六時半の判子
祖母が施設に入った。
その部屋を片づけることになったのは、八月のはじめだった。
古い団地の三階。
築五十年くらい。
外壁は色褪せていて、階段の手すりは少し錆びている。
でも、祖母の部屋はきれいだった。
畳。
古い食器棚。
花柄のカーテン。
押し入れの中には、やたら多いタオル。
高齢者、なぜあんなにタオルを保存するのか。
もはや一族の布備蓄基地である。
私、槙野紬は、大学二年生。
夏休みだったので、従姉の玲奈ちゃんに呼ばれた。
「一日だけでいいから手伝って」と言われて来たら、普通に三日コースだった。
人間の“一日だけ”は信用できない。
⸻
【LINE】
21:42 玲奈
今日はありがとね
21:42 紬
腕死んだ
21:43 玲奈
明日もあるよ
21:43 紬
知りたくなかった
21:44 玲奈
私は仕事あるから朝来る
21:44 紬
え、今日ここ一人?
21:45 玲奈
怖い?
21:45 紬
怖くはない
古いだけ
21:46 玲奈
じゃあ大丈夫
21:46 紬
その理屈は雑
⸻
玲奈ちゃんは夜、自宅へ帰った。
私は祖母の部屋に泊まることになった。
風呂に入り、布団を敷いて、すぐ寝た。
疲れていた。
本当に疲れていた。
だから、翌朝。
音楽で目が覚めた時、最初は夢だと思った。
ちゃーん、ちゃちゃちゃちゃ。
聞き覚えのあるメロディ。
ラジオ体操第一。
私は目を開けた。
部屋は薄暗い。
カーテンの向こうが少し明るい。
スマホを見る。
06:30
アラームはかけていない。
なのに、音楽が鳴っている。
外からだった。
窓を開けると、団地の中庭から聞こえていた。
私は寝ぼけた頭で下を見た。
中庭に、人が集まっていた。
子どもたち。
十人くらい。
半袖。
短パン。
首からカードを下げている。
その前に、年配の男の人が立っていた。
ラジカセみたいなものを置いている。
「……今どきラジオ体操?」
思わず呟いた。
でも、夏休みならあるのかもしれない。
古い団地だし。
そう思った。
私は顔を洗って、なんとなく中庭へ降りた。
完全に好奇心だった。
人類、朝から余計なものを見に行くな。
寝てろ。
⸻
中庭に出ると、音楽がちょうど終わるところだった。
子どもたちが列を作っている。
年配の男性が、カードに判子を押していた。
ぽん。
ぽん。
ぽん。
「おはようございます」
私が言うと、男性は顔を上げた。
「おはよう」
にこにこしている。
「お姉さん、新しい子?」
子どもの一人が言った。
新しい子。
大学生相手に言う言葉ではない。
「いや、祖母の部屋の片づけで」
そう説明しようとしたら、男性が私にカードを差し出した。
「はい、忘れないうちに」
「え?」
ラジオ体操カードだった。
黄色っぽい紙。
首から下げる紐がついている。
表に、手書きで名前が書かれていた。
まきの つむぎ
私は固まった。
「なんで名前」
「初日は大事だからね」
男性は赤い判子を持ち上げた。
「皆勤、目指しましょう」
「いや、私、今日初めてで」
「だから初日」
ぽん。
赤い判子が押された。
日付は、八月三日。
判子の絵は、丸い太陽みたいだった。
でも、よく見ると太陽ではなかった。
小さな人の顔みたいにも見えた。
私はカードを受け取った。
子どもたちが、じっと私を見ている。
にこにこしている。
でも、なぜか全員、汗をかいていなかった。
真夏の朝なのに。
「明日も来てね」
一人の女の子が言った。
「起きられたらね」
そう返すと、子どもたちは声をそろえて言った。
「起こすから」
ぞっとした。
冗談のはずなのに。
声が、きれいに揃いすぎていた。
⸻
部屋に戻ってから、玲奈ちゃんにLINEした。
⸻
【LINE】
06:51 紬
この団地ってラジオ体操やってる?
06:52 玲奈
え?
06:52 紬
中庭でやってた
06:53 玲奈
今?
