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怖い話_続  作者: 三葉


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16/25

最後のお客様

真留美は、怪談を集めていた。


怖い話が好きだった。


ただし、動画で見るだけでは物足りない。


ネットで読むだけでも足りない。


誰かが実際に声で語る怪談。


間。

ため息。

言い淀み。

「ここだけの話だけどね」と言う時の目。


そういうものが好きだった。


夏休み。


真留美は、ひとりで田舎を回っていた。


目的は、体験することではない。


聞くこと。


集めること。


記録すること。


そのはずだった。


人間、自分だけは安全圏にいると思いがちだ。

怪談好きほど、なぜか怪談の入口に自分から顔を突っ込む。

勇気ではない。ほぼ不用心である。



【LINE】


13:12 紗季

今どこ?


13:13 真留美


13:13 紗季

ざっくりしすぎ


13:14 真留美

駅からバス乗って

そこから歩いてる


13:14 紗季

高校生が一人で何してんの


13:15 真留美

怪談採集


13:15 紗季

言い方だけ民俗学者


13:16 真留美

実際それっぽいでしょ


13:16 紗季

中身はただの怖いもの知らず



目的地は、関東の山沿いにある小さな集落だった。


地図には一応名前がある。


でも、検索してもほとんど情報が出ない。


古い神社。

廃校になった小学校。

盆踊りの写真が一枚。


それくらい。


真留美がそこへ行こうと思ったのは、怪談好きの掲示板で見た一文がきっかけだった。


あの集落には、人を泊めるはずのない宿がある。


それだけ。


詳しい話はなかった。


だから、聞きに行くことにした。


バスは一日三本。


降りた停留所には、ベンチと錆びた時刻表しかなかった。


そこから集落までは徒歩四十分。


真留美は最初、余裕だと思っていた。


でも、夏の山道は甘くなかった。


日差しは強い。

虫は多い。

坂は長い。

自販機はない。


水筒の中身は、もう半分以下。


汗でシャツが背中に張りついている。


「……これは、やらかしたかも」


声に出した。


その時、道の先に建物が見えた。


木造二階建て。


瓦屋根。


玄関の上に、古い看板がある。


旅館 清水屋


真留美は足を止めた。


地図には載っていなかった。


でも、助かったと思った。


少し休めるかもしれない。


水をもらえるかもしれない。


人がいれば、怪談も聞けるかもしれない。


そう思って、玄関へ向かった。


引き戸の前に立つ。


中は薄暗い。


でも、打ち水をしたばかりのように、玄関先の石が濡れていた。


真留美が声をかける前に、引き戸が開いた。


中から、着物姿の女の人が出てきた。


年齢は分からない。


四十代にも、六十代にも見える。


背筋が伸びていて、声がやわらかかった。


「お待ちしておりました」


真留美は、少し笑った。


「えっと、予約とかはしてないんですけど」


女将は、深く頭を下げた。


「長い道で、お疲れでございましたね」


会話が、少し噛み合わない。


でも、その声はあまりにも優しかった。


真留美は、警戒より先に安心してしまった。


「少し、休ませてもらってもいいですか」


「もちろんでございます」


女将は、にこりと笑った。


「今日は、最後のお客様ですから」


最後。


その言葉だけ、妙に耳に残った。



【LINE】


14:22 真留美

旅館見つけた


14:22 紗季

泊まるの?


14:23 真留美

分かんない

少し休ませてもらう


14:23 紗季

予約してないんでしょ?


