本日中にお引き取りください
夏に白い服を着るのは、間違いだと思う。
見た目は涼しい。
清潔感もある。
でも現実は違う。
汗が目立つ。
飲み物をこぼす。
バッグの色が移る。
少しでも汚れたら、全部終わる。
白は人類には厳しすぎる。
清楚な顔をして、管理コストが高い。最悪の優等生である。
その日、岬遥は白いブラウスを着ていた。
服飾系の専門学校に通う二年生。
学校説明会の手伝いで、受付に立つ予定だった。
だから、ちゃんとした服を選んだ。
白いブラウス。
黒いパンツ。
髪もまとめた。
朝の時点では、きれいだった。
朝の時点では。
⸻
駅まで歩いただけで、背中に汗をかいた。
電車の中は混んでいた。
誰かのリュックがぶつかった。
降りた駅で、買った麦茶を少しこぼした。
しかも、肩にかけていた赤茶色のバッグの持ち手が、汗でブラウスに色移りした。
学校に着く前に、左脇のあたりがうっすら赤い。
胸元には麦茶の小さな染み。
背中は汗。
「……終わった」
声に出た。
説明会の受付で、汚れた白ブラウス。
服飾系の学校でそれは、地味に致命傷だった。
⸻
【LINE】
10:38 遥
やばい
10:38 梨沙
なに
10:39 遥
ブラウス汚した
10:39 梨沙
今日受付じゃん
10:39 遥
そう
10:40 梨沙
替えある?
10:40 遥
ない
10:41 梨沙
学校の近くで買えば?
10:41 遥
白ブラウス売ってる店あるかな
10:42 梨沙
最悪カーデで隠す
10:42 遥
暑すぎて死ぬって
10:43 梨沙
白服って夏に着るもんじゃないよね
10:43 遥
今それ言う?
⸻
学校の最寄り駅から少し離れたところに、古いアーケード商店街があった。
普段は通らない。
でも、地図を見ると近道だった。
暑いし、日陰を歩きたかった。
アーケードの中は、時間が止まったみたいだった。
シャッターの閉まった店。
色褪せたポスター。
古い電器屋。
誰もいない八百屋の台。
その中で、一軒だけ明かりがついていた。
白波クリーニング
ガラス戸の向こうに、白いワイシャツが何枚も吊るされている。
遥は足を止めた。
クリーニング。
今すぐは無理だろう。
でも、応急処置くらい教えてもらえるかもしれない。
そう思って入った。
ガラス戸を開けると、ちりん、とベルが鳴った。
店内は涼しかった。
少し冷えすぎているくらいだった。
カウンターの奥に、女性がいた。
白い割烹着みたいな服。
髪を低くまとめている。
年齢はよく分からない。
「いらっしゃいませ」
声は、とても丁寧だった。
「あの、すみません。急ぎで、この染みってどうにかなりますか」
遥はブラウスの汚れを指した。
女性は、じっと見た。
麦茶の染み。
バッグの色移り。
汗。
それから、遥の顔。
「汗と染みだけでよろしいですか」
「え?」
「言葉の汚れも、落とせますが」
遥は、少し笑ってしまった。
冗談だと思った。
「言葉の汚れ?」
「はい」
女性は真面目な顔で言った。
「朝から付いたものが、いくつかございます」
「えっと、普通に見える汚れだけで」
「見えないものも、後から浮きでますよ」
その言い方が、妙に引っかかった。
「浮く?」
「はい。怒り、不安、飲み込んだ返事、言えなかった言葉」
女性は、布を扱うみたいに淡々と言った。
「放っておくと、黄ばみます」
遥は返事に困った。
変な店。
でも、時間がなかった。
「じゃあ、全部お願いします」
言ってから、少しだけ変な感じがした。
全部。
簡単に言いすぎた。
女性は、静かにうなずいた。
「承りました」
「今日中にできますか?」
「本日中にお引き取りくださいね」
「え?」
「本日中に」
女性は引換票にさらさらと文字を書いた。
四十九番
品名:白ブラウス
汚れ:汗、茶、赤、言葉
仕上がり:十九時
本日中にお引き取りください
最後の一文だけ、妙に太かった。
「日をまたぐと、どうなるんですか」
遥が聞くと、女性は顔を上げた。
「持ち主との区別が難しくなります」
「服と?」
「はい」
女性はにこりとした。
「どちらが汚れていたのか、分からなくなりますので」
笑っていいのか分からなかった。
遥はブラウスの上にカーディガンを羽織り、店を出た。
外はまた、夏の熱気だった。
⸻
【LINE】
11:02 遥
変なクリーニング屋があったんだよ
11:02 梨沙
出したの?
