ラクダ横、五時二十分
鳥取へ行こうと思った理由は、かなり雑だった。
夏休み。
予定なし。
金もあまりない。
けれど、どこにも行かなかったと言うのも少し寂しい。
そういう、薄い焦りがあった。
藤井遥斗。
二十歳。
社会学部の二回生。
ゼミもバイトも中途半端で、就活はまだ遠いふりをしている。
やるべきことがぼんやり見えてくると、なぜか遠くの景色を見たくなる。
現実逃避に交通費を払う。
実に経済的に愚かな生き物である。
俺はスマホで適当に旅先を探した。
砂丘。
海。
ラクダ。
その組み合わせが、少し面白かった。
日本にいるのに、どこか違う国の入口みたいで。
だから、鳥取方面へ行くことにした。
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昼過ぎに着いた砂丘は、思っていたより広かった。
暑い。
風が強い。
靴の中に砂が入る。
観光客はそれなりにいて、みんな同じように写真を撮っていた。
ラクダもいた。
近くで見ると、意外と大きい。
目が静かで、どこか諦めたような顔をしている。
あの顔は、観光地で働く生き物の顔だと思った。
人間もバイト終わりには似たような目をしている。
俺はラクダに乗らなかった。
料金を見て、今回は眺めるだけでいいと思った。
売店で水を買い、砂丘のパンフレットをもらった。
その時、パンフレットの間に小さな紙が挟まっていた。
ラクダ乗り場の整理券みたいなものだった。
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朝の回
五時二十分
ラクダ横
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朝の回。
そんなものがあるのかと思った。
売店の人に聞こうか迷ったが、レジが混んでいたのでやめた。
どうせ間違って挟まったのだろう。
俺は整理券をパンフレットに戻した。
その時点では、少し変だと思っただけだった。
⸻
その日の宿は、砂丘から少し離れた古い旅館だった。
ネット予約で見つけた。
素泊まり。
一泊三千円台。
口コミは少ない。
建物は古そう。
ただ、駅前のホテルより安かった。
学生の財布は、怪しさより安さに負ける。
これはかなり危険な性質だ。
旅館は、細い道を入った先にあった。
二階建て。
木造。
玄関に古い提灯。
看板はあるが、宿名はかなり薄れていた。
実在の場所というより、昔の観光案内から残った建物のように見えた。
俺が玄関に入ると、奥から女将さんが出てきた。
六十代くらい。
小柄で、声が柔らかい。
「藤井様ですね。お待ちしておりました」
「はい。今日一泊で」
「砂丘は見られました?」
「はい、少しだけ」
「ラクダは?」
「ああ、見ました。乗ってはいないです」
女将さんは、そこで少しだけ笑った。
「朝の方が、ええですよ。砂も締まりますし、人も少ないですから」
「朝ですか」
「五時二十分でしたね」
俺は、反射的に顔を上げた。
五時二十分。
パンフレットに挟まっていた整理券と同じ時刻だった。
「何がですか」
「いえ。朝の砂丘の話です」
女将さんは、何も変なことを言っていないような顔をしていた。
俺も、それ以上聞かなかった。
ただ、胸の奥が少しざわついた。
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部屋は二階の奥だった。
六畳。
畳。
低い机。
古いテレビ。
窓の外には細い路地と、黒い屋根が見える。
海も砂丘も見えない。
古い旅館らしい部屋だった。
下駄箱には、先客のものらしい砂が少し残っていた。
まあ、砂丘近くの宿なら普通かもしれない。
俺はスニーカーを脱ぎ、部屋へ上がった。
畳は少し湿っていた。
エアコンは動いたが、音が大きい。
壁には、昔の観光ポスターが貼ってあった。
砂丘。
ラクダ。
夕日。
そのポスターのラクダの横に、小さな人影が印刷されていた。
顔は分からない。
それなのに、なぜかこちらを見ている気がした。
いや、ただのポスターだ。
俺はそう思うことにした。
⸻
【LINE】
18:41 遥斗
宿着いた
18:41 圭吾
どう?