06:53 紬
今
06:54 玲奈
やってないよ
06:54 紬
いや、見た
06:55 玲奈
ラジオ体操は何年も前に終わった
06:55 紬
え
06:56 玲奈
子ども減ったから
自治会もやめたって聞いた
06:56 紬
でも子どもいた
06:57 玲奈
この団地
今、小学生ほぼいないよ
⸻
私は手元のカードを見た。
赤い判子が、しっかり乾いている。
日付も名前もある。
気のせいではない。
私は写真を撮ろうとした。
でも、やめた。
写真に何かが写るとか、そういう安い根性を出すと、だいたい話が面倒になる。
私にも学習能力くらいある。たぶん。
カードは、テーブルの上に置いた。
その日、玲奈ちゃんが来てからカードを見せた。
玲奈ちゃんは眉をひそめた。
「これ、どこにあったの?」
「今朝もらった」
「誰に?」
「判子係のおじいさん」
「そんな人いないと思う」
「じゃあこれは?」
玲奈ちゃんはカードをじっと見た。
「古いね」
「古い?」
「今のラジオ体操カードって、こんな紙じゃなくない?」
言われてみればそうだった。
紙が薄い。
印刷も少し古い。
日付欄には、なぜか年が書かれていなかった。
八月三日。
それだけ。
玲奈ちゃんは、少し低い声で言った。
「明日は行かないで」
「うん」
「本当に」
「行かない」
その時は、そう思っていた。
⸻
翌朝。
また、六時半に目が覚めた。
ラジオ体操の音楽。
ちゃーん、ちゃちゃちゃちゃ。
昨日より少し近い。
私は布団の中で目を開けた。
行かない。
行かない。
絶対行かない。
そう思った。
音楽は続いている。
外から、子どもたちの声がする。
「いち、に」
「さん、し」
「ご、ろく」
私は布団をかぶった。
スマホを見る。
06:30
玲奈ちゃんからLINEが来ていた。
⸻
【LINE】
06:31 玲奈
起きてる?
06:31 紬
起きてる
06:31 玲奈
音してる?
06:32 紬
してる
06:32 玲奈
行かないで
06:32 紬
行かない
06:33 玲奈
カーテンも開けないで
06:33 紬
分かった
⸻
私は布団の中で、音が終わるのを待った。
数分後、音楽が止まった。
静かになった。
ほっとした。
その時、玄関の郵便受けが鳴った。
かたん。
何かが入った音。
私は動けなかった。
しばらくしてから、玄関へ行った。
郵便受けの下に、黄色いカードが落ちていた。
昨日のラジオ体操カード。
テーブルの上に置いたはずなのに。
拾い上げる。
判子が増えていた。
八月四日。
赤い判子。
昨日と同じ、丸い顔みたいな印。
私は声が出なかった。
カードの余白に、鉛筆で小さく書かれていた。
来なかったけど、聞こえていたので出席
「何それ……」
ずるい。
怖いのに、判定だけ自治会じみている。
⸻
【LINE】
06:48 紬
行ってないのに判子増えた
06:48 玲奈
は?
06:49 紬
出席扱いされた
06:49 玲奈
何それ
06:50 紬
「聞こえていたので出席」って書いてる
06:50 玲奈
もう部屋から出ないで
午前中行く
⸻
その日は、玲奈ちゃんが午前で仕事を切り上げて来てくれた。
カードを見て、完全に黙った。
そして、団地の管理人室へ行った。
管理人さんは、八十代くらいのおばあさんだった。
玲奈ちゃんが聞く。
「昔、ここの中庭でラジオ体操やってましたよね」
管理人さんは頷いた。
「やってたねえ。ずいぶん前だけど」
「判子係の人っていました?」
「いたよ。自治会長の森田さん」
「今は?」
管理人さんは、少し目を伏せた。
「亡くなったよ。十年以上前に」
私は喉が冷えた。
「子どもたちも?」
そう聞くと、管理人さんは私を見た。
「子ども?」
「今朝、中庭にいたんです」
管理人さんは、しばらく黙った。
それから、こう言った。
「夏になるとね」
「はい」
「たまに、音だけ聞こえるって人はいる」
玲奈ちゃんの顔がこわばった。
「見える人もいるんですか」
管理人さんは答えなかった。
代わりに、壁にかかった古い掲示板を見た。
そこには、黄ばんだ写真が貼られていた。
昔の団地の夏祭り。
中庭でラジオ体操をする子どもたち。