11:03 遥
出した
11:03 梨沙
説明会は?
11:04 遥
カーデでごまかす
11:04 梨沙
暑そう
11:05 遥
地獄
11:05 梨沙
何が変だったの
11:06 遥
言葉の汚れも落とすって言われた
11:06 梨沙
詩人?
11:07 遥
本日中に取りに来いって
11:07 梨沙
普通じゃん
11:08 遥
日をまたぐと持ち主との区別が難しいって
11:08 梨沙
普通じゃないじゃん
⸻
説明会は、どうにかなった。
カーディガンは暑かった。
汗はさらに増えた。
でも受付はこなした。
来場者に笑顔で案内し、資料を配り、質問に答えた。
途中で、先生に言われた。
「岬さん、顔色悪くない?」
「大丈夫です」
反射でそう答えた。
大丈夫じゃなかった。
暑い。
気持ち悪い。
汚れたブラウスが気になる。
受付の笑顔が疲れる。
でも、言えない。
いつものことだった。
遥は、嫌なことをすぐ飲み込む癖があった。
飲み込んで、あとから胃の中で固まる。
人間関係の消化不良である。
⸻
説明会が終わったのは、十八時半だった。
遥は急いで商店街へ戻った。
アーケードは昼間より暗かった。
ほとんどの店が閉まっている。
白波クリーニングだけ、明かりがついていた。
ガラス戸を開ける。
ちりん。
女性がカウンターに立っていた。
「お待ちしておりました」
その言い方が、なぜか予約していた旅館みたいだった。
「四十九番です」
遥が引換票を出すと、女性はうなずいた。
奥からブラウスを持ってくる。
白い。
真っ白だった。
朝の新品みたいに。
麦茶の染みもない。
赤い色移りもない。
汗の黄ばみもない。
むしろ、朝より白い気がした。
「すごい……」
思わず声が出た。
女性は、ブラウスを薄紙で包みながら言った。
「少し落としすぎました」
「え?」
「言葉の汚れが深かったので」
「何の話ですか」
「お客様は、よく飲み込まれますね」
遥は黙った。
「飲み込む?」
「はい」
女性は薄紙の端を折った。
「大丈夫ではない時に、大丈夫と」
その言葉が、胸に刺さった。
「それ、汚れなんですか」
「布には残ります」
「布に?」
「着ていたものは、だいたい聞いておりますので」
女性は青い安全ピンで、引換票の控えをブラウスに留めた。
「本日中のお引き取り、ありがとうございます」
「これで終わりですか」
「はい」
女性は少しだけ首を傾げた。
「ただ、もし足りないようでしたら、次回は着たままお持ちください」
遥は笑えなかった。
代金を払おうとすると、女性は首を振った。
「もういただいております」
「え、払ってません」
「落とした分を」
「何を」
女性は答えなかった。
ただ、カウンターの上に小さな紙を置いた。
お預かり品の一部は、返却できない場合があります。
遥は、それを読んでから店を出た。
⸻
【LINE】
19:18 遥
受け取った
19:18 梨沙
どう?
19:19 遥
めっちゃ綺麗
19:19 梨沙
よかったじゃん
19:20 遥
でもなんか変なこと言われた
19:20 梨沙
また?
