まだ使えます
夜のマンションのゴミ捨て場は、あまり行きたい場所ではない。
昼間ならまだいい。
明るいし、管理人さんもいる。
でも夜は違う。
照明は白くて冷たい。
扉は重い。
中は少し湿った匂いがする。
そこに生活の残骸が詰まっている。
燃えるゴミ。
空き缶。
段ボール。
誰かが食べた弁当の容器。
誰かが飲み終えたペットボトル。
生活って、捨てる時だけ妙に正直になる。
人間、ゴミ袋の中身だけは嘘をつけない。
嫌な誠実さである。
相原美帆は、その日も仕事帰りだった。
時刻は二十三時すぎ。
明日の朝に出せばいいのに、部屋にゴミを置いておくのが嫌で、寝る前に出してしまおうと思った。
マンションの一階。
駐輪場の奥。
灰色の鉄扉の向こうが、ゴミ捨て場だった。
美帆は鍵を開けて中に入った。
照明が、じじ、と鳴ってつく。
そこで、足を止めた。
奥に、椅子があった。
木の椅子。
古いダイニングチェアみたいなもの。
座面は少し破れていて、脚の一本にガムテープが巻かれている。
その横には、木製ベッドの骨組み。
解体されている。
長い板。
すのこ。
ネジの外れたフレーム。
細い木材の端材。
誰かが引っ越しでもしたのだろう。
ただ、粗大ごみのシールは貼られていなかった。
「うわ、ルール違反……」
美帆は小さく呟いた。
粗大ごみを勝手に置く人。
どこのマンションにもいる。
自分の都合だけで世界を運用している人類の一種である。
本当に滅びてほしい。せめて回収券を買え。
美帆はゴミ袋を指定場所に置いて、すぐ出た。
その時、なぜか椅子が気になった。
椅子は、壁を向いていた。
誰かが座るためではなく。
壁に向かって、反省させられているみたいに。
⸻
【LINE】
23:18 美帆
ゴミ捨て場に変な粗大ごみあった
23:18 由衣
どんな
23:19 美帆
椅子とベッドの骨組みと木材
23:19 由衣
引っ越し?
23:20 美帆
たぶん
でもシール貼ってない
23:20 由衣
民度
23:21 美帆
椅子が壁向いててちょっと嫌だった
23:21 由衣
椅子にも反省期間あるんだ
23:22 美帆
それはちょっと笑った
⸻
翌朝。
出勤前に、掲示板に貼り紙が出ていた。
粗大ごみは指定日に、処理券を貼って出してください。
無断での放置はおやめください。
管理人の榊さんが貼ったのだろう。
美帆は、まあ当然だと思った。
その日の夜。
またゴミを捨てに行った。
本当は行きたくなかった。
でも、ペットボトルを出し忘れていた。
鉄扉を開ける。
照明がつく。
そして、美帆は固まった。
椅子の位置が変わっていた。
昨日は壁を向いていた。
今日は、入口を向いていた。
まるで、誰かが入ってくるのを待っているみたいに。
ベッドの骨組みも、昨日より整っていた。
バラバラだった板が、四角く並んでいる。
すのこが上に置かれ、寝台の形になっていた。
端材は、床に細く並べられている。
ちょうど、畳の縁みたいに。
いや。
部屋の境界線みたいに。
ゴミ捨て場の奥に、小さな四角い空間ができていた。
椅子。
ベッド。
木材の線。
そこだけ、誰かの部屋みたいだった。
「……誰がやったの」
声が響いた。
返事はない。
当たり前だ。
ゴミ捨て場だから。
返事があったら、それはそれで最悪だ。
美帆はペットボトルを置いて、急いで出た。
⸻
【LINE】
23:06 美帆
昨日の粗大ごみ
位置変わってた
23:06 由衣
管理人さんが動かしたんじゃない?
23:07 美帆
たぶんそうなんだけど
なんか部屋みたいになってた
23:07 由衣
部屋?
23:08 美帆
椅子とベッドと木材で
ゴミ捨て場の奥に四角作ってる
23:08 由衣
ホームレス対策とか?
23:09 美帆
そんな綺麗に組む?
