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怖い話_続  作者: 三葉


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16/27

最後のお客様

真留美は、怪談を集めていた。


怖い話が好きだった。


ただし、動画で見るだけでは物足りない。


ネットで読むだけでも足りない。


誰かが実際に声で語る怪談。


間。

ため息。

言い淀み。

「ここだけの話だけどね」と言う時の目。


そういうものが好きだった。


夏休み。


真留美は、ひとりで田舎を回っていた。


目的は、体験することではない。


聞くこと。


集めること。


記録すること。


そのはずだった。


人間、自分だけは安全圏にいると思いがちだ。

怪談好きほど、なぜか怪談の入口に自分から顔を突っ込む。

勇気ではない。ほぼ不用心である。


⸻


【LINE】


13:12 紗季

今どこ?


13:13 真留美

山


13:13 紗季

ざっくりしすぎ


13:14 真留美

駅からバス乗って

そこから歩いてる


13:14 紗季

高校生が一人で何してんの


13:15 真留美

怪談採集


13:15 紗季

言い方だけ民俗学者


13:16 真留美

実際それっぽいでしょ


13:16 紗季

中身はただの怖いもの知らず


⸻


目的地は、関東の山沿いにある小さな集落だった。


地図には一応名前がある。


でも、検索してもほとんど情報が出ない。


古い神社。

廃校になった小学校。

盆踊りの写真が一枚。


それくらい。


真留美がそこへ行こうと思ったのは、怪談好きの掲示板で見た一文がきっかけだった。


あの集落には、人を泊めるはずのない宿がある。


それだけ。


詳しい話はなかった。


だから、聞きに行くことにした。


バスは一日三本。


降りた停留所には、ベンチと錆びた時刻表しかなかった。


そこから集落までは徒歩四十分。


真留美は最初、余裕だと思っていた。


でも、夏の山道は甘くなかった。


日差しは強い。

虫は多い。

坂は長い。

自販機はない。


水筒の中身は、もう半分以下。


汗でシャツが背中に張りついている。


「……これは、やらかしたかも」


声に出した。


その時、道の先に建物が見えた。


木造二階建て。


瓦屋根。


玄関の上に、古い看板がある。


旅館 清水屋


真留美は足を止めた。


地図には載っていなかった。


でも、助かったと思った。


少し休めるかもしれない。


水をもらえるかもしれない。


人がいれば、怪談も聞けるかもしれない。


そう思って、玄関へ向かった。


引き戸の前に立つ。


中は薄暗い。


でも、打ち水をしたばかりのように、玄関先の石が濡れていた。


真留美が声をかける前に、引き戸が開いた。


中から、着物姿の女の人が出てきた。


年齢は分からない。


四十代にも、六十代にも見える。


背筋が伸びていて、声がやわらかかった。


「お待ちしておりました」


真留美は、少し笑った。


「えっと、予約とかはしてないんですけど」


女将は、深く頭を下げた。


「長い道で、お疲れでございましたね」


会話が、少し噛み合わない。


でも、その声はあまりにも優しかった。


真留美は、警戒より先に安心してしまった。


「少し、休ませてもらってもいいですか」


「もちろんでございます」


女将は、にこりと笑った。


「今日は、最後のお客様ですから」


最後。


その言葉だけ、妙に耳に残った。


⸻


【LINE】


14:22 真留美

旅館見つけた


14:22 紗季

泊まるの?


14:23 真留美

分かんない

少し休ませてもらう


14:23 紗季

予約してないんでしょ?