14:24 真留美

でも女将さん優しい


14:24 紗季

優しい知らない人ほど警戒しなさい


14:25 真留美

都会の防犯意識


14:25 紗季

田舎でも防犯は防犯


14:26 真留美

水もらったらすぐ聞き込み行く


14:26 紗季

位置送って


14:27 真留美

送る



位置情報を送ろうとした。


でも、地図がうまく表示されなかった。


山道の途中で、青い点が止まっている。


旅館の位置は出ない。


真留美は、電波が弱いのだと思った。


山だから。


便利な言い訳である。



女将は、真留美を広間へ案内した。


畳の部屋。


低い机。

古い扇風機。

障子の向こうには庭。


廊下は長く、磨かれていた。


古い建物なのに、不思議と埃っぽくない。


ただ、音が少なかった。


人の気配はある。


奥で誰かが歩く音。

厨房から器の触れ合う音。

廊下の向こうで衣擦れの音。


なのに、姿はほとんど見えない。


「お茶をお持ちします」


女将が言った。


すぐに、若い仲居らしき女性がお盆を持ってきた。


湯呑み。

冷たい麦茶。

小さな菓子。


「どうぞ」


「あ、ありがとうございます」


真留美は麦茶を飲んだ。


冷たかった。


喉の奥にしみた。


それだけで泣きそうになるくらい、疲れていた。


「お食事も、じきに」


女将が言った。


「え、そこまでは」


「山を歩かれた方には、まず召し上がっていただかないと」


「でも、お金そんなに持ってないです」


「お気になさらず」


「いや、それは気にします」


女将は、少しだけ困ったように笑った。


「お客様に空腹のまま帰っていただくことは、できませんので」


その言い方は、丁寧だった。


でも、どこか固かった。


まるで、決まり文句を何十年も守っている人のようだった。



広間の床の間に、掛け軸がかかっていた。


山と川の絵。


古い山水画のようにも見える。


ただ、真留美はその絵から目が離せなかった。


山の線が、妙に細かい。


川の水面が、濡れているように光る。


そして、画面の端に、小さく旅館のような建物が描かれている。


その玄関に、人影が二つ。


ひとりは着物の女。


もうひとりは、筆を持った男。


「きれい……」


真留美が呟くと、女将が少しだけ目を伏せた。


「主人が描いたものです」


「ご主人、画家さんなんですか」


「そうありたい人でした」


変な返事だった。


「これ、ずっとここに?」


「ええ」


女将は掛け軸を見上げた。


「この宿の、いちばん古い従業員でございます」


冗談なのか、本気なのか分からなかった。



夕方になると、料理が出た。


山菜。

川魚。

小さな鍋。

白いご飯。

味噌汁。


派手ではない。


でも、丁寧だった。


真留美は夢中で食べた。


食べながら、怖い話を聞こうとした。


「このあたり、怪談ってありますか?」


女将は箸を置く真留美を見て、少し首を傾げた。


「怪談、でございますか」


「はい。夏の怪談を集めてて」


「まあ」


女将は微笑んだ。


「若い方は、お好きですね」


「怖い話、嫌いですか?」


「いいえ」


女将は静かに言った。


「本当に怖いものは、話にしておかないと、忘れられてしまいますから」


その言葉に、真留美は少しぞくっとした。


「この旅館にも、何かありますか?」


女将は答えなかった。


代わりに、空になった椀を見た。


「おかわりはいかがですか」


「話、そらしました?」


「お若い方は、まず食べてくださいませ」


優しい。


でも、答えない。


真留美は笑った。


「女将さん、手強い」


女将も、少し笑った。



【LINE】


19:08 真留美

なんか泊まる流れになってる


19:08 紗季

は?


19:09 真留美

ご飯出た


19:09 紗季

警戒心どこ置いてきたの


19:10 真留美

おいしかった


19:10 紗季

食レポしてる場合じゃない


19:11 真留美

旅館の怪談聞けそう


19:11 紗季

あんたが怪談になるなよ


19:12 真留美

失礼


19:12 紗季

旅館名は?


19:13 真留美

清水屋


19:14 紗季

検索出ない


19:14 真留美

古いからじゃない?