判子を押す年配の男性。
私は息を止めた。
写真の中の男性は、今朝見た人だった。
そして、子どもたちも。
昨日、私に「起こすから」と言った子が、写真の端で笑っていた。
管理人さんが言った。
「昔はね、この団地にも子どもがたくさんいたんだよ」
「はい」
「夏休みの朝は、毎日賑やかだった」
管理人さんの声は懐かしそうだった。
でも、その目は少し怖がっているようにも見えた。
「でも、ある年から、誰も来なくなった」
「どうしてですか」
「少しずつ、みんな引っ越したり、大きくなったりしてね」
管理人さんは、そこで言葉を切った。
「森田さんは、最後の年まで一人で待ってた」
「一人で?」
「ラジカセを持って、判子を持って」
「子どもが来ないのに?」
「そう」
管理人さんは、ゆっくり頷いた。
「来るかもしれないからって」
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
怖い。
確かに怖い。
でも、ただ怖いだけではない気がした。
⸻
その夜。
玲奈ちゃんは言った。
「今日は私も泊まる」
正直、助かった。
二人で祖母の部屋に泊まった。
カードは封筒に入れ、仏壇の横に置いた。
祖母はまだ生きているけれど、小さな仏壇が部屋にある。
亡くなった祖父のものだ。
玲奈ちゃんは言った。
「変なものは仏壇の近くに置くと落ち着く気がする」
「雑な民間信仰」
「でも何もしないよりマシ」
それはそう。
夜は何も起こらなかった。
けれど、翌朝。
六時半。
ラジオ体操の音楽が鳴った。
玲奈ちゃんにも聞こえていた。
顔が真っ青だった。
「聞こえる」
「でしょ」
「怖」
「だから言ったじゃん」
二人で布団の中にいた。
カーテンは開けない。
窓も見ない。
音楽が終わるまで待つ。
でも、その日はいつもと違った。
音楽が終わったあと、玄関のチャイムが鳴った。
ピンポーン。
二人で固まった。
ピンポーン。
もう一度。
玲奈ちゃんが小声で言う。
「出ない」
「うん」
玄関の向こうから、声がした。
「判子を押しますよ」
年配の男性の声。
森田さん。
たぶん。
「今日は、直接押しますよ」
私は、封筒に入れたカードを思い出した。
仏壇の横。
そこから、かさ、と紙の音がした。
勝手に動いている。
玲奈ちゃんが私の手を握った。
「出ないで」
「うん」
玄関の向こうで、森田さんの声がした。
「あと一日ですからね」
足音が遠ざかった。
⸻
その後、カードを見ると、また判子が増えていた。
八月五日。
そして、余白に文字。
あと一日
私は、カードを見つめた。
「皆勤賞まで?」
玲奈ちゃんが言った。
「たぶん」
「もらったらどうなるの」
「知らない」
「知らないもの、もらいたくない」
本当にそう。
知らない皆勤賞ほど嫌なものはない。
その日の午後、私たちは団地の掲示板を調べた。
古い掲示物はほとんど残っていない。
でも、管理人さんが倉庫から昔のファイルを出してくれた。
自治会の記録。
その中に、ラジオ体操の最後の回覧があった。
夏休みラジオ体操終了のお知らせ
理由は、参加児童の減少。
最後の一文。
長年ご参加いただき、ありがとうございました。
皆勤賞の配布は、今年度をもって終了いたします。
その横に、赤い鉛筆で書き込みがあった。
たぶん、森田さんの字。
最後の子が来るまで、判子は残す。
私は、それを見て何も言えなかった。
最後の子。
私は子どもじゃない。
大学生だ。
でも、祖母の部屋に泊まった。
夏休み。
この団地。
朝六時半。
条件だけが、昔の子どもと重なったのかもしれない。
⸻
その夜、私は決めた。
最後の日には行かない。
でも、無視もしない。
カードを返す。
玲奈ちゃんには反対された。
「危ないって」
「でも、置いたままだと終わらない気がする」
「それはそうかもしれないけど」
「中庭には行かない。掲示板に返す」
団地の一階、管理人室の横に古い掲示板がある。
昔のラジオ体操の集合場所のすぐ近く。
そこにカードを貼って返す。
それだけ。
玲奈ちゃんは渋々うなずいた。
「一緒に行く」
「ありがとう」
⸻
翌朝。
六時二十分。
