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怖い話_続  作者: 三葉


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25/25

返却期限は十七時です

夏休みだった。


なのに、ちっとも休めていなかった。


大学の課題。

レポート。

ゼミの資料。

英語の小テスト対策。


全部、後回しにしていた。


当然、全部あとから襲ってきた。


人間、未来の自分を信用しすぎる。

そして未来の自分はだいたい裏切る。

最悪の共同作業である。


久住莉央は、昼過ぎに家を出た。


理由は二つ。


課題をやるため。


そして、自宅のエアコンが壊れたため。


八月の部屋でエアコンが死ぬ。


これはもう家ではない。


軽い蒸し器だ。


莉央はノートパソコンと参考書をリュックに詰め、市立図書館へ向かった。



【LINE】


13:18 莉央

図書館行く


13:18 芽衣

えらいねえ


13:19 莉央

エアコン壊れたから避難


13:19 芽衣

動機が学問じゃないんだね


13:20 莉央

涼しさも学問の一部


13:20 芽衣

都合のいい哲学ね


13:21 莉央

課題やるだけ偉い


13:21 芽衣

それは偉いよ



市立図書館は、古い建物だった。


コンクリートの四角い外観。


入口に大きな自動ドア。


中に入ると、冷房が効いていた。


天国。


いや、図書館。


似たようなものだ。


一階は児童書。

二階は一般書。

奥に閲覧席。

三階に自習室。


莉央は三階へ向かった。


しかし、自習室の前には貼り紙があった。


本日満席


「終わった」


声が出た。


同じ考えの人間が多すぎる。


みんな家のエアコン壊れているのか。


そんなわけはない。


受付へ戻ろうとした時、背後から声がした。


「お席をお探しですか」


振り返ると、司書らしき女性が立っていた。


白いブラウス。

紺色のベスト。

髪をきっちりまとめている。


年齢は分からない。


若くも見えるし、年配にも見える。


「はい。自習室が満席で」


「地下でしたら空いております」


「地下?」


この図書館に地下があるなんて知らなかった。


「地下自習室です」


「そんなのありましたっけ」


「必要な方には、ご案内しています」


言い方が少し変だった。


でも、涼しい席があるならありがたい。


莉央は深く考えなかった。


考えない時、人はだいたい怪談の入口に立っている。

なのに入る。愚かで元気。


女性は受付カウンターの引き出しから、古い紙のカードを出した。


灰色がかった図書館カード。


角が丸く擦れている。


それと、赤いしおり。


細長い紙。


「こちらをお持ちください」


「カードですか?」


「はい。お席の利用票です」


カードには、手書きでこう書かれていた。


地下自習室 七番席


その下。


返却期限 十七時


莉央は首を傾げた。


「返却期限?」


「はい」


「席に?」


「はい」


女性は、普通のことのように答えた。


「十七時までに、必ずお返しください」


「席を?」


「はい」


笑っていいのか分からなかった。


古い図書館の独特な言い方かもしれない。


そう思うことにした。



女性は、エレベーターの横にある細い階段へ莉央を案内した。


そこは普段、閉まっている非常階段のように見えた。


扉には何も書かれていない。


女性が鍵を開ける。


階段は下へ続いていた。


地下なのに、ひんやりした空気が上がってくる。


「お静かにお願いいたします」


「はい」


「地下では、声が残りますので」


「声が残る?」


女性は聞こえなかったように、先に降りていった。


莉央も続いた。


階段を降りると、細い廊下があった。


蛍光灯が数本。


床は古いリノリウム。


壁には、昔の図書館のポスターが貼られている。


本は心のともだち


読み終わったら、元の棚へ


借りたものは、返しましょう


最後のポスターだけ、妙に目に残った。


廊下の奥に、ガラス戸。


その向こうが地下自習室だった。


中には机が並んでいる。


一人用の机が、十席ほど。


だが、人はいない。


少なくとも、見える範囲には。


「七番席は奥です」


女性が言った。


「ご利用後は、赤いしおりを返却箱へ」


「分かりました」


「十七時を過ぎますと、延長扱いになります」


「延長できるんですか?」


女性は微笑んだ。


「おすすめはいたしません」


その笑顔が、少しだけ冷たかった。



七番席は、壁際の机だった。


机には小さな札が立っている。


7


椅子は古い木製。


座ると、きし、と鳴った。


机の上には、薄い鉛筆の跡が残っていた。


誰かが前に使ったのだろう。


消しゴムの跡。


爪で引っかいたような跡。


そして、端の方に小さく文字が刻まれていた。


席を返せ


莉央は、見なかったことにした。


無理がある。


でも、見なかったことにした。


ノートパソコンを開く。


参考書を出す。


赤いしおりは、机の右上へ置いた。


時間は十四時五分。


十七時まで三時間弱。


課題をやるには十分。


たぶん。



【LINE】


14:08 莉央

地下自習室あった


14:08 芽衣

地下?