18:42 遥斗
めちゃくちゃ昭和
悪くはないけど、ちょっと古い
18:42 圭吾
安宿あるあるだよな
18:43 遥斗
女将さんが朝の砂丘すすめてきた
五時二十分って言われた
18:43 圭吾
予約したん?
18:44 遥斗
してない
でもパンフにラクダの整理券みたいなの挟まってた
18:45 圭吾
宿側の予定を、自分の予定として確定しない方がいいと思う
⸻
圭吾は、変な言い方をした。
行くな、とか。
断れ、とか。
そういう言い方ではない。
宿側の予定を、自分の予定として確定しない。
大学で社会調査の授業を受けすぎた人間みたいな表現だった。
でも、不思議と腑に落ちた。
今、俺は自分で決めていない予定に、少しずつ乗せられている。
五時二十分。
ラクダ横。
朝の砂丘。
それが、いつの間にか俺の旅程になりかけている。
俺はパンフレットを机の上に置いた。
整理券は挟んだままだ。
触らないことにした。
⸻
夕飯は近くの定食屋で済ませた。
旅館に戻ったのは二十時過ぎ。
玄関に入ると、番頭のような男がいた。
三十代くらい。
旅館の人なのか、家族なのかは分からない。
男は俺の顔を見ると、すぐに言った。
「二階奥のお客様ですね」
「あ、はい」
「明朝は冷えますから、上着を持たれた方がいいです」
「明朝?」
「砂丘です」
「いや、まだ行くとは」
男はそこで、少し首を傾げた。
「行かれない場合は、靴はそのままで結構です」
靴。
そのまま。
何の話だろうと思った。
聞き返そうとした時、奥から女将さんが出てきた。
「お風呂、今なら空いてますよ」
番頭風の男は、そこで黙った。
俺は風呂へ向かった。
小さな浴場だった。
湯は熱い。
窓の外は暗い。
湯船につかっている間も、さっきの言葉が頭に残った。
行かれない場合は、靴はそのままで結構です。
観光案内の言葉ではない。
受付処理の言葉でもない。
靴で何を判断するのか。
俺は鳥肌が立った。
湯に入っているのに、腕だけが冷たかった。
⸻
部屋へ戻ると、下駄箱の砂が増えていた。
俺のスニーカーの周りに、細かい砂が落ちている。
定食屋へ行く時に入った砂かもしれない。
砂丘を歩いた靴だ。
それなら説明はつく。
でも、砂はスニーカーの外ではなく、つま先の前にだけ集まっていた。
まるで、誰かが靴の向きを確かめるために、そこへ線を引いたみたいに。
俺は靴を動かさなかった。
動かすと、意思表示になる気がした。
そう考えた自分が嫌だった。
旅館のルールを、少しずつ信じ始めている。
⸻
スマホに通知が来た。
予約アプリだった。
宿からのメッセージ。
⸻
21:36 旅館
明朝のご案内について
集合扱いを変更される場合は、靴の向きを変えないでください。
21:37 旅館
五時二十分
ラクダ横
おひとり様
⸻
俺は画面を見つめた。
集合扱い。
変更される場合。
靴の向きを変えないでください。
意味が分からない。
予約アプリで、こんな文が来るのか。
俺は返信欄を開いた。
朝の案内は予約していません。不要です。
そう打ちかけた。
だが、送信する直前で止まった。
圭吾の言葉を思い出した。
宿側の予定を、自分の予定として確定しない方がいい。
「不要です」と返すことも、朝の案内が存在する前提になる。
俺は返信しなかった。
スクショだけ撮った。
そして圭吾に送った。
⸻
【LINE】
21:41 遥斗
これ見て
21:42 圭吾
何これ
21:42 遥斗
宿から来た
21:43 圭吾
予約アプリのメッセージ?
21:43 遥斗
そう
21:44 圭吾
返信で予定を成立させない方がいい
宿の言葉に乗らずに、外の人間に状況を渡して
21:44 遥斗
外の人間?
