げさ
⸻
実瑠は新しいものが好きだった。
スマホも先月、最新機種に買い替えたばかりだ。
カメラがすごい。
夜でも明るく撮れる。
肌もきれいに写る。
料理も勝手においしそうに撮れる。
そう言って、しばらく何でも撮っていた。
だから、最初に写真が送られてきた時も、俺は特に気にしなかった。
⸻
【LINE】
13:18 実瑠
ねえ
13:18 実瑠
こんな道あったっけ?
13:18 実瑠
[写真]
⸻
送られてきたのは、細い脇道の写真だった。
スーパーへ行く途中の、住宅街のどこかだと思う。
でも、妙だった。
写真が白黒だった。
正確には、完全な白黒ではない。
色が抜けている。
古い新聞の写真みたいに、灰色がかっている。
道の両側には、木の板を張った古い家が並んでいた。
電柱は細く、看板も古い。
アスファルトも、今の道路みたいに滑らかじゃない。
一枚だけ、時代が違っていた。
⸻
【LINE】
13:19 高尾
フィルター?
13:19 実瑠
かけてないよ
13:19 高尾
嘘つけ
昭和みたいになってる
13:20 実瑠
ほんとにかけてないって
13:20 実瑠
なんかここだけ涼しい
13:20 高尾
入るなよ
13:21 実瑠
ちょっとだけ見てくる
13:21 高尾
いやだから入るなって
13:21 実瑠
すぐ戻る
⸻
こういう時、人はどうして「ちょっとだけ」と言うのか。
ちょっとだけ火に触る。
ちょっとだけ崖を覗く。
ちょっとだけ変な道に入る。
人類、好奇心で何回滅びる気なんだ。
俺は電話をかけた。
けれど、つながらなかった。
画面には、すぐに表示が出た。
通話できません
電波はある。
アンテナも立っている。
なのに、つながらない。
野球中継では、三回裏が始まっていた。
実況の声が、急に遠くなった気がした。
⸻
【LINE】
13:27 高尾
今どこ
13:28 実瑠
道
13:28 高尾
それは分かるけど
13:28 実瑠
細い道
13:29 高尾
戻れ
13:29 実瑠
戻ってる
13:30 高尾
写真の入口まで戻って
13:31 実瑠
入口がない
⸻
俺はテレビの音量を下げた。
部屋の中が、妙に静かになった。
蝉の声だけが聞こえる。
いや。
聞こえすぎる。
窓を閉めているのに、耳元で鳴いているみたいだった。
⸻
【LINE】
13:32 高尾
どういうこと?
13:33 実瑠
まっすぐ歩いただけなのに
13:33 実瑠
後ろも前も同じ道
13:34 高尾
店とかある?
13:35 実瑠
ある
13:35 実瑠
でも変
13:36 高尾
何が
13:36 実瑠
自販機がない
13:36 実瑠
コンビニもない
13:37 実瑠
でも魚屋さんみたいなのがある
13:37 高尾
人は?
13:38 実瑠
いる
13:38 高尾
話しかけろ
13:39 実瑠
やだ
13:39 高尾
なんで
13:40 実瑠
みんな
こっちを見ないようにしてる
⸻
その文章を見た瞬間。
背中に、冷たいものが走った。
見てくるんじゃない。
見ないようにしている。
その方が嫌だった。
画面の向こうで、実瑠が息を潜めているのが分かる気がした。
⸻
【LINE】
13:41 実瑠
お店の人に聞いた
13:41 高尾
何て?
13:42 実瑠
帰り道は買ってからって
13:42 高尾
何を
13:43 実瑠
わからない
13:43 実瑠
でも買わないと帰れないって
⸻
俺は立ち上がった。
財布と鍵を掴む。
迎えに行こうとした。
でも、玄関まで行って足が止まった。
実瑠が今いる場所が分からない。
写真の道がどこなのかも分からない。
スマホの地図アプリを開いた。
実瑠の位置情報は共有している。
表示された場所は、いつものスーパーの前だった。
ただ、現在地の点が動かない。
スーパーの前で止まったまま。
それなのに、実瑠からはメッセージが届き続けていた。
⸻
【LINE】
13:47 実瑠
飴買った
13:47 高尾
どこで
13:48 実瑠
水無商店
13:48 高尾
知らない
13:49 実瑠
私も知らない
13:49 実瑠
お金を出したら
お店の人が変な顔をしたの
13:50 高尾
何円?
