第19話:地下の静脈と、マッピングの境界
アトラン国の華やかな王都。
貴族たちが優雅に馬車を走らせる美しい石畳の直下には、数千年にわたる
増改築の果てに打ち捨てられた、巨大な「技術の墓場」が広がっていた。
迷宮のように入り組んだ地下廃水路、あるいは旧時代の遺跡群。
湿度は常に九十二パーセントを超え、大気には嫌気性細菌による有機物の分解臭
と、石灰岩から溶け出した炭酸カルシウムの重苦しい匂いが漂っている。
かつての魔法文明が「地脈」と呼び、都市全域へ膨大な魔力を循環させて
いたその巨大な導管は、今や魔力を失い、ただの冷たい石の空洞へと
成り果てていた。
一歩先も見えない完全な暗闇の中、ピチャリ、ピチャリと水滴の落ちる不気味な
音だけが反響している。
「……うわぁ、こりゃひどい。
先輩、ここ本当に通れるんすか?
足元、なんか得体の知れないスライムみたいな苔が生えてて、
ヌルヌルしてマジで気持ち悪いんすけど……。
さっきから変な虫も飛んでるし」
井口が防水ブーツの不快な感触に顔をしかめながら、手にした懐中電灯
(ドバイ製・高輝度LEDライト)の光で周囲を照らす。
強烈な白い光が闇を切り裂き、かつての魔導回路の残骸である劣化した
結晶体や、崩れかけたアーチ状のレンガ壁を浮かび上がらせた。
「足元の摩擦係数を気にする暇があるなら、頭上の上部構造の
耐荷重と応力分布を計算しろ。この巨大な空洞は、上の貴族街の
総重量を支えているアーチ構造の一部に過ぎない。
経年劣化による崩落が起きれば、俺たちのミッションは
物理的に終了する。お前のその柔らかい有機的な頭蓋骨など、
一・五トンの石材が落下してくれば〇・一秒でトマトのように
潰れるからな」
石黒賢治は、泥水など一切気にする様子もなく、淡々と歩みを進めていた。
彼はチタン合金製のタブレットを左手に保持し、右手に持った小型の全方位
レーザースキャナー(LiDAR)を頭上にかざしている。
スキャナーのモーターが高速回転する微かな駆動音とともに、不可視の赤外線
レーザーが一秒間に数万回という途方もない速度で周囲の空間を叩き、その反射
時間を計算してタブレット上に緻密な「点群データ」をリアルタイムで生成していく。
「マスター。前方十二メートル、左舷側壁に幅五センチの亀裂を確認。
構造的完全性に〇・三パーセントの懸念がありますが、現在の地殻
変動リスクを鑑みても通行に支障はありません。
また、大気中の硫化水素濃度は安全基準値の範囲内です」
石黒の背後、暗闇に完全に溶け込むように追従するセレナが、感情を一切排した
クリアな音声で補足した。彼女の人工網膜には、石黒のタブレットと完全に同期した
リアルタイムの3D空間マップが投影されており、彼女にとって「暗闇」という概念
そのものがとうの昔に無効化されている。
「了解した。引き続きマッピングを続行する」
石黒が冷たく応じたその時、井口が思い出したように口を開いた。
「それにしても先輩、最近マジで人気っすよね。知ってます?」
「何の話だ」
「いや、伯爵邸での先輩の評判っすよ! 屋敷のメイドたちとか、
伯爵の護衛の騎士たちまで、先輩の『誰に対しても容赦ない
冷酷な視線がたまらない』とか言って、裏で
『石黒様・非公式ファンクラブ』作ってるらしいっすよ。
この前なんか、メイド長のマリアさんが、先輩の白衣を洗濯する
係をめぐって若いメイドとガチの喧嘩してましたからね。
ルルルとミャオミャオも、すっかり先輩に懐いちゃって、
『石黒さまは太陽の神様にゃ』とか言ってますし」
「下らん」
石黒は心底嫌そうな顔をした。
井口はニヤニヤと笑いながら、暗闇の緊張感を和らげるように軽口を叩いた。
「えー、でも生身の女の子からキャーキャー言われるって、
男として普通に嬉しいじゃないっすか。
先輩って、その、女性には本当に一ミリも興味ないんすか?」
ピタリ、と石黒の足が止まった。
彼はゆっくりと井口の方を振り返り、その冷徹な黒い瞳で後輩を射抜いた。
「……耳障りなノイズだ。いいか井口、人間の生体器官から分泌される
ドーパミンやオキシトシンといったホルモン異常(恋愛感情)など、
非効率な生殖プロセスを強制的に促すための、DNAに仕組まれた
システムのバグに過ぎない」
「うわ、出た。身も蓋もない生物学の否定」
石黒はタブレットから視線を外し、背後に控えるアンドロイド――
セレナに向き直った。
そして、彼女のチタン合金と特殊ポリマーで構成された滑らかな首筋の
ジョイント部分を、まるでこの世で最も尊い国宝の美術品を愛でるように、
長い指先でそっと撫でた。
「マスター。外部装甲の第三セクターへの接触を確認。
局所的な表面温度の上昇、〇・〇二度。
冷却ファンを微弱稼働しますか?」
「いや、そのままでいい。……見ろ、井口。この完璧な排熱システム。
ミリ秒単位でマスターの思考に同期するサーボモーターの絶対的な
追従性。血液という不衛生な液体の代わりに循環する純粋な冷却液。
そして、宇宙が冷えるまで劣化しない光学センサーの美しい輝き」
「うわぁ……ブレないっすね、先輩のその変態的な機巧愛……。
メイドさんたちが不憫になってきたっす」
井口が呆れ果ててため息をついた、その時だった。
「……へっ。光る板っこや、冷てぇ鉄人形に発情してんのか?
