五センチの切れ目
川沿いの森は、夕方から急に暗なる。
山の中ほど深くはない。
道路も近い。
携帯の電波も、場所によっては入る。
それでも、川が一本あるだけで、空気は変わる。
水の音がずっとしている。
ざあ、とか。
ごう、とか。
石に当たって、流れが割れる音。
葉の裏を湿らせる音。
あれは、慣れてないと妙に落ち着かへん。
人の声が聞こえても、水音に混ざる。
枝が折れても、水音に混ざる。
何かが近づいてきても、水音に混ざる。
だから俺は、川沿いの点検があまり好きやなかった。
宮園航平。
三十六歳。
河川調査の補助員をしている。
大雨のあと、簡易センサーや水位標を確認して、写真を撮る。
崩れた箇所がないか。
倒木が流れをふさいでないか。
作業道に異常がないか。
そういうのを記録して、会社へ送る仕事や。
専門家ではない。
けれど、現場で最初に見る人間ではある。
こういう仕事は地味やけど、雑にするとあとで人が困る。
結局だれかの地味な確認で何とか持っている。
派手なことばかりしたがるくせに、ほんま面倒な生き物やと思う。
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その日は八月の終わりやった。
夕方から入る予定ではなかった。
本来は翌朝の確認でよかった。
ただ、夜にまた雨が降る予報で、簡易水位センサーだけ先に見ておいてほしいと連絡が来た。
現場は、市道から二十分ほど森へ入ったところ。
川沿いに細い作業道があって、その先に小さな砂防堰堤がある。
昔は林業で使っていた道らしい。
今は点検の時しか通らない。
俺は軽トラを路肩に停めた。
時刻は十八時四十分。
まだ完全な夜ではない。
けれど、森の中はもう暗かった。
虫の声がしている。
川の音は、左手側から聞こえる。
スマホの調査アプリを立ち上げた。
地点確認。
写真記録。
異常なしなら、十数分で終わる。
そのつもりやった。
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【業務チャット】
18:43 航平
現地入りました。
水位センサー確認して戻ります。
18:44 久米
了解。
暗くなる前に戻って。
水位標とセンサーだけでいいです。
18:44 航平
了解です。
18:45 久米
作業道の奥は、今回は見なくていいです。
範囲を増やさないでください。
⸻
範囲を増やさない。
久米さんらしい言い方やった。
この人は、危ないからやめろ、みたいな言い方をあまりしない。
代わりに、作業範囲とか、記録対象とか、判断基準とか、そういう言葉で止めてくる。
仕事の話としては分かりやすい。
怖さは減らないけど、足は止まる。
それで十分や。
俺はヘッドライトをつけた。
作業道に入る。
左に川。
右に森。
足元はぬかるんでいた。
雨のあとやから、落ち葉が黒く濡れている。
何度か滑りそうになりながら、奥へ進んだ。
⸻
五分ほど歩いたところで、それを見つけた。
最初は、赤い木の実かと思った。
作業道の真ん中。
濡れた落ち葉の上に、小さなものが落ちていた。
ヘッドライトを向ける。
カッターナイフだった。
安っぽい、細身のやつ。
百均で売っていそうな薄い銀色の本体。
刃は五センチほど出ている。
錆びていた。
刃の根元は茶色くざらついていて、先端だけが赤く濡れていた。
血やと思った。
すぐにそう思った。
でも、周りの葉には何もついていない。
土にも落ちていない。
刃先だけが濡れている。
血に濡れているのに、そこから一滴もこぼれていない。
それが一番気持ち悪かった。
俺はしゃがまなかった。
立ったまま、スマホで写真を撮った。
刃物。
血のような付着物。
拾得物。
状況によっては警察案件。
そういう現実的な判断が頭に並んだ。
怖いというより、面倒やな、が先に来た。
怖さより手続きの面倒さが先に出ることがある。
終わっている。
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調査アプリに写真を登録しようとした。
項目は「その他異常」。
備考に、
作業道上に刃物状の拾得物あり
と入力しかけた。
その時、アプリの項目名が勝手に変わった。
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拾得物:切れ目
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俺は画面を見直した。
切れ目。
そんな選択肢はない。
調査アプリには、決まった項目しかない。
倒木。
土砂崩れ。
護岸損傷。
流木堆積。
水位異常。
その他。
拾得物:切れ目、なんて項目は存在しない。
バグかと思った。
通信が悪い時、アプリの表示が崩れることはある。
俺は一度閉じて、再起動した。
表示は元に戻った。
写真も消えた。
ほっとした。
それで終わりにすればよかった。
