第14話:黒髪のスペクトルと逃走の軌跡
ヴァレリー伯爵邸の広大な敷地の北西端。
本邸の豪奢な喧騒から物理的に切り離された石造りの「離れ」は、一夜にして
異界へと変貌していた。
伯爵は心酔しきった様子で本邸の最上階を差し出すとまで提案したが、石黒は
一秒を待たずに却下した。
「貴公の生活排熱など、精密測定の邪魔だ。
この離れを、俺の所有権が及ぶ独立した『座標』として提供しろ。
もちろん、俺の許可なき者の立ち入りは、物理法則への冒涜とみなす」
そう言い放って手に入れたこの場所は、今や壁一面に数式が書き殴られ、
持ち込まれたサーバーの冷却ファンが唸りを上げる、アトラン国で唯一
「魔法が論理に屈服した場所」となっていた。
「……よし、ネットワークの同期完了だ。
井口、観測機材のキャリブレーションを急げ。
この『第一ラボ』の電力線の安定度は
本邸よりマシだが、依然として電圧変動が酷い」
「ひ、ひえぇ……了解っす先輩!
でも、伯爵様がさっきから窓の外で、
捨てられた子犬みたいな目でこっち見てるんすけど
……本当に一歩も入れなくていいんすか?」
「放っておけ。今はあの『黒髪のサンプル』の解析が最優先だ」
石黒は、伯爵から提供させた最高品質の光学レンズを自作のデバイスに連結し、
網膜投影の解像度を極限まで引き上げた。
準備は整った。
数時間後。アトラン国の貴族街を離れ、石黒たちは複雑に入り組んだ中層居住区の
雑踏の中にいた。
大理石の眩い舗装は、数ブロック背後でぷっつりと途切れ、足元は数十年、
あるいは数百年使い古された、角の丸い不揃いな石畳へと変わっている。
だが、そこには貴族街の人工的な「光害」ではなく、より生々しく、混沌とした
「熱量」が渦巻いていた。夕食の準備を急ぐ竈の火、行き交う労働者たちの体温、
作動不良の魔導具から漏れ出す不規則なエネルギーの波形。
それらが石黒の網膜投影デバイスを通じ、複雑な熱分布となって
視覚野を埋め尽くす。
「先輩! さっきのポニーテールの子、あっちの路地に消えましたよ!
まさかこんな短時間でまた会えるなんて、これ、マジで運命じゃないっすか?」
井口が肩で息をしながら、入り組んだ裏路地の闇を指差した。
「運命などという、統計学的根拠のない言葉で事象を片付けるな。
低能を晒すだけだ」
石黒は歩みを止めず、タブレットの画面を高速でフリックした。
第一ラボのサーバーと常時接続されたこの端末には、今や膨大な演算リソースが
背景で控えている。
「このエリアの人口密度、路地の分岐率、
そして彼女の歩幅から導き出される平均時速……
それらを流体動態モデルに当てはめれば、
彼女が潜伏可能な『袋小路』は、統計的に三ヶ所に絞られる」
石黒は、懐から「予備のアルミホイル」を一枚取り出し、その表面を指先でなぞった。
検問所で彼女が無理やり奪い返した際、石黒は密かに彼女の指先の「残留熱」と、
衣服から脱落した「微細繊維」のスペクトルデータを記録していたのだ。
先ほどのラボでの解析により、その「繊維」の正体はすでに判明している。
「井口、ミャオミャオ、ルルル。
足元を気にする必要はない。
俺が見ているのは『光』だ」
石黒の視界には、デバイスの強調表示によって、石畳の上に淡い燐光の足跡が
浮かび上がっていた。
彼女が纏っていた、あのボロボロのローブ。その布地には、この世界には存在し
得ない「地球製のポリエステル混合繊維」がわずかに混入していた。
それが周囲の魔導具から発せられる微弱な紫外線に反応し、励起状態
となって、目視不可能な軌跡を残している。
「……捕捉した。北北西、二八〇メートル。
熱源が遮断され、周囲の空気密度が不自然に停滞している場所だ」
石黒は迷いなく、悪臭の漂う細い路地へと踏み込んだ。
そこは、魔法の灯火すら届かない、アトラン国の「影」の領域だった。
