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怖い話_続  作者: 三葉


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17/25

トンネルを抜けるまで

夏が始まったばかりだった。


まだ七月の頭。


でも、もう十分暑かった。


朝から蝉が鳴いていたし、駅まで歩いただけで制服の背中が湿った。


翔太は高校三年生だった。


受験生。


その言葉だけで、毎日が少し重い。


父は医者。

母は看護師。


家の中には、悪気のない期待があった。


「翔太なら大丈夫」

「今が一番大事」

「ここを乗り切れば楽になる」


大人はすぐ、乗り切れば楽になると言う。


でも、乗り切る前にこっちが沈みそうな時の説明書はくれない。

人間、応援という名の圧力鍋を開発しすぎである。


その日も、翔太は塾へ向かっていた。


学校は午前で終わり。

午後から自習室。

夜は映像授業。


寝不足だった。


昨日も、問題集を開いたまま机で寝落ちした。


朝は母に起こされた。


「塩分も取りなさい」


そう言って、塩おにぎりを一つ持たされた。


ラップに包まれた、ただの塩おにぎり。


翔太はそれを鞄に入れて、駅へ向かった。



【LINE】


13:14 真尋

今日も塾?


13:14 翔太


13:15 真尋

生きてる?


13:15 翔太

形式上は


13:15 真尋

受験生の返事じゃなくて終末の兵士みたいだね


13:16 翔太

眠い


13:16 真尋

寝なさいね?


13:17 翔太

寝たら罪悪感が来るんだよ


13:17 真尋

その罪悪感、受験産特有の妖怪じゃん


13:18 翔太

だいぶ手強いんだ



電車に乗った。


昼過ぎの車内は空いていた。


窓際の席に座る。


冷房は効いている。


はずだった。


翔太はスマホを見たまま、鞄から塩おにぎりを出した。


少しだけ食べようと思った。


でも、ラップを開ける前に眠気がきた。


ほんの数秒、意識が落ちた。


たぶん、そのくらいだった。


電車の揺れで、はっと目を開ける。


スマホから顔を上げた。


そこで、違和感に気づいた。


エアコンが古い。


天井近くについている、四角い機械。


白いはずなのに、黄ばんでいる。


吹き出し口も今の車両と違う。


妙に大きい。


「……あれ?」


さっき乗った時、こんなんだったっけ。


翔太は車内を見回した。


広告も古かった。


文字のフォントが、どこか昔っぽい。


商品の写真も、色が薄い。


旅行案内のポスターには、見たことのない観光地名。


隣の吊り広告には、こう書かれていた。


夏こそ、涼しき車内で読書を


言い回しが古い。


いや、広告全体が古い。


窓の外を見る。


外は現代だった。


駅前のビル。

コンビニ。

マンション。

踏切の横のドラッグストア。


全部、いつもの景色。


でも、車内だけが違う。


翔太はスマホを見た。


アンテナは一本。


LINEは開ける。


けれど、画面の上に変なノイズが走っていた。



【LINE】


13:27 翔太

なんか電車古い気がする


13:27 真尋

何それー?


13:28 翔太

エアコンが古い

広告も古い


13:28 真尋

鉄オタ覚醒?