13:50 実瑠
百円玉
13:51 高尾
普通だろ
13:51 実瑠
これじゃ多すぎるって
13:52 実瑠
お釣りももらった
13:52 高尾
見せて
13:53 実瑠
[写真]
⸻
また写真だった。
今度は手のひら。
実瑠の手の上に、小さな飴と、古い硬貨が乗っている。
飴の包み紙には、知らないメーカー名。
色はやっぱり白黒に近い。
硬貨は十円玉のように見えた。
でも、妙に黒い。
そして、写真の端にレシートが写っていた。
印字が読める。
水無商店
七月二十八日
飴 一個
拾銭
俺は、スマホを持つ手に力を入れた。
拾銭。
そんな単位、今は使わない。
⸻
【LINE】
13:54 高尾
それを持ったまま戻れ
13:54 高尾
何も食べるなよ
13:55 実瑠
食べない
13:55 高尾
店の人は?
13:56 実瑠
奥にいる
13:56 高尾
何か言ってる?
13:57 実瑠
言ってる
13:57 高尾
何て?
13:58 実瑠
お連れさんは
家で待ってるのにねえって
⸻
俺は思わず、部屋の中を振り返った。
誰もいない。
テレビでは、さっきまで三回裏だったはずの試合が、なぜか一回表に戻っていた。
実況が言った。
「本日は、夏の強い日差しの中――」
そこで音が乱れた。
ザザ、と砂を噛むような音。
一瞬だけ、画面が白黒になった。
古い野球中継のように。
観客席も、選手も、全部が灰色だった。
すぐに元に戻った。
俺はリモコンを握りしめた。
⸻
【LINE】
14:02 高尾
実瑠
今すぐ帰れ
14:03 実瑠
帰ってるよ
14:03 高尾
どっちに歩いてる
14:04 実瑠
家の方
14:04 高尾
分かるのか?
14:05 実瑠
野球の音がする
⸻
俺はテレビを見た。
音量は下げたままだった。
なのに。
実瑠には聞こえている。
⸻
【LINE】
14:05 高尾
テレビの音?
14:06 実瑠
うん
14:06 実瑠
高尾が見てるやつ
14:07 高尾
音量上げるわ
14:07 実瑠
お願い
⸻
俺はテレビの音量を上げた。
普段なら近所迷惑を考える。
でも、その時はどうでもよかった。
実況。
歓声。
バットの音。
全部、部屋いっぱいに広がった。
窓も開けた。
熱い空気と蝉の声が入ってくる。
⸻
【LINE】
14:10 実瑠
聞こえてるよ
14:10 高尾
その音の方に来い
14:11 実瑠
うん
14:12 実瑠
でも
14:12 高尾
でも?
14:13 実瑠
さっきから
後ろでも同じ音がする
⸻
インターホンが鳴った。
ピンポーン。
俺は固まった。
スマホを見る。
実瑠から、続けてメッセージが届いた。
⸻
【LINE】
14:13 実瑠
今まだ道
14:13 実瑠
玄関じゃないよ
14:14 実瑠
誰か来ても開けないで
⸻
二回目のインターホン。
ピンポーン。
俺は玄関の方を見た。
廊下の先。
玄関の曇りガラスに、人影はない。
でも、確かに誰かが押している。
ピンポーン。
三回目。
俺は息を殺した。
⸻
【LINE】
14:15 高尾
大丈夫だよ、開けない
14:15 実瑠
よかった
14:15 高尾
こっちに来てるのは何だ
14:16 実瑠
わからない
14:16 実瑠
でもたぶん
14:17 実瑠
先に帰ったことにしたいんだと、、思う
⸻
意味が分からなかった。
でも、分かってしまった気もした。
実瑠より先に、実瑠の形だけが帰ってくる。
家に入ったことにする。
買い物から戻ったことにする。
そうしたら、本物の実瑠は。
どこに帰ればいい?
ピンポーン。
四回目。
今度は、インターホン越しに声がした。
「ただいま」
実瑠の声だった。
喉の奥が冷えた。
スマホが震えた。
⸻
【LINE】
14:18 実瑠
今の声、
私じゃない
14:18 高尾
分かってるって
14:18 実瑠
声
似てた?