けれど足元を見ると、カッターナイフの向きが変わっていた。
さっきは刃先が川の方を向いていた。
今は森の方を向いている。
俺は動かしていない。
足も当たっていない。
風で動くには重い。
川の音が、少し大きくなった。
左から。
いや。
右から。
俺は顔を上げた。
川は左にある。
来る時からずっと左だった。
でも、音は右の森の奥から聞こえている。
ざあ。
ざあ。
右の木々の向こうから、水が流れる音がする。
そんなはずはない。
右側は斜面で、森しかない。
俺はスマホの地図を見た。
現在地は作業道上。
川は左。
問題ない。
でも耳では、川が右にある。
体の中で、地図と音が食い違っている。
それだけで鳥肌が立った。
⸻
【業務チャット】
18:58 航平
作業道上に刃物のような物があります。
血のような付着あり。
警察連絡した方がいいですか。
18:59 久米
現場物品として採番しないでください。
位置だけ控えて、通話できる場所まで戻ってください。
18:59 航平
了解です。
川の音が右から聞こえます。
19:00 久米
水音を基準にしないで。
靴音とライトの向きだけで、来た道を戻ってください。
⸻
水音を基準にしない。
俺はその文を何度か読んだ。
久米さんにしては、変な言い方やった。
けれど、意味は分かった。
川の位置を頼りにするな。
耳がずれているなら、耳を信用するな。
自分の靴音。
ライトの向き。
足元の轍。
そういう目に見えるものだけで戻れ。
俺はカッターナイフをもう一度見た。
拾わない。
写真も増やさない。
採番しない。
それを決めて、来た道へ向き直った。
⸻
道は、来た時より細く見えた。
こんなに笹が張り出していただろうか。
こんなに木の根が浮いていただろうか。
足元の泥に、自分の足跡がある。
それだけが頼りだった。
俺は自分の足跡をたどった。
ざあ。
右から川の音。
ざあ。
左からも川の音。
両側から聞こえる。
作業道が、川と川の間にあるような感覚。
そんな地形ではない。
分かっている。
分かっているのに、体がそう感じる。
森の中の暗さが濃くなっていた。
ヘッドライトの先に、細い赤い線が見えた。
木の幹だった。
杉の幹に、縦に一本、赤い線が入っている。
墨壺の線みたいにまっすぐ。
近づいて見ると、樹皮が薄く切れていた。
五センチほど。
細く、浅く。
そこに赤い液が滲んでいた。
さっきのカッターナイフの刃と同じ幅。
俺は息を止めた。
次の木にもあった。
五センチの切れ目。
その次にも。
その次にも。
作業道の両側の木に、等間隔で赤い切れ目が入っている。
まるで、誰かが道を測るために印をつけたみたいに。
俺は歩く速度を上げた。
走りたかった。
でも、足元がぬかるんでいる。
転んだら終わりやと思った。
何が終わるのかは分からん。
でも、終わると思った。
⸻
スマホが震えた。
久米さんからだった。
⸻
【業務チャット】
19:07 久米
まだ現場?
19:07 航平
戻ってます。
木に切れ目があります。
同じ幅です。
19:08 久米
現場の印として読まないでください。
19:08 久米
その線が道を示していると思うと、そっちの作業になります。
⸻
そっちの作業。
俺は足を止めそうになった。
久米さんがこんな書き方をするだろうか。
いや、するかもしれない。
でも、微妙に違う。
普段の久米さんはもっと短い。
「無視して戻って」
「写真不要」
「本線へ戻って」
そういう人だ。
その線が道を示していると思うと、そっちの作業になります。
変な日本語ではない。
でも、妙にこちらの考えを読んでいる。
俺は返信しなかった。
画面を閉じた。
靴音。
ライト。
足跡。
それだけを見る。
⸻
その時、背後で音がした。
かち。
小さな金属音。
カッターナイフの刃を一段出す音。
かち。
かち。
俺は振り返らなかった。
振り返れば確認になる。
確認したら、作業に入る。
そんな言葉が、頭の中に浮かんだ。
自分の考えなのか、さっきのチャットの続きなのか分からなかった。
かち。
また鳴った。
さっきの刃は五センチほど出ていた。
あれ以上、刃は出ないはずだ。
安いカッターは、そんなに長くない。
なのに音は続く。
かち。
かち。
まるで、森の奥で、五センチずつ何かが伸びているみたいだった。
その想像をした瞬間、首の後ろがぞわっとした。
鳥肌が立った。
汗をかいているのに、背中だけ冷たかった。
俺は走った。
もう足元を見る余裕はなかった。
泥が跳ねる。
枝が腕に当たる。
ライトが揺れる。
川の音が左右から追ってくる。
ざあ。
ざあ。
ざあ。
その音の中に、かち、かち、という小さな金属音が混ざっている。
怖かった。
はっきり怖かった。
子どもみたいに、声を出しそうになった。
でも、声を出したら返事が来る気がして、歯を食いしばった。
⸻
どれくらい走ったか分からない。
急に、森が切れた。
市道だった。
軽トラの白い車体が見えた。