14:09 莉央

知らなかった


14:09 芽衣

市立図書館に地下あったっけ


14:10 莉央

あるみたい


14:10 芽衣

なんか怖


14:11 莉央

涼しいから勝ち


14:11 芽衣

それで怪異に負ける人、いっぱいいると思う



莉央は課題を始めた。


最初は普通だった。


静か。


涼しい。


集中できる。


地上の閲覧席より、人の気配が少なくて快適だった。


けれど、三十分ほどすると、少しずつ違和感が出てきた。


ページをめくる音がする。


誰もいないのに。


鉛筆で何かを書く音がする。


かり。


かり。


隣の席。


見ても、誰もいない。


でも、机の上には消しゴムのカスが増えていた。


さっきはなかった。


反対側から、椅子を引く音。


きい。


振り返っても、誰もいない。


ただ、三番席の椅子が少しだけ後ろに引かれている。


莉央はスマホを見た。


アンテナは一本。


でもLINEは送れた。



【LINE】


14:52 莉央

音する


14:52 芽衣

何の


14:53 莉央

ページめくる音とか

鉛筆の音


14:53 芽衣

人いるんじゃないの


14:54 莉央

見えない


14:54 芽衣

出ろ


14:55 莉央

まだ課題終わってない


14:55 芽衣

課題と命なら命


14:56 莉央

命までいく?


14:56 芽衣

図書館の地下で見えない人が勉強してる時点で

まあまあいく



芽衣の言うことは正しい。


でも、莉央は動けなかった。


怖いというより、なぜか席を立つのが申し訳なかった。


静かな部屋で、みんなが勉強している。


見えないだけで。


そんな感じがした。


変な話だ。


でも、席を立つと邪魔になる気がした。


莉央はパソコンに向き直った。


その時、画面に文字が出た。


自分が打った覚えのない文章。


レポートの本文の最後に、一行だけ。


返却期限を過ぎた席は、利用者ごと保管されます。


莉央は、すぐに削除した。


手が震えた。


保存はしなかった。


今度こそ帰ろう。


そう思った。


時刻を見る。


十六時五十二分。


もうすぐ十七時。


机の右上に置いた赤いしおりが、少し湿っていた。


紙なのに。


触ると、冷たい。


莉央は荷物をまとめた。


ノートパソコン。

参考書。

筆箱。

スマホ。


赤いしおりを持つ。


返却箱は入口の横にあるはずだった。


立ち上がる。


椅子が、きい、と鳴った。


その瞬間。


部屋中の鉛筆の音が止まった。


ページをめくる音も。


椅子の軋みも。


全部。


莉央は、息を止めた。


見えない何かが、こちらを見ている。


そんな感覚。


館内放送が流れた。


地下なのに。


スピーカーなんて見当たらないのに。


『七番席をご利用のお客様』


古い女性の声。


『返却期限が近づいております』


『赤いしおりを返却箱へお戻しください』


正しい。


普通の案内。


でも、続きがおかしかった。


『お席は、お持ち帰りいただけません』


莉央は入口へ向かった。


しかし。


ガラス戸がなかった。


さっき入ってきたはずの入口が、壁になっていた。


白い壁。


何もない。


返却箱もない。


「嘘でしょ」


声が出た。


すると、背後から誰かが言った。


「声、残りますよ」


司書の女性の声だった。


振り返る。


誰もいない。


でも、七番席の机の上に、利用票が置かれていた。


さっきまで莉央が持っていたはずのカード。


そこに、新しい文字が増えている。


延長しますか


下に選択肢。


はい


返却する


赤いしおりが、莉央の手の中で震えた。



【LINE】


16:58 莉央

出口がない


16:58 芽衣

は?


16:58 莉央

壁になった


16:59 芽衣

電話する


16:59 莉央

音出したくない


16:59 芽衣

じゃあ打って


17:00 芽衣

莉央


17:00 芽衣

今17時



十七時。


その瞬間、地下自習室の空気が変わった。


涼しい、ではない。


冷たい。


机の下から、紙の匂いがした。


古い本の匂い。


押し入れの奥みたいな匂い。


部屋の机に、少しずつ人影が現れた。


一番席。


二番席。


三番席。


白っぽい手。

伏せられた頭。

ノートを取る背中。


全員、静かに勉強している。


顔は見えない。


ただ、首元や手元がぼんやりしている。


十席のうち、七番だけが空いている。


いや。


莉央が立っているから空いているだけだ。


館内放送が流れる。


『七番席のお客様』


『返却期限を過ぎました』


『延長手続きに移ります』


莉央は、机の上の利用票を掴んだ。


選択肢の「返却する」を指で押す。


紙なのに、押した感触があった。


しかし、文字が変わった。


返却箱が見つかりません。


「知らないよ」


思わず言った。


その瞬間、周りの人影が少しだけ顔を上げた。


莉央は口を押さえた。


声を残してはいけない。


そう言われていた。


スマホが震えた。



【LINE】


17:02 芽衣

赤いしおりは?