あんたら、頭のネジが数本吹き飛んでるんじゃねぇか?」
不意に、前方の淀んだ闇の奥から、野性味のある低い声が響いた。
井口が慌てて懐中電灯を向けると、光の輪の中に、頭部に三角形の耳を持った
狼の獣人が浮かび上がった。使い込まれた革鎧を纏い、腰に二本のマチェーテを
提げた男――ザックだ。
彼は、複雑怪奇なアトランの地下廃水路や遺跡群を知り尽くした「裏の案内人」
として、石黒が伯爵の資金を使って破格の報酬で雇い入れた男だった。
「ザック。勝手に先行するなと指示したはずだ。
この領域の空間座標はまだ俺のデータベース内で確定していない」
「座標だか何だか知らねぇが、この地下世界じゃあ
俺の鼻と耳に勝る地図はこの世にねぇよ。
学者の先生方には分からねぇだろうがな、この迷宮は生きてるんだ。
風の匂い、岩の軋む音、魔物の微かな息遣い……それらを読み取れねぇ
奴は、ここじゃ三日も経たずに迷い死ぬ」
ザックは自慢げに牙を剥いて鼻を鳴らした。
「俺の勘に従いな。ここを三曲がって右だ。
その先にある太い導管が、あんたの探してる
『地下の静脈』ってやつだろ?」
「『三曲がって右』か。お前の脳内にある『勘』という名の非公開ログ
を否定する気はない。長年の経験と五感の情報を統合処理する、
生物個人の生存戦略としては極めて優秀なアルゴリズムだ」
石黒は歩みを止め、冷たい光を放つタブレットをザックの目の前に突きつけた。
「だが、個人の主観に依存したデータは、他者と共有(同期)できない。
『三曲がって』というが、その曲がり角の定義はなんだ? 角度は何十度だ?
距離は何メートルだ? 俺が必要としているのは、誰が観測しても絶対に
揺らがない共通言語……この地下ネットワークを完全に記述するための、
『グラフ理論』に基づいたトポロジーマップだ」
「ぐらふ……? とぽろじー?
何を訳の分からねぇ呪文を唱えてやがる……」
「説明してやる。
……井口、ライトを右の壁面に固定しろ」
「了解っす!」
井口がライトを向けると、石黒はタブレットの画面を小型プロジェクターと
して壁面に投影した。そこには、先ほどからレーザースキャンによって構築
され続けていた、恐ろしく緻密な地下道の3Dワイヤーフレームモデルが、
青白く浮かび上がっていた。
ザックは目を丸くした。自分が何十年もかけて頭の中に叩き込んできた地下
の構造が、わずか数十分で、光の線となって壁に描き出されているのだ。
「いいか、獣人。人間は形のない恐怖や、情報量の多すぎる迷宮で
容易に思考の迷子になる。この複雑な空間を、距離や曲がり角という
曖昧な感覚で覚えようとするから、お前の脳は限界を迎えるのだ」
石黒の長い指が画面をスワイプすると、複雑な地下道の3D立体モデルが、
突如として単純な「点」と、それを結ぶ「線」だけの、
極めてシンプルな幾何学図形へと簡略化された。
「ネットワーク工学において、物理的な形状や壁の質感、
通路の曲がり具合などというノイズは重要ではない。
重要なのは、どの点と、どの点が、どう繋がっているか
……それだけだ。数式は、この得体の知れない闇に『境界線』を引くための、
絶対的な解剖メスだ」
「なんだこりゃ……地図の形すらしてねぇ。
ただの点と線じゃねぇか……」
「これが『グラフ』だ。お前が『三曲がって右』と言った曖昧な経路は、
この数学的モデル上では『ノードAからノードDへの最短経路探索(ダイクストラ法)』
として明確に定義される。距離、勾配、湿気、障害物の有無
……お前が『勘』と呼んでいたブラックボックスの中身を、俺は今、
すべての変数を重み付けした関数として外部演算装置で可視化・最適化したのだ」
石黒は画面の投影を消すと、再び迷いなく歩き出し、ザックの案内を無視して
左側の、一見すればただの崩れた岩の隙間にしか見えない場所へと入っていった。
「おい、待て! そっちは行き止まりだぞ……!」
ザックが血相を変えて止めようとしたが、石黒に続いてその隙間を抜けた瞬間、
彼の言葉は文字通り凍りついた。
そこには、直径五メートルを超える巨大な円筒形の空間が、果てしなく奥へと
広がっていたのだ。壁面にはかつての魔法文明が埋め込んだ「魔導超電導材」の
残滓が、微かな燐光を放ちながら縦横無尽に走っている。
ザックですら、その存在を知らなかった隠し通路の先にある光景だった。
「ここだ。アトラン国の地下を網羅する、
