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怖い話_続  作者: 三葉


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17/27

トンネルを抜けるまで

夏が始まったばかりだった。


まだ七月の頭。


でも、もう十分暑かった。


朝から蝉が鳴いていたし、駅まで歩いただけで制服の背中が湿った。


翔太は高校三年生だった。


受験生。


その言葉だけで、毎日が少し重い。


父は医者。

母は看護師。


家の中には、悪気のない期待があった。


「翔太なら大丈夫」

「今が一番大事」

「ここを乗り切れば楽になる」


大人はすぐ、乗り切れば楽になると言う。


でも、乗り切る前にこっちが沈みそうな時の説明書はくれない。

人間、応援という名の圧力鍋を開発しすぎである。


その日も、翔太は塾へ向かっていた。


学校は午前で終わり。

午後から自習室。

夜は映像授業。


寝不足だった。


昨日も、問題集を開いたまま机で寝落ちした。


朝は母に起こされた。


「塩分も取りなさい」


そう言って、塩おにぎりを一つ持たされた。


ラップに包まれた、ただの塩おにぎり。


翔太はそれを鞄に入れて、駅へ向かった。


⸻


【LINE】


13:14 真尋

今日も塾?


13:14 翔太

塾


13:15 真尋

生きてる?


13:15 翔太

形式上は


13:15 真尋

受験生の返事じゃなくて終末の兵士みたいだね


13:16 翔太

眠い


13:16 真尋

寝なさいね?


13:17 翔太

寝たら罪悪感が来るんだよ


13:17 真尋

その罪悪感、受験産特有の妖怪じゃん


13:18 翔太

だいぶ手強いんだ


⸻


電車に乗った。


昼過ぎの車内は空いていた。


窓際の席に座る。


冷房は効いている。


はずだった。


翔太はスマホを見たまま、鞄から塩おにぎりを出した。


少しだけ食べようと思った。


でも、ラップを開ける前に眠気がきた。


ほんの数秒、意識が落ちた。


たぶん、そのくらいだった。


電車の揺れで、はっと目を開ける。


スマホから顔を上げた。


そこで、違和感に気づいた。


エアコンが古い。


天井近くについている、四角い機械。


白いはずなのに、黄ばんでいる。


吹き出し口も今の車両と違う。


妙に大きい。


「……あれ?」


さっき乗った時、こんなんだったっけ。


翔太は車内を見回した。


広告も古かった。


文字のフォントが、どこか昔っぽい。


商品の写真も、色が薄い。


旅行案内のポスターには、見たことのない観光地名。


隣の吊り広告には、こう書かれていた。


夏こそ、涼しき車内で読書を


言い回しが古い。


いや、広告全体が古い。


窓の外を見る。


外は現代だった。


駅前のビル。

コンビニ。

マンション。

踏切の横のドラッグストア。


全部、いつもの景色。


でも、車内だけが違う。


翔太はスマホを見た。


アンテナは一本。


LINEは開ける。


けれど、画面の上に変なノイズが走っていた。


⸻


【LINE】


13:27 翔太

なんか電車古い気がする


13:27 真尋

何それー?


13:28 翔太

エアコンが古い

広告も古い


13:28 真尋

鉄オタ覚醒?


