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怖い話_続  作者: 三葉


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26/27

曲がったきゅうりを買った日

夏休みだった。


青柳千尋は、親戚の家に向かっていた。


場所は、山と田んぼしかないような田舎町。


母方の叔母が住んでいる。


祖母の法事の手伝いも兼ねて、二泊する予定だった。


本当は母も一緒に行くはずだった。


でも仕事が入った。


「先に行ってて」


そう言われた。


そして千尋は、乗る予定だったバスを逃した。


田舎のバスは、逃すと重い。


都会の電車みたいに、すぐ次が来たりしない。


次のバスは、一時間四十分後。


公共交通機関、のんびりしすぎて人間の予定を食ってくる。

田舎時間、強すぎる。


千尋はスマホの地図を見た。


叔母の家まで、徒歩三十五分。


歩けなくはない。


ただ、八月の昼だった。


空は白い。


日差しは強い。


アスファルトから熱が上がってくる。


「……歩くか」


声に出してから、もう後悔していた。


⸻


【LINE】


12:42 千尋

バス逃した


12:42 帆夏

終わった


12:43 千尋

徒歩35分


12:43 帆夏

夏に?


12:43 千尋

夏に


12:44 帆夏

もう少し自分を大事にしな?


12:44 千尋

次のバス待つ方がつらい


12:45 帆夏

水ある?


12:45 千尋

半分


12:46 帆夏

死ぬなよ


12:46 千尋

怪談の導入みたいなこと言うな


⸻


道は、思ったより静かだった。


右は田んぼ。


左は細い用水路。


遠くに山。


蝉の声だけが、ずっと鳴っている。


歩いて十五分ほどで、汗が首筋を流れた。


水筒の水は残り少ない。


叔母の家までは、まだ少しある。


その時、道の脇に小さな小屋が見えた。


木でできた、無人販売所。


屋根は波板。


台の上に、野菜が並んでいる。


看板には、墨でこう書かれていた。


朝採れ野菜


近づいて見ると、並んでいるのはきゅうりだけだった。


それも、全部曲がっている。


くるんと丸まったもの。

途中で折れ曲がったもの。

ひらがなの「し」みたいなもの。


妙に形が悪い。


でも、色は濃くておいしそうだった。


小さな札が立っている。


きゅうり 一本百円


横には、錆びた料金箱。


千尋は、少し迷った。


水分補給になるかも。


そう思った。


スーパーで買うならまだしも、道端できゅうりを食べ歩く女子大生。


まあまあ終わっている。


でも、この暑さでは品位より水分である。


財布を出し、百円玉を料金箱へ入れた。


ちゃりん。


音が、やけに大きく響いた。


千尋はきゅうりを一本取った。


一番まともそうなやつ。


少し曲がっているけれど、持ちやすい。


ビニール袋も置いてあった。


透明な薄い袋。


一枚取って、きゅうりを入れる。


その時、さっきの札の文字が変わっていることに気づいた。


おつりは袋の中です


「え?」


百円ちょうど払った。


おつりなんてない。


千尋は袋の中を見た。


きゅうりしか入っていない。


はずだった。


でも、袋の底に、小さな紙が入っていた。


レシートみたいな紙。


折り畳まれている。


千尋はそれを取り出した。


紙には、手書きでこう書かれていた。


すみません、本当は嫌でした。


千尋は固まった。


知らない文章。


でも、見た瞬間、胸が嫌なふうに沈んだ。


それは、昔、自分が言えなかった言葉だった。


去年のゼミの飲み会。


苦手な先輩に、雑用を押しつけられた。


断れなかった。


「大丈夫です」と笑った。


本当は嫌だった。


その時、言えなかった言葉。


それが、紙に書かれていた。


⸻


【LINE】


13:03 千尋

無人販売所あった


13:03 帆夏

水買えた?