13:29 翔太

違う

さっきまで普通だったんだ


13:29 真尋

寝不足で幻覚見てるんじゃね


13:30 翔太

、、、否定できない


13:30 真尋

水飲め

あと飯食え



翔太は塩おにぎりを見た。


母が握ったもの。


ラップの中で、米粒が少し潰れている。


食べようとした時。


鞄の中から、小さなものが落ちた。


膝の上に転がる。


丸い磁石だった。


五円玉くらいの大きさ。


黒っぽい金属。


真ん中に小さな穴が開いている。


祖父のものだった。


小さい頃、祖父がくれた。


「方角が分からなくなったら、これを持っておけ」


そう言っていた。


方位磁石ではない。


ただの丸い磁石だ。


翔太は子どもの頃、それを不思議がっていた。


「これ、北分かんないじゃん」


祖父は笑っていた。


「北より大事なものにくっつくんだ」


意味が分からなかった。


今も分からない。


でも、捨てられずに筆箱の奥へ入れていた。


いつの間にか鞄へ移して、そのままだった。


磁石は、翔太の膝の上で少し震えていた。


電車の揺れとは違う。


かすかに、何かに引かれているみたいに。


その時、車両の連結部のドアが開いた。


入ってきたのは、女学生たちだった。


三人。


制服が古い。


今の高校の制服とは違う。


襟の形。

スカートの丈。

髪型。

持っている鞄。


全部、少し昔の映画みたいだった。


いや、かなり昔かもしれない。


彼女たちは、翔太を見るなり足を止めた。


そして、顔を見合わせた。


「まあ」


一人が言った。


「男の子?」


別の一人が、目を輝かせた。


「可愛いわね」


翔太は固まった。


「え」


三人が近づいてくる。


距離が近い。


近すぎる。


電車内の知らない人との距離ではない。


「その服、何?」


「制服ですけど」


「変わってる」


「すごくハイカラ!」


「ハイカラ……?」


翔太は、その言葉を口の中で繰り返した。


使う人を初めて見た。


女学生の一人が、翔太のネクタイを見た。


「これ、結ぶの?」


「まあ」


「お洒落ねえ」


「いや、普通です」


「うそ。見たことないもの」


別の一人が、翔太のスマホを指さした。


「それ、何?」


「スマホ」


「すまほ?」


「電話みたいな」


「こんな板で?」


「まあ」


「未来の人みたい!」


三人はきゃあ、と笑った。


怖い。


普通に怖い。


でも、悪意はなかった。


どちらかというと、珍しい動物を見つけたみたいな反応だった。


翔太は内心で思った。


こっちは疲れてるだけなんですけど。


未来人扱いは業務外です。



【LINE】


13:36 翔太

変な女学生に絡まれてる


13:36 真尋

通報案件?


13:37 翔太

いや

昔の人っぽい


13:37 真尋

寝不足で幻覚見てるの?はやく寝ろし


13:38 翔太

俺もそう思う


13:38 真尋

いや本気でやばそうなら次で降りなね?


13:39 翔太

次の駅名が読めない


13:39 真尋

何でだよ



車内アナウンスが流れた。


でも、駅名が聞き取れなかった。


音が歪んでいる。


「次は、――」


肝心なところだけ、水の中みたいにぼやける。


電光掲示板も、文字が潰れて見えた。


外の景色はまだ現代だ。


でも、車内はどんどん古くなる。


床の模様。

座席の色。

窓枠。

吊り革。


翔太が瞬きをするたび、少しずつ時代がずれていく。


向かいの席には、いつの間にか和服の女性が座っていた。


新聞を読む男性もいる。


大きな荷物を抱えた老人。


麦わら帽子の子ども。


みんな、翔太を少しだけ見る。


でも、何も言わない。


女学生たちだけが、やけに元気だった。


「ねえ、握手してよ」


一人が言った。


「握手?」


「未来の人と握手したら、受験に受かる気がする」


「なんで」


「知らないけど、縁起がいいじゃない」


「俺、未来の人じゃないです」


「でも服がハイカラ」


「その理由で未来判定されるの雑すぎません?」


女学生たちは笑った。


その笑い声が、車内で妙に明るく響いた。


「あなた、学生さん?」


「はい」


「何を勉強しているの?」


「・・・受験勉強です」


「受験!」


三人が顔を見合わせた。


「大変ねえ」


「毎日?」


「はい。毎日」


「好きで?」


翔太は、そこで黙った。


好きで?


