トンネルを抜けるまで
夏が始まったばかりだった。
まだ七月の頭。
でも、もう十分暑かった。
朝から蝉が鳴いていたし、駅まで歩いただけで制服の背中が湿った。
翔太は高校三年生だった。
受験生。
その言葉だけで、毎日が少し重い。
父は医者。
母は看護師。
家の中には、悪気のない期待があった。
「翔太なら大丈夫」
「今が一番大事」
「ここを乗り切れば楽になる」
大人はすぐ、乗り切れば楽になると言う。
でも、乗り切る前にこっちが沈みそうな時の説明書はくれない。
人間、応援という名の圧力鍋を開発しすぎである。
その日も、翔太は塾へ向かっていた。
学校は午前で終わり。
午後から自習室。
夜は映像授業。
寝不足だった。
昨日も、問題集を開いたまま机で寝落ちした。
朝は母に起こされた。
「塩分も取りなさい」
そう言って、塩おにぎりを一つ持たされた。
ラップに包まれた、ただの塩おにぎり。
翔太はそれを鞄に入れて、駅へ向かった。
⸻
【LINE】
13:14 真尋
今日も塾?
13:14 翔太
塾
13:15 真尋
生きてる?
13:15 翔太
形式上は
13:15 真尋
受験生の返事じゃなくて終末の兵士みたいだね
13:16 翔太
眠い
13:16 真尋
寝なさいね?
13:17 翔太
寝たら罪悪感が来るんだよ
13:17 真尋
その罪悪感、受験産特有の妖怪じゃん
13:18 翔太
だいぶ手強いんだ
⸻
電車に乗った。
昼過ぎの車内は空いていた。
窓際の席に座る。
冷房は効いている。
はずだった。
翔太はスマホを見たまま、鞄から塩おにぎりを出した。
少しだけ食べようと思った。
でも、ラップを開ける前に眠気がきた。
ほんの数秒、意識が落ちた。
たぶん、そのくらいだった。
電車の揺れで、はっと目を開ける。
スマホから顔を上げた。
そこで、違和感に気づいた。
エアコンが古い。
天井近くについている、四角い機械。
白いはずなのに、黄ばんでいる。
吹き出し口も今の車両と違う。
妙に大きい。
「……あれ?」
さっき乗った時、こんなんだったっけ。
翔太は車内を見回した。
広告も古かった。
文字のフォントが、どこか昔っぽい。
商品の写真も、色が薄い。
旅行案内のポスターには、見たことのない観光地名。
隣の吊り広告には、こう書かれていた。
夏こそ、涼しき車内で読書を
言い回しが古い。
いや、広告全体が古い。
窓の外を見る。
外は現代だった。
駅前のビル。
コンビニ。
マンション。
踏切の横のドラッグストア。
全部、いつもの景色。
でも、車内だけが違う。
翔太はスマホを見た。
アンテナは一本。
LINEは開ける。
けれど、画面の上に変なノイズが走っていた。
⸻
【LINE】
13:27 翔太
なんか電車古い気がする
13:27 真尋
何それー?
13:28 翔太
エアコンが古い
広告も古い
13:28 真尋
鉄オタ覚醒?