17:02 莉央

持ってる


17:03 芽衣

それが鍵じゃないの


17:03 莉央

返却箱がない


17:03 芽衣

図書館なら本の返却口あるでしょ


17:04 莉央

ここ地下


17:04 芽衣

じゃあ

何でもいいから「返す場所」に入れろ


17:04 莉央

何でも?


17:05 芽衣

借りたものを戻す場所



借りたものを戻す場所。


莉央は周囲を見た。


机。

椅子。

壁。

消しゴムのカス。

古い人影。


その中で、七番席の机だけ、引き出しが少し開いていた。


最初は気づかなかった。


莉央は近づいた。


引き出しの中は暗い。


奥に、白い紙が何枚も入っている。


利用票。


たくさんの利用票。


古いもの。


黄ばんだもの。


破れたもの。


名前が書かれている。


知らない名前。


その中には、赤いしおりが何枚も挟まっていた。


返せなかった人たちのもの。


そう思った。


莉央は、自分の赤いしおりを握りしめた。


怖い。


入れたくない。


でも、入れなければ出られない。


「返します」


小さく言った。


声が残るとしても、これは言わなければいけない気がした。


赤いしおりを引き出しの奥へ入れる。


その瞬間。


引き出しの中から、冷たい手が伸びた。


掴まれた。


手首を。


莉央は叫びそうになった。


でも、歯を食いしばった。


手は、しおりだけを取った。


莉央の手首を離す。


引き出しが、ゆっくり閉じた。


かちん。


図書館の貸出処理みたいな音。


館内放送が流れた。


『七番席、返却済み』


『ご利用ありがとうございました』


目の前の壁に、細い線が入った。


ガラス戸だった。


入口が戻っていた。


返却箱もある。


莉央は荷物を持って走った。


振り返らなかった。


階段を駆け上がる。


扉を開ける。


そこは、一階の受付横だった。


さっきの司書の女性はいない。


別の若い職員が驚いた顔でこちらを見ている。


「大丈夫ですか?」


「地下から」


言いかけて、止まった。


地下?


若い職員は首を傾げた。


「地下?」


その反応で、全部分かった気がした。


「……いえ、何でもないです」


莉央は図書館を出た。


外はまだ明るかった。


夏の夕方。


車の音。

自転車のベル。

遠くの子どもの声。


普通の世界だった。


スマホを見る。


芽衣からのLINEが大量に来ていた。



【LINE】


17:12 芽衣

出られた?


17:12 芽衣

莉央


17:13 芽衣

返事して


17:14 芽衣

既読ついてるのに返事ないの怖い


17:15 芽衣

生きてる?


17:18 莉央

出た


17:18 芽衣

よかった


17:18 芽衣

今どこ


17:19 莉央

図書館の外


17:19 芽衣

もう帰れ


17:20 莉央

課題終わってない


17:20 芽衣

そこじゃない



翌日。


莉央はもう一度、市立図書館へ行った。


正直、行きたくなかった。


でも、確かめたかった。


受付で聞いた。


「この図書館って、地下自習室ありますか?」


職員は不思議そうな顔をした。


「地下は書庫だけですね。一般の方は入れません」


「自習室は?」


「三階だけです」


「地下に席は」


「ありません」


分かっていた。


でも、聞くとやっぱり怖かった。


「赤いしおりって、貸し出しありますか?」


「しおりですか?」


「利用票みたいな」


「そういうものは使っていませんね」


職員は少し困ったように笑った。


「何かお探しですか?」


「いえ」


莉央は首を振った。


「返せたなら、大丈夫です」


自分で言って、変な言い方だと思った。


職員も少し変な顔をした。



家に帰って、ノートパソコンを開いた。


昨日のレポートファイル。


怖かったけれど、確認した。


怪しい一文は削除したはず。


なのに、最後のページに、知らない文章が残っていた。


次回延長はできません。


その下に、別の筆跡で小さく。


七番席は、空けておきます。


莉央はすぐに消した。


でも、消しても消しても、保存し直すたびに戻ってくる。


仕方なく、ファイルごと削除した。


課題は最初からやり直し。


最悪。


怪異より課題の方が地味に痛い。

現実、本当に容赦がない。


その夜。


莉央は机で勉強しようとした。


自宅のエアコンは、修理業者が来て直してくれた。


部屋は涼しい。


自分の机。


自分の椅子。


安全なはずだった。


でも、ノートを開くと、ページの端に赤い線が引かれていた。


しおりの形。


細く、赤い。


その横に、小さな文字。


返却期限 十七時


莉央はノートを閉じた。


それ以来、図書館の地下へ行こうとは思わない。


そもそも地下自習室なんて存在しない。


分かっている。


でも、市立図書館の前を通ると、たまに入口横のガラスに地下へ続く階段が映る。


実際にはない階段。


その下から、ページをめくる音がする。


かさ。


かさ。


そして、司書らしき女性の声が、耳元でやさしく言う。


「お席をお探しですか」


私は、そのたびに首を振る。


探していません。


必要ありません。


席は、自分の家にあります。


そう心の中で答える。


声に出すと、残りそうだから。

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