23:09 由衣
いや嫌だなそれ
⸻
次の日の朝。
美帆は管理人室の前で榊さんに会った。
六十代くらいの男性。
穏やかだが、いつも少し眠そうな顔をしている。
「おはようございます」
「おはようございます。あの、ゴミ捨て場の粗大ごみって」
榊さんは、少しだけ嫌そうな顔をした。
「困ってるんですよ。誰が出したのか分からなくて」
「昨日、動かしました?」
「え?」
「椅子とか、ベッドの骨組みとか」
榊さんは眉を寄せた。
「動かしてませんよ。重いですし」
「でも、位置が変わってました」
「誰かが夜中に入ったのかな」
榊さんはそう言った。
でも、その声にはあまり自信がなかった。
「防犯カメラは?」
「あります。ただ、ゴミ捨て場の中までは映らないんです」
「入口は?」
「見てみます」
そこまで話して、美帆は少し安心した。
人の仕業。
それならまだいい。
いや、よくはない。
深夜にゴミ捨て場で家具を組む人間も十分怖い。
でも、相手が生きているなら通報できる。
死んでるかどうか分からないものより、行政の管轄に置けるだけマシである。
⸻
その日の夜。
美帆はゴミを出さなかった。
でも、気になってしまった。
気になった時点で負けている。
行かなければいいのに、人間はわざわざ怖いものを確認しに行く。
スマホを持って、一階へ降りた。
鉄扉の前に立つ。
中から、音がした。
ぎい。
木が軋む音。
それから。
す。
椅子を床に引く音。
美帆は、手を止めた。
扉は閉まっている。
鍵もかかっている。
でも、中で何かが動いている。
す。
す。
す。
椅子を引く音が、少しずつ近づいてくる。
美帆は後ずさった。
その瞬間、スマホが震えた。
由衣からだった。
⸻
【LINE】
22:48 由衣
今日ゴミ捨て場見に行ってないよね?
22:48 美帆
今前にいる
22:48 由衣
なぜ行く
22:49 美帆
音がする
22:49 由衣
帰れ
22:49 美帆
椅子引く音
22:50 由衣
帰れって
22:50 美帆
中で誰かいるかも
22:50 由衣
だったらなおさら帰れ
⸻
正しい。
完全に正しい。
由衣はだいたい雑だが、危機判断はまともだった。
美帆は部屋に戻ろうとした。
その時、ゴミ捨て場の扉の内側から、声がした。
「まだ使えます」
低い声ではない。
高い声でもない。
人の声というより、木材が擦れる音に近かった。
美帆は動けなかった。
「まだ使えます」
もう一度。
今度は、扉のすぐ向こうから。
美帆は走った。
エレベーターは待てなかった。
階段で三階まで上がる。
部屋に入り、鍵を閉める。
チェーンもかける。
息が切れていた。
スマホを見る。
⸻
【LINE】
22:54 由衣
戻った?
22:54 美帆
戻った
22:54 由衣
何かあった?
22:55 美帆
声した
22:55 由衣
誰の
22:55 美帆
まだ使えますって
22:56 由衣
それ粗大ごみ側の主張じゃん
22:56 美帆
笑えない
22:57 由衣
ごめん
でも本当に管理人さんに言いな
⸻
翌朝。
掲示板の貼り紙が変わっていた。
昨日まで。
粗大ごみは指定日に、処理券を貼って出してください。
だった。
その下に、赤いペンで一行書き足されていた。
まだ使えます。
美帆は、息を止めた。
文字は細い。
人間の字に見える。
けれど、妙に曲がっている。
木目のように、線が震えている。
すぐ管理人室へ行った。
榊さんも貼り紙を見て、顔をしかめていた。
「誰がこんなことを」
「昨日、声を聞きました」
「声?」
「ゴミ捨て場の中から」
榊さんは、すぐには笑わなかった。
それが逆に怖かった。
「実は、カメラを確認したんです」
「何か映ってました?」
「誰も入っていません」
「じゃあ」
「でも、朝になると位置が変わっている」
榊さんは低い声で言った。
「業者を呼びます。今日中に回収してもらいます」
「粗大ごみシールなしで?」
「管理組合負担で処分します。危ないので」
その判断の早さに、美帆は少し安心した。
大人がまともに機能している。
ありがたい。
人間社会、たまにちゃんと動くと感動する。
普段どれだけ信用していないんだという話だが。
⸻
その日の昼。
美帆は在宅勤務だった。
仕事中、管理会社から全戸宛てのメールが届いた。
ゴミ置き場内の不法投棄物について、本日午後に撤去作業を行います。
撤去完了までゴミ置き場の使用をお控えください。
よかった。
そう思った。
しかし、十五時過ぎ。
メールがもう一通来た。
撤去作業中に一部木材の破損がありましたが、安全確認済みです。
本日十七時以降、通常通りご利用いただけます。
破損。
木材の破損。
美帆は、妙にその言葉が引っかかった。
十七時半。
仕事を終えたあと、由衣からLINEが来た。
⸻
【LINE】
17:36 由衣
粗大ごみ回収された?