13:29 翔太
違う
さっきまで普通だったんだ
13:29 真尋
寝不足で幻覚見てるんじゃね
13:30 翔太
、、、否定できない
13:30 真尋
水飲め
あと飯食え
⸻
翔太は塩おにぎりを見た。
母が握ったもの。
ラップの中で、米粒が少し潰れている。
食べようとした時。
鞄の中から、小さなものが落ちた。
膝の上に転がる。
丸い磁石だった。
五円玉くらいの大きさ。
黒っぽい金属。
真ん中に小さな穴が開いている。
祖父のものだった。
小さい頃、祖父がくれた。
「方角が分からなくなったら、これを持っておけ」
そう言っていた。
方位磁石ではない。
ただの丸い磁石だ。
翔太は子どもの頃、それを不思議がっていた。
「これ、北分かんないじゃん」
祖父は笑っていた。
「北より大事なものにくっつくんだ」
意味が分からなかった。
今も分からない。
でも、捨てられずに筆箱の奥へ入れていた。
いつの間にか鞄へ移して、そのままだった。
磁石は、翔太の膝の上で少し震えていた。
電車の揺れとは違う。
かすかに、何かに引かれているみたいに。
その時、車両の連結部のドアが開いた。
入ってきたのは、女学生たちだった。
三人。
制服が古い。
今の高校の制服とは違う。
襟の形。
スカートの丈。
髪型。
持っている鞄。
全部、少し昔の映画みたいだった。
いや、かなり昔かもしれない。
彼女たちは、翔太を見るなり足を止めた。
そして、顔を見合わせた。
「まあ」
一人が言った。
「男の子?」
別の一人が、目を輝かせた。
「可愛いわね」
翔太は固まった。
「え」
三人が近づいてくる。
距離が近い。
近すぎる。
電車内の知らない人との距離ではない。
「その服、何?」
「制服ですけど」
「変わってる」
「すごくハイカラ!」
「ハイカラ……?」
翔太は、その言葉を口の中で繰り返した。
使う人を初めて見た。
女学生の一人が、翔太のネクタイを見た。
「これ、結ぶの?」
「まあ」
「お洒落ねえ」
「いや、普通です」
「うそ。見たことないもの」
別の一人が、翔太のスマホを指さした。
「それ、何?」
「スマホ」
「すまほ?」
「電話みたいな」
「こんな板で?」
「まあ」
「未来の人みたい!」
三人はきゃあ、と笑った。
怖い。
普通に怖い。
でも、悪意はなかった。
どちらかというと、珍しい動物を見つけたみたいな反応だった。
翔太は内心で思った。
こっちは疲れてるだけなんですけど。
未来人扱いは業務外です。
⸻
【LINE】
13:36 翔太
変な女学生に絡まれてる
13:36 真尋
通報案件?
13:37 翔太
いや
昔の人っぽい
13:37 真尋
寝不足で幻覚見てるの?はやく寝ろし
13:38 翔太
俺もそう思う
13:38 真尋
いや本気でやばそうなら次で降りなね?
13:39 翔太
次の駅名が読めない
13:39 真尋
何でだよ
⸻
車内アナウンスが流れた。
でも、駅名が聞き取れなかった。
音が歪んでいる。
「次は、――」
肝心なところだけ、水の中みたいにぼやける。
電光掲示板も、文字が潰れて見えた。
外の景色はまだ現代だ。
でも、車内はどんどん古くなる。
床の模様。
座席の色。
窓枠。
吊り革。
翔太が瞬きをするたび、少しずつ時代がずれていく。
向かいの席には、いつの間にか和服の女性が座っていた。
新聞を読む男性もいる。
大きな荷物を抱えた老人。
麦わら帽子の子ども。
みんな、翔太を少しだけ見る。
でも、何も言わない。
女学生たちだけが、やけに元気だった。
「ねえ、握手してよ」
一人が言った。
「握手?」
「未来の人と握手したら、受験に受かる気がする」
「なんで」
「知らないけど、縁起がいいじゃない」
「俺、未来の人じゃないです」
「でも服がハイカラ」
「その理由で未来判定されるの雑すぎません?」
女学生たちは笑った。
その笑い声が、車内で妙に明るく響いた。
「あなた、学生さん?」
「はい」
「何を勉強しているの?」
「・・・受験勉強です」
「受験!」
三人が顔を見合わせた。
「大変ねえ」
「毎日?」
「はい。毎日」
「好きで?」
翔太は、そこで黙った。
好きで?
