↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
怖い話_続  作者: 三葉


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

22/27

ラクダ横、五時二十分

鳥取へ行こうと思った理由は、かなり雑だった。


夏休み。


予定なし。


金もあまりない。


けれど、どこにも行かなかったと言うのも少し寂しい。


そういう、薄い焦りがあった。


藤井遥斗。


二十歳。


社会学部の二回生。


ゼミもバイトも中途半端で、就活はまだ遠いふりをしている。


やるべきことがぼんやり見えてくると、なぜか遠くの景色を見たくなる。


現実逃避に交通費を払う。


実に経済的に愚かな生き物である。


俺はスマホで適当に旅先を探した。


砂丘。


海。


ラクダ。


その組み合わせが、少し面白かった。


日本にいるのに、どこか違う国の入口みたいで。


だから、鳥取方面へ行くことにした。


⸻


昼過ぎに着いた砂丘は、思っていたより広かった。


暑い。


風が強い。


靴の中に砂が入る。


観光客はそれなりにいて、みんな同じように写真を撮っていた。


ラクダもいた。


近くで見ると、意外と大きい。


目が静かで、どこか諦めたような顔をしている。


あの顔は、観光地で働く生き物の顔だと思った。


人間もバイト終わりには似たような目をしている。


俺はラクダに乗らなかった。


料金を見て、今回は眺めるだけでいいと思った。


売店で水を買い、砂丘のパンフレットをもらった。


その時、パンフレットの間に小さな紙が挟まっていた。


ラクダ乗り場の整理券みたいなものだった。


⸻


朝の回


五時二十分


ラクダ横


⸻


朝の回。


そんなものがあるのかと思った。


売店の人に聞こうか迷ったが、レジが混んでいたのでやめた。


どうせ間違って挟まったのだろう。


俺は整理券をパンフレットに戻した。


その時点では、少し変だと思っただけだった。


⸻


その日の宿は、砂丘から少し離れた古い旅館だった。


ネット予約で見つけた。


素泊まり。


一泊三千円台。


口コミは少ない。


建物は古そう。


ただ、駅前のホテルより安かった。


学生の財布は、怪しさより安さに負ける。


これはかなり危険な性質だ。


旅館は、細い道を入った先にあった。


二階建て。


木造。


玄関に古い提灯。


看板はあるが、宿名はかなり薄れていた。


実在の場所というより、昔の観光案内から残った建物のように見えた。


俺が玄関に入ると、奥から女将さんが出てきた。


六十代くらい。


小柄で、声が柔らかい。


「藤井様ですね。お待ちしておりました」


「はい。今日一泊で」


「砂丘は見られました?」


「はい、少しだけ」


「ラクダは?」


「ああ、見ました。乗ってはいないです」


女将さんは、そこで少しだけ笑った。


「朝の方が、ええですよ。砂も締まりますし、人も少ないですから」


「朝ですか」


「五時二十分でしたね」


俺は、反射的に顔を上げた。


五時二十分。


パンフレットに挟まっていた整理券と同じ時刻だった。


「何がですか」


「いえ。朝の砂丘の話です」


女将さんは、何も変なことを言っていないような顔をしていた。


俺も、それ以上聞かなかった。


ただ、胸の奥が少しざわついた。


⸻


部屋は二階の奥だった。


六畳。


畳。


低い机。


古いテレビ。


窓の外には細い路地と、黒い屋根が見える。


海も砂丘も見えない。


古い旅館らしい部屋だった。


下駄箱には、先客のものらしい砂が少し残っていた。


まあ、砂丘近くの宿なら普通かもしれない。


俺はスニーカーを脱ぎ、部屋へ上がった。


畳は少し湿っていた。


エアコンは動いたが、音が大きい。


壁には、昔の観光ポスターが貼ってあった。


砂丘。


ラクダ。


夕日。


そのポスターのラクダの横に、小さな人影が印刷されていた。


顔は分からない。


それなのに、なぜかこちらを見ている気がした。


いや、ただのポスターだ。


俺はそう思うことにした。


⸻


【LINE】


18:41 遥斗

宿着いた


18:41 圭吾

どう?