19:15 紗季

古い宿でも出る時代です



そのLINEを見て、真留美は少しだけ不安になった。


でも、目の前の料理は温かかった。


部屋は清潔だった。


女将は優しかった。


だから、悪い場所には思えなかった。


思えなかったのが、今思えば怖い。



夜。


真留美は二階の客室に案内された。


六畳の和室。


畳の匂い。

窓の外は真っ暗な山。

遠くで虫が鳴いている。


布団はすでに敷かれていた。


枕元には、湯呑みと小さな行灯。


「何かございましたら、お呼びください」


女将が言った。


「ありがとうございます」


「今夜は、ゆっくりお休みくださいませ」


「女将さん」


「はい」


「さっき言ってた、最後のお客様ってどういう意味ですか」


女将は、しばらく黙った。


廊下の暗がりで、その顔だけがぼんやり白く見えた。


「明日になれば、分かるかもしれません」


「怖い言い方ですね」


「怪談をお探しなのでしょう?」


女将は静かに笑った。


「今夜だけは、お客様でいてください」


それだけ言って、襖を閉めた。


真留美は布団に座り込んだ。


怖い。


でも、不思議と逃げたいとは思わなかった。


むしろ、胸の奥が少し温かかった。


もてなされている。


本当に、大事にされている。


そんな感じがした。


だから余計に怖かった。



夜中。


真留美は目を覚ました。


廊下から、足音が聞こえた。


ひとりではない。


何人もいる。


忙しそうに、でも静かに歩いている。


障子の向こうを、影が通る。


お盆を持った仲居。

布団を運ぶ男。

桶を抱えた若い女。

箒を持つ老人。


さっきまで姿を見なかった従業員たち。


こんなにいたのか。


真留美は息を潜めた。


廊下の向こうから、声がした。


「お客様は眠られたか」


「よく召し上がってくださった」


「よかった」


「最後に、よかった」


最後。


また、その言葉。


真留美は布団をかぶった。


その時、枕元のスマホが光った。


紗季からではない。


知らない番号からのSMSだった。



【SMS】


02:16

起きていらっしゃいますか



真留美は体を硬くした。


すぐに次が来た。



02:17

廊下は見ない方がよろしゅうございます



言い回しが古い。


真留美は画面を見つめた。


誰?


女将?


従業員?