13:29 翔太

違う

さっきまで普通だったんだ


13:29 真尋

寝不足で幻覚見てるんじゃね


13:30 翔太

、、、否定できない


13:30 真尋

水飲め

あと飯食え


⸻


翔太は塩おにぎりを見た。


母が握ったもの。


ラップの中で、米粒が少し潰れている。


食べようとした時。


鞄の中から、小さなものが落ちた。


膝の上に転がる。


丸い磁石だった。


五円玉くらいの大きさ。


黒っぽい金属。


真ん中に小さな穴が開いている。


祖父のものだった。


小さい頃、祖父がくれた。


「方角が分からなくなったら、これを持っておけ」


そう言っていた。


方位磁石ではない。


ただの丸い磁石だ。


翔太は子どもの頃、それを不思議がっていた。


「これ、北分かんないじゃん」


祖父は笑っていた。


「北より大事なものにくっつくんだ」


意味が分からなかった。


今も分からない。


でも、捨てられずに筆箱の奥へ入れていた。


いつの間にか鞄へ移して、そのままだった。


磁石は、翔太の膝の上で少し震えていた。


電車の揺れとは違う。


かすかに、何かに引かれているみたいに。


その時、車両の連結部のドアが開いた。


入ってきたのは、女学生たちだった。


三人。


制服が古い。


今の高校の制服とは違う。


襟の形。

スカートの丈。

髪型。

持っている鞄。


全部、少し昔の映画みたいだった。


いや、かなり昔かもしれない。


彼女たちは、翔太を見るなり足を止めた。


そして、顔を見合わせた。


「まあ」


一人が言った。


「男の子?」


別の一人が、目を輝かせた。


「可愛いわね」


翔太は固まった。


「え」


三人が近づいてくる。


距離が近い。


近すぎる。


電車内の知らない人との距離ではない。


「その服、何?」


「制服ですけど」


「変わってる」


「すごくハイカラ!」


「ハイカラ……?」


翔太は、その言葉を口の中で繰り返した。


使う人を初めて見た。


女学生の一人が、翔太のネクタイを見た。


「これ、結ぶの?」


「まあ」


「お洒落ねえ」


「いや、普通です」


「うそ。見たことないもの」


別の一人が、翔太のスマホを指さした。


「それ、何?」


「スマホ」


「すまほ?」


「電話みたいな」


「こんな板で?」


「まあ」


「未来の人みたい!」


三人はきゃあ、と笑った。


怖い。


普通に怖い。


でも、悪意はなかった。


どちらかというと、珍しい動物を見つけたみたいな反応だった。


翔太は内心で思った。


こっちは疲れてるだけなんですけど。


未来人扱いは業務外です。


⸻


【LINE】


13:36 翔太

変な女学生に絡まれてる


13:36 真尋

通報案件?


13:37 翔太

いや

昔の人っぽい


13:37 真尋

寝不足で幻覚見てるの?はやく寝ろし


13:38 翔太

俺もそう思う


13:38 真尋

いや本気でやばそうなら次で降りなね?


13:39 翔太

次の駅名が読めない


13:39 真尋

何でだよ


⸻


車内アナウンスが流れた。


でも、駅名が聞き取れなかった。


音が歪んでいる。


「次は、――」


肝心なところだけ、水の中みたいにぼやける。


電光掲示板も、文字が潰れて見えた。


外の景色はまだ現代だ。


でも、車内はどんどん古くなる。


床の模様。

座席の色。

窓枠。

吊り革。


翔太が瞬きをするたび、少しずつ時代がずれていく。


向かいの席には、いつの間にか和服の女性が座っていた。


新聞を読む男性もいる。


大きな荷物を抱えた老人。


麦わら帽子の子ども。


みんな、翔太を少しだけ見る。


でも、何も言わない。


女学生たちだけが、やけに元気だった。


「ねえ、握手してよ」


一人が言った。


「握手?」


「未来の人と握手したら、受験に受かる気がする」


「なんで」


「知らないけど、縁起がいいじゃない」


「俺、未来の人じゃないです」


「でも服がハイカラ」


「その理由で未来判定されるの雑すぎません?」


女学生たちは笑った。


その笑い声が、車内で妙に明るく響いた。


「あなた、学生さん?」


「はい」


「何を勉強しているの?」


「・・・受験勉強です」


「受験!」


三人が顔を見合わせた。


「大変ねえ」


「毎日?」


「はい。毎日」


「好きで?」


翔太は、そこで黙った。


好きで?