14:24 真留美

でも女将さん優しい


14:24 紗季

優しい知らない人ほど警戒しなさい


14:25 真留美

都会の防犯意識


14:25 紗季

田舎でも防犯は防犯


14:26 真留美

水もらったらすぐ聞き込み行く


14:26 紗季

位置送って


14:27 真留美

送る


⸻


位置情報を送ろうとした。


でも、地図がうまく表示されなかった。


山道の途中で、青い点が止まっている。


旅館の位置は出ない。


真留美は、電波が弱いのだと思った。


山だから。


便利な言い訳である。


⸻


女将は、真留美を広間へ案内した。


畳の部屋。


低い机。

古い扇風機。

障子の向こうには庭。


廊下は長く、磨かれていた。


古い建物なのに、不思議と埃っぽくない。


ただ、音が少なかった。


人の気配はある。


奥で誰かが歩く音。

厨房から器の触れ合う音。

廊下の向こうで衣擦れの音。


なのに、姿はほとんど見えない。


「お茶をお持ちします」


女将が言った。


すぐに、若い仲居らしき女性がお盆を持ってきた。


湯呑み。

冷たい麦茶。

小さな菓子。


「どうぞ」


「あ、ありがとうございます」


真留美は麦茶を飲んだ。


冷たかった。


喉の奥にしみた。


それだけで泣きそうになるくらい、疲れていた。


「お食事も、じきに」


女将が言った。


「え、そこまでは」


「山を歩かれた方には、まず召し上がっていただかないと」


「でも、お金そんなに持ってないです」


「お気になさらず」


「いや、それは気にします」


女将は、少しだけ困ったように笑った。


「お客様に空腹のまま帰っていただくことは、できませんので」


その言い方は、丁寧だった。


でも、どこか固かった。


まるで、決まり文句を何十年も守っている人のようだった。


⸻


広間の床の間に、掛け軸がかかっていた。


山と川の絵。


古い山水画のようにも見える。


ただ、真留美はその絵から目が離せなかった。


山の線が、妙に細かい。


川の水面が、濡れているように光る。


そして、画面の端に、小さく旅館のような建物が描かれている。


その玄関に、人影が二つ。


ひとりは着物の女。


もうひとりは、筆を持った男。


「きれい……」


真留美が呟くと、女将が少しだけ目を伏せた。


「主人が描いたものです」


「ご主人、画家さんなんですか」


「そうありたい人でした」


変な返事だった。


「これ、ずっとここに?」


「ええ」


女将は掛け軸を見上げた。


「この宿の、いちばん古い従業員でございます」


冗談なのか、本気なのか分からなかった。


⸻


夕方になると、料理が出た。


山菜。

川魚。

小さな鍋。

白いご飯。

味噌汁。


派手ではない。


でも、丁寧だった。


真留美は夢中で食べた。


食べながら、怖い話を聞こうとした。


「このあたり、怪談ってありますか?」


女将は箸を置く真留美を見て、少し首を傾げた。


「怪談、でございますか」


「はい。夏の怪談を集めてて」


「まあ」


女将は微笑んだ。


「若い方は、お好きですね」


「怖い話、嫌いですか?」


「いいえ」


女将は静かに言った。


「本当に怖いものは、話にしておかないと、忘れられてしまいますから」


その言葉に、真留美は少しぞくっとした。


「この旅館にも、何かありますか?」


女将は答えなかった。


代わりに、空になった椀を見た。


「おかわりはいかがですか」


「話、そらしました?」


「お若い方は、まず食べてくださいませ」


優しい。


でも、答えない。


真留美は笑った。


「女将さん、手強い」


女将も、少し笑った。


⸻


【LINE】


19:08 真留美

なんか泊まる流れになってる


19:08 紗季

は?


19:09 真留美

ご飯出た


19:09 紗季

警戒心どこ置いてきたの


19:10 真留美

おいしかった


19:10 紗季

食レポしてる場合じゃない


19:11 真留美

旅館の怪談聞けそう


19:11 紗季

あんたが怪談になるなよ


19:12 真留美

失礼


19:12 紗季

旅館名は?


19:13 真留美

清水屋


19:14 紗季

検索出ない


19:14 真留美

古いからじゃない?