18:42 遥斗

めちゃくちゃ昭和

悪くはないけど、ちょっと古い


18:42 圭吾

安宿あるあるだよな


18:43 遥斗

女将さんが朝の砂丘すすめてきた

五時二十分って言われた


18:43 圭吾

予約したん?


18:44 遥斗

してない

でもパンフにラクダの整理券みたいなの挟まってた


18:45 圭吾

宿側の予定を、自分の予定として確定しない方がいいと思う


⸻


圭吾は、変な言い方をした。


行くな、とか。


断れ、とか。


そういう言い方ではない。


宿側の予定を、自分の予定として確定しない。


大学で社会調査の授業を受けすぎた人間みたいな表現だった。


でも、不思議と腑に落ちた。


今、俺は自分で決めていない予定に、少しずつ乗せられている。


五時二十分。


ラクダ横。


朝の砂丘。


それが、いつの間にか俺の旅程になりかけている。


俺はパンフレットを机の上に置いた。


整理券は挟んだままだ。


触らないことにした。


⸻


夕飯は近くの定食屋で済ませた。


旅館に戻ったのは二十時過ぎ。


玄関に入ると、番頭のような男がいた。


三十代くらい。


旅館の人なのか、家族なのかは分からない。


男は俺の顔を見ると、すぐに言った。


「二階奥のお客様ですね」


「あ、はい」


「明朝は冷えますから、上着を持たれた方がいいです」


「明朝?」


「砂丘です」


「いや、まだ行くとは」


男はそこで、少し首を傾げた。


「行かれない場合は、靴はそのままで結構です」


靴。


そのまま。


何の話だろうと思った。


聞き返そうとした時、奥から女将さんが出てきた。


「お風呂、今なら空いてますよ」


番頭風の男は、そこで黙った。


俺は風呂へ向かった。


小さな浴場だった。


湯は熱い。


窓の外は暗い。


湯船につかっている間も、さっきの言葉が頭に残った。


行かれない場合は、靴はそのままで結構です。


観光案内の言葉ではない。


受付処理の言葉でもない。


靴で何を判断するのか。


俺は鳥肌が立った。


湯に入っているのに、腕だけが冷たかった。


⸻


部屋へ戻ると、下駄箱の砂が増えていた。


俺のスニーカーの周りに、細かい砂が落ちている。


定食屋へ行く時に入った砂かもしれない。


砂丘を歩いた靴だ。


それなら説明はつく。


でも、砂はスニーカーの外ではなく、つま先の前にだけ集まっていた。


まるで、誰かが靴の向きを確かめるために、そこへ線を引いたみたいに。


俺は靴を動かさなかった。


動かすと、意思表示になる気がした。


そう考えた自分が嫌だった。


旅館のルールを、少しずつ信じ始めている。


⸻


スマホに通知が来た。


予約アプリだった。


宿からのメッセージ。


⸻


21:36 旅館

明朝のご案内について

集合扱いを変更される場合は、靴の向きを変えないでください。


21:37 旅館

五時二十分

ラクダ横

おひとり様


⸻


俺は画面を見つめた。


集合扱い。


変更される場合。


靴の向きを変えないでください。


意味が分からない。


予約アプリで、こんな文が来るのか。


俺は返信欄を開いた。


朝の案内は予約していません。不要です。


そう打ちかけた。


だが、送信する直前で止まった。


圭吾の言葉を思い出した。


宿側の予定を、自分の予定として確定しない方がいい。


「不要です」と返すことも、朝の案内が存在する前提になる。


俺は返信しなかった。


スクショだけ撮った。


そして圭吾に送った。


⸻


【LINE】


21:41 遥斗

これ見て


21:42 圭吾

何これ


21:42 遥斗

宿から来た


21:43 圭吾

予約アプリのメッセージ?


21:43 遥斗

そう


21:44 圭吾

返信で予定を成立させない方がいい

宿の言葉に乗らずに、外の人間に状況を渡して


21:44 遥斗

外の人間?