その質問は、予想していなかった。
好きで勉強しているのか。
医者の父。
看護師の母。
周りの期待。
模試の判定。
偏差値。
合格可能性。
志望校。
そういうものが、頭の中で重なった。
「分からないです」
翔太は言った。
「しなきゃいけないから、してます」
女学生たちは、今度は笑わなかった。
一人が、少し首を傾げた。
「しなきゃいけないことばかりだと、つまらないわね」
「でも、やらないと落ちるので」
「落ちたら終わりなの?」
「終わりじゃないけど」
「じゃあ、少しは休んでもいいんじゃない?」
その言葉に、翔太は返せなかった。
同じことを、何人にも言われた。
親にも。
先生にも。
友人にも。
でも、休めと言われるたびに、休んだ時間だけ置いていかれる気がした。
女学生の一人が、翔太の手元を見た。
「それ、おにぎり?」
「あ、はい」
「食べないの?」
「今食べようと」
「食べなさいよ」
「え」
「お腹が空いてたら、頭なんて働かないわ」
ものすごく普通のことを言われた。
しかも、強い。
翔太は押されるように、塩おにぎりを開けた。
一口食べる。
塩気。
米の甘み。
やけにおいしかった。
胃の底に、温かいものが落ちていく感じがした。
女学生たちは満足そうにうなずいた。
「ほら、可愛い」
「食べてるところも可愛い」
「いや、やめてください」
「照れてる」
「未来の男子も照れるのね」
「未来じゃないですって」
怖いはずなのに。
翔太は、少しだけ笑ってしまった。
笑ったのは、久しぶりだった。
⸻
電車は、田んぼの横を走っていた。
現代の街並みは、いつの間にか消えていた。
外には、低い家。
細い道。
土の畑。
電線の少ない空。
空だけが広い。
本当に、過去へ来たのかもしれない。
そう思った時、丸い磁石が手の中で強く震えた。
磁石は、車両の先頭ではなく、翔太の鞄の中を指すように引っ張られている。
いや、違う。
スマホ。
磁石は、スマホの方へ引かれていた。
スマホの画面に、真尋からのLINEが表示されている。
⸻
【LINE】
13:47 真尋
翔太?
13:47 真尋
既読ついてる?
13:48 真尋
おい
13:48 真尋
次トンネル入るぞ
13:48 真尋
その電車いつものなら
トンネル抜けたら駅近い
13:49 真尋
寝るなよ
⸻
トンネル。
翔太は前を見る。
線路の先に、黒い口が見えた。
山を抜ける短いトンネル。
いつもなら、ただ数十秒暗くなるだけの場所。
でも、今は違った。
トンネルの入口が、やけに大きく見える。
女学生の一人が言った。
「もう戻るのね」
「分かるんですか」
「だって、あなたの持ち物が騒いでいるもの」
彼女は磁石を見た。
「丸い石」
「磁石です」
「おじいさまの?」
翔太は息を止めた。
「なんで分かるんですか」
女学生は微笑んだ。
「古いものは、古い方へも、新しい方へも、道を知っているの」
意味は分からない。
でも、何となく分かった気がした。
祖父の磁石。
真尋のLINE。
母の塩おにぎり。
その三つが、翔太を今の世界へ引っ張っている。
トンネルが近づく。
女学生たちは、一斉に翔太を見た。
「ねえ、最後に握手して」
「まだ言うんですか」
「だって、未来の人だもの」
「違いますって」
「じゃあ、疲れきってる今の君」
その言い方に、翔太は少し笑った。
「それなら、合ってます」
翔太は手を出した。
女学生の手は、ひんやりしていた。
でも、ちゃんと人の手だった。
一人。
二人。
三人。
三人目の女学生が、握手したまま言った。
「あなた、可愛いけど」
「まだ言います?」
「可愛いだけじゃだめよ」
「え」
「ちゃんと寝て、食べて、怒って、笑って、それから勉強なさい」
翔太は、何も言えなかった。
「大人の期待だけでできた道は、歩くと足が痛くなるわ」
その声は、妙に静かだった。
「自分の足も見なさい」
トンネルに入った。
車内が暗くなる。
窓の外が黒になる。
その瞬間、古い車内の音が全部遠ざかった。
女学生たちの声。
車輪の音。
古い広告。
黄ばんだエアコン。
すべてが水の中へ沈んでいくようだった。
スマホが震えた。
⸻
【LINE】
13:51 真尋
起きろ〜!
13:51 真尋
翔太!
13:51 真尋
トンネル抜ける
⸻
磁石が、ぱちん、と音を立てた。
スマホの裏にくっついた。
小さな火花みたいな光が見えた気がした。
翔太は、目を閉じた。
次に開いた時。
電車は、現代に戻っていた。
エアコンは新しい。
広告も普通。
乗客はスマホを見ている。
学生も会社員もいる。
女学生たちは、いない。
向かいの席には、イヤホンをつけた男性が座っていた。
窓の外には、いつもの街並み。
トンネルを抜けた先の駅が近づいている。
アナウンスが流れた。
聞き慣れた駅名。
翔太は、自分の手を見た。
さっき握手した感触が残っていた。
ひんやりした手。
少しだけ強い握り方。
スマホを見る。
真尋からLINEが来ている。
⸻
【LINE】
13:53 真尋
返事しろし!
