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怖い話_続  作者: 三葉


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22/25

ラクダ横、五時二十分

鳥取へ行こうと思った理由は、かなり雑だった。


夏休み。


予定なし。


金もあまりない。


けれど、どこにも行かなかったと言うのも少し寂しい。


そういう、薄い焦りがあった。


藤井遥斗。


二十歳。


社会学部の二回生。


ゼミもバイトも中途半端で、就活はまだ遠いふりをしている。


やるべきことがぼんやり見えてくると、なぜか遠くの景色を見たくなる。


現実逃避に交通費を払う。


実に経済的に愚かな生き物である。


俺はスマホで適当に旅先を探した。


砂丘。


海。


ラクダ。


その組み合わせが、少し面白かった。


日本にいるのに、どこか違う国の入口みたいで。


だから、鳥取方面へ行くことにした。



昼過ぎに着いた砂丘は、思っていたより広かった。


暑い。


風が強い。


靴の中に砂が入る。


観光客はそれなりにいて、みんな同じように写真を撮っていた。


ラクダもいた。


近くで見ると、意外と大きい。


目が静かで、どこか諦めたような顔をしている。


あの顔は、観光地で働く生き物の顔だと思った。


人間もバイト終わりには似たような目をしている。


俺はラクダに乗らなかった。


料金を見て、今回は眺めるだけでいいと思った。


売店で水を買い、砂丘のパンフレットをもらった。


その時、パンフレットの間に小さな紙が挟まっていた。


ラクダ乗り場の整理券みたいなものだった。



朝の回


五時二十分


ラクダ横



朝の回。


そんなものがあるのかと思った。


売店の人に聞こうか迷ったが、レジが混んでいたのでやめた。


どうせ間違って挟まったのだろう。


俺は整理券をパンフレットに戻した。


その時点では、少し変だと思っただけだった。



その日の宿は、砂丘から少し離れた古い旅館だった。


ネット予約で見つけた。


素泊まり。


一泊三千円台。


口コミは少ない。


建物は古そう。


ただ、駅前のホテルより安かった。


学生の財布は、怪しさより安さに負ける。


これはかなり危険な性質だ。


旅館は、細い道を入った先にあった。


二階建て。


木造。


玄関に古い提灯。


看板はあるが、宿名はかなり薄れていた。


実在の場所というより、昔の観光案内から残った建物のように見えた。


俺が玄関に入ると、奥から女将さんが出てきた。


六十代くらい。


小柄で、声が柔らかい。


「藤井様ですね。お待ちしておりました」


「はい。今日一泊で」


「砂丘は見られました?」


「はい、少しだけ」


「ラクダは?」


「ああ、見ました。乗ってはいないです」


女将さんは、そこで少しだけ笑った。


「朝の方が、ええですよ。砂も締まりますし、人も少ないですから」


「朝ですか」


「五時二十分でしたね」


俺は、反射的に顔を上げた。


五時二十分。


パンフレットに挟まっていた整理券と同じ時刻だった。


「何がですか」


「いえ。朝の砂丘の話です」


女将さんは、何も変なことを言っていないような顔をしていた。


俺も、それ以上聞かなかった。


ただ、胸の奥が少しざわついた。



部屋は二階の奥だった。


六畳。


畳。


低い机。


古いテレビ。


窓の外には細い路地と、黒い屋根が見える。


海も砂丘も見えない。


古い旅館らしい部屋だった。


下駄箱には、先客のものらしい砂が少し残っていた。


まあ、砂丘近くの宿なら普通かもしれない。


俺はスニーカーを脱ぎ、部屋へ上がった。


畳は少し湿っていた。


エアコンは動いたが、音が大きい。


壁には、昔の観光ポスターが貼ってあった。


砂丘。


ラクダ。


夕日。


そのポスターのラクダの横に、小さな人影が印刷されていた。


顔は分からない。


それなのに、なぜかこちらを見ている気がした。


いや、ただのポスターだ。


俺はそう思うことにした。



【LINE】


18:41 遥斗

宿着いた


18:41 圭吾

どう?


