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怖い話_続  作者: 三葉


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20/25

面会札

廃病院は、静かすぎるより、少し音がある方が嫌だ。


水が落ちる音。

古い蛍光灯のうなり。

風で揺れるカーテンレール。

どこかで金属が縮む音。


そういうものがあると、建物がまだ使われているように聞こえる。


人がいないのに、建物だけが病院を続けている。


その感じが、どうにも苦手だった。


俺は志田宗一郎。


三十八歳。


解体前の建物に入って、残置物を調べる仕事をしている。


高価な備品が残っていないか。

危険物がないか。

書類や個人情報が放置されていないか。


そういうものを確認して、写真を撮って、報告書にまとめる。


華やかな仕事ではない。


だが、人と話す時間は少ない。


壊す前の建物と向き合うだけでいい。


建物は、大抵嘘をつかない。


ただ、まれに。


見せる必要のないものまで、見せてくる。



その旧病院は、郊外の坂の上にあった。


閉院してから十年以上経っている。


表の看板は外され、駐車場には雑草が伸びていた。


建物は三階建て。


外来棟と病棟が渡り廊下でつながっている。


俺が入ったのは、夜の八時過ぎだった。


本来なら日中にやる仕事だ。


だが、翌朝に別業者が入ることになり、どうしても今夜中に確認を終える必要があった。


現場主任の矢代さんは、入口で俺に言った。


「図面にある部屋だけでいい。余計な場所は、記録に入れない」


「見つけたら?」


「写真だけ撮って、調査対象外で上げろ。中身まで追わなくていい」


その言い方が、少し引っかかった。


追わなくていい。


普通は、確認しなくていい、と言う。


でも俺は、うなずいただけだった。


現場では、言葉の違和感より納期の方が強い。


人間の判断力は、締切に簡単に負けるからだ。

まったく、先に労働環境が人を削ってくる。



俺はヘッドライトをつけ、外来棟から回った。


受付。


診察室。


処置室。


薬剤保管庫。


ほとんど空だった。


棚は抜かれ、机も撤去されている。


壁には古い掲示物の跡だけが残っていた。


手洗いをしましょう


面会時間を守りましょう


ナースステーションへお声かけください


病院の張り紙は、使われなくなってからの方が怖い。


誰に向けて言っているのか、分からなくなるからだ。


二階へ上がる。


小児病棟。


ここは、解体前調査の中でも気が重かった。


壁に動物のシールが残っていた。


キリン。

象。

うさぎ。

色あせた気球。


廊下の突き当たりには、丸い窓のついた扉。


図面では、そこが東端だった。


その先は外壁。


何もないはずだった。


だが、扉の横に、細い廊下があった。


図面にはない。


非常用通路にしては狭い。


倉庫の裏手に作られた後付けの通路かもしれない。


古い建物ではよくある。


増築。

用途変更。

仮設をそのまま使い続けた場所。


そういうものは、図面に反映されないことがある。


俺は写真を一枚撮った。


そして矢代さんに送った。



【業務チャット】


20:46 志田

二階小児病棟東端、図面外の通路あり。

調査対象外で記録します。


20:48 矢代

中の判断は図面基準でいい。

現場で見えても、対象範囲に加えないでくれ。


20:48 矢代

扉や札があっても、部屋名として拾わなくていい。



扉や札。


俺はまだ、扉も札も写していない。


その返答が、妙に早かった。


それでも、俺はライトを廊下へ向けた。


行かない方がいい、とは思わなかった。


ただ、確認しないと報告書が書けない。


仕事の形をした好奇心ほど、たちが悪いものはない。


俺は細い廊下に入った。



廊下の先に、小さな扉があった。


プレートには、かすれた字でこう書かれていた。


処置説明室


聞いたことのない部屋名だった。


診察室でも、処置室でもない。


処置説明室。


子どもに点滴や検査の説明をする場所だったのかもしれない。


扉は少し開いていた。


俺は押した。


ぎい、と音がした。


中は狭かった。


壁際に低い棚。


小さな丸椅子。


古いホワイトボード。


天井の蛍光灯は死んでいる。


俺のヘッドライトだけが、部屋の一部を白く照らした。


棚の中に、人形があった。


布製だった。


白い布の肌。


茶色の糸の髪。


青い病衣。


顔は簡単な刺繍で、丸い目と小さな口だけ。


おそらく、子どもに処置を説明するための人形だ。


ここに注射をします。

ここに聴診器を当てます。

