最後のお客様
真留美は、怪談を集めていた。
怖い話が好きだった。
ただし、動画で見るだけでは物足りない。
ネットで読むだけでも足りない。
誰かが実際に声で語る怪談。
間。
ため息。
言い淀み。
「ここだけの話だけどね」と言う時の目。
そういうものが好きだった。
夏休み。
真留美は、ひとりで田舎を回っていた。
目的は、体験することではない。
聞くこと。
集めること。
記録すること。
そのはずだった。
人間、自分だけは安全圏にいると思いがちだ。
怪談好きほど、なぜか怪談の入口に自分から顔を突っ込む。
勇気ではない。ほぼ不用心である。
⸻
【LINE】
13:12 紗季
今どこ?
13:13 真留美
山
13:13 紗季
ざっくりしすぎ
13:14 真留美
駅からバス乗って
そこから歩いてる
13:14 紗季
高校生が一人で何してんの
13:15 真留美
怪談採集
13:15 紗季
言い方だけ民俗学者
13:16 真留美
実際それっぽいでしょ
13:16 紗季
中身はただの怖いもの知らず
⸻
目的地は、関東の山沿いにある小さな集落だった。
地図には一応名前がある。
でも、検索してもほとんど情報が出ない。
古い神社。
廃校になった小学校。
盆踊りの写真が一枚。
それくらい。
真留美がそこへ行こうと思ったのは、怪談好きの掲示板で見た一文がきっかけだった。
あの集落には、人を泊めるはずのない宿がある。
それだけ。
詳しい話はなかった。
だから、聞きに行くことにした。
バスは一日三本。
降りた停留所には、ベンチと錆びた時刻表しかなかった。
そこから集落までは徒歩四十分。
真留美は最初、余裕だと思っていた。
でも、夏の山道は甘くなかった。
日差しは強い。
虫は多い。
坂は長い。
自販機はない。
水筒の中身は、もう半分以下。
汗でシャツが背中に張りついている。
「……これは、やらかしたかも」
声に出した。
その時、道の先に建物が見えた。
木造二階建て。
瓦屋根。
玄関の上に、古い看板がある。
旅館 清水屋
真留美は足を止めた。
地図には載っていなかった。
でも、助かったと思った。
少し休めるかもしれない。
水をもらえるかもしれない。
人がいれば、怪談も聞けるかもしれない。
そう思って、玄関へ向かった。
引き戸の前に立つ。
中は薄暗い。
でも、打ち水をしたばかりのように、玄関先の石が濡れていた。
真留美が声をかける前に、引き戸が開いた。
中から、着物姿の女の人が出てきた。
年齢は分からない。
四十代にも、六十代にも見える。
背筋が伸びていて、声がやわらかかった。
「お待ちしておりました」
真留美は、少し笑った。
「えっと、予約とかはしてないんですけど」
女将は、深く頭を下げた。
「長い道で、お疲れでございましたね」
会話が、少し噛み合わない。
でも、その声はあまりにも優しかった。
真留美は、警戒より先に安心してしまった。
「少し、休ませてもらってもいいですか」
「もちろんでございます」
女将は、にこりと笑った。
「今日は、最後のお客様ですから」
最後。
その言葉だけ、妙に耳に残った。
⸻
【LINE】
14:22 真留美
旅館見つけた
14:22 紗季
泊まるの?
14:23 真留美
分かんない
少し休ませてもらう
14:23 紗季
予約してないんでしょ?