21:45 圭吾
駅前のホテルとか交番とか
理由を旅行トラブルにしていいから
⸻
圭吾は、やはり直接的には言わなかった。
でも、意味は分かった。
この旅館の中だけで判断するな。
外へ情報を出せ。
俺はスマホを握ったまま、部屋の外の音を聞いた。
廊下は静かだった。
ただ、下の階から小さな声がした。
女将さんと、番頭風の男。
何を話しているのかは分からない。
けれど、ときどき単語だけが聞こえる。
「二階奥」
「大学生」
「一人」
「五時二十分」
心臓が速くなった。
聞き間違いかもしれない。
旅館の人が宿泊客について話すのは、ありえる。
明日の朝食やチェックアウト確認かもしれない。
でも俺は素泊まりだ。
朝食はない。
砂丘案内も頼んでいない。
俺は立ち上がり、部屋の明かりを消した。
暗い方が、廊下の様子が見えると思った。
障子の隙間から、下駄箱の辺りが見える。
そこに、人影があった。
番頭風の男だった。
俺の靴を見ている。
しゃがんでいる。
手に何か持っている。
細い木の札のようなもの。
男はそれを、靴の横に置いた。
そして、靴の向きを少しだけ直した。
外向きに。
玄関へ向かう形に。
俺は息を止めた。
男は小さな声で言った。
「外向き。朝、出る」
その言葉で、背中が冷えた。
靴の向きで、俺の予定を読んでいる。
いや、読んでいるのではない。
決めている。
俺はその場で動けなかった。
男が廊下を去ってから、下駄箱を見に行った。
靴の横に、小さな木札が置かれていた。
ラクダの形をしている。
首に細い紐。
そこに手書きの文字。
⸻
二階奥
男一名
ラクダ横
⸻
俺は木札に触らなかった。
触ったら、自分の札になる気がした。
こんなことを考えている時点で、もうかなり巻き込まれている。
そう分かっていても、体は動かなかった。
⸻
部屋へ戻ると、予約アプリにまた通知が来た。
⸻
22:18 旅館
靴向き確認済み
ご案内は継続扱いです。
22:18 旅館
お連れ様は先に砂丘へ出ています。
⸻
お連れ様。
俺は一人旅だ。
誰とも来ていない。
それなのに、その一文だけが異様に怖かった。
お連れ様。
誰のことだ。
ラクダか。
旅館の人か。
それとも、俺を朝そこへ連れていく誰かか。
俺はスマホだけを持った。
財布も持った。
荷物は置いていくことにした。
荷物をまとめる音を立てたくなかった。
靴は履かず、スリッパのまま部屋を出た。
廊下の奥に非常口の表示がある。
古い緑色のランプ。
そこから外階段へ出られるはずだった。
俺は下駄箱を見ないようにした。
靴を見れば、向きを直したくなる。
木札を退けたくなる。
でも、それもたぶん“変更”になる。
だから見ない。
非常口まで歩く。
足音を殺す。
廊下が長く感じた。
一階から、また声がした。
「靴、外向きやったね」
「うん。砂、入れといた」
「朝なら足跡、残るから」
足跡。
砂。
ラクダ横。
五時二十分。
単語だけが、頭の中でつながっていく。
俺は非常口を開けた。
外の湿った空気が入ってきた。
夏の夜のにおいだった。
それだけで、少し救われた。
⸻
旅館の外へ出ると、雨上がりだった。
道は濡れている。
遠くで車の音がする。
俺はスリッパのまま、細い道を走った。
駅前までは遠くないはずだった。
途中、コンビニの明かりが見えた。
そこへ入った瞬間、膝から力が抜けそうになった。
店員が普通に「いらっしゃいませ」と言った。
それだけで泣きそうになった。
普通の声。
普通の照明。
普通のレジ音。
人間社会の雑な明るさが、こんなにありがたいとは思わなかった。
俺はコンビニの前からタクシーを呼んだ。
駅前のビジネスホテルに空きがあった。
事情は詳しく話さなかった。
「宿でトラブルがあって、急に移りたいです」
それだけで、フロントの人は対応してくれた。
