二名様でよろしいですか
八月の昼だった。
外は、焼けるみたいに暑かった。
駅前のアスファルトが白く光っている。
信号待ちをしているだけで、腕に汗が浮く。
高瀬小夜は、大学の課題も、バイトのシフトも、人間関係も、全部いったん置いておきたかった。
置いておく場所がないから、カラオケに来た。
一人カラオケ。
誰にも気を遣わなくていい。
好きな曲だけ入れられる。
下手でも誰も笑わない。
冷房も効いている。
文明が珍しく人間に優しい瞬間である。
まあ、その優しさもだいたい別料金だが。
小夜は駅前のカラオケ店に入った。
自動ドアが開く。
冷房の風が顔に当たる。
生き返った。
受付には、若い店員がいた。
「いらっしゃいませ。二名様でよろしいですか?」
小夜は振り返った。
後ろには誰もいない。
「一人です」
「あ、失礼しました。一名様ですね」
店員は端末を操作した。
「機種はどうされますか」
「空いてるので大丈夫です」
「では、208号室です」
カードキーとドリンクバーのコップを渡された。
その時、店員がもう一度だけ、小夜の後ろを見た。
ほんの一瞬。
小夜は、少しだけ嫌な感じがした。
⸻
【LINE】
13:12 小夜
一人カラオケ来た
13:12 美玖
いいな
13:13 小夜
涼しい
もうここに住みたい
13:13 美玖
カラオケに住む女
13:14 小夜
受付で二名様って言われた
13:14 美玖
後ろに誰かいたんじゃない?
13:15 小夜
やめて
13:15 美玖
冗談
13:15 小夜
夏に言う冗談じゃない
⸻
208号室は、奥の方だった。
細い廊下を進む。
壁には、キャンペーンポスターが貼ってある。
夏限定フロート。
学割。
歌い放題。
208号室のドアを開ける。
中は普通のカラオケルームだった。
黒いソファ。
低いテーブル。
壁のモニター。
マイク二本。
タンバリン。
曲予約リモコン。
小夜は荷物を置き、ドリンクバーで取ってきたメロンソーダをテーブルに置いた。
部屋は涼しい。
少し寒いくらい。
「最高」
小夜はソファに座った。
リモコンを手に取る。
画面をつける。
そこで、手が止まった。
予約履歴に、曲が入っていた。
三曲。
小夜はまだ何も入れていない。
前の客の履歴だろうか。
でも、予約中の欄に表示されている。
一曲目。
夏の終わりに呼ばないで
知らない曲。
二曲目。
ひとりぶんの声
知らない。
三曲目。
二人目の練習
もっと知らない。
「何これ」
小夜は予約を消そうとした。
削除ボタンを押す。
反応しない。
もう一度押す。
画面に表示が出た。
同席者の予約は削除できません
「同席者?」
小夜は部屋を見回した。
誰もいない。
ソファの反対側も空いている。
ドアも閉まっている。
小夜は店員に言おうか迷った。
でも、すぐに画面が変わった。
予約曲が消えた。
代わりに、通常の検索画面になる。
「バグか」
そう思うことにした。
機械はよくバグる。
人間社会の大半もバグっているので、今さらである。
小夜は好きな曲を一曲入れた。
イントロが流れる。
マイクを持つ。
歌い始める。
最初は普通だった。
少し声がかすれる。
寝不足のせいだ。
一番のサビに入った時。
誰かの声が重なった。
小夜は歌うのをやめた。
音楽だけが流れる。
部屋は静か。
「……え?」
今のは、自分の声じゃない。
女の声。
小夜より少し低い。
でも、音程は合っていた。
まるで、横で一緒に歌っていたみたいに。
小夜はマイクを下ろした。
採点画面を見る。
そこには、こう表示されていた。
参加者:小夜/未入力
「未入力……?」
小夜はリモコンを手に取った。
人数設定を見る。
2名
一名に変更する。
変更完了。
ほっとした瞬間、画面が勝手に戻った。
2名
⸻
【LINE】
13:31 小夜
なんか変なんだけど
13:31 美玖
もう?
13:32 小夜
予約してない曲入ってた
13:32 美玖
前の人の履歴じゃなくて?
13:33 小夜
同席者の予約は消せませんって出た
13:33 美玖
一人だよね?