14:24 真留美
でも女将さん優しい
14:24 紗季
優しい知らない人ほど警戒しなさい
14:25 真留美
都会の防犯意識
14:25 紗季
田舎でも防犯は防犯
14:26 真留美
水もらったらすぐ聞き込み行く
14:26 紗季
位置送って
14:27 真留美
送る
⸻
位置情報を送ろうとした。
でも、地図がうまく表示されなかった。
山道の途中で、青い点が止まっている。
旅館の位置は出ない。
真留美は、電波が弱いのだと思った。
山だから。
便利な言い訳である。
⸻
女将は、真留美を広間へ案内した。
畳の部屋。
低い机。
古い扇風機。
障子の向こうには庭。
廊下は長く、磨かれていた。
古い建物なのに、不思議と埃っぽくない。
ただ、音が少なかった。
人の気配はある。
奥で誰かが歩く音。
厨房から器の触れ合う音。
廊下の向こうで衣擦れの音。
なのに、姿はほとんど見えない。
「お茶をお持ちします」
女将が言った。
すぐに、若い仲居らしき女性がお盆を持ってきた。
湯呑み。
冷たい麦茶。
小さな菓子。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
真留美は麦茶を飲んだ。
冷たかった。
喉の奥にしみた。
それだけで泣きそうになるくらい、疲れていた。
「お食事も、じきに」
女将が言った。
「え、そこまでは」
「山を歩かれた方には、まず召し上がっていただかないと」
「でも、お金そんなに持ってないです」
「お気になさらず」
「いや、それは気にします」
女将は、少しだけ困ったように笑った。
「お客様に空腹のまま帰っていただくことは、できませんので」
その言い方は、丁寧だった。
でも、どこか固かった。
まるで、決まり文句を何十年も守っている人のようだった。
⸻
広間の床の間に、掛け軸がかかっていた。
山と川の絵。
古い山水画のようにも見える。
ただ、真留美はその絵から目が離せなかった。
山の線が、妙に細かい。
川の水面が、濡れているように光る。
そして、画面の端に、小さく旅館のような建物が描かれている。
その玄関に、人影が二つ。
ひとりは着物の女。
もうひとりは、筆を持った男。
「きれい……」
真留美が呟くと、女将が少しだけ目を伏せた。
「主人が描いたものです」
「ご主人、画家さんなんですか」
「そうありたい人でした」
変な返事だった。
「これ、ずっとここに?」
「ええ」
女将は掛け軸を見上げた。
「この宿の、いちばん古い従業員でございます」
冗談なのか、本気なのか分からなかった。
⸻
夕方になると、料理が出た。
山菜。
川魚。
小さな鍋。
白いご飯。
味噌汁。
派手ではない。
でも、丁寧だった。
真留美は夢中で食べた。
食べながら、怖い話を聞こうとした。
「このあたり、怪談ってありますか?」
女将は箸を置く真留美を見て、少し首を傾げた。
「怪談、でございますか」
「はい。夏の怪談を集めてて」
「まあ」
女将は微笑んだ。
「若い方は、お好きですね」
「怖い話、嫌いですか?」
「いいえ」
女将は静かに言った。
「本当に怖いものは、話にしておかないと、忘れられてしまいますから」
その言葉に、真留美は少しぞくっとした。
「この旅館にも、何かありますか?」
女将は答えなかった。
代わりに、空になった椀を見た。
「おかわりはいかがですか」
「話、そらしました?」
「お若い方は、まず食べてくださいませ」
優しい。
でも、答えない。
真留美は笑った。
「女将さん、手強い」
女将も、少し笑った。
⸻
【LINE】
19:08 真留美
なんか泊まる流れになってる
19:08 紗季
は?
19:09 真留美
ご飯出た
19:09 紗季
警戒心どこ置いてきたの
19:10 真留美
おいしかった
19:10 紗季
食レポしてる場合じゃない
19:11 真留美
旅館の怪談聞けそう
19:11 紗季
あんたが怪談になるなよ
19:12 真留美
失礼
19:12 紗季
旅館名は?
19:13 真留美
清水屋
19:14 紗季
検索出ない
19:14 真留美
古いからじゃない?