18:42 遥斗

めちゃくちゃ昭和

悪くはないけど、ちょっと古い


18:42 圭吾

安宿あるあるだよな


18:43 遥斗

女将さんが朝の砂丘すすめてきた

五時二十分って言われた


18:43 圭吾

予約したん?


18:44 遥斗

してない

でもパンフにラクダの整理券みたいなの挟まってた


18:45 圭吾

宿側の予定を、自分の予定として確定しない方がいいと思う



圭吾は、変な言い方をした。


行くな、とか。


断れ、とか。


そういう言い方ではない。


宿側の予定を、自分の予定として確定しない。


大学で社会調査の授業を受けすぎた人間みたいな表現だった。


でも、不思議と腑に落ちた。


今、俺は自分で決めていない予定に、少しずつ乗せられている。


五時二十分。


ラクダ横。


朝の砂丘。


それが、いつの間にか俺の旅程になりかけている。


俺はパンフレットを机の上に置いた。


整理券は挟んだままだ。


触らないことにした。



夕飯は近くの定食屋で済ませた。


旅館に戻ったのは二十時過ぎ。


玄関に入ると、番頭のような男がいた。


三十代くらい。


旅館の人なのか、家族なのかは分からない。


男は俺の顔を見ると、すぐに言った。


「二階奥のお客様ですね」


「あ、はい」


「明朝は冷えますから、上着を持たれた方がいいです」


「明朝?」


「砂丘です」


「いや、まだ行くとは」


男はそこで、少し首を傾げた。


「行かれない場合は、靴はそのままで結構です」


靴。


そのまま。


何の話だろうと思った。


聞き返そうとした時、奥から女将さんが出てきた。


「お風呂、今なら空いてますよ」


番頭風の男は、そこで黙った。


俺は風呂へ向かった。


小さな浴場だった。


湯は熱い。


窓の外は暗い。


湯船につかっている間も、さっきの言葉が頭に残った。


行かれない場合は、靴はそのままで結構です。


観光案内の言葉ではない。


受付処理の言葉でもない。


靴で何を判断するのか。


俺は鳥肌が立った。


湯に入っているのに、腕だけが冷たかった。



部屋へ戻ると、下駄箱の砂が増えていた。


俺のスニーカーの周りに、細かい砂が落ちている。


定食屋へ行く時に入った砂かもしれない。


砂丘を歩いた靴だ。


それなら説明はつく。


でも、砂はスニーカーの外ではなく、つま先の前にだけ集まっていた。


まるで、誰かが靴の向きを確かめるために、そこへ線を引いたみたいに。


俺は靴を動かさなかった。


動かすと、意思表示になる気がした。


そう考えた自分が嫌だった。


旅館のルールを、少しずつ信じ始めている。



スマホに通知が来た。


予約アプリだった。


宿からのメッセージ。



21:36 旅館

明朝のご案内について

集合扱いを変更される場合は、靴の向きを変えないでください。


21:37 旅館

五時二十分

ラクダ横

おひとり様



俺は画面を見つめた。


集合扱い。


変更される場合。


靴の向きを変えないでください。


意味が分からない。


予約アプリで、こんな文が来るのか。


俺は返信欄を開いた。


朝の案内は予約していません。不要です。


そう打ちかけた。


だが、送信する直前で止まった。


圭吾の言葉を思い出した。


宿側の予定を、自分の予定として確定しない方がいい。


「不要です」と返すことも、朝の案内が存在する前提になる。


俺は返信しなかった。


スクショだけ撮った。


そして圭吾に送った。



【LINE】


21:41 遥斗

これ見て


21:42 圭吾

何これ


21:42 遥斗

宿から来た


21:43 圭吾

予約アプリのメッセージ?


21:43 遥斗

そう


21:44 圭吾

返信で予定を成立させない方がいい

宿の言葉に乗らずに、外の人間に状況を渡して


21:44 遥斗

外の人間?