その質問は、予想していなかった。


好きで勉強しているのか。


医者の父。

看護師の母。

周りの期待。

模試の判定。

偏差値。

合格可能性。

志望校。


そういうものが、頭の中で重なった。


「分からないです」


翔太は言った。


「しなきゃいけないから、してます」


女学生たちは、今度は笑わなかった。


一人が、少し首を傾げた。


「しなきゃいけないことばかりだと、つまらないわね」


「でも、やらないと落ちるので」


「落ちたら終わりなの?」


「終わりじゃないけど」


「じゃあ、少しは休んでもいいんじゃない?」


その言葉に、翔太は返せなかった。


同じことを、何人にも言われた。


親にも。

先生にも。

友人にも。


でも、休めと言われるたびに、休んだ時間だけ置いていかれる気がした。


女学生の一人が、翔太の手元を見た。


「それ、おにぎり?」


「あ、はい」


「食べないの?」


「今食べようと」


「食べなさいよ」


「え」


「お腹が空いてたら、頭なんて働かないわ」


ものすごく普通のことを言われた。


しかも、強い。


翔太は押されるように、塩おにぎりを開けた。


一口食べる。


塩気。


米の甘み。


やけにおいしかった。


胃の底に、温かいものが落ちていく感じがした。


女学生たちは満足そうにうなずいた。


「ほら、可愛い」


「食べてるところも可愛い」


「いや、やめてください」


「照れてる」


「未来の男子も照れるのね」


「未来じゃないですって」


怖いはずなのに。


翔太は、少しだけ笑ってしまった。


笑ったのは、久しぶりだった。



電車は、田んぼの横を走っていた。


現代の街並みは、いつの間にか消えていた。


外には、低い家。

細い道。

土の畑。

電線の少ない空。


空だけが広い。


本当に、過去へ来たのかもしれない。


そう思った時、丸い磁石が手の中で強く震えた。


磁石は、車両の先頭ではなく、翔太の鞄の中を指すように引っ張られている。


いや、違う。


スマホ。


磁石は、スマホの方へ引かれていた。


スマホの画面に、真尋からのLINEが表示されている。



【LINE】


13:47 真尋

翔太?


13:47 真尋

既読ついてる?


13:48 真尋

おい


13:48 真尋

次トンネル入るぞ


13:48 真尋

その電車いつものなら

トンネル抜けたら駅近い


13:49 真尋

寝るなよ



トンネル。


翔太は前を見る。


線路の先に、黒い口が見えた。


山を抜ける短いトンネル。


いつもなら、ただ数十秒暗くなるだけの場所。


でも、今は違った。


トンネルの入口が、やけに大きく見える。


女学生の一人が言った。


「もう戻るのね」


「分かるんですか」


「だって、あなたの持ち物が騒いでいるもの」


彼女は磁石を見た。


「丸い石」


「磁石です」


「おじいさまの?」


翔太は息を止めた。


「なんで分かるんですか」


女学生は微笑んだ。


「古いものは、古い方へも、新しい方へも、道を知っているの」


意味は分からない。


でも、何となく分かった気がした。


祖父の磁石。


真尋のLINE。


母の塩おにぎり。


その三つが、翔太を今の世界へ引っ張っている。


トンネルが近づく。


女学生たちは、一斉に翔太を見た。


「ねえ、最後に握手して」


「まだ言うんですか」


「だって、未来の人だもの」


「違いますって」


「じゃあ、疲れきってる今の君」


その言い方に、翔太は少し笑った。


「それなら、合ってます」


翔太は手を出した。


女学生の手は、ひんやりしていた。


でも、ちゃんと人の手だった。


一人。


二人。


三人。


三人目の女学生が、握手したまま言った。


「あなた、可愛いけど」


「まだ言います?」


「可愛いだけじゃだめよ」


「え」


「ちゃんと寝て、食べて、怒って、笑って、それから勉強なさい」


翔太は、何も言えなかった。


「大人の期待だけでできた道は、歩くと足が痛くなるわ」


その声は、妙に静かだった。


「自分の足も見なさい」


トンネルに入った。


車内が暗くなる。


窓の外が黒になる。


その瞬間、古い車内の音が全部遠ざかった。


女学生たちの声。


車輪の音。


古い広告。


黄ばんだエアコン。


すべてが水の中へ沈んでいくようだった。


スマホが震えた。



【LINE】


13:51 真尋

起きろ〜!


13:51 真尋

翔太!


13:51 真尋

トンネル抜ける



磁石が、ぱちん、と音を立てた。


スマホの裏にくっついた。


小さな火花みたいな光が見えた気がした。


翔太は、目を閉じた。


次に開いた時。


電車は、現代に戻っていた。


エアコンは新しい。


広告も普通。


乗客はスマホを見ている。


学生も会社員もいる。


女学生たちは、いない。


向かいの席には、イヤホンをつけた男性が座っていた。


窓の外には、いつもの街並み。


トンネルを抜けた先の駅が近づいている。


アナウンスが流れた。


聞き慣れた駅名。


翔太は、自分の手を見た。


さっき握手した感触が残っていた。


ひんやりした手。


少しだけ強い握り方。


スマホを見る。


真尋からLINEが来ている。



【LINE】


13:53 真尋

返事しろし!