その質問は、予想していなかった。


好きで勉強しているのか。


医者の父。

看護師の母。

周りの期待。

模試の判定。

偏差値。

合格可能性。

志望校。


そういうものが、頭の中で重なった。


「分からないです」


翔太は言った。


「しなきゃいけないから、してます」


女学生たちは、今度は笑わなかった。


一人が、少し首を傾げた。


「しなきゃいけないことばかりだと、つまらないわね」


「でも、やらないと落ちるので」


「落ちたら終わりなの?」


「終わりじゃないけど」


「じゃあ、少しは休んでもいいんじゃない?」


その言葉に、翔太は返せなかった。


同じことを、何人にも言われた。


親にも。

先生にも。

友人にも。


でも、休めと言われるたびに、休んだ時間だけ置いていかれる気がした。


女学生の一人が、翔太の手元を見た。


「それ、おにぎり?」


「あ、はい」


「食べないの?」


「今食べようと」


「食べなさいよ」


「え」


「お腹が空いてたら、頭なんて働かないわ」


ものすごく普通のことを言われた。


しかも、強い。


翔太は押されるように、塩おにぎりを開けた。


一口食べる。


塩気。


米の甘み。


やけにおいしかった。


胃の底に、温かいものが落ちていく感じがした。


女学生たちは満足そうにうなずいた。


「ほら、可愛い」


「食べてるところも可愛い」


「いや、やめてください」


「照れてる」


「未来の男子も照れるのね」


「未来じゃないですって」


怖いはずなのに。


翔太は、少しだけ笑ってしまった。


笑ったのは、久しぶりだった。


⸻


電車は、田んぼの横を走っていた。


現代の街並みは、いつの間にか消えていた。


外には、低い家。

細い道。

土の畑。

電線の少ない空。


空だけが広い。


本当に、過去へ来たのかもしれない。


そう思った時、丸い磁石が手の中で強く震えた。


磁石は、車両の先頭ではなく、翔太の鞄の中を指すように引っ張られている。


いや、違う。


スマホ。


磁石は、スマホの方へ引かれていた。


スマホの画面に、真尋からのLINEが表示されている。


⸻


【LINE】


13:47 真尋

翔太?


13:47 真尋

既読ついてる?


13:48 真尋

おい


13:48 真尋

次トンネル入るぞ


13:48 真尋

その電車いつものなら

トンネル抜けたら駅近い


13:49 真尋

寝るなよ


⸻


トンネル。


翔太は前を見る。


線路の先に、黒い口が見えた。


山を抜ける短いトンネル。


いつもなら、ただ数十秒暗くなるだけの場所。


でも、今は違った。


トンネルの入口が、やけに大きく見える。


女学生の一人が言った。


「もう戻るのね」


「分かるんですか」


「だって、あなたの持ち物が騒いでいるもの」


彼女は磁石を見た。


「丸い石」


「磁石です」


「おじいさまの?」


翔太は息を止めた。


「なんで分かるんですか」


女学生は微笑んだ。


「古いものは、古い方へも、新しい方へも、道を知っているの」


意味は分からない。


でも、何となく分かった気がした。


祖父の磁石。


真尋のLINE。


母の塩おにぎり。


その三つが、翔太を今の世界へ引っ張っている。


トンネルが近づく。


女学生たちは、一斉に翔太を見た。


「ねえ、最後に握手して」


「まだ言うんですか」


「だって、未来の人だもの」


「違いますって」


「じゃあ、疲れきってる今の君」


その言い方に、翔太は少し笑った。


「それなら、合ってます」


翔太は手を出した。


女学生の手は、ひんやりしていた。


でも、ちゃんと人の手だった。


一人。


二人。


三人。


三人目の女学生が、握手したまま言った。


「あなた、可愛いけど」


「まだ言います?」


「可愛いだけじゃだめよ」


「え」


「ちゃんと寝て、食べて、怒って、笑って、それから勉強なさい」


翔太は、何も言えなかった。


「大人の期待だけでできた道は、歩くと足が痛くなるわ」


その声は、妙に静かだった。


「自分の足も見なさい」


トンネルに入った。


車内が暗くなる。


窓の外が黒になる。


その瞬間、古い車内の音が全部遠ざかった。


女学生たちの声。


車輪の音。


古い広告。


黄ばんだエアコン。


すべてが水の中へ沈んでいくようだった。


スマホが震えた。


⸻


【LINE】


13:51 真尋

起きろ〜!


13:51 真尋

翔太!


13:51 真尋

トンネル抜ける


⸻


磁石が、ぱちん、と音を立てた。


スマホの裏にくっついた。


小さな火花みたいな光が見えた気がした。


翔太は、目を閉じた。


次に開いた時。


電車は、現代に戻っていた。


エアコンは新しい。


広告も普通。


乗客はスマホを見ている。


学生も会社員もいる。


女学生たちは、いない。


向かいの席には、イヤホンをつけた男性が座っていた。


窓の外には、いつもの街並み。


トンネルを抜けた先の駅が近づいている。


アナウンスが流れた。


聞き慣れた駅名。


翔太は、自分の手を見た。


さっき握手した感触が残っていた。


ひんやりした手。


少しだけ強い握り方。


スマホを見る。


真尋からLINEが来ている。


⸻


【LINE】


13:53 真尋

返事しろし!