21:45 圭吾

駅前のホテルとか交番とか

理由を旅行トラブルにしていいから



圭吾は、やはり直接的には言わなかった。


でも、意味は分かった。


この旅館の中だけで判断するな。


外へ情報を出せ。


俺はスマホを握ったまま、部屋の外の音を聞いた。


廊下は静かだった。


ただ、下の階から小さな声がした。


女将さんと、番頭風の男。


何を話しているのかは分からない。


けれど、ときどき単語だけが聞こえる。


「二階奥」


「大学生」


「一人」


「五時二十分」


心臓が速くなった。


聞き間違いかもしれない。


旅館の人が宿泊客について話すのは、ありえる。


明日の朝食やチェックアウト確認かもしれない。


でも俺は素泊まりだ。


朝食はない。


砂丘案内も頼んでいない。


俺は立ち上がり、部屋の明かりを消した。


暗い方が、廊下の様子が見えると思った。


障子の隙間から、下駄箱の辺りが見える。


そこに、人影があった。


番頭風の男だった。


俺の靴を見ている。


しゃがんでいる。


手に何か持っている。


細い木の札のようなもの。


男はそれを、靴の横に置いた。


そして、靴の向きを少しだけ直した。


外向きに。


玄関へ向かう形に。


俺は息を止めた。


男は小さな声で言った。


「外向き。朝、出る」


その言葉で、背中が冷えた。


靴の向きで、俺の予定を読んでいる。


いや、読んでいるのではない。


決めている。


俺はその場で動けなかった。


男が廊下を去ってから、下駄箱を見に行った。


靴の横に、小さな木札が置かれていた。


ラクダの形をしている。


首に細い紐。


そこに手書きの文字。



二階奥


男一名


ラクダ横



俺は木札に触らなかった。


触ったら、自分の札になる気がした。


こんなことを考えている時点で、もうかなり巻き込まれている。


そう分かっていても、体は動かなかった。



部屋へ戻ると、予約アプリにまた通知が来た。



22:18 旅館

靴向き確認済み

ご案内は継続扱いです。


22:18 旅館

お連れ様は先に砂丘へ出ています。



お連れ様。


俺は一人旅だ。


誰とも来ていない。


それなのに、その一文だけが異様に怖かった。


お連れ様。


誰のことだ。


ラクダか。


旅館の人か。


それとも、俺を朝そこへ連れていく誰かか。


俺はスマホだけを持った。


財布も持った。


荷物は置いていくことにした。


荷物をまとめる音を立てたくなかった。


靴は履かず、スリッパのまま部屋を出た。


廊下の奥に非常口の表示がある。


古い緑色のランプ。


そこから外階段へ出られるはずだった。


俺は下駄箱を見ないようにした。


靴を見れば、向きを直したくなる。


木札を退けたくなる。


でも、それもたぶん“変更”になる。


だから見ない。


非常口まで歩く。


足音を殺す。


廊下が長く感じた。


一階から、また声がした。


「靴、外向きやったね」


「うん。砂、入れといた」


「朝なら足跡、残るから」


足跡。


砂。


ラクダ横。


五時二十分。


単語だけが、頭の中でつながっていく。


俺は非常口を開けた。


外の湿った空気が入ってきた。


夏の夜のにおいだった。


それだけで、少し救われた。



旅館の外へ出ると、雨上がりだった。


道は濡れている。


遠くで車の音がする。


俺はスリッパのまま、細い道を走った。


駅前までは遠くないはずだった。


途中、コンビニの明かりが見えた。


そこへ入った瞬間、膝から力が抜けそうになった。


店員が普通に「いらっしゃいませ」と言った。


それだけで泣きそうになった。


普通の声。


普通の照明。


普通のレジ音。


人間社会の雑な明るさが、こんなにありがたいとは思わなかった。


俺はコンビニの前からタクシーを呼んだ。


駅前のビジネスホテルに空きがあった。


事情は詳しく話さなかった。


「宿でトラブルがあって、急に移りたいです」


それだけで、フロントの人は対応してくれた。