それとも。


廊下の足音が、部屋の前で止まった。


襖の向こうに、誰かいる。


「お客様」


女将の声だった。


「お休みでございますか」


真留美は返事をしなかった。


SMSの言葉が頭に残っていた。


廊下は見ない方がよろしゅうございます。


女将は、少し間を置いて言った。


「明日の朝、村へお戻りください」


それだけ。


足音は遠ざかっていった。


真留美は、その後ほとんど眠れなかった。



朝。


障子の向こうが明るくなっていた。


鳥の声がする。


真留美が部屋を出ると、廊下は静かだった。


昨夜の人の気配はない。


広間へ行くと、朝食が用意されていた。


ご飯。

味噌汁。

卵焼き。

漬物。

焼き魚。


女将は、いつものように正座していた。


「おはようございます」


「おはようございます」


「よく眠れましたか」


真留美は少し迷った。


「……あんまり」


「そうでございましたか」


女将は、申し訳なさそうに頭を下げた。


「お騒がせしました」


「昨日の夜、従業員さんたちが」


「ええ」


女将は静かに言った。


「皆、久しぶりでしたので」


「久しぶり?」


「お客様をお迎えするのが」


真留美は箸を止めた。


女将は、床の間の掛け軸を見た。


朝の光の中で見ると、絵は少し色褪せていた。


昨日より古く見える。


「この宿は、よい宿でございました」


女将が言った。


「昔は、夏になるとたくさんのお客様がいらっしゃいました」


「今は?」


女将は答えなかった。


「でも、昨日は泊まれました」


「ええ」


「営業してるんですよね?」


女将は、少しだけ笑った。


「昨夜までは」


真留美は、ぞっとした。


「どういう意味ですか」


「どうか、覚えていてくださいませ」


女将は深く頭を下げた。


「ここに、宿があったことを」


その声は、怖いほど穏やかだった。



朝食の後、女将は玄関まで見送ってくれた。


従業員たちも並んでいた。


昨日見えなかった人たち。


仲居。

板前。

番頭らしき老人。

布団係の若い男。


みんな、深く頭を下げる。


「ありがとうございました」


真留美は、逆に頭を下げた。


「こちらこそ、ありがとうございました」


女将が、包みを渡してきた。


小さな紙包み。


「道中に」


中には、握り飯が二つ入っていた。


「え、こんな」


「お若い方は、歩くとお腹がすきますから」


真留美は笑いそうになって、泣きそうになった。


「また来てもいいですか」


女将は、少し困ったように微笑んだ。


「お客様は、もうお帰りください」


「え?」


「お戻りになる場所が、おありでしょう」


その言い方が、優しかった。


そして、少し寂しかった。


真留美は、何も言えなかった。


最後に、女将は言った。


「怪談を、お探しでしたね」


「はい」


「では、これは怪談ではなく」


女将は静かに続けた。


「宿の、最後の仕事だったとお伝えください」



真留美は旅館を出た。


振り返ると、玄関に女将たちが並んでいた。


朝の光の中。


旅館は古いけれど、まだ確かにそこにあった。


真留美は手を振った。


女将も、小さく手を振った。


それから、集落の方へ歩いた。


十分ほど歩くと、民家が見えてきた。


畑にいた老人に声をかける。


「すみません、清水屋って旅館から来たんですけど」


老人の手が止まった。


「清水屋?」


「はい。昨日泊めてもらって」


老人は、真留美の顔をじっと見た。


「どこの清水屋だ」


「この先の、木造の旅館です」


老人の顔色が変わった。


「……あそこに泊まったのか」


「はい」


「あそこは、もうやっとらん」


「え?」


「何十年も前に閉めた」


真留美は、笑おうとした。


冗談だと思いたかった。


「でも、女将さんがいて、ご飯も」


老人は首を振った。


「誰も近寄らん。崩れかけとるから危ない」


「そんなはず」


「見に行くか」


老人は、近くの若い村人を呼んでくれた。


三人で、真留美が来た道を戻った。


旅館は、そこにあった。


でも。


昨日とは違っていた。


玄関の引き戸は外れかけている。

看板は割れている。

屋根の瓦は落ちている。

庭は草に埋もれている。


人が泊まれる状態ではなかった。


打ち水の跡もない。


磨かれた廊下もない。


丁寧な料理の匂いもない。


ただ、朽ちた建物があるだけだった。


真留美は言葉を失った。


「でも、昨日……」


村人は、小さく呟いた。


「まだ、もってたのか」


老人は、玄関先で手を合わせた。


「清水屋の女将さんは、ええ人だった」



その後、真留美は村の集会所で話を聞いた。


清水屋は、昔、本当に旅館だった。


夏になると、湯治客や登山客が泊まった。


女将は働き者で、客を大事にする人だった。


その夫は、絵を描く人だった。


旅館の床の間にあった掛け軸。


あれは夫が描いたものだという。


老人は、声を落として言った。


「噂だがな」


その絵には、女将の髪や肌を削ったものを、ほんの少し絵具に混ぜたという話があった。


夫自身の髪や血も混ぜた、とも言われていた。


もちろん、本当かどうかは分からない。


昔の人の噂話だ。


けれど、夫はその絵を完成させた直後、息を引き取ったらしい。


女将は夫を供養し、その掛け軸を旅館に飾り続けた。


それからも旅館を切り盛りした。


客に湯を出し、食事を出し、布団を整えた。


だが、時代が変わった。


道が変わり、客が減った。


若者も村を出た。


子どもも減った。


祭りもなくなった。


最後は、誰も泊まりに来なくなった。


女将も亡くなり、清水屋は閉じた。


でも、旅館はずっとそこに残っていた。


「たまに、夜だけ灯りがついたって話はあった」


老人は言った。


「でも、誰も近寄らんかった」


「どうしてですか」


「怖いからというより」


老人は、少し寂しそうに言った。


「終わったものを、見に行くのがつらいんだ」


真留美は、何も言えなかった。



【LINE】


15:32 真留美

泊まった旅館

営業してなかった


15:32 紗季

は?


15:33 真留美

ずっと前に閉めたんだって


15:33 紗季

じゃあ昨日の女将さんは?


15:34 真留美

分からない


15:34 紗季

写真撮った?