怖くありません。


そんなふうに使っていたのだろう。


俺はそう理解しようとした。


人形そのものは、特別に不気味ではない。


古くて、少し汚れていて、片方の頬に茶色い染みがある。


それだけだ。


ただ、胸に赤い札が下がっていた。


面会札だった。



面会中


志田 宗一郎



俺は息を止めた。


俺の名前。


赤いプラスチック札。


黒いテプラのような文字。


この病院のものではない。


俺はここに来てから、名札をつけていない。


胸ポケットには会社の作業証があるだけ。


それも、苗字だけだ。


志田。


フルネームは出していない。


誰かの悪戯。


そう考えた。


解体前の建物には、たまに若者が入り込む。


動画撮影。

肝試し。

落書き。


俺の名前を知る方法は、会社の車か作業予定表かもしれない。


完全に不可能ではない。


現実側の説明は、いつもこちらを引き止める。


俺は人形には触らなかった。


写真だけ撮る。


そう決めた。


スマホを向ける。


画面には棚が映った。


人形も映った。


だが、赤い面会札だけがぼやける。


何度撮っても、文字が読めない。


ライトの反射。


ピントの問題。


俺はそう思った。


しかし、肉眼でははっきり読める。


志田 宗一郎


自分の名前ほど、読み間違えようのないものはない。


だから余計に嫌だった。



部屋の隅に、古いカルテ箱があった。


金属製。


表面が少し錆びている。


ラベルには、


面会記録


と書かれていた。


俺は開けるべきか迷った。


個人情報なら、残置物として報告しなければならない。


だが、矢代さんは言っていた。


図面外のものを対象範囲に加えるな。


中身まで追うな。


俺は箱に手をかけた。


冷たかった。


夏なのに。


箱の中から、小さな紙の擦れる音がした。


風ではない。


俺の指が触れただけで、中の紙が動いた。


そこでスマホが震えた。


矢代さんからだった。



【業務チャット】


21:03 矢代

図面外区画は、発見位置だけで閉じてくれ。

中身を分類すると、処分ルートに乗る。


21:03 矢代

処分ルートに乗せるかどうかは、明日こっちで判断する。



処分ルートに乗る。


ずいぶん事務的な言い方だった。


だが、今の俺には分かりやすかった。


開けるな、とは言っていない。


触るな、とも言っていない。


ただ、分類するな。


つまり、これを“資料”や“備品”として扱うなということだ。


俺はカルテ箱から手を離した。


その時、人形の方から、かすかな音がした。


布が擦れる音。


ゆっくり振り返る。


人形は、棚の中に座ったままだった。


動いていない。


ただ、顔の向きが少し変わっていた。


さっきまでは正面。


今は、こちらを見ている。


そう見えた。


丸い刺繍の目。


ただの黒い糸。


それなのに、焦点が合っている気がした。


背中に寒気が走った。


廃病院の夜は、冷える。


建物に湿気がこもっているから。


そういう説明はできる。


でも、寒気は背骨の内側から来ていた。



俺は処置説明室を出た。


扉は閉めた。


施錠はできない。


養生テープで、ドアノブに簡易的な印をつける。


図面外・未確認


そう書いた。


その文字を見た瞬間、廊下の奥から声が聞こえた。


子どもの声ではなかった。


看護師の読み上げのような声だった。


抑揚がなく、早口で、記録を確認しているような声。


「二十一時〇四分、面会継続」


俺は立ち止まった。


廊下には誰もいない。


ヘッドライトの光が、壁の動物シールを照らしている。


キリンの目が、黒く浮いていた。


声は続いた。


「対象者、志田宗一郎」


俺は歩き出した。


走らなかった。


走ると、背後の音を聞くことになる。


足音が増えているか、確かめたくなる。


そうなったら終わりだと思った。


小児病棟を抜ける。


ナースステーションの前を通る。


暗い窓ガラスに、自分の姿が映る。


ヘッドライト。


作業ベスト。


白いマスク。


その後ろに、小さな青い病衣の影が見えた気がした。


俺は見直さなかった。


見直しは確認になる。


確認すれば、記録になる。


そう思った。



一階に下りると、外来棟の空気に戻った。


同じ廃病院なのに、少しだけ軽い。


俺は玄関近くまで戻り、矢代さんに電話した。


「図面外区画、写真だけ撮りました。中の物は未分類です」


「それでいい」


「俺の名前の面会札がありました」


矢代さんは黙った。


短い沈黙だった。


「気にしなくていい」


「どういう意味ですか」