21:45 圭吾

駅前のホテルとか交番とか

理由を旅行トラブルにしていいから


⸻


圭吾は、やはり直接的には言わなかった。


でも、意味は分かった。


この旅館の中だけで判断するな。


外へ情報を出せ。


俺はスマホを握ったまま、部屋の外の音を聞いた。


廊下は静かだった。


ただ、下の階から小さな声がした。


女将さんと、番頭風の男。


何を話しているのかは分からない。


けれど、ときどき単語だけが聞こえる。


「二階奥」


「大学生」


「一人」


「五時二十分」


心臓が速くなった。


聞き間違いかもしれない。


旅館の人が宿泊客について話すのは、ありえる。


明日の朝食やチェックアウト確認かもしれない。


でも俺は素泊まりだ。


朝食はない。


砂丘案内も頼んでいない。


俺は立ち上がり、部屋の明かりを消した。


暗い方が、廊下の様子が見えると思った。


障子の隙間から、下駄箱の辺りが見える。


そこに、人影があった。


番頭風の男だった。


俺の靴を見ている。


しゃがんでいる。


手に何か持っている。


細い木の札のようなもの。


男はそれを、靴の横に置いた。


そして、靴の向きを少しだけ直した。


外向きに。


玄関へ向かう形に。


俺は息を止めた。


男は小さな声で言った。


「外向き。朝、出る」


その言葉で、背中が冷えた。


靴の向きで、俺の予定を読んでいる。


いや、読んでいるのではない。


決めている。


俺はその場で動けなかった。


男が廊下を去ってから、下駄箱を見に行った。


靴の横に、小さな木札が置かれていた。


ラクダの形をしている。


首に細い紐。


そこに手書きの文字。


⸻


二階奥


男一名


ラクダ横


⸻


俺は木札に触らなかった。


触ったら、自分の札になる気がした。


こんなことを考えている時点で、もうかなり巻き込まれている。


そう分かっていても、体は動かなかった。


⸻


部屋へ戻ると、予約アプリにまた通知が来た。


⸻


22:18 旅館

靴向き確認済み

ご案内は継続扱いです。


22:18 旅館

お連れ様は先に砂丘へ出ています。


⸻


お連れ様。


俺は一人旅だ。


誰とも来ていない。


それなのに、その一文だけが異様に怖かった。


お連れ様。


誰のことだ。


ラクダか。


旅館の人か。


それとも、俺を朝そこへ連れていく誰かか。


俺はスマホだけを持った。


財布も持った。


荷物は置いていくことにした。


荷物をまとめる音を立てたくなかった。


靴は履かず、スリッパのまま部屋を出た。


廊下の奥に非常口の表示がある。


古い緑色のランプ。


そこから外階段へ出られるはずだった。


俺は下駄箱を見ないようにした。


靴を見れば、向きを直したくなる。


木札を退けたくなる。


でも、それもたぶん“変更”になる。


だから見ない。


非常口まで歩く。


足音を殺す。


廊下が長く感じた。


一階から、また声がした。


「靴、外向きやったね」


「うん。砂、入れといた」


「朝なら足跡、残るから」


足跡。


砂。


ラクダ横。


五時二十分。


単語だけが、頭の中でつながっていく。


俺は非常口を開けた。


外の湿った空気が入ってきた。


夏の夜のにおいだった。


それだけで、少し救われた。


⸻


旅館の外へ出ると、雨上がりだった。


道は濡れている。


遠くで車の音がする。


俺はスリッパのまま、細い道を走った。


駅前までは遠くないはずだった。


途中、コンビニの明かりが見えた。


そこへ入った瞬間、膝から力が抜けそうになった。


店員が普通に「いらっしゃいませ」と言った。


それだけで泣きそうになった。


普通の声。


普通の照明。


普通のレジ音。


人間社会の雑な明るさが、こんなにありがたいとは思わなかった。


俺はコンビニの前からタクシーを呼んだ。


駅前のビジネスホテルに空きがあった。


事情は詳しく話さなかった。


「宿でトラブルがあって、急に移りたいです」


それだけで、フロントの人は対応してくれた。