13:53 翔太

戻った


13:53 真尋

どこから?


13:54 翔太

分からん


13:54 真尋

怖いこと言うなよ


13:55 翔太

古い電車にいた


13:55 真尋

寝不足じゃん?


13:55 翔太

たぶん


13:56 真尋

おにぎり食べた?


13:56 翔太

食べた


13:56 真尋

じゃあいいや


13:57 翔太

よくないだろ


13:57 真尋

でもさっきより少し元気そう


⸻


確かに。


体が少し軽かった。


眠気が消えたわけではない。


受験の不安がなくなったわけでもない。


でも、頭の中に詰まっていた重たい霧が、少し晴れた気がした。


翔太は、塩おにぎりの残りを食べた。


その包みを畳もうとして、手が止まった。


ラップの内側に、何か文字がついていた。


米粒の跡ではない。


インクでもない。


薄い、古い鉛筆のような文字。


⸻


寝てから励みなさい。


⸻


翔太はしばらくそれを見ていた。


そして、少し笑った。


「強いな、あの人たち」


トンネルを抜けてから、翔太は塾へ行った。


自習室に入った。


参考書を開いた。


でも、三十分だけ仮眠を取った。


罪悪感はあった。


けれど、不思議と少なかった。


その後の勉強は、いつもより頭に入った。


夜、家に帰ると、母が言った。


「顔色、少し良くなった?」


翔太は、少し迷ってから答えた。


「おにぎり、助かった」


母は少し驚いて、それから笑った。


「明日も作る?」


「うん」


「塩でいい?」


「塩で」


父には、模試の話をされた。


いつもなら胃が縮んだ。


でも、その日は少し違った。


「今日は眠いから、明日話していい?」


そう言えた。


父は一瞬驚いた顔をした。


けれど、頷いた。


「そうだな。寝なさい」


たったそれだけ。


でも、翔太には大きかった。


⸻


それからも、受験勉強の日々は続いた。


何もかもが楽になったわけではない。


模試は難しい。

判定は揺れる。

親の期待は重い。

睡眠はまだ足りない日もある。


でも、翔太は前より少しだけ休むようになった。


塩おにぎりを食べるようになった。


眠い時は、二十分だけ寝るようになった。


真尋には、たまに言われる。


⸻


【LINE】


22:11 真尋

今日は寝ろ!


22:11 翔太

まだ数学残ってる


22:12 真尋

過去の女学生に怒られるぞ〜?


22:12 翔太

あの人たち推し強いからな


22:13 真尋

握手求めてくる過去の女学生、情報量多すぎ


22:13 翔太

俺も未だに信じてない


22:14 真尋

でも元気になったならいいんじゃね


22:14 翔太

まあ


22:15 翔太

ちょっとだけ楽になった


⸻


祖父の丸い磁石は、今も筆箱に入れている。


スマホの近くに置くと、たまに勝手にくっつく。


それは普通の磁石だから、当たり前かもしれない。


でも、電車に乗ってトンネルが近づくと。


ごくたまに。


その磁石が、小さく震える。


そんな時、翔太は顔を上げる。


エアコンを見る。

広告を見る。

乗客を見る。


全部、現代のまま。


それでも一瞬だけ、窓ガラスに女学生たちの影が映ることがある。


三人並んで、楽しそうに笑っている。


そのうちの一人が、口の形だけで言う。


寝なさい


翔太は苦笑する。


そして、その日は少し早く寝る。


受験はまだ終わっていない。


未来も決まっていない。


でも、あの古い電車で握手した女学生たちのことを思い出すと、少しだけ肩の力が抜ける。


あれは怪異だったのか。


過去へ飛んだのか。


寝不足の幻覚だったのか。


分からない。


ただ、ひとつだけ確かなことがある。


あの時、翔太は現代に戻ってきた。


そして、前より少しだけ、自分の足元を見るようになった。


トンネルを抜けるたびに思う。


過去の人に「可愛い」と言われるのは、かなり戸惑う。


でも。


「ちゃんと寝なさい」と言われたことだけは。


案外、今の自分に一番必要だったのかもしれない。

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