14:19 高尾
似てた
14:19 実瑠
やだ
⸻
インターホンの声が、もう一度言った。
「高尾、開けて」
俺は返事をしなかった。
テレビの音量をさらに上げた。
実況が叫ぶ。
打球が伸びる。
観客が沸く。
その声に混じって、玄関の向こうの実瑠が言った。
「アイス、溶けるよ」
その言い方が、いつもの実瑠にそっくりだった。
一瞬、手が動きかけた。
でも、スマホに次のメッセージが届いた。
⸻
【LINE】
14:21 実瑠
私
今日アイスまだ買ってない
⸻
俺は玄関から離れた。
野球中継の音だけが、部屋に響いている。
インターホンは、それきり鳴らなくなった。
⸻
【LINE】
14:24 実瑠
音
近い
14:24 高尾
そのまま来い
14:25 実瑠
知ってる道に出たよ
14:25 高尾
どこ
14:26 実瑠
スーパーの裏
14:26 高尾
迎えに行く
14:26 実瑠
だめ
14:27 高尾
なんで
14:27 実瑠
道がまだ、、
こっち見てる
⸻
言い方が嫌だった。
道が見てる。
人じゃない。
場所が、こちらを見ている。
⸻
【LINE】
14:31 実瑠
歩いてる
14:31 高尾
ゆっくりでいいから
14:32 実瑠
家の前まで来たら
合言葉決めよ
14:32 高尾
何にする
14:33 実瑠
朝
高尾がこぼしたもの
14:33 高尾
麦茶
14:34 実瑠
うん
14:34 実瑠
私が玄関で言うまで
開けないで
14:34 高尾
分かった
⸻
それから、五分。
十分。
メッセージは来なかった。
テレビでは、試合が進んでいる。
蝉の声はいつの間にか止んでいた。
部屋の中は、冷房をつけていないのに、少し寒かった。
そして。
インターホンが鳴った。
ピンポーン。
俺はスマホを握ったまま、玄関へ向かった。
曇りガラスの向こうに、人影がある。
細い肩。
買い物袋。
実瑠の背の高さ。
声がした。
「高尾」
俺は返事をしない。
続けて、声。
「麦茶」
その瞬間、俺は膝から力が抜けそうになった。
鍵を開けた。
ドアを開ける。
実瑠が立っていた。
顔色は悪い。
額には汗が浮いている。
手には買い物袋。
でも、確かに実瑠だった。
俺が名前を呼ぶと、実瑠は泣きそうな顔で笑った。
「ただいま」
俺は、初めて返事をした。
「おかえり」
実瑠は玄関に入るなり、靴も脱がずに座り込んだ。
買い物袋から、冷気が漏れていた。
中には、スーパーで買った野菜。
牛乳。
卵。
そして、俺が頼んだチョコのアイス。
全部、普通だった。
レシートも普通。
近所のスーパーの名前。
今日の日付。
いつもの金額。
俺たちはしばらく黙っていた。
実瑠は、例の飴を持っていなかった。
古い硬貨もない。
「捨てたのか?」
俺が聞くと、実瑠は首を振った。
「気づいたら、なくなってた」
「写真は?」
「残ってる」
実瑠はスマホを出した。
最初に送ってきた、白黒の脇道の写真。
それだけが残っていた。
他に撮ったはずの写真は、全部消えていた。
脇道の写真を開く。
やっぱり、古かった。
灰色の道。
木の家。
細い電柱。
見たことのない看板。
でも、人は写っていない。
何かが立っているわけでもない。
ただの道。
ただの、古い道。
だから余計に嫌だった。
その写真の撮影時刻は、こうなっていた。
13:18
日付は、今日。
ただし、年だけがおかしかった。
昭和五十一年
実瑠は、声を出さずに泣いた。
俺はその写真を削除しようとした。
でも、実瑠が止めた。
「消さない方がいい気がする」
「なんで」
「分からない」
「でも、消したら」
実瑠はスマホの画面を見つめたまま言った。
「帰り道が、なくなる気がする」
その日は、二人とも外へ出なかった。
野球中継も途中で消した。
夜になっても、実瑠は玄関の方を何度も見た。
俺も、何度も見た。
何もなかった。
何も来なかった。
そう思いたかった。
翌朝。
買い物袋を片づけていた実瑠が、小さな声で俺を呼んだ。
「高尾」
台所へ行くと、実瑠が一枚の紙を持っていた。
レシートだった。
昨日のスーパーのものではない。
薄く黄ばんだ、細い紙。
印字はかすれているのに、なぜか読めた。
水無商店
七月二十八日
飴 一個
拾銭
その下に、手書きみたいな文字があった。
昨日の写真には写っていなかった文字。
震えたような、細い文字。
奥様 御帰宅済
さらに、その下。
少し間を空けて。
次ハ 御主人様
俺はそれを見た瞬間、昨日のインターホンの音を思い出した。
ピンポーン。
ピンポーン。
ピンポーン。
その時、実瑠のスマホが震えた。
画面には、写真アプリの通知が出ていた。
一年前の今日の思い出
実瑠は、去年のその日に何も撮っていないと言った。
でも、通知を開くと、写真が一枚あった。
白黒の脇道。
昨日と同じ場所。
ただ、昨日より少しだけ手前から撮られている。
道の入口に、古い看板が立っていた。
そこには、こう書かれていた。
高尾様 こちら
俺たちは、しばらくそれを見ていた。
蝉が鳴いていた。
昨日より、ずっと近くで。




