第12話:光ファイバーの貴族と熱汚染のパトロン
油の染み込んだ重い木の扉が、不快な高周波の軋み音を立てて閉まった。
アトラン国の工房区の最果て、煤煙と魔法の残り香であるオゾンの金属的な臭いが
停滞するその薄暗い工房の中で、石黒賢治は、崩れ落ちた老職人ヴァッシュを見下ろ
していた。
「……動かない、なぜ動かない……。
俺の、俺の『魔導蒸気エンジン』は……」
ヴァッシュの琥珀色の瞳は、涙と煤で濁り、その声はカルノーサイクルの呪いに
敗れた敗北者の断末魔だった。
「動かない理由なら、さっき掃いて
捨てるほど並べ立てただろう」
石黒は右耳の翻訳デバイス『NLP-AI』のレシーバーを調整し、無表情のまま、
男の背後に鎮座する巨大な金属塊――欠陥のデパート――を指差した。
「歯車の噛み合い(公差)がゼロ、熱処理の無視、
複数の魔石による磁場干渉。
これらが、カルノーサイクルによる熱損失と、
熱膨張の差による内部破壊を招いている。
科学の世界では、これらを『必然』と呼ぶ。
夢ではない、ただの設計ミスだ」
「……必然……? 設計ミス……?」
ヴァッシュが顔を上げた。
その煤けた顔に、石黒の放つ冷徹な論理が、これまでの人生で誰も指摘して
くれなかった、残酷だが確かな「答え」として染み込んでいく。
「先輩! 言い方がきついっすよ!
このおじさん、一生懸命作ったのに!」
井口が慌てて割って入る。
ミャオミャオとルルルも、煤だらけの工房の中、猫耳を不安げに倒し、
しっぽをピンと直立させて井口の背後に隠れていた。
「一生懸命やれば、物理法則が捻じ曲がってくれる
とでも思っているのか? それこそが魔法側の甘えだ。
科学は、一生懸命だろうが、怠け者だろうが、
正しいプロセスを踏めば正しい結果を出す。
冷酷だが、平等だ」
石黒はタブレットを操作し、ヴァッシュのエンジンの3Dスキャンデータを
画面上に展開した。
「……だが。さっきも言ったはずだ。お前、
ハンマーの打撃周波数を、魔石の固有振動数と
同期させようとしただろう」
「……え、ああ……。俺は、魔法を使えないから……。
せめて、俺のハンマーの鼓動だけでも、
魔石の鼓動と、重ねたいと、思って……」
ヴァッシュの手は、ハンマーの握りすぎで変形し、関節が不自然に太くなっていた。
その皮膚の質感は、まるで異なる硬度の金属を無理やり溶接したかのような、
歪な硬さを帯びている。
「その『精神論』は評価しないが、その結果生まれた
『周波数同期』という物理現象は評価する」
石黒は、スキャンデータの銅管表面を拡大した。
そこには、不規則に見えて、ある特定の数学的パターンを持った
微細な打撃痕が刻まれていた。
「このパターン……。魔法陣を刻印する際、
ハンマーの打撃によって素材内部に『定常波』を発生させ、
それが魔力の励起効率を高めている可能性がある。
俺がドバイで捨てた、特定の企業ロゴが刻まれた
アルミホイル……」
石黒は、懐から少女が奪い返したはずのアルミホイルの「予備」を取り出した。
「あれを少女が持っていたということは、
このアトラン国で、地球の特定の規格素材を
必要としている何者かが存在する。そして、
俺のラボのアルミホイルは、99.999%以上の超高純度。……井口」
「はいっす!」
「このヴァッシュとかいう老人の『技術』と、俺の『科学』、
そしてこのラボの『超高純度素材』。
これらを組み合わせれば、アトラン国の魔導技術など、
一瞬にして前世紀の遺物にできる」
石黒の漆黒の瞳に、日本の象牙の塔で裏切られた絶望ではなく、この歪な世界を
再定義するという、狂気にも似た野心の光が灯った。
「お前の『錆びた夢』、俺が本物の『歪な歯車』に変えてやる。
……だが、そのためには実験用の素材、精密な加工機械、
そして何より、魔法騎士団の手の届かない、巨大な研究予算が必要だ」
石黒はヴァッシュを立たせ、工房の奥にある、煤に汚れた地図を指差した。
「ヴァッシュ。お前、この工房区の最果てで、
他の工房から疎まれて建っている。
それはお前が魔法を使えないからだけじゃない。
お前が、この街の伝統と停滞を、無意識に拒絶しているからだ」
「……拒絶……。
ああ、俺は、魔法陣の形ばかりを重んじる、
ギルドの連中が、嫌いだった……」
「なるほど、志は同じだな。俺も日本の大学で、権威と政治ばかりを
重んじる教授どもが嫌いで、ドバイへ逃げた。……井口。作戦変更だ。
冒険者ギルドにも、職人ギルドにも用はない。
俺たちが最初に向かうべきは、この街で最も『熱を浪費している』、
贅沢なパトロンの邸宅だ」
「え、熱を浪費? 誰っすか?」
「ヴァッシュ。この街で、最も魔法を、その煌びやかな装飾のため