かつての主力導管……。今や魔力も流れず、
人々に忘れ去られた『死んだ静脈』だ」
石黒はその壁面に手を触れた。冷たい石の感触の中に、かつて数千年前の
科学者たちが込めた、偏執的なまでの「効率」への執着を感じ取る。
「この導管は、都市の全区画へと物理的に繋がっている。
つまり、ここに新たな『導線』を通せば、石畳を掘り返すことなく、
街全体の魔導回路を物理レイヤーで並列接続できる」
「……あんた、まさか、俺が何年も命がけで覚えたこの地下の全部を
……その板っこ一枚で、一瞬で把握したってのか?」
ザックの掠れた声から、先ほどまでの傲慢さが完全に消え去っていた。
彼にとって、この地下世界は「命を懸けて覚えるべき、恐るべき神々の闇」
だった。しかし、目の前の白衣の男が持つデバイスの中では、その大いなる闇は
ただの「計算可能な数値」へと解体され、完全にコントロールされていた。
「把握したのではない。定義し直したのだ。
……いいか、ザック。どんなに深くて恐ろしい闇でも、
そこに論理の境界線を引けば、それはただの『処理可能なタスク』
へと成り下がる」
石黒はタブレットを操作し、あらかじめ入力しておいた王都の地上図と、
今スキャンした地下のグラフマップを重ね合わせた。
「見ていろ。これが『マッピングの境界』だ」
画面上で、地上の貴族街、大広場、そしてスラム街の建物たちが、地下の点
とZ軸座標で正確に紐付けられていく。
地上の建物は「データ発生源」、地下の導管は「伝送路」。
石黒の脳内では、もはやアトラン国は一つのファンタジーの都市ではなく、
一枚の巨大なプリント基板として再構成されていた。
「マスター。全区画のトポロジー接続テスト、完了しました。
地上との接続ポイント、合計百二十八箇所を特定。
各ノードにおけるパケット損失の予測値は、〇・〇二パーセント以下です」
セレナの無機質な報告を聞きながら、石黒は不敵に笑った。
「完璧だ。……井口、リザーブしていた通信用ファイバー
……いや、この世界にある『銀糸の魔導繊維』をここに敷設する準備をしろ。
前に完成させた『マザー・クロック』の信号を、この地下の静脈を通して
王都中に流し込む」
「了解っす、先輩! だけど、これだけの距離を配線するの、
ルルルたちを呼んだとしても人手が足りないっすよ?」
「だからこそ、この男を雇った」
石黒は振り返り、呆然と立ち尽くすザックを見下ろした。
「ザック。お前の『勘』は、もはや地図としては不要だ。
俺のシステムのほうが圧倒的に優れている。
だが、このグラフマップ上の最短経路を物理的に踏破し、
ケーブルを壁面に定着させる『物理レイヤーの作業員』
としての筋肉の価値と人脈の広さはまだ残っている」
「……作業員、か」
ザックは自嘲気味に笑い、武器を鞘に収めた。しかし、その狼の瞳には
石黒に対する反発や恐怖ではなく、奇妙な熱がこもっていた。
「へっ……魔法使いの偉いさんたちでも分からなかった
この深淵の正体を、一瞬で丸裸にしちまうなんてよ。
……なんだか、背筋がゾクゾクしてきたぜ。
俺も、メイドの姉ちゃんたちと同じで、あんたのその
『冷酷さ』のファンになっちまいそうだ」
犬のように尻尾を揺らしてニヤリと笑うザックに対し、石黒は心底汚いもの
でも見るかのように、限界まで眉間に皺を寄せた。
「……気持ち悪いことを言うな、獣人。
俺は毛皮に覆われたオスからの好意を受信するポートを
持ち合わせていない。誰かの足元を照らしてやる気も、
他者に寄り添う気も一切ない」
「ははっ! 徹底してんな、おい! 痺れるぜ!」
石黒は深い溜め息をつきながら、再び暗闇の奥へとスキャナーの光を向けた。
赤いレーザーの線が、カビの生えた古い石壁を容赦なく切り裂いていく。
「だが……俺の引いたこの論理の境界線が、
結果としてお前の歩幅を安定させるというのなら、
勝手に利用しろ。その代わり、死ぬ気でケーブルを運べ」
「了解だ、雇用主!
あんたの言う『ぐらふ』ってやつの通りに、
きっちり線を引いてやるよ!」
地下の静脈に、石黒の正確無比な足音と、それに弾むように続くザックの足音が響く。
それはかつてこの地を支配した魔法文明の鼓動ではなく、現代科学が異世界の深淵を
論理で切り分け、新たな支配を構築していく、確かな侵略の足音であった。
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