13:53 翔太

戻った


13:53 真尋

どこから?


13:54 翔太

分からん


13:54 真尋

怖いこと言うなよ


13:55 翔太

古い電車にいた


13:55 真尋

寝不足じゃん?


13:55 翔太

たぶん


13:56 真尋

おにぎり食べた?


13:56 翔太

食べた


13:56 真尋

じゃあいいや


13:57 翔太

よくないだろ


13:57 真尋

でもさっきより少し元気そう



確かに。


体が少し軽かった。


眠気が消えたわけではない。


受験の不安がなくなったわけでもない。


でも、頭の中に詰まっていた重たい霧が、少し晴れた気がした。


翔太は、塩おにぎりの残りを食べた。


その包みを畳もうとして、手が止まった。


ラップの内側に、何か文字がついていた。


米粒の跡ではない。


インクでもない。


薄い、古い鉛筆のような文字。



寝てから励みなさい。



翔太はしばらくそれを見ていた。


そして、少し笑った。


「強いな、あの人たち」


トンネルを抜けてから、翔太は塾へ行った。


自習室に入った。


参考書を開いた。


でも、三十分だけ仮眠を取った。


罪悪感はあった。


けれど、不思議と少なかった。


その後の勉強は、いつもより頭に入った。


夜、家に帰ると、母が言った。


「顔色、少し良くなった?」


翔太は、少し迷ってから答えた。


「おにぎり、助かった」


母は少し驚いて、それから笑った。


「明日も作る?」


「うん」


「塩でいい?」


「塩で」


父には、模試の話をされた。


いつもなら胃が縮んだ。


でも、その日は少し違った。


「今日は眠いから、明日話していい?」


そう言えた。


父は一瞬驚いた顔をした。


けれど、頷いた。


「そうだな。寝なさい」


たったそれだけ。


でも、翔太には大きかった。



それからも、受験勉強の日々は続いた。


何もかもが楽になったわけではない。


模試は難しい。

判定は揺れる。

親の期待は重い。

睡眠はまだ足りない日もある。


でも、翔太は前より少しだけ休むようになった。


塩おにぎりを食べるようになった。


眠い時は、二十分だけ寝るようになった。


真尋には、たまに言われる。



【LINE】


22:11 真尋

今日は寝ろ!


22:11 翔太

まだ数学残ってる


22:12 真尋

過去の女学生に怒られるぞ〜?


22:12 翔太

あの人たち推し強いからな


22:13 真尋

握手求めてくる過去の女学生、情報量多すぎ


22:13 翔太

俺も未だに信じてない


22:14 真尋

でも元気になったならいいんじゃね


22:14 翔太

まあ


22:15 翔太

ちょっとだけ楽になった



祖父の丸い磁石は、今も筆箱に入れている。


スマホの近くに置くと、たまに勝手にくっつく。


それは普通の磁石だから、当たり前かもしれない。


でも、電車に乗ってトンネルが近づくと。


ごくたまに。


その磁石が、小さく震える。


そんな時、翔太は顔を上げる。


エアコンを見る。

広告を見る。

乗客を見る。


全部、現代のまま。


それでも一瞬だけ、窓ガラスに女学生たちの影が映ることがある。


三人並んで、楽しそうに笑っている。


そのうちの一人が、口の形だけで言う。


寝なさい


翔太は苦笑する。


そして、その日は少し早く寝る。


受験はまだ終わっていない。


未来も決まっていない。


でも、あの古い電車で握手した女学生たちのことを思い出すと、少しだけ肩の力が抜ける。


あれは怪異だったのか。


過去へ飛んだのか。


寝不足の幻覚だったのか。


分からない。


ただ、ひとつだけ確かなことがある。


あの時、翔太は現代に戻ってきた。


そして、前より少しだけ、自分の足元を見るようになった。


トンネルを抜けるたびに思う。


過去の人に「可愛い」と言われるのは、かなり戸惑う。


でも。


「ちゃんと寝なさい」と言われたことだけは。


案外、今の自分に一番必要だったのかもしれない。

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