19:15 紗季

古い宿でも出る時代です


⸻


そのLINEを見て、真留美は少しだけ不安になった。


でも、目の前の料理は温かかった。


部屋は清潔だった。


女将は優しかった。


だから、悪い場所には思えなかった。


思えなかったのが、今思えば怖い。


⸻


夜。


真留美は二階の客室に案内された。


六畳の和室。


畳の匂い。

窓の外は真っ暗な山。

遠くで虫が鳴いている。


布団はすでに敷かれていた。


枕元には、湯呑みと小さな行灯。


「何かございましたら、お呼びください」


女将が言った。


「ありがとうございます」


「今夜は、ゆっくりお休みくださいませ」


「女将さん」


「はい」


「さっき言ってた、最後のお客様ってどういう意味ですか」


女将は、しばらく黙った。


廊下の暗がりで、その顔だけがぼんやり白く見えた。


「明日になれば、分かるかもしれません」


「怖い言い方ですね」


「怪談をお探しなのでしょう?」


女将は静かに笑った。


「今夜だけは、お客様でいてください」


それだけ言って、襖を閉めた。


真留美は布団に座り込んだ。


怖い。


でも、不思議と逃げたいとは思わなかった。


むしろ、胸の奥が少し温かかった。


もてなされている。


本当に、大事にされている。


そんな感じがした。


だから余計に怖かった。


⸻


夜中。


真留美は目を覚ました。


廊下から、足音が聞こえた。


ひとりではない。


何人もいる。


忙しそうに、でも静かに歩いている。


障子の向こうを、影が通る。


お盆を持った仲居。

布団を運ぶ男。

桶を抱えた若い女。

箒を持つ老人。


さっきまで姿を見なかった従業員たち。


こんなにいたのか。


真留美は息を潜めた。


廊下の向こうから、声がした。


「お客様は眠られたか」


「よく召し上がってくださった」


「よかった」


「最後に、よかった」


最後。


また、その言葉。


真留美は布団をかぶった。


その時、枕元のスマホが光った。


紗季からではない。


知らない番号からのSMSだった。


⸻


【SMS】


02:16

起きていらっしゃいますか


⸻


真留美は体を硬くした。


すぐに次が来た。


⸻


02:17

廊下は見ない方がよろしゅうございます


⸻


言い回しが古い。


真留美は画面を見つめた。


誰?


女将?


従業員?