現実は、ちゃんとした言い方をすれば、案外すぐ助けになる。
最初からそうすればよかった。
でも、怖い場所の中にいる時は、その普通の手続きにたどり着けない。
それが一番怖い。
⸻
翌朝。
旅館に電話した。
荷物を取りに行く必要があったからだ。
電話に出たのは女将さんだった。
声は昨日と同じで、穏やかだった。
「あら、藤井様。お部屋に戻られなかったので心配しておりました」
「体調が悪くなって、駅前に移りました」
「そうでしたか。それは大変でしたね」
「朝の案内って、何だったんですか」
「朝の案内?」
女将さんは、本当に分からないという声だった。
「砂丘の。五時二十分の」
「うちは、そういうご案内はしておりませんよ」
「予約アプリでメッセージが来てます」
「確認いたしますね」
しばらく待たされた。
女将さんは戻ってきて、困ったように言った。
「こちらの送信履歴にはありません。アプリの不具合かもしれませんね」
不具合。
そう言われると、急に全部が薄くなる。
靴を見ていた男。
ラクダの木札。
廊下の声。
砂。
メッセージ。
全部、俺の勘違いだったのかもしれない。
古い旅館で不安になっただけ。
一人旅で神経質になっただけ。
そう思えなくもなかった。
荷物は、旅館の人が駅前ホテルまで届けてくれた。
番頭風の男ではなく、女将さんが直接来た。
「昨夜はご不安にさせてしまって、すみませんでした」
丁寧だった。
普通だった。
請求も、素泊まり一泊分だけ。
追加料金はない。
俺は礼を言った。
その場では、それ以上何も言えなかった。
⸻
大阪に戻ってから、圭吾に全部話した。
圭吾は黙って聞いていた。
「で、その整理券は?」
「捨てたと思う」
「思う?」
「パンフレットごと、旅館に置いてきたはず」
俺はそう言った。
その夜、荷物を整理した。
リュックの底に砂が少し入っていた。
砂丘を歩いたから、当然だ。
服にも靴下にも砂がついていた。
それは普通だった。
けれど、スニーカーの中から、小さな紙が出てきた。
ラクダ乗り場の整理券。
折れも濡れもしていない。
きれいな状態だった。
表には、
⸻
朝の回
五時二十分
ラクダ横
⸻
裏には、昨日はなかった文字があった。
⸻
欠席扱いにはしていません。
⸻
俺はしばらく動けなかった。
何だったんだろう。
旅館の人の悪戯。
観光案内の押し売り。
アプリの不具合。
俺の勘違い。
砂丘で挟まった紙を、自分で持ち帰っていただけ。
説明はできる。
かなりできる。
でも、欠席扱いにはしていません、という文だけが説明できない。
そもそも、俺は出席した覚えがない。
何に。
誰の案内に。
誰の集合に。
それ以来、旅行予約アプリを開くのが少し嫌になった。
たまに通知欄に、見覚えのない未読が一瞬だけ出る。
開くと消える。
でも、その一瞬だけ、文面が読めることがある。
⸻
朝のご案内は未了です。
⸻
今も、あの整理券は机の引き出しに入れてある。
捨てたこともある。
でも戻る。
戻るたび、裏の文字が少し濃くなる。
そして雨上がりの朝だけ、玄関に少し砂が落ちている。
大阪の部屋なのに。
砂丘なんて近くにないのに。
その砂の上に、細い影が伸びていることがある。
人の影ではない。
ラクダの首のようにも見える。
でも、よく見ると違う。
誰かが、背中を丸めて立っている影に見える。
俺は見直さない。
見直せば、また予定が確定する気がする。
だから今も分からない。
あの旅館で何が起きていたのか。
人間の悪意だったのか。
ただの旅先の不安だったのか。
それとも、朝五時二十分の砂丘には、最初から俺の席が用意されていたのか。
分からないまま、整理券だけが残っている。
欠席扱いにはしていません。
その一文が、今でもずっと俺を待っている。