17:36 美帆
メールではされたっぽい
17:37 由衣
見に行くなよ
17:37 美帆
行かない
17:37 由衣
ほんと?
17:38 美帆
行かないって
17:38 由衣
昨日行った人が言うと重みゼロ
⸻
美帆は行かなかった。
本当に。
その夜は部屋から出なかった。
ただ、二十三時を過ぎた頃。
床の下から音がした。
ぎい。
木が軋む音。
一階のゴミ捨て場から聞こえるはずがない。
美帆の部屋は三階だ。
しかも、床下から音がする。
ぎい。
ぎい。
次に。
す。
椅子を引く音。
美帆はベッドの上で固まった。
木製ベッドではない。
自分のベッドはパイプベッドだ。
なのに、部屋のどこかで木が軋む。
す。
す。
す。
椅子が近づく音。
美帆はスマホを握った。
⸻
【LINE】
23:21 美帆
部屋で音する
23:21 由衣
何の
23:22 美帆
木が軋む音
椅子引く音
23:22 由衣
部屋出て
23:22 美帆
廊下?
23:23 由衣
人のいるとこ
コンビニでもいい
23:23 美帆
怖くて玄関行けない
23:24 由衣
電話する
23:24 美帆
音出したくない
23:24 由衣
じゃあLINE続けて
⸻
美帆は部屋の電気を全部つけた。
リビング。
キッチン。
洗面所。
廊下。
音は止まった。
少し安心して、玄関へ向かう。
靴を履こうとして、足が止まった。
玄関のたたきに、小さな木材の端材が落ちていた。
長さ十五センチくらい。
角が少し削れている。
見覚えがあった。
ゴミ捨て場にあった端材。
その一つ。
美帆は触れなかった。
端材の表面に、細い字が書かれていた。
鉛筆でもペンでもない。
焼き付いたような字。
次はここ
美帆は、玄関を飛び出した。
そのまま階段を降り、外へ出た。
コンビニまで走った。
夜のコンビニの明かりが、あんなにありがたく見えたのは初めてだった。
⸻
その夜、美帆は由衣の家に泊まった。
翌朝、管理人の榊さんと一緒に自室へ戻った。
玄関にあった端材は、もうなかった。
美帆が見間違えたのかと思った。
でも、たたきの隅に細かい木くずが残っていた。
榊さんはそれを見て、無言で管理会社へ電話した。
数日後、防犯カメラの映像を確認した結果が伝えられた。
誰も美帆の部屋には入っていない。
ゴミ捨て場の家具は、確かに業者が回収した。
椅子も。
木製ベッドの骨組みも。
木材の端材も。
全部。
ただ、一つだけ変なことがあった。
業者が回収車に積み込む時、木製ベッドの骨組みの一部が割れた。
その破片が一本、見当たらなくなったらしい。
「小さい端材なので、どこかに紛れたのかもしれません」
管理会社の人はそう言った。
どこか。
その“どこか”が、美帆の玄関だったのだろうか。
⸻
その後、美帆はしばらくゴミ捨て場へ行けなかった。
ゴミは朝、管理人さんがいる時間に出した。
夜には絶対行かない。
椅子も買い替えた。
古い木の棚も処分した。
部屋に木製家具があるだけで、落ち着かなくなった。
数週間たって、ようやく少し忘れかけた頃。
マンションの掲示板に、新しい貼り紙が出た。
ゴミ置き場に家具類を放置しないでください。
美帆は、それを見て固まった。
また誰かが出したのか。
いや、違う。
貼り紙の下に、小さく一行書かれていた。
印刷ではない。
赤いペンでもない。
木目のように震えた、細い字。
座るものだけ、足りません。
その日の夜。
美帆の部屋の玄関チャイムが、一度だけ鳴った。
モニターを見る。
誰もいない。
でも、画面の下の方に、少しだけ映っていた。
古い木の椅子の脚。
一本だけ。
すぐに画面は暗くなった。
録画には残っていなかった。
今でも、美帆はゴミ捨て場の前を通る時、奥を見ない。
見れば、そこにまた小さな部屋ができている気がするから。
椅子。
木製ベッドの骨組み。
木材の端材。
捨てられたものたちが、勝手に集まって。
誰かに使われるのを待っている。
そして、たぶん。
部屋というものは、家具だけでは完成しない。
そこに座る人がいる。
そこに眠る人がいる。
そこに住む人がいる。
そうなって、初めて部屋になる。
美帆は、それに気づいてから、余計に怖くなった。
だって、あの時。
ゴミ捨て場の奥に置かれた椅子は。
ずっと入口を向いていた。
まるで、次に入ってくる人を。
座らせるために。