私たちは起きていた。
ラジオ体操が始まる前に、カードを持って部屋を出た。
階段を降りる。
団地の廊下は、朝の湿った空気で少し冷えていた。
中庭には行かない。
管理人室横の掲示板へ向かう。
誰もいない。
まだ音楽も鳴っていない。
私は掲示板の前に立った。
カードを画鋲で留める。
そこに、短いメモを添えた。
⸻
ありがとうございました。
でも私はもう大人なので、皆勤賞はいただけません。
どうか、子どもたちを待つのを終わりにしてください。
⸻
書いてから、少し恥ずかしくなった。
大人なので。
なんだその文。
でも、他に言葉が出なかった。
玲奈ちゃんが隣で言った。
「いいと思う」
「本当に?」
「少なくとも、ふざけてはいない」
「そこ?」
その時。
六時半になった。
ラジオ体操の音楽が鳴った。
中庭から。
私たちは振り返らなかった。
でも、背中で感じた。
人が集まっている。
子どもたちが並んでいる。
森田さんがラジカセの前に立っている。
音楽に合わせて、腕を上げる気配。
一、二、三、四。
五、六、七、八。
私は掲示板を見つめたまま、動かなかった。
音楽が終わる。
静かになる。
背後から、足音がした。
ゆっくり。
年配の人の足音。
私の横を通って、掲示板の前で止まる気配。
でも、見なかった。
見たら、だめな気がした。
ぽん。
判子の音がした。
カードに、最後の判子が押された。
森田さんの声がした。
「ご卒業です」
その言葉に、なぜか涙が出そうになった。
怖いのに。
「おめでとうございます」
子どもたちの声が、後ろから重なった。
「おめでとう」
「おめでとう」
「おめでとう」
私は、振り返らないまま言った。
「ありがとうございます」
玲奈ちゃんが、息を呑んだ。
返事してしまった。
でも、もう遅かった。
背中の気配が、少しずつ薄くなっていく。
森田さんの声が、遠くで言った。
「今年で、終わりにしましょう」
ラジカセのスイッチを切る音がした。
ぷつん。
それきり。
団地の中庭は、普通の朝になった。
蝉が鳴いていた。
どこかの部屋で、洗濯機の音がしていた。
遠くで、車が走っていた。
私たちは、しばらくその場から動けなかった。
掲示板を見ると、カードには最後の判子が押されていた。
八月六日。
赤い判子。
その下に、細い字で書いてあった。
皆勤
⸻
その日の昼。
管理人さんにカードを見せた。
管理人さんは、しばらく黙ってから言った。
「そうかい」
「これ、どうしたら」
「掲示板に置いておきなさい」
「いいんですか」
「終わったものは、そこに置いておくのがいい」
管理人さんは、中庭を見た。
「森田さんも、やっと帰れるかね」
その声は、寂しそうだった。
⸻
祖母の部屋の片づけは、二日後に終わった。
私は自宅へ戻った。
ラジオ体操カードは、団地の掲示板に置いてきた。
もう持って帰らなかった。
あれ以来、朝六時半に音楽は聞こえない。
玲奈ちゃんにも聞こえないらしい。
管理人さんからも、何も言われていない。
終わった。
そう思った。
でも、一週間後。
自分の部屋の机の上に、見覚えのない鉛筆が置かれていた。
短い赤鉛筆。
側面に金色の文字。
皆勤賞
私は、しばらくそれを見ていた。
触るのが怖かった。
でも、捨てる気にはなれなかった。
鉛筆の先は、少し削られていた。
芯の先が丸い。
まるで、誰かが最後に名前を書いた後みたいに。
私は引き出しの奥にしまった。
それから、毎年八月のはじめになると。
なぜか一日だけ。
朝六時半ぴったりに目が覚める。
アラームは鳴っていない。
外から音楽も聞こえない。
ただ、起きてしまう。
その時、引き出しの中から、ほんの少しだけ赤鉛筆の転がる音がする。
ころ。
ころ。
私はそのたびに思う。
あの団地の中庭では、もう誰も並んでいないのだろうか。
森田さんは、もう判子を押していないのだろうか。
子どもたちは、ちゃんと帰ったのだろうか。
分からない。
でも、今でも夏の朝にラジオ体操の音楽を聞くと、背筋が冷える。
そして少しだけ、懐かしい。
怖いものと懐かしいものは、たまに同じ顔をしている。
本当に迷惑な感情である。