「報告書には、部屋名と物品名を最小限にしてくれ。面会とか、患者とか、そういう語は使わない方がいい」


使わない方がいい。


また、その言い方。


「何か知ってるんですか」


「この病院、過去に小児科の資料が一部残ってたって話がある。悪戯も多い。だから不用意に具体名を残すと、後で面倒になる」


説明は現実的だった。


個人情報。


悪戯。


解体前施設の管理。


十分にありえる。


俺はそれを採用した。


採用しないと、玄関から出るまで足がもたなかった。



作業を切り上げ、病院を出た。


外は蒸し暑かった。


街灯の周りに虫が飛んでいる。


建物の中で感じた冷えが、嘘のように消える。


矢代さんは、車の前で待っていた。


「顔色悪いな」


「小児病棟は、明日に回します」


「それでいい」


俺は報告用の写真だけ転送した。


図面外通路。

処置説明室の扉。

棚。

カルテ箱。


ただし、人形の写真だけが送れなかった。


ファイルエラー。


何度やっても失敗する。


矢代さんは画面を見て、短く言った。


「その写真は削除じゃなく、未使用フォルダに入れておけ」


「消さないんですか」


「消したことを記録に残す方が面倒だ」


業務上の理屈だった。


けれど、俺には別の意味に聞こえた。


消すと、消したことが残る。


なら、使わない。


採用しない。


それが一番安全だ。



翌日。


昼間に小児病棟を確認した。


矢代さんと、元請けの担当者も一緒だった。


図面外通路はあった。


だが、短かった。


行き止まりだった。


突き当たりはコンクリートの壁。


処置説明室の扉はない。


俺が養生テープを貼った場所もない。


壁には古い配管の跡があるだけだった。


「昨日、ここに扉が」


俺が言うと、元請けの担当者は首をひねった。


「増築部の壁と見間違えたんじゃないですかね」


矢代さんは何も言わなかった。


昼の光の中では、すべてが説明できた。


暗かった。

疲れていた。

ヘッドライトの影。

古い壁の染み。

悪戯の可能性。


そういう言葉が、現実を補修していく。


雑でも、穴は塞がる。


報告書にはこう書いた。



二階東端に図面外通路状の空間あり。

現地確認の結果、閉塞部と判断。

残置物なし。



嘘ではない。


昼に確認した結果としては正しい。


夜に見たものは、報告書に入れなかった。


処置説明室も。

人形も。

面会札も。

カルテ箱も。


採用しなかった。



それで終わったと思った。


数日後、現場用ベストを洗濯しようとして、胸ポケットに何か入っているのに気づいた。


赤いプラスチック札だった。


面会札。


俺は呼吸を止めた。


黒い文字。



面会中


志田 宗一郎



見覚えがある。


あの人形の胸に下がっていたものだ。


俺は触っていない。


持ち帰ってもいない。


そもそも、昼には部屋ごとなかった。


裏を見る。


新しい文字が一行増えていた。



面会継続中



俺はしばらく動けなかった。


それから、札を封筒に入れた。


捨てる気にはなれなかった。


返す場所もない。


報告書に書けば、記録になる。


記録になれば、処理対象になる。


それだけは避けたかった。


封筒には何も書かなかった。


名前も、現場名も。


ただ、机の引き出しの奥に入れた。



何だったんだろう。


悪戯。


疲労。


暗所での錯覚。


図面の不備。


写真の送信エラー。


全部、説明できる。


廃病院なら、そういうことは起きる。


人が入る。

物が動く。

見間違える。

記録が合わない。


だが、あの面会札だけが残っている。


俺の名前で。


今も、引き出しの奥にある。


たまに、夜中に作業机へ向かっていると、視線を感じることがある。


部屋の角。


本棚の隙間。


カーテンの横。


何かがいる、というより、どこかの棚の中から見られているような感じ。


低い位置から。


子どもが見上げる高さではない。


人形が座ったまま、こちらを見る高さ。


俺は振り返らない。


振り返れば、確認になる。


確認すれば、面会が続く。


そんな気がしている。


それでも、視線は消えない。


夏の夜、エアコンをつけているのに、背中だけが冷える。


その時だけ、引き出しの奥で小さな音がする。


こつ。


札が木に当たる音。


こつ。


こつ。


まるで、誰かが面会時間の終わりを待っているみたいに。


けれど札には、まだこう書かれている。


面会継続中


だからたぶん、終わっていない。


俺は今でも、見られている。


何だったのか分からないまま。


ずっと。

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