街灯も見えた。
遠くに民家の明かり。
その瞬間、膝から力が抜けそうになった。
俺は軽トラのドアに手をついた。
息が荒い。
喉が痛い。
手が震えている。
スマホを見る。
十九時十三分。
森に入ってから三十分ほどしか経っていない。
体感では、一時間以上いた気がした。
川の音は、左側から聞こえていた。
本来の位置から。
俺はそこで初めて、後ろを振り返った。
作業道の入口は暗かった。
何もいない。
カッターナイフもない。
赤い切れ目も、見えない。
ただ、入口の草が少し揺れていた。
風はなかった。
⸻
久米さんに電話した。
今度はすぐつながった。
「戻りました」
「今どこ」
「車です」
「そのまま車内で待って。警察と役場に連絡する」
「さっきチャットで、水音を基準にするなって」
「俺は、現場物品として採番するな、としか送ってない」
「そのあとも来てます」
「スクショ撮れるか」
俺は業務チャットを開いた。
あの文は残っていた。
ただし、送信者名が空白になっていた。
久米さんの名前が消えている。
時刻だけがある。
⸻
19:08
現場の印として読まないでください。
19:08
その線が道を示していると思うと、そっちの作業になります。
⸻
久米さんは電話の向こうで黙った。
「それ、触らずにそのままにしといて」
「チャットですけど」
「記録として扱わんでいい。あとで端末ごと確認する」
記録として扱わない。
またその言い方だった。
俺はうなずいた。
声は出なかった。
⸻
警察と役場の人が来たのは、それから四十分ほどあとだった。
俺は事情を説明した。
刃物を見たこと。
血のようなものがついていたこと。
木に赤い切れ目があったこと。
道が分からなくなったこと。
警察官は真面目に聞いてくれた。
久米さんも来た。
一緒に作業道を少し入った。
ただ、カッターナイフは見つからなかった。
血の跡もなかった。
木の切れ目もない。
作業道は普通だった。
川は左に流れている。
右は森。
当たり前の地形。
警察官は言った。
「雨上がりですし、ライトの加減で赤く見えたのかもしれません」
「刃物は」
「誰かが拾った可能性もあります。念のため周辺は確認します」
説明はできる。
できてしまう。
血に見えたのは赤い木の実の汁。
カッターは釣り人か作業員の落とし物。
木の切れ目は、枝の傷。
川の音は反響。
チャットはアプリの表示不具合。
夜の森では、いくらでも説明がつく。
その説明を聞くたびに、俺の見たものだけが少しずつ薄くなっていった。
怖さまで薄くなってくれればよかった。
けれど、怖さだけは残った。
⸻
翌日、会社で調査アプリのログを確認した。
写真は残っていなかった。
刃物の写真はない。
木の切れ目の写真もない。
位置情報だけが一件、変な形で残っていた。
通常なら、
地点記録:水位センサー確認
となるはずの欄。
そこに、こう表示されていた。
⸻
拾得物:切れ目
状態:未閉鎖
⸻
削除できなかった。
久米さんが管理画面から消そうとしても、項目だけが残る。
写真なし。
座標なし。
担当者なし。
でも、項目名だけが消えない。
システム会社に問い合わせたら、同期エラーの可能性があると言われた。
それで報告書は終わった。
現場確認異常なし。
刃物確認できず。
周辺に事件性を示すものなし。
アプリ表示は不具合として処理。
全部、現実的に片づいた。
⸻
それから俺は、しばらく川沿いの現場を外された。
久米さんは「別件があるから」と言った。
気遣いだったのかもしれない。
俺もありがたかった。
ただ、今でも水の音が苦手になった。
道路脇の用水路。
雨の日の側溝。
風呂場の排水。
ざあ、と聞こえると、必ず左右を確認してしまう。
川はどっちにあるのか。
水音は、正しい方から聞こえているのか。
そんなことを考える。
何だったんやろう。
血に濡れたカッターナイフ。
五センチの刃。
木についた赤い切れ目。
送信者の消えたチャット。
説明はできる。
できるはずや。
でも、あのカッターだけは今も見つかっていない。
そして、俺の調査アプリには、まだ消えない項目がある。
⸻
拾得物:切れ目
状態:未閉鎖
⸻
最近、その下に一行増えた。
⸻
次回確認時、閉鎖予定
⸻
俺はまだ、確認していない。
確認したら、閉じるのかもしれない。
でも、何を閉じるのか分からない。
川沿いの作業道か。
森の中の切れ目か。
それとも、俺があの日、見てしまった方の道か。
分からない。
分からないまま、夏がまた来る。
会社の予定表には、来月の巡回点検が入っている。
場所はまだ未定。
けれど、アプリの地図を開くと、たまに一瞬だけ赤い線が出る。
五センチほどの、短い線。
川沿いの森の中。
そこに、まだ切れ目があるみたいに。
俺はそのたびに画面を閉じる。
現場の印として読まない。
そう決めている。
けれど、見てしまった時点で、もう半分は読んでいるのかもしれない。
そう思うと、今でも鳥肌が立つ。