19:21 遥
言葉の汚れが深かったって
19:21 梨沙
その店員、絶対ふつうじゃない
19:22 遥
あと
大丈夫じゃない時に大丈夫って言うって
19:22 梨沙
それは当たってる
19:22 遥
否定してよ
19:23 梨沙
無理
⸻
その夜。
遥は帰宅して、ブラウスをハンガーにかけた。
部屋の明かりの下でも、やっぱり白かった。
新品より白い。
不自然なくらい。
青い安全ピンには、引換票の控えがついている。
外そうとした時、文字が増えているのに気づいた。
朝にはなかった項目。
落としたもの
その下に、細かい字。
怒り
不安
先生への返事
梨沙への愚痴
母への電話
遥は眉をひそめた。
母への電話?
そういえば、説明会の後に母から電話が来ていた。
「疲れてない?」と聞かれた。
「平気」と答えた。
それだけ。
いや。
それだけだったっけ。
思い出せない。
スマホを開いた。
母との通話履歴。
ない。
今日の夕方に電話したはずなのに。
履歴がない。
LINEを見る。
梨沙とのトーク。
昼間、ブラウスの汚れについて散々やり取りした。
そのはず。
でも、少し消えていた。
「言葉の汚れも落とすって言われた」
そのメッセージがない。
梨沙からの「詩人?」もない。
「日をまたぐと持ち主との区別が難しいって」もない。
消えている。
遥は慌てて梨沙にLINEした。
⸻
【LINE】
22:41 遥
今日のLINE消えてる
22:41 梨沙
何の
22:42 遥
クリーニング屋の話
22:42 梨沙
残ってるよ
22:42 遥
私の画面から消えてる
22:43 梨沙
スクショ送る?
22:43 遥
送って
⸻
梨沙からスクショが届いた。
そこには、確かに残っていた。
遥が送った文も。
梨沙の返事も。
全部。
でも、遥の画面にはない。
まるで、自分の側だけ洗い落とされたみたいに。
スマホが震えた。
知らない番号からSMS。
⸻
【SMS】
22:48
仕上がりに問題がございましたか
⸻
遥は息を止めた。
続けて、もう一通。
⸻
22:49
落とし忘れがある場合は、再度お持ちください。
⸻
誰?
そう打とうとして、やめた。
その時、クローゼットの中で、ハンガーが揺れた。
かた。
かた。
白いブラウスが、薄暗い中で揺れている。
窓は閉まっている。
エアコンの風も当たっていない。
ブラウスの胸元だけが、ゆっくり膨らんだ。
誰かが着ているみたいに。
遥はクローゼットの扉を閉めた。
⸻
翌日。
遥は、もう一度あの商店街へ行った。
白波クリーニングの場所を確認するためだった。
昼間のアーケード。
古い店が並んでいる。
昨日、クリーニング屋があった場所。
そこには、シャッターが下りていた。
看板は錆びている。
白波クリーニング
文字は読める。
でも、店内は暗い。
シャッターには、古い貼り紙。
閉店のお知らせ
日付は、十年以上前だった。
遥は立ち尽くした。
隣の古い文具店に、年配の店主がいた。
「あの、隣のクリーニング屋って」
店主は、目を細めた。
「ああ、白波さん?」
「昨日、開いてたんですけど」
店主の手が止まった。
「昨日?」
「はい」
「開くわけないよ」
「でも、私、ブラウスを出して」
店主は少し困った顔をした。
「たまにね」
「はい」
「あそこに用がある人には、開いて見えるって話はある」
「どういう意味ですか」
「知らない方がいいよ」
店主はそう言ってから、付け足した。
「ただ、あそこは落とすのが上手すぎてね」
「汚れを?」
「いらないものも、いるものも」
店主は、シャッターを見た。
「全部、白くしちまう」
遥は、昨日受け取ったブラウスを思い出した。
新品より白い。
不自然な白。
⸻
その日から、少しおかしくなった。
遥は、怒りにくくなった。
いや。
怒りが湧いても、すぐ薄くなった。
先生に急な雑用を頼まれても。
母に将来の話をされても。
友人に少し嫌なことを言われても。
一瞬だけ胸がざわついて、そのあとすっと白くなる。
不快感が消える。
楽だった。
でも、怖かった。