現実は、ちゃんとした言い方をすれば、案外すぐ助けになる。


最初からそうすればよかった。


でも、怖い場所の中にいる時は、その普通の手続きにたどり着けない。


それが一番怖い。



翌朝。


旅館に電話した。


荷物を取りに行く必要があったからだ。


電話に出たのは女将さんだった。


声は昨日と同じで、穏やかだった。


「あら、藤井様。お部屋に戻られなかったので心配しておりました」


「体調が悪くなって、駅前に移りました」


「そうでしたか。それは大変でしたね」


「朝の案内って、何だったんですか」


「朝の案内?」


女将さんは、本当に分からないという声だった。


「砂丘の。五時二十分の」


「うちは、そういうご案内はしておりませんよ」


「予約アプリでメッセージが来てます」


「確認いたしますね」


しばらく待たされた。


女将さんは戻ってきて、困ったように言った。


「こちらの送信履歴にはありません。アプリの不具合かもしれませんね」


不具合。


そう言われると、急に全部が薄くなる。


靴を見ていた男。


ラクダの木札。


廊下の声。


砂。


メッセージ。


全部、俺の勘違いだったのかもしれない。


古い旅館で不安になっただけ。


一人旅で神経質になっただけ。


そう思えなくもなかった。


荷物は、旅館の人が駅前ホテルまで届けてくれた。


番頭風の男ではなく、女将さんが直接来た。


「昨夜はご不安にさせてしまって、すみませんでした」


丁寧だった。


普通だった。


請求も、素泊まり一泊分だけ。


追加料金はない。


俺は礼を言った。


その場では、それ以上何も言えなかった。



大阪に戻ってから、圭吾に全部話した。


圭吾は黙って聞いていた。


「で、その整理券は?」


「捨てたと思う」


「思う?」


「パンフレットごと、旅館に置いてきたはず」


俺はそう言った。


その夜、荷物を整理した。


リュックの底に砂が少し入っていた。


砂丘を歩いたから、当然だ。


服にも靴下にも砂がついていた。


それは普通だった。


けれど、スニーカーの中から、小さな紙が出てきた。


ラクダ乗り場の整理券。


折れも濡れもしていない。


きれいな状態だった。


表には、



朝の回


五時二十分


ラクダ横



裏には、昨日はなかった文字があった。



欠席扱いにはしていません。



俺はしばらく動けなかった。


何だったんだろう。


旅館の人の悪戯。


観光案内の押し売り。


アプリの不具合。


俺の勘違い。


砂丘で挟まった紙を、自分で持ち帰っていただけ。


説明はできる。


かなりできる。


でも、欠席扱いにはしていません、という文だけが説明できない。


そもそも、俺は出席した覚えがない。


何に。


誰の案内に。


誰の集合に。


それ以来、旅行予約アプリを開くのが少し嫌になった。


たまに通知欄に、見覚えのない未読が一瞬だけ出る。


開くと消える。


でも、その一瞬だけ、文面が読めることがある。



朝のご案内は未了です。



今も、あの整理券は机の引き出しに入れてある。


捨てたこともある。


でも戻る。


戻るたび、裏の文字が少し濃くなる。


そして雨上がりの朝だけ、玄関に少し砂が落ちている。


大阪の部屋なのに。


砂丘なんて近くにないのに。


その砂の上に、細い影が伸びていることがある。


人の影ではない。


ラクダの首のようにも見える。


でも、よく見ると違う。


誰かが、背中を丸めて立っている影に見える。


俺は見直さない。


見直せば、また予定が確定する気がする。


だから今も分からない。


あの旅館で何が起きていたのか。


人間の悪意だったのか。


ただの旅先の不安だったのか。


それとも、朝五時二十分の砂丘には、最初から俺の席が用意されていたのか。


分からないまま、整理券だけが残っている。


欠席扱いにはしていません。


その一文が、今でもずっと俺を待っている。


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