13:53 翔太
戻った
13:53 真尋
どこから?
13:54 翔太
分からん
13:54 真尋
怖いこと言うなよ
13:55 翔太
古い電車にいた
13:55 真尋
寝不足じゃん?
13:55 翔太
たぶん
13:56 真尋
おにぎり食べた?
13:56 翔太
食べた
13:56 真尋
じゃあいいや
13:57 翔太
よくないだろ
13:57 真尋
でもさっきより少し元気そう
⸻
確かに。
体が少し軽かった。
眠気が消えたわけではない。
受験の不安がなくなったわけでもない。
でも、頭の中に詰まっていた重たい霧が、少し晴れた気がした。
翔太は、塩おにぎりの残りを食べた。
その包みを畳もうとして、手が止まった。
ラップの内側に、何か文字がついていた。
米粒の跡ではない。
インクでもない。
薄い、古い鉛筆のような文字。
⸻
寝てから励みなさい。
⸻
翔太はしばらくそれを見ていた。
そして、少し笑った。
「強いな、あの人たち」
トンネルを抜けてから、翔太は塾へ行った。
自習室に入った。
参考書を開いた。
でも、三十分だけ仮眠を取った。
罪悪感はあった。
けれど、不思議と少なかった。
その後の勉強は、いつもより頭に入った。
夜、家に帰ると、母が言った。
「顔色、少し良くなった?」
翔太は、少し迷ってから答えた。
「おにぎり、助かった」
母は少し驚いて、それから笑った。
「明日も作る?」
「うん」
「塩でいい?」
「塩で」
父には、模試の話をされた。
いつもなら胃が縮んだ。
でも、その日は少し違った。
「今日は眠いから、明日話していい?」
そう言えた。
父は一瞬驚いた顔をした。
けれど、頷いた。
「そうだな。寝なさい」
たったそれだけ。
でも、翔太には大きかった。
⸻
それからも、受験勉強の日々は続いた。
何もかもが楽になったわけではない。
模試は難しい。
判定は揺れる。
親の期待は重い。
睡眠はまだ足りない日もある。
でも、翔太は前より少しだけ休むようになった。
塩おにぎりを食べるようになった。
眠い時は、二十分だけ寝るようになった。
真尋には、たまに言われる。
⸻
【LINE】
22:11 真尋
今日は寝ろ!
22:11 翔太
まだ数学残ってる
22:12 真尋
過去の女学生に怒られるぞ〜?
22:12 翔太
あの人たち推し強いからな
22:13 真尋
握手求めてくる過去の女学生、情報量多すぎ
22:13 翔太
俺も未だに信じてない
22:14 真尋
でも元気になったならいいんじゃね
22:14 翔太
まあ
22:15 翔太
ちょっとだけ楽になった
⸻
祖父の丸い磁石は、今も筆箱に入れている。
スマホの近くに置くと、たまに勝手にくっつく。
それは普通の磁石だから、当たり前かもしれない。
でも、電車に乗ってトンネルが近づくと。
ごくたまに。
その磁石が、小さく震える。
そんな時、翔太は顔を上げる。
エアコンを見る。
広告を見る。
乗客を見る。
全部、現代のまま。
それでも一瞬だけ、窓ガラスに女学生たちの影が映ることがある。
三人並んで、楽しそうに笑っている。
そのうちの一人が、口の形だけで言う。
寝なさい
翔太は苦笑する。
そして、その日は少し早く寝る。
受験はまだ終わっていない。
未来も決まっていない。
でも、あの古い電車で握手した女学生たちのことを思い出すと、少しだけ肩の力が抜ける。
あれは怪異だったのか。
過去へ飛んだのか。
寝不足の幻覚だったのか。
分からない。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
あの時、翔太は現代に戻ってきた。
そして、前より少しだけ、自分の足元を見るようになった。
トンネルを抜けるたびに思う。
過去の人に「可愛い」と言われるのは、かなり戸惑う。
でも。
「ちゃんと寝なさい」と言われたことだけは。
案外、今の自分に一番必要だったのかもしれない。