15:35 真留美

撮ってない


15:35 紗季

珍しい


15:36 真留美

なんか

撮っちゃいけない気がした


15:36 紗季


15:37 真留美

でも

嫌な感じじゃなかった


15:38 紗季

じゃあ何


15:39 真留美

最後まで

ちゃんと宿だった



その夜。


真留美は村の民宿に泊まった。


古いけれど、ちゃんと営業している普通の民宿。


畳に座って、女将にもらった紙包みを開いた。


握り飯が二つ。


少し塩がきいていた。


お米はまだ柔らかかった。


真留美は一口食べた。


涙が出た。


怖かった。


確かに怖かった。


でも、それだけではなかった。


あの旅館は、最後に誰かをもてなしたかったのだ。


歩き疲れた、怖いもの知らずの女子高生を。


最後のお客様として。



翌朝、村人たちともう一度、清水屋へ行った。


建物は、さらに崩れていた。


昨日より、明らかに。


玄関の梁が落ちている。

廊下は傾いている。

床の間のあった部屋は、半分潰れていた。


掛け軸は、床に落ちていた。


いや、掛け軸だったものがあった。


紙は破れ、軸は折れ、絵はほとんど剥がれている。


昨日、真留美が見た山と川は、もう分からなかった。


村の老人が言った。


「役目が終わったんだろうな」


真留美は、言葉にできなかった。


そのまま、手を合わせた。


「ありがとうございました」


風が吹いた。


朽ちた建物の奥で、何かが軽く鳴った。


ちりん。


玄関の呼び鈴のような音だった。


真留美には、それが返事のように聞こえた。



数年後。


真留美は、その集落をもう一度訪れた。


大学生になっていた。


怪談を集める旅は、まだ続けていた。


ただ、昔より少し慎重になった。


不用心な怪談好きにも、まれに成長という現象が起きる。

奇跡である。


清水屋のあった場所へ向かった。


道は少し変わっていた。


草が伸び、昔の目印も減っていた。


でも、場所は覚えていた。


そこにあったのは、原っぱだった。


旅館はなかった。


瓦も。

柱も。

看板も。

掛け軸も。


何も残っていなかった。


ただ、夏草が揺れていた。


真留美はしばらく立っていた。


あの玄関。

女将の声。

麦茶の冷たさ。

掛け軸の山と川。

従業員たちの深いお辞儀。


全部、夢のようだった。


でも、夢ではない。


真留美は鞄から、古い紙包みを出した。


あの日の包み紙。


握り飯を包んでいた紙。


捨てられなかった。


紙は黄ばんでいた。


そこには、薄く文字が残っている。


いつ書かれたのか分からない。


けれど、確かに読めた。



お越しいただき、ありがとうございました。



真留美は、その紙をまた丁寧に畳んだ。


そして、原っぱに向かって頭を下げた。


「こちらこそ」


夏の風が吹いた。


草がざわめいた。


その音の中に、一瞬だけ。


襖が開く音が混じった気がした。


「お待ちしておりました」


あの女将の声が、聞こえたような気がした。


真留美は振り返らなかった。


もう振り返らなくていいと思った。


清水屋は、最後のお客様を迎えた。


最後の仕事を終えた。


それで、この世を去ったのだ。


怖い話として語れば、確かに怖い。


営業していない旅館に泊まった女子高生の話。


存在しない女将。

存在しない従業員。

朽ちた掛け軸。


でも真留美は、それをただ怖い話としてだけは語れなかった。


あの夜の布団は、きちんと干された匂いがした。


麦茶は冷たかった。


朝食は温かかった。


女将の見送りは、寂しいくらい丁寧だった。


だから真留美は、今でもこの話をする時、最後にこう付け加える。


あれは怪異だった。


たぶん、間違いなく。


でも。


私を怖がらせるためではなく。


最後に、もてなすために出てきたんだと思う。


そう言うと、聞いた人はたいてい黙る。


怪談なのに、少しだけ寂しくなるから。


そして、真留美は思い出す。


あの旅館の玄関で、女将が言った言葉を。


「お客様は、もうお帰りください」


あれはきっと。


生きている人間への、最後のもてなしだった。

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