19:15 紗季
古い宿でも出る時代です
⸻
そのLINEを見て、真留美は少しだけ不安になった。
でも、目の前の料理は温かかった。
部屋は清潔だった。
女将は優しかった。
だから、悪い場所には思えなかった。
思えなかったのが、今思えば怖い。
⸻
夜。
真留美は二階の客室に案内された。
六畳の和室。
畳の匂い。
窓の外は真っ暗な山。
遠くで虫が鳴いている。
布団はすでに敷かれていた。
枕元には、湯呑みと小さな行灯。
「何かございましたら、お呼びください」
女将が言った。
「ありがとうございます」
「今夜は、ゆっくりお休みくださいませ」
「女将さん」
「はい」
「さっき言ってた、最後のお客様ってどういう意味ですか」
女将は、しばらく黙った。
廊下の暗がりで、その顔だけがぼんやり白く見えた。
「明日になれば、分かるかもしれません」
「怖い言い方ですね」
「怪談をお探しなのでしょう?」
女将は静かに笑った。
「今夜だけは、お客様でいてください」
それだけ言って、襖を閉めた。
真留美は布団に座り込んだ。
怖い。
でも、不思議と逃げたいとは思わなかった。
むしろ、胸の奥が少し温かかった。
もてなされている。
本当に、大事にされている。
そんな感じがした。
だから余計に怖かった。
⸻
夜中。
真留美は目を覚ました。
廊下から、足音が聞こえた。
ひとりではない。
何人もいる。
忙しそうに、でも静かに歩いている。
障子の向こうを、影が通る。
お盆を持った仲居。
布団を運ぶ男。
桶を抱えた若い女。
箒を持つ老人。
さっきまで姿を見なかった従業員たち。
こんなにいたのか。
真留美は息を潜めた。
廊下の向こうから、声がした。
「お客様は眠られたか」
「よく召し上がってくださった」
「よかった」
「最後に、よかった」
最後。
また、その言葉。
真留美は布団をかぶった。
その時、枕元のスマホが光った。
紗季からではない。
知らない番号からのSMSだった。
⸻
【SMS】
02:16
起きていらっしゃいますか
⸻
真留美は体を硬くした。
すぐに次が来た。
⸻
02:17
廊下は見ない方がよろしゅうございます
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言い回しが古い。
真留美は画面を見つめた。
誰?
女将?
従業員?
それとも。
廊下の足音が、部屋の前で止まった。
襖の向こうに、誰かいる。
「お客様」
女将の声だった。
「お休みでございますか」
真留美は返事をしなかった。
SMSの言葉が頭に残っていた。
廊下は見ない方がよろしゅうございます。
女将は、少し間を置いて言った。
「明日の朝、村へお戻りください」
それだけ。
足音は遠ざかっていった。
真留美は、その後ほとんど眠れなかった。
⸻
朝。
障子の向こうが明るくなっていた。
鳥の声がする。
真留美が部屋を出ると、廊下は静かだった。
昨夜の人の気配はない。
広間へ行くと、朝食が用意されていた。
ご飯。
味噌汁。
卵焼き。
漬物。
焼き魚。
女将は、いつものように正座していた。
「おはようございます」
「おはようございます」
「よく眠れましたか」
真留美は少し迷った。
「……あんまり」
「そうでございましたか」
女将は、申し訳なさそうに頭を下げた。
「お騒がせしました」
「昨日の夜、従業員さんたちが」
「ええ」
女将は静かに言った。
「皆、久しぶりでしたので」
「久しぶり?」
「お客様をお迎えするのが」
真留美は箸を止めた。
女将は、床の間の掛け軸を見た。
朝の光の中で見ると、絵は少し色褪せていた。
昨日より古く見える。
「この宿は、よい宿でございました」
女将が言った。
「昔は、夏になるとたくさんのお客様がいらっしゃいました」
「今は?」
女将は答えなかった。
「でも、昨日は泊まれました」
「ええ」
「営業してるんですよね?」
女将は、少しだけ笑った。
「昨夜までは」
真留美は、ぞっとした。
「どういう意味ですか」
「どうか、覚えていてくださいませ」
女将は深く頭を下げた。
「ここに、宿があったことを」
その声は、怖いほど穏やかだった。
⸻