13:04 千尋

きゅうり買った


13:04 帆夏

なぜ


13:04 千尋

水分ありそうだった


13:05 帆夏

野生化してる


13:05 千尋

でも変な紙入ってた


13:06 帆夏

何


13:06 千尋

「すみません、本当は嫌でした」って


13:07 帆夏

怖


13:07 千尋

私が昔言えなかったやつかも


13:08 帆夏

何その心理カウンセリング販売所


⸻


その返信を見て、千尋は少し笑った。


でも、販売所の前は涼しかった。


風もないのに、そこだけ空気が冷えている。


きゅうりを持った手が、少し冷たい。


早く離れた方がいい。


そう思った。


でも、もう一枚札が目に入った。


台の奥。


古い板に、細い字で書いてある。


言いそびれたもの、買い取ります。


「……何それ」


無人販売所なのに。


野菜じゃなくて?


声に出した瞬間、料金箱の中から音がした。


ちゃり。


入れた百円玉が戻ってくる音。


料金箱の取り出し口を見る。


そこに、百円玉があった。


さっき入れたものと同じに見える。


つまり。


きゅうりは無料。


いや、違う。


代金は別のものだった。


千尋は百円玉を拾わなかった。


拾ったら、何かがおかしくなる気がした。


きゅうりの入った袋だけ持って、歩き出した。


⸻


少し歩いてから、喉が渇いた。


きゅうりを食べることにした。


ビニール袋から取り出し、軽く拭く。


まあ、洗ってない。


でも、もうどうでもよかった。


かじる。


ぱき。


想像よりずっと冷たかった。


中から水分が広がる。


塩も何もつけていないのに、少しだけしょっぱい。


おいしい。


腹立つくらいおいしい。


「……うま」


そう呟いた。


その瞬間、スマホが震えた。


⸻


【LINE】


13:12 千尋

今なら言えます


13:12 帆夏

何が?


13:13 千尋

え?


13:13 帆夏

今なら言えますって来た


13:13 千尋

送ってない


13:14 帆夏

出た

送ってない系


13:14 千尋

怖いこと言うな


13:15 帆夏

それ何に対して言えるの


13:15 千尋

分からない


⸻


送っていない。


本当に。


でも、トーク画面には表示されている。


今なら言えます


千尋のアカウントで。


きゅうりをもう一口かじる。


しゃく。


また、スマホが震えた。


⸻


13:16 千尋

あの時、傷つきました


13:16 帆夏

だから何が


13:17 千尋

送ってない


13:17 帆夏

きゅうり食べるのやめて?


⸻


千尋は、きゅうりを見た。


残り半分。


断面から水がにじんでいる。


その水が、少しだけ黒っぽく見えた。


いや、影のせい。


そう思いたかった。


ビニール袋に戻そうとした。


すると袋の中に、また紙が入っていた。


いつの間に。


折り畳まれた白い紙。


開く。


私だけ我慢するの、もう疲れました。


千尋は足を止めた。


それも、言えなかった言葉だった。


母に。


友達に。


バイト先に。


ずっと。


人当たりよくして、空気を読んで、波風を立てないようにして。


嫌でも笑った。


傷ついても流した。


怒っていても、「大丈夫」と言った。


その言葉が、紙になって戻ってきている。


おつり。


そういうことなのか。


千尋は、振り返った。


販売所はもう見えない。


一本道だったはずなのに。


背後には、田んぼと用水路だけ。


小屋は消えていた。


⸻


【LINE】


13:22 千尋

販売所消えた


13:22 帆夏

は?