13:33 小夜
一人
13:34 美玖
部屋変えてもらいな
13:34 小夜
まだ一曲しか歌ってないのに
13:35 美玖
惜しむところじゃないって
⸻
その通りだった。
でも、小夜は動かなかった。
怖いのに、まだ「店員に言うほどではない」と思っている。
人間の判断、恐怖に対してだいぶ鈍いのかもしれない。
小夜は、確認のためにもう一曲入れた。
明るい曲。
絶対に怖くならなさそうな、夏っぽい曲。
イントロが流れる。
歌い出し。
今度は、慎重に歌った。
一人。
声は一人。
大丈夫。
そう思ったところで、画面の歌詞が一瞬だけ変わった。
本来の歌詞ではない。
白い文字で、こう出た。
そっちが先に歌って
小夜は声を止めた。
音楽は続く。
画面はすぐ元に戻る。
でも、マイクから小さく声がした。
「そっちが先」
小夜はマイクを落としそうになった。
スピーカーからではない。
マイクの中から。
いや、マイクのすぐ近くから。
誰かが小さく囁いたみたいだった。
その時、テーブルのタンバリンが鳴った。
しゃん。
一回だけ。
小夜は固まった。
タンバリンはテーブルの上。
触っていない。
しゃん。
もう一回。
音楽のリズムに合っている。
タンバリンが、少しずつ揺れていた。
小夜はマイクを切った。
リモコンで曲を停止する。
曲は止まった。
部屋が静かになる。
冷房の音だけがしている。
画面には採点結果が出た。
小夜さん:68点
その下。
未入力さん:測定中
そして、さらに下。
声が安定してきました
⸻
【LINE】
13:42 小夜
タンバリン鳴った
13:42 美玖
誰かいるじゃん
13:43 小夜
いない
13:43 美玖
カメラない?
13:43 小夜
探したくない
13:44 美玖
店員呼んで
13:44 小夜
受付まで遠いし
13:45 美玖
内線あるでしょ
13:45 小夜
押したら部屋の中で音鳴りそう
13:46 美玖
怖がり方が具体的で嫌だね
⸻
その時、小夜の画面に新しいメッセージが出た。
美玖から。
⸻
13:46 美玖
次は私が歌うね
⸻
すぐ下に、本物の美玖から。
⸻
13:47 美玖
今の送ってない
13:47 美玖
小夜
部屋出た方がいいよ
13:47 美玖
今すぐ
⸻
小夜は立ち上がった。
荷物を掴む。
ドアへ向かう。
しかし、モニターに表示が出た。
退室前に、同席者の歌唱を終了してください。
ドアノブを回す。
開かない。
鍵なんてないはずなのに。
内側から開かない。
「うそ」
小夜はドアを押した。
開かない。
背後で、マイクが勝手に入った。
スピーカーから、息を吸う音。
すう。
誰かが歌う前の息。
モニターに、知らない曲名が表示された。
二人目の練習
イントロは流れない。
かわりに、カウントだけ。
3。
2。
1。
小夜の声が、スピーカーから流れた。
「一人カラオケ来た」
小夜は凍りついた。
それは、さっきLINEで送った文だった。
でも、声は小夜のものだった。
録音?
いつ?
続けて、別の声。
少し低い女の声。
「涼しい。もうここに住みたい」
小夜の文面を、声が読んでいる。
口調を真似ている。
美玖とのLINEの内容。
小夜の言葉。
それを、誰かが練習している。
モニターに歌詞のように表示される。
一人カラオケ来た
涼しい
もうここに住みたい
低い声が、何度も繰り返す。
だんだん、小夜の声に近づいていく。
「一人カラオケ来た」
「一人カラオケ来た」
「一人カラオケ来た」
最後は、ほとんど小夜の声だった。
小夜は耳を塞いだ。
その時、美玖から電話がかかってきた。
画面に出る。
小夜は迷わず出た。
⸻
【通話】
美玖
「小夜、聞こえる?」
小夜
「聞こえる」
美玖
「今すぐマイク二本とも抜いて」
小夜
「抜く?」
美玖
「コード。分かんなかったら電源切って」
小夜
「ドア開かない」
美玖
「歌わせちゃだめ。返事もしちゃだめ」
小夜
「私の声で喋ってる」
美玖
「とにかく発声させないで」
⸻
その言葉で、小夜は動いた。
テーブルに戻る。
マイク二本。
一本目のスイッチを切る。
二本目も切る。
でも、二本目のマイクは、ほんの少し温かかった。
誰かが握っていたみたいに。
小夜は震えながら、マイクをソファの上へ投げた。
次に、リモコン。
電源ボタン長押し。
画面が暗くなる。