朝食の後、女将は玄関まで見送ってくれた。
従業員たちも並んでいた。
昨日見えなかった人たち。
仲居。
板前。
番頭らしき老人。
布団係の若い男。
みんな、深く頭を下げる。
「ありがとうございました」
真留美は、逆に頭を下げた。
「こちらこそ、ありがとうございました」
女将が、包みを渡してきた。
小さな紙包み。
「道中に」
中には、握り飯が二つ入っていた。
「え、こんな」
「お若い方は、歩くとお腹がすきますから」
真留美は笑いそうになって、泣きそうになった。
「また来てもいいですか」
女将は、少し困ったように微笑んだ。
「お客様は、もうお帰りください」
「え?」
「お戻りになる場所が、おありでしょう」
その言い方が、優しかった。
そして、少し寂しかった。
真留美は、何も言えなかった。
最後に、女将は言った。
「怪談を、お探しでしたね」
「はい」
「では、これは怪談ではなく」
女将は静かに続けた。
「宿の、最後の仕事だったとお伝えください」
⸻
真留美は旅館を出た。
振り返ると、玄関に女将たちが並んでいた。
朝の光の中。
旅館は古いけれど、まだ確かにそこにあった。
真留美は手を振った。
女将も、小さく手を振った。
それから、集落の方へ歩いた。
十分ほど歩くと、民家が見えてきた。
畑にいた老人に声をかける。
「すみません、清水屋って旅館から来たんですけど」
老人の手が止まった。
「清水屋?」
「はい。昨日泊めてもらって」
老人は、真留美の顔をじっと見た。
「どこの清水屋だ」
「この先の、木造の旅館です」
老人の顔色が変わった。
「……あそこに泊まったのか」
「はい」
「あそこは、もうやっとらん」
「え?」
「何十年も前に閉めた」
真留美は、笑おうとした。
冗談だと思いたかった。
「でも、女将さんがいて、ご飯も」
老人は首を振った。
「誰も近寄らん。崩れかけとるから危ない」
「そんなはず」
「見に行くか」
老人は、近くの若い村人を呼んでくれた。
三人で、真留美が来た道を戻った。
旅館は、そこにあった。
でも。
昨日とは違っていた。
玄関の引き戸は外れかけている。
看板は割れている。
屋根の瓦は落ちている。
庭は草に埋もれている。
人が泊まれる状態ではなかった。
打ち水の跡もない。
磨かれた廊下もない。
丁寧な料理の匂いもない。
ただ、朽ちた建物があるだけだった。
真留美は言葉を失った。
「でも、昨日……」
村人は、小さく呟いた。
「まだ、もってたのか」
老人は、玄関先で手を合わせた。
「清水屋の女将さんは、ええ人だった」
⸻
その後、真留美は村の集会所で話を聞いた。
清水屋は、昔、本当に旅館だった。
夏になると、湯治客や登山客が泊まった。
女将は働き者で、客を大事にする人だった。
その夫は、絵を描く人だった。
旅館の床の間にあった掛け軸。
あれは夫が描いたものだという。
老人は、声を落として言った。
「噂だがな」
その絵には、女将の髪や肌を削ったものを、ほんの少し絵具に混ぜたという話があった。
夫自身の髪や血も混ぜた、とも言われていた。
もちろん、本当かどうかは分からない。
昔の人の噂話だ。
けれど、夫はその絵を完成させた直後、息を引き取ったらしい。
女将は夫を供養し、その掛け軸を旅館に飾り続けた。
それからも旅館を切り盛りした。
客に湯を出し、食事を出し、布団を整えた。
だが、時代が変わった。
道が変わり、客が減った。
若者も村を出た。
子どもも減った。
祭りもなくなった。
最後は、誰も泊まりに来なくなった。
女将も亡くなり、清水屋は閉じた。
でも、旅館はずっとそこに残っていた。
「たまに、夜だけ灯りがついたって話はあった」
老人は言った。
「でも、誰も近寄らんかった」
「どうしてですか」
「怖いからというより」
老人は、少し寂しそうに言った。
「終わったものを、見に行くのがつらいんだ」
真留美は、何も言えなかった。
⸻
【LINE】
15:32 真留美
泊まった旅館
営業してなかった
15:32 紗季
は?
15:33 真留美
ずっと前に閉めたんだって
15:33 紗季
じゃあ昨日の女将さんは?
15:34 真留美
分からない
15:34 紗季
写真撮った?