現実は、ちゃんとした言い方をすれば、案外すぐ助けになる。


最初からそうすればよかった。


でも、怖い場所の中にいる時は、その普通の手続きにたどり着けない。


それが一番怖い。


⸻


翌朝。


旅館に電話した。


荷物を取りに行く必要があったからだ。


電話に出たのは女将さんだった。


声は昨日と同じで、穏やかだった。


「あら、藤井様。お部屋に戻られなかったので心配しておりました」


「体調が悪くなって、駅前に移りました」


「そうでしたか。それは大変でしたね」


「朝の案内って、何だったんですか」


「朝の案内?」


女将さんは、本当に分からないという声だった。


「砂丘の。五時二十分の」


「うちは、そういうご案内はしておりませんよ」


「予約アプリでメッセージが来てます」


「確認いたしますね」


しばらく待たされた。


女将さんは戻ってきて、困ったように言った。


「こちらの送信履歴にはありません。アプリの不具合かもしれませんね」


不具合。


そう言われると、急に全部が薄くなる。


靴を見ていた男。


ラクダの木札。


廊下の声。


砂。


メッセージ。


全部、俺の勘違いだったのかもしれない。


古い旅館で不安になっただけ。


一人旅で神経質になっただけ。


そう思えなくもなかった。


荷物は、旅館の人が駅前ホテルまで届けてくれた。


番頭風の男ではなく、女将さんが直接来た。


「昨夜はご不安にさせてしまって、すみませんでした」


丁寧だった。


普通だった。


請求も、素泊まり一泊分だけ。


追加料金はない。


俺は礼を言った。


その場では、それ以上何も言えなかった。


⸻


大阪に戻ってから、圭吾に全部話した。


圭吾は黙って聞いていた。


「で、その整理券は?」


「捨てたと思う」


「思う?」


「パンフレットごと、旅館に置いてきたはず」


俺はそう言った。


その夜、荷物を整理した。


リュックの底に砂が少し入っていた。


砂丘を歩いたから、当然だ。


服にも靴下にも砂がついていた。


それは普通だった。


けれど、スニーカーの中から、小さな紙が出てきた。


ラクダ乗り場の整理券。


折れも濡れもしていない。


きれいな状態だった。


表には、


⸻


朝の回


五時二十分


ラクダ横


⸻


裏には、昨日はなかった文字があった。


⸻


欠席扱いにはしていません。


⸻


俺はしばらく動けなかった。


何だったんだろう。


旅館の人の悪戯。


観光案内の押し売り。


アプリの不具合。


俺の勘違い。


砂丘で挟まった紙を、自分で持ち帰っていただけ。


説明はできる。


かなりできる。


でも、欠席扱いにはしていません、という文だけが説明できない。


そもそも、俺は出席した覚えがない。


何に。


誰の案内に。


誰の集合に。


それ以来、旅行予約アプリを開くのが少し嫌になった。


たまに通知欄に、見覚えのない未読が一瞬だけ出る。


開くと消える。


でも、その一瞬だけ、文面が読めることがある。


⸻


朝のご案内は未了です。


⸻


今も、あの整理券は机の引き出しに入れてある。


捨てたこともある。


でも戻る。


戻るたび、裏の文字が少し濃くなる。


そして雨上がりの朝だけ、玄関に少し砂が落ちている。


大阪の部屋なのに。


砂丘なんて近くにないのに。


その砂の上に、細い影が伸びていることがある。


人の影ではない。


ラクダの首のようにも見える。


でも、よく見ると違う。


誰かが、背中を丸めて立っている影に見える。


俺は見直さない。


見直せば、また予定が確定する気がする。


だから今も分からない。


あの旅館で何が起きていたのか。


人間の悪意だったのか。


ただの旅先の不安だったのか。


それとも、朝五時二十分の砂丘には、最初から俺の席が用意されていたのか。


分からないまま、整理券だけが残っている。


欠席扱いにはしていません。


その一文が、今でもずっと俺を待っている。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。