13:23 千尋

一本道なのに見えない


13:23 帆夏

戻って確認しないでね


13:23 千尋

戻らない


13:24 帆夏

きゅうり捨てろ


13:24 千尋

それも怖い


13:25 帆夏

じゃあ持っててもいいけど

たべちゃだめだよ


13:25 千尋

もう半分食べた


13:26 帆夏

怪しいものをよくたべられるね


13:26 千尋

おいしかった


13:27 帆夏

そこじゃない


⸻


叔母の家に着いたのは、十三時半過ぎだった。


門の前で、叔母が手を振っていた。


「暑かったでしょう」


「暑かった」


「バス逃したんだって?」


「うん」


「大変だったねえ」


普通の会話。


普通の家。


玄関の匂い。


冷房の涼しさ。


千尋はやっと安心した。


きゅうりの袋は、鞄の中に入れたままだった。


半分食べかけのきゅうり。


あと、紙が二枚。


叔母に見せる気にはなれなかった。


昼食を出された。


そうめん。


めんつゆ。


薬味。


千尋は食べながら、叔母の話を聞いた。


祖母の法事。

親戚の予定。

仏壇の掃除。


その途中で、叔母がふと言った。


「千尋ちゃん、昔から我慢する子だったよね」


箸が止まった。


「え?」


「大人しいっていうより、言わない子だった」


「そうかな」


「そうよ。嫌なことも、嫌って言わない」


叔母は何気なく言っただけだった。


でも、千尋の鞄の中で、ビニール袋がかさっと鳴った。


まるで返事をするみたいに。


⸻


その夜。


千尋は客間でスマホを見ていた。


帆夏に、昼間のことを全部説明する。


⸻


【LINE】


22:08 帆夏

つまり

怪しい販売所できゅうり買ったら

言えなかった本音がレシートで返ってきたと


22:09 千尋

そう


22:09 帆夏

ヘンテコすぎる


22:10 千尋

私もそう思う


22:10 帆夏

でも怖いな


22:11 千尋

うん


22:11 帆夏

その紙、まだある?


22:12 千尋

ある


22:12 帆夏

増えてない?


⸻


千尋は鞄を開けた。


ビニール袋を取り出す。


中には、食べかけのきゅうり。


それと紙。


二枚。


のはずだった。


三枚目があった。


開く。


本当は、帰りたくありません。


千尋は息を止めた。


それは、今の気持ちだった。


母のいる家へ帰りたくない。


心配されるのも、予定を聞かれるのも、将来の話をされるのも、少し疲れる。


でも、そんなこと言えない。


言ってはいけない気がしていた。


スマホが震える。


⸻


【LINE】


22:15 千尋

本当は、帰りたくありません


22:15 帆夏

それ送った?


22:16 千尋

送ってない


22:16 帆夏

紙の文章?