15:35 真留美
撮ってない
15:35 紗季
珍しい
15:36 真留美
なんか
撮っちゃいけない気がした
15:36 紗季
怖
15:37 真留美
でも
嫌な感じじゃなかった
15:38 紗季
じゃあ何
15:39 真留美
最後まで
ちゃんと宿だった
⸻
その夜。
真留美は村の民宿に泊まった。
古いけれど、ちゃんと営業している普通の民宿。
畳に座って、女将にもらった紙包みを開いた。
握り飯が二つ。
少し塩がきいていた。
お米はまだ柔らかかった。
真留美は一口食べた。
涙が出た。
怖かった。
確かに怖かった。
でも、それだけではなかった。
あの旅館は、最後に誰かをもてなしたかったのだ。
歩き疲れた、怖いもの知らずの女子高生を。
最後のお客様として。
⸻
翌朝、村人たちともう一度、清水屋へ行った。
建物は、さらに崩れていた。
昨日より、明らかに。
玄関の梁が落ちている。
廊下は傾いている。
床の間のあった部屋は、半分潰れていた。
掛け軸は、床に落ちていた。
いや、掛け軸だったものがあった。
紙は破れ、軸は折れ、絵はほとんど剥がれている。
昨日、真留美が見た山と川は、もう分からなかった。
村の老人が言った。
「役目が終わったんだろうな」
真留美は、言葉にできなかった。
そのまま、手を合わせた。
「ありがとうございました」
風が吹いた。
朽ちた建物の奥で、何かが軽く鳴った。
ちりん。
玄関の呼び鈴のような音だった。
真留美には、それが返事のように聞こえた。
⸻
数年後。
真留美は、その集落をもう一度訪れた。
大学生になっていた。
怪談を集める旅は、まだ続けていた。
ただ、昔より少し慎重になった。
不用心な怪談好きにも、まれに成長という現象が起きる。
奇跡である。
清水屋のあった場所へ向かった。
道は少し変わっていた。
草が伸び、昔の目印も減っていた。
でも、場所は覚えていた。
そこにあったのは、原っぱだった。
旅館はなかった。
瓦も。
柱も。
看板も。
掛け軸も。
何も残っていなかった。
ただ、夏草が揺れていた。
真留美はしばらく立っていた。
あの玄関。
女将の声。
麦茶の冷たさ。
掛け軸の山と川。
従業員たちの深いお辞儀。
全部、夢のようだった。
でも、夢ではない。
真留美は鞄から、古い紙包みを出した。
あの日の包み紙。
握り飯を包んでいた紙。
捨てられなかった。
紙は黄ばんでいた。
そこには、薄く文字が残っている。
いつ書かれたのか分からない。
けれど、確かに読めた。
⸻
お越しいただき、ありがとうございました。
⸻
真留美は、その紙をまた丁寧に畳んだ。
そして、原っぱに向かって頭を下げた。
「こちらこそ」
夏の風が吹いた。
草がざわめいた。
その音の中に、一瞬だけ。
襖が開く音が混じった気がした。
「お待ちしておりました」
あの女将の声が、聞こえたような気がした。
真留美は振り返らなかった。
もう振り返らなくていいと思った。
清水屋は、最後のお客様を迎えた。
最後の仕事を終えた。
それで、この世を去ったのだ。
怖い話として語れば、確かに怖い。
営業していない旅館に泊まった女子高生の話。
存在しない女将。
存在しない従業員。
朽ちた掛け軸。
でも真留美は、それをただ怖い話としてだけは語れなかった。
あの夜の布団は、きちんと干された匂いがした。
麦茶は冷たかった。
朝食は温かかった。
女将の見送りは、寂しいくらい丁寧だった。
だから真留美は、今でもこの話をする時、最後にこう付け加える。
あれは怪異だった。
たぶん、間違いなく。
でも。
私を怖がらせるためではなく。
最後に、もてなすために出てきたんだと思う。
そう言うと、聞いた人はたいてい黙る。
怪談なのに、少しだけ寂しくなるから。
そして、真留美は思い出す。
あの旅館の玄関で、女将が言った言葉を。
「お客様は、もうお帰りください」
あれはきっと。
生きている人間への、最後のもてなしだった。