だけに消費し、熱を撒き散らしている貴族を知らないか」
ヴァッシュは、石黒の言う「熱の浪費」という言葉の意味を、翻訳デバイスを
介しても完全に理解できなかった。
だが、彼の琥珀色の瞳は、何かを思い出したかのように、恐怖と畏敬の念で
微かに震えた。
「……ひとり、いる。工房区の職人たちに、決して動かない
『黄金の魔導具』を作らせては、それをコレクションしている、
変わり者の貴族が……」
「黄金の魔導具? 完璧だ」
石黒は口角を歪めた。
「科学的に見て、黄金は電気伝導率は高いが、魔導具としては
エネルギー損失が大きい。それをコレクションしている貴族なら、
俺の『論理の暴力』をぶつけるのに、最も適した素材だ。
……井口、ミャオミャオ、ルルル、ヴァッシュ。
行くぞ。アトランの貴族邸に、カルノーサイクルの現実を教えてやる」
中央通りの煌びやかさをさらに凌駕する、アトラン国の「貴族街」は、
まさにスペクトル化された欲望の街だった。
石畳は大理石から、特定の光波長を増幅して乱反射させる、特殊な偏光ガラスへと
変わり、そこに行き交う馬車は、馬ではなく、魔力によって浮遊する「反重力ソリ」だ。
そのソリから撒き散らされる魔力の残り香は、工房区の金属的なオゾン臭ではなく、
人工的に合成された、鼻を突くような安っぽい香水の匂いだった。
「うわあ……。何すか、この街。街全体が、
LEDのシャンデリアみたいで、目がチカチカするっすよ!」
井口が目を細め、サングラスを求めてバックパックを漁り始める。
猫耳少女たちも、あまりの光量に、目を細めてしっぽを不安げに動かしていた。
「…… 吐き気がするな」
石黒は、右耳のデバイスの指向性マイクが拾う、周囲の会話をノイズキャンセリングし、
タブレットの画面に表示される「熱分布マップ」を睨みつけた。
「街全体が、魔法による強制的な『熱放射』に覆われている。
井口、見ろ。あの豪華絢爛な邸宅の尖塔、
魔石から放射されている光は、神秘的な青白い光などではない。
波長が特定の範囲に偏った、不自然な高周波のスペクトルだ。
これでは、都市全体のエントロピーを強制的に増大させ、
ヒートアイランド現象による『熱的死』を
加速させているに過ぎない。無秩序なエネルギー放出が、
この街の熱力学的平衡を根底から破壊しているんだ」
「先輩、熱分布マップとか言う前に、
もっとあのお城みたいな家とか、
あのキラキラした服の人たちを見てくださいよ!」
井口が指差す先、アトランの貴族たちは、旧アトランティスの末裔であることを
誇示するかのように、精緻な刺繍が施された絹のローブを纏っている。
だが、石黒の目には、その布地は「光ファイバーを織り込んだような、人工的な光沢」
を放つ、冷質の素材に見えていた。
「光ファイバーか。精神論としては立派だが、
光学的特性(光の反射率や色素の密度)としては、
ただのエネルギーの浪費だ」
石黒は、ヴァッシュが教えてくれた、変わり者の貴族「ヴァレリー伯爵」の
邸宅の前に立った。その邸宅は、邸宅というより、巨大な「熱の塊」だった。
門は黄金と白銀で装飾され、そこには複雑な魔法陣が刻印されている。
それが太陽の光を増幅し、門全体を常に一定の光量で包み込んでいた。
その門から撒き散らされる魔力の波形データは、数学的な均衡を持った美しさ
ではなく、エネルギーが不規則に爆発するような、高周波の不協和音だった。
石黒は、ヴァレリー伯爵の邸宅の門番に、ヴァッシュが持っていた
「ギルドの紋章」と、ドバイのラボで試作されていた「超高純度アルミホイル」
を無造作に差し出した。
「ヴァレリー伯爵に伝えろ。
工房区の『ゴミの山』から、
伯爵の黄金のコレクションを、
本物の『歪な歯車』に変えることができる、
世界で唯一の『科学者』が来た、と」
門番は、石黒の「黒髪と黒い瞳」を見て、その不吉な色調に眉をひそめた。
だが、石黒が提示した超高純度アルミホイルの、太陽の光を不自然なほど乱反射させる
その質感に、視線を吸い寄せられた。
『解析率 100%。言語:アトラン標準語。リアルタイム翻訳を開始します』
レシーバーから、合成音声特有の平坦な、しかし明瞭な日本語が石黒の脳に直接響いた。
「――門番:『……何だろう。あの男、不吉な目だ。
けれど、あの板……。魔力の拍動が一切感じられないのに、
見たこともないほど鋭い輝きを放っている。……。
伯爵が喜びそうな、見たこともない奇妙な宝(素材)だ……。
通れ。伯爵に、繋いでみよう』」
石黒は口角を微かに歪めた。
「なるほど。この世界の住人にとって、
魔力を持たない物質は『死んでいる』も同然だが、
その死体が放つ物理的な反射光には、
知的な興味を抱くというわけか。……合理的だな」