それとも。


廊下の足音が、部屋の前で止まった。


襖の向こうに、誰かいる。


「お客様」


女将の声だった。


「お休みでございますか」


真留美は返事をしなかった。


SMSの言葉が頭に残っていた。


廊下は見ない方がよろしゅうございます。


女将は、少し間を置いて言った。


「明日の朝、村へお戻りください」


それだけ。


足音は遠ざかっていった。


真留美は、その後ほとんど眠れなかった。


⸻


朝。


障子の向こうが明るくなっていた。


鳥の声がする。


真留美が部屋を出ると、廊下は静かだった。


昨夜の人の気配はない。


広間へ行くと、朝食が用意されていた。


ご飯。

味噌汁。

卵焼き。

漬物。

焼き魚。


女将は、いつものように正座していた。


「おはようございます」


「おはようございます」


「よく眠れましたか」


真留美は少し迷った。


「……あんまり」


「そうでございましたか」


女将は、申し訳なさそうに頭を下げた。


「お騒がせしました」


「昨日の夜、従業員さんたちが」


「ええ」


女将は静かに言った。


「皆、久しぶりでしたので」


「久しぶり?」


「お客様をお迎えするのが」


真留美は箸を止めた。


女将は、床の間の掛け軸を見た。


朝の光の中で見ると、絵は少し色褪せていた。


昨日より古く見える。


「この宿は、よい宿でございました」


女将が言った。


「昔は、夏になるとたくさんのお客様がいらっしゃいました」


「今は?」


女将は答えなかった。


「でも、昨日は泊まれました」


「ええ」


「営業してるんですよね?」


女将は、少しだけ笑った。


「昨夜までは」


真留美は、ぞっとした。


「どういう意味ですか」


「どうか、覚えていてくださいませ」


女将は深く頭を下げた。


「ここに、宿があったことを」


その声は、怖いほど穏やかだった。


⸻


朝食の後、女将は玄関まで見送ってくれた。


従業員たちも並んでいた。


昨日見えなかった人たち。


仲居。

板前。

番頭らしき老人。

布団係の若い男。


みんな、深く頭を下げる。


「ありがとうございました」


真留美は、逆に頭を下げた。


「こちらこそ、ありがとうございました」


女将が、包みを渡してきた。


小さな紙包み。


「道中に」


中には、握り飯が二つ入っていた。


「え、こんな」


「お若い方は、歩くとお腹がすきますから」


真留美は笑いそうになって、泣きそうになった。


「また来てもいいですか」


女将は、少し困ったように微笑んだ。


「お客様は、もうお帰りください」


「え?」


「お戻りになる場所が、おありでしょう」


その言い方が、優しかった。


そして、少し寂しかった。


真留美は、何も言えなかった。


最後に、女将は言った。


「怪談を、お探しでしたね」


「はい」


「では、これは怪談ではなく」


女将は静かに続けた。


「宿の、最後の仕事だったとお伝えください」


⸻


真留美は旅館を出た。


振り返ると、玄関に女将たちが並んでいた。


朝の光の中。


旅館は古いけれど、まだ確かにそこにあった。


真留美は手を振った。


女将も、小さく手を振った。


それから、集落の方へ歩いた。


十分ほど歩くと、民家が見えてきた。


畑にいた老人に声をかける。


「すみません、清水屋って旅館から来たんですけど」


老人の手が止まった。


「清水屋?」


「はい。昨日泊めてもらって」


老人は、真留美の顔をじっと見た。


「どこの清水屋だ」


「この先の、木造の旅館です」


老人の顔色が変わった。


「……あそこに泊まったのか」


「はい」


「あそこは、もうやっとらん」


「え?」


「何十年も前に閉めた」


真留美は、笑おうとした。


冗談だと思いたかった。


「でも、女将さんがいて、ご飯も」


老人は首を振った。


「誰も近寄らん。崩れかけとるから危ない」


「そんなはず」


「見に行くか」


老人は、近くの若い村人を呼んでくれた。


三人で、真留美が来た道を戻った。


旅館は、そこにあった。


でも。


昨日とは違っていた。


玄関の引き戸は外れかけている。

看板は割れている。

屋根の瓦は落ちている。

庭は草に埋もれている。


人が泊まれる状態ではなかった。


打ち水の跡もない。


磨かれた廊下もない。


丁寧な料理の匂いもない。


ただ、朽ちた建物があるだけだった。


真留美は言葉を失った。


「でも、昨日……」


村人は、小さく呟いた。


「まだ、もってたのか」


老人は、玄関先で手を合わせた。


「清水屋の女将さんは、ええ人だった」


⸻


その後、真留美は村の集会所で話を聞いた。


清水屋は、昔、本当に旅館だった。


夏になると、湯治客や登山客が泊まった。


女将は働き者で、客を大事にする人だった。


その夫は、絵を描く人だった。


旅館の床の間にあった掛け軸。


あれは夫が描いたものだという。


老人は、声を落として言った。


「噂だがな」


その絵には、女将の髪や肌を削ったものを、ほんの少し絵具に混ぜたという話があった。


夫自身の髪や血も混ぜた、とも言われていた。


もちろん、本当かどうかは分からない。


昔の人の噂話だ。


けれど、夫はその絵を完成させた直後、息を引き取ったらしい。


女将は夫を供養し、その掛け軸を旅館に飾り続けた。


それからも旅館を切り盛りした。


客に湯を出し、食事を出し、布団を整えた。


だが、時代が変わった。


道が変わり、客が減った。


若者も村を出た。


子どもも減った。


祭りもなくなった。


最後は、誰も泊まりに来なくなった。


女将も亡くなり、清水屋は閉じた。


でも、旅館はずっとそこに残っていた。


「たまに、夜だけ灯りがついたって話はあった」


老人は言った。


「でも、誰も近寄らんかった」


「どうしてですか」


「怖いからというより」


老人は、少し寂しそうに言った。


「終わったものを、見に行くのがつらいんだ」


真留美は、何も言えなかった。


⸻


【LINE】


15:32 真留美

泊まった旅館

営業してなかった


15:32 紗季

は?


15:33 真留美

ずっと前に閉めたんだって


15:33 紗季

じゃあ昨日の女将さんは?


15:34 真留美

分からない


15:34 紗季

写真撮った?