奥へ進むほど、空気の粘度が上がる。
腐敗した有機物の臭いと、古い石壁が吐き出す湿った冷気が、石黒の嗅覚を容赦なく
刺激した。
「出てこい。無駄な潜伏はエネルギーの浪費だ。
お前の『繊維』は、すでに俺の論理に登録されている」
石黒の声が、湿った壁に反射して低く、冷徹に響く。
突き当たり、うず高く積み上げられた空の木箱の影から、サワサワ……という、
衣擦れの音がした。
「……しつこいわね。よそ者が、私を追って何の得があるの?」
影の中から、背筋をピンと伸ばし凛として気高く、後髪を高い位置まで縛り上げた
ポニーテールがまるで竜族の姫のような出で立ちの少女が姿を現した。
フードは深く被り直されているが、その下から覗く漆黒の瞳は、暗闇の中で
獲物を狙う猛禽類のように鋭い。
彼女の手には、先ほど奪い返したはずのアルミホイルが、鋭利な「楔」の形に
折り畳まれ、即席のナイフとして握られていた。
「得があるかどうかは俺が決める。
俺が知りたいのは一点だけだ」
石黒は、手元のアルミホイルを彼女に突きつけた。
「なぜ、お前が俺のドバイのラボで使っていた
『企業ロゴ入りの超高純度アルミ』を持っている。
この純度は99.999%……この世界の未熟な冶金技術では、
一万年かけても精錬不可能な物質だ」
「……ラボ? ドバイ……?」
少女の眉が微かに動く。翻訳デバイス『NLP-AI』は、彼女の声に深刻な「混乱」と、
それ以上に深い、根源的な「絶望」を検知した。
「しらばっくれるな。これを所持しているということは、
お前は『ゲート』の向こう側を知っているか、
あるいは向こう側から来た『異物』と接触している。
その情報こそが、俺の研究所を再建するための、
ミッシングリンクになる」
「……あなた、何を……」
少女が反論しようと一歩踏み出した、その時だった。
――カサッ、カサカサッ。
路地の入り口、そして石黒たちの背後の壁の隙間から、あの「不快な周波数」の音が響いた。
親指ほどの大きさ。毒々しい紫色の多節生物。
双針の吸殻が、少女を包囲するように、無数の脚を蠢かせて這い出してきたのだ。
「っ……『双針の吸殻』!?」
少女の顔から、一瞬にして血の気が引いた。
先ほどまで凛としていた彼女の肩が、見えない鎖に縛られたかのように、
激しく震え始める。
「先輩、これ! ヴァッシュさんのところにもいたヤツっすよね!?
うわ、増えてる、キモいっすよ!」
井口が悲鳴を上げ、咄嗟にミャオミャオとルルルを自分の背後に押しやった。
猫耳少女たちも、その本能的な嫌悪感から、爪を立てて威嚇の声を上げている。
だが、石黒は少女の様子が「戦闘態勢」ではないことに気づき、眉をひそめた。
彼女は、武器であるはずのアルミホイルの楔を握ったまま、ただ立ち尽くしていた。
その瞳に宿っているのは、敵への怒りではない。抗いようのない「トラウマ」に
支配された、奴隷の如き恐怖だった。
「……嫌。また……あれを、皮膚の下に入れられるのは……」
少女の微かな独白が、レシーバーを通じて石黒の脳に直接届けられた。
その瞬間、石黒の冷徹な演算回路が、
この状況を「未知の寄生生物によるバイオハザード」として即座に再定義した。
「井口、下がれ。……少女、お前もだ。そのアルミホイルの楔では、
そいつらの『タンパク質変性』は止められない。
物理的な切断など、この繁殖速度の前では無意味だ」
石黒はタブレットの出力を最大に引き上げ、群がる紫色の波に向けて、
不可視の電磁波の銃口を向けた。
「安心しろ。科学的に言えば、こいつらは
ただの『水分を含んだ有機物の塊』に過ぎない。
……電子レンジに入れられた卵がどうなるか、教えてやる」
石黒の指が、タブレットの「照射実行」をタップした。
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