感情まで漂白されているみたいだった。
梨沙はすぐ気づいた。
⸻
【LINE】
18:32 梨沙
最近、遥変
18:32 遥
どこが
18:33 梨沙
怒らない
18:33 遥
いいことじゃん
18:34 梨沙
違う
飲み込んでるんじゃなくて
最初から出てきてない感じ
18:34 遥
そんなことない
18:35 梨沙
今日、先生に無茶振りされてたじゃん
18:35 遥
まあ別に
18:36 梨沙
いつもの遥なら
LINEで「無理すぎ」って送ってくる
18:36 遥
そうだっけ
18:37 梨沙
そうだよ
18:37 梨沙
それが遥だよ
⸻
それが遥だよ。
その文字を見て、なぜか泣きそうになった。
でも、涙は出なかった。
出そうになったものが、胸の奥で白く薄まっていく。
怖かった。
遥は帰宅して、クローゼットを開けた。
白いブラウスは、そこにあった。
青い安全ピンもついたまま。
引換票の控えを外そうとした。
外れない。
安全ピンは普通のものなのに、布に縫い込まれたみたいに動かない。
控え票の文字が、また増えていた。
残り汚れ
その下。
本人
遥は、寒気がした。
本人。
それはもう、汚れではない。
そう言おうとしたのに、口から声が出なかった。
スマホが震える。
SMSだった。
⸻
【SMS】
20:11
次回は着たままお持ちください。
⸻
遥はスマホを落とした。
クローゼットの中で、ブラウスが少し揺れた。
誰も着ていないのに。
肩の部分が、ふくらんでいる。
袖が、ゆっくり持ち上がる。
まるで、誰かが中から手を通そうとしているみたいに。
遥はクローゼットを閉めた。
ガムテープで扉を留めた。
それでも、中から音がする。
かさ。
かさ。
布が擦れる音。
アイロン台の上で、服を整えるような音。
そして、低い声。
「まだ落ちます」
遥は、耳を塞いだ。
⸻
翌朝。
クローゼットのガムテープは、きれいに剥がれていた。
扉は少し開いていた。
白いブラウスは、ハンガーにかかったまま。
でも、青い安全ピンの位置が変わっていた。
胸元から、襟元へ。
まるで名札みたいに。
そこに、新しい小さな札がついていた。
お預かり準備中
遥はそのブラウスを捨てようとした。
ゴミ袋に入れた。
でも、五分後にはクローゼットへ戻っていた。
ハンガーにかかって。
真っ白に。
梨沙に全部話した。
梨沙はすぐ来てくれた。
二人でブラウスを見た。
梨沙にも見えていた。
青い安全ピン。
札。
お預かり準備中
「これ、寺とか神社とか?」
梨沙が言った。
「そういうやつ?」
「分からない」
「でも、もう着ない方がいいよ」
「着るわけない」
「あと、あの店にも行かないでね」
遥は頷いた。
でも、その夜。
夢ではない。
起きていた。
部屋のドアの向こうから、ベルの音がした。
ちりん。
クリーニング店の入口のベル。
次に、女性の声。
「お引き取り、まだでしょうか」
遥は布団の中で固まった。
クローゼットの中から、同じ声がした。
「本日中に」
その日が、いつのことなのか。
もう分からなかった。
⸻
それから遥は、白い服を着なくなった。
ブラウスは今もクローゼットの中にある。
何度捨てても戻るから、もう諦めた。
青い安全ピンは外れない。
札の文字は、日によって変わる。
仕上げ中
乾燥中
たたみ待ち
そして、たまに。
本人未回収
その文字を見ると、足元が冷える。
私はここにいる。
回収されていない。
そう思うのに。
鏡を見ると、前より少し白くなった気がする。
肌ではない。
表情が。
感情の色が。
怒りも、不安も、悲しみも。
全部、少しずつ薄くなっている。
梨沙は今でも言う。
「怒っていいんだよ」
「嫌って言っていいんだよ」
「汚れじゃないんだよ」
そう言われると、胸の奥で何かが少しだけ熱くなる。
まだ残っている。
落ちきっていない。
だから、私はその熱を大事にしている。
たぶん、これが最後の汚れだ。
落とされたら、きっと私は真っ白になる。
真っ白になって。
誰かのクローゼットに。
きれいに吊るされる。