15:35 真留美

撮ってない


15:35 紗季

珍しい


15:36 真留美

なんか

撮っちゃいけない気がした


15:36 紗季

怖


15:37 真留美

でも

嫌な感じじゃなかった


15:38 紗季

じゃあ何


15:39 真留美

最後まで

ちゃんと宿だった


⸻


その夜。


真留美は村の民宿に泊まった。


古いけれど、ちゃんと営業している普通の民宿。


畳に座って、女将にもらった紙包みを開いた。


握り飯が二つ。


少し塩がきいていた。


お米はまだ柔らかかった。


真留美は一口食べた。


涙が出た。


怖かった。


確かに怖かった。


でも、それだけではなかった。


あの旅館は、最後に誰かをもてなしたかったのだ。


歩き疲れた、怖いもの知らずの女子高生を。


最後のお客様として。


⸻


翌朝、村人たちともう一度、清水屋へ行った。


建物は、さらに崩れていた。


昨日より、明らかに。


玄関の梁が落ちている。

廊下は傾いている。

床の間のあった部屋は、半分潰れていた。


掛け軸は、床に落ちていた。


いや、掛け軸だったものがあった。


紙は破れ、軸は折れ、絵はほとんど剥がれている。


昨日、真留美が見た山と川は、もう分からなかった。


村の老人が言った。


「役目が終わったんだろうな」


真留美は、言葉にできなかった。


そのまま、手を合わせた。


「ありがとうございました」


風が吹いた。


朽ちた建物の奥で、何かが軽く鳴った。


ちりん。


玄関の呼び鈴のような音だった。


真留美には、それが返事のように聞こえた。


⸻


数年後。


真留美は、その集落をもう一度訪れた。


大学生になっていた。


怪談を集める旅は、まだ続けていた。


ただ、昔より少し慎重になった。


不用心な怪談好きにも、まれに成長という現象が起きる。

奇跡である。


清水屋のあった場所へ向かった。


道は少し変わっていた。


草が伸び、昔の目印も減っていた。


でも、場所は覚えていた。


そこにあったのは、原っぱだった。


旅館はなかった。


瓦も。

柱も。

看板も。

掛け軸も。


何も残っていなかった。


ただ、夏草が揺れていた。


真留美はしばらく立っていた。


あの玄関。

女将の声。

麦茶の冷たさ。

掛け軸の山と川。

従業員たちの深いお辞儀。


全部、夢のようだった。


でも、夢ではない。


真留美は鞄から、古い紙包みを出した。


あの日の包み紙。


握り飯を包んでいた紙。


捨てられなかった。


紙は黄ばんでいた。


そこには、薄く文字が残っている。


いつ書かれたのか分からない。


けれど、確かに読めた。


⸻


お越しいただき、ありがとうございました。


⸻


真留美は、その紙をまた丁寧に畳んだ。


そして、原っぱに向かって頭を下げた。


「こちらこそ」


夏の風が吹いた。


草がざわめいた。


その音の中に、一瞬だけ。


襖が開く音が混じった気がした。


「お待ちしておりました」


あの女将の声が、聞こえたような気がした。


真留美は振り返らなかった。


もう振り返らなくていいと思った。


清水屋は、最後のお客様を迎えた。


最後の仕事を終えた。


それで、この世を去ったのだ。


怖い話として語れば、確かに怖い。


営業していない旅館に泊まった女子高生の話。


存在しない女将。

存在しない従業員。

朽ちた掛け軸。


でも真留美は、それをただ怖い話としてだけは語れなかった。


あの夜の布団は、きちんと干された匂いがした。


麦茶は冷たかった。


朝食は温かかった。


女将の見送りは、寂しいくらい丁寧だった。


だから真留美は、今でもこの話をする時、最後にこう付け加える。


あれは怪異だった。


たぶん、間違いなく。


でも。


私を怖がらせるためではなく。


最後に、もてなすために出てきたんだと思う。


そう言うと、聞いた人はたいてい黙る。


怪談なのに、少しだけ寂しくなるから。


そして、真留美は思い出す。


あの旅館の玄関で、女将が言った言葉を。


「お客様は、もうお帰りください」


あれはきっと。


生きている人間への、最後のもてなしだった。

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