22:16 千尋

うん


22:17 帆夏

千尋


22:17 千尋

なに


22:18 帆夏

それ、私にじゃなくて

本当は誰に言いたいの


⸻


その文を見て、千尋は黙った。


分からなかった。


いや。


分かっていた。


母に。


でも、母が悪いわけではない。


ただ、千尋はずっと、良い子でいようとしていた。


文句を言わない。

期待を裏切らない。

空気を壊さない。


そうしているうちに、自分の言葉がどこかに溜まっていたのかもしれない。


それを、あの販売所が買い取った。


きゅうり一本と引き換えに。


おつりとして返してきた。


わけが分からない。


ヘンテコすぎる。


でも、怖いほど筋が通っている気もした。


⸻


夜中。


千尋は目を覚ました。


客間は暗い。


扇風機の音だけがしている。


鞄の中から、音がした。


かさ。


ビニール袋の音。


かさ。


かさ。


千尋は起き上がった。


鞄を見た。


ビニール袋が、少し膨らんでいる。


中の食べかけのきゅうりが、大きくなっていた。


いや。


増えていた。


半分のきゅうりが、二本になっている。


一本は、食べかけ。


もう一本は、曲がっている。


そして、その曲がったきゅうりには、小さな紙が巻きついていた。


開く。


お買い上げありがとうございます。


その下。


次は、言ってから食べてください。


「……何を?」


小さく聞いてしまった。


返事は、スマホに来た。


知らないアカウント。


名前は空白。


アイコンは、曲がったきゅうりの絵だった。


ふざけている。


でも、怖い。


⸻


【LINE】


02:17 

嫌なことを、嫌と。


⸻


千尋は、スマホを伏せた。


怖かった。


でも、その言葉はずっと胸に残った。


⸻


翌朝。


千尋は叔母に言った。


「今日、ちょっと母に電話してくる」


叔母は何も聞かずに頷いた。


庭に出る。


夏の朝。


蝉が鳴いている。


スマホを握る。


母に電話をかける。


数回のコール。


母が出た。


「千尋? どうしたの?」


声を聞いた瞬間、言葉が詰まった。


やっぱり無理だ。


そう思った。


その時、ポケットの中で、ビニール袋が鳴った。


かさ。


きゅうりは入れていない。


袋も持っていないはずだった。


でも、ポケットには小さな紙が入っていた。


いつの間にか。


千尋はそれを握った。


そして、言った。


「お母さん」


「うん」


「たまに疲れる」


「え?」


「ちゃんとしなきゃって思うの、疲れる」


母は黙った。


千尋の心臓が、嫌な音を立てる。


怒られるかもしれない。


心配されすぎるかもしれない。


面倒な話になるかもしれない。


でも、言った。


言えてしまった。


母は、しばらくしてから言った。


「そうだったんだ」


その声は、思ったより静かだった。


「ごめんね。気づけてなかった」


千尋は、鼻の奥が痛くなった。


「別に、お母さんが悪いとかじゃなくて」


「うん」


「でも、言わないと分からないよね」


「うん。分からないこともある」


母の声が少しだけ震えていた。


「言ってくれて、ありがとう」


電話を切ったあと。


千尋は庭でしばらく立っていた。


怖かった。


でも、少しだけ軽かった。


ヘンテコな無人販売所に背中を押されたと思うと腹が立つ。


きゅうりに人生相談される筋合いはない。

ないが、役には立った。納得はしていない。


⸻


その日の夕方。


千尋は、叔母の家の冷蔵庫を開けた。


中に、きゅうりが一本あった。


曲がっている。


叔母に聞いた。


「これ、叔母さんが買った?」


「え? きゅうり?」


「うん」


「うちの畑のよ」


「畑あるの?」


「小さいのがね」


叔母は普通に言った。


でも、そのきゅうりには見覚えがあった。


あの販売所に並んでいたものと、同じ曲がり方だった。


冷蔵庫の横には、小さなメモが貼られていた。


叔母の字ではない。


細い字。


おつりはまだ残っています。


千尋は、すぐに剥がした。


でも、紙の裏にもう一行あった。


言わなかった分だけ。


⸻


帰宅後。


千尋は、あのビニール袋を捨てた。


食べかけのきゅうりも、紙も、全部。


捨てたはずだった。


でも、翌朝。


台所のシンクに、透明なビニール袋が置かれていた。


中には何もない。


ただ、水滴だけがついている。


袋の底に、小さな紙が一枚。


本日のおつり


その下に、空白。


千尋は、それを見てしばらく固まった。


そして、捨てなかった。


机の引き出しに入れた。


今でもそこにある。


空白の紙。


何も書かれていない。


でも、たまに。


誰かに「大丈夫?」と聞かれて、反射で「大丈夫」と答えた夜。


その紙に、うっすら文字が浮かぶ。


本当は?


千尋は、まだ全部は答えられない。


嫌なことを嫌と言うのは、思ったより難しい。


でも、あの販売所のことを思い出すと、少しだけ喉の奥が動く。


あの無人販売所は、もう見つからない。


地図にも出ない。


叔母に聞いても、そんな場所は知らないと言う。


ただ、夏になると。


田舎道でも、都会のスーパーでも。


曲がったきゅうりを見るたびに、千尋は少しだけ身構える。


料金箱もないのに。


誰もいないのに。


どこかから、声が聞こえる気がする。


「おつりは袋の中です」


そして思う。


あの日、私は何を買ったんだろう。


きゅうり一本。


それとも。


ずっと飲み込んできた自分の言葉を、少しだけ。


買い戻したんだろうか。

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