モニターはまだついている。
小夜は本体の電源ボタンを探した。
壁際の機械。
ボタンを押す。
音がぶつっと切れた。
部屋が静かになった。
本当に静かだった。
タンバリンも止まっている。
小夜は息を殺した。
その瞬間、ドアのロックが外れる音がした。
かちゃ。
小夜はすぐにドアを開けた。
廊下へ出る。
明るい。
普通の廊下。
他の部屋から歌声が漏れている。
受付の方へ走る。
後ろは見なかった。
でも、208号室の中から、小さく声がした。
「まだ、歌えますよ」
小夜の声だった。
⸻
受付に着くと、店員が驚いた顔をした。
「お客様、大丈夫ですか?」
「部屋、変えてください」
「何か不具合が?」
「208号室」
その番号を言った瞬間、店員の顔が少し変わった。
ほんの一瞬。
でも小夜には分かった。
知っている顔だった。
「……すみません。すぐ確認します」
「私、一人ですよね」
店員は黙った。
「受付で二名って言いましたよね」
「申し訳ございません。こちらの入力ミスです」
「本当に?」
店員は答えなかった。
かわりに、会計処理を始めた。
「本日は料金、結構です」
「まだ時間残ってますけど」
「大丈夫です」
大丈夫ではない。
完全に。
でも小夜は、もう店にいたくなかった。
荷物を持って、出入口へ向かう。
店員が、レシートだけ渡してきた。
「こちら、控えです」
小夜は受け取った。
外に出てから見た。
レシートには、こう印字されていた。
ご利用人数:2名
208号室
歌唱者:高瀬小夜/未入力
未入力様 次回登録待ち
小夜はその場でレシートを折った。
捨てようと思った。
でも、なぜか捨てられなかった。
⸻
【LINE】
14:08 小夜
出た
14:08 美玖
よかった
14:08 美玖
今どこ
14:09 小夜
店の外
14:09 美玖
もう帰って
14:09 小夜
レシート2名になってる
14:10 美玖
レシート捨てた方がいいよ
14:10 小夜
捨てたい
14:11 美玖
捨てられないやつ?
14:11 小夜
たぶん
14:12 美玖
嫌な「たぶん」だね。やめてくれるかな
⸻
小夜はそのまま帰った。
その夜、レシートを机の引き出しに入れた。
見えるところに置きたくなかった。
スマホのカラオケアプリも削除した。
もう一人カラオケはしばらく無理だと思った。
けれど、翌朝。
消したはずのアプリから通知が来た。
⸻
【カラオケアプリ】
08:08
前回の続きから歌いますか?
⸻
小夜はすぐにアプリ一覧を見た。
アプリはない。
消えている。
なのに、通知だけがある。
通知を開くか迷った。
開いたら負けだと思った。
でも、指が触れてしまった。
画面が黒くなり、音声だけが流れた。
ノイズ。
それから、歌声。
小夜の声に似た声。
でも、ほんの少し違う。
低くて、息が足りない。
その声が、メロディもなく歌っていた。
「たかせ、さよ」
「たかせ、さよ」
「たかせ、さよ」
名前だけを、何度も。
最後に、別の声が重なった。
「次は、登録します」
小夜はスマホの電源を落とした。
手が震えていた。
⸻
それから、小夜はカラオケ店に行っていない。
友達に誘われても断っている。
理由は言っていない。
「喉の調子悪い」とか、適当なことを言っている。
でも本当は、歌うのが怖い。
自分の声が、またどこかへ保存される気がするから。
あの208号室に。
未入力の誰かが、まだいる。
小夜の声を練習している。
小夜の言葉を覚えている。
小夜の名前を歌えるようになっている。
この前、美玖と通話していた時。
ふと、会話が途切れた。
その数秒の沈黙のあと。
美玖が言った。
「今、何か歌った?」
「歌ってない」
「でも、聞こえた」
「何が」
「小夜の声で」
美玖は少し黙った。
「二人でよろしいですか、って」
小夜は、何も言えなかった。
あの日のレシートは、まだ引き出しにある。
捨てられない。
たまに、紙の端が少し温かくなっている。
そして、裏面に薄く文字が浮かぶ。
未入力様の登録が完了しました。
その下に、まだ空白がある。
たぶん、次に入る名前のための空白だ。
小夜はその空白を見るたびに、声を出さないようにしている。
名前を呼ばれても。
返事をしないように。
だって、カラオケは歌う場所だ。
でも、あの部屋にとっては。
声を集める場所だったのかもしれない。




