幕間
ある昼下がり。
気まぐれに足を踏み入れた森で、俺は彼女と出会った。
その日、俺は城の裏手に広がる樹海を歩いていた。
そこは死の森と呼ばれていて、一度入れば出ることが出来ないと嘯かれている場所だった。
俺は何かに惹かれるようにそこを歩いていた。
鬱蒼とした森の中は昼だというのに息が詰まりそうなほど暗く、耳鳴りがしそうなほど静かだった。
そこには生き物の気配が全くなくて、恐怖を覚えて然るべきなのに、俺はこの場が神聖なモノのように思えた。
ふと立ち止まる。これ以上先には行けないと、何故だかそう思った。
きっと引き返すべきなのだろう、とも。けれど、どうにも名残惜しく感じてその場を動けない。
まとまらない思考にぼんやりと突っ立っていると、どこからともなく声がした。
「おやおや。珍しいお客人がいたもんだねぇ」
驚いて辺りを見回すも、何もいない。
生き物の気配がないこの場所で声が聞こえるなんて可笑しい。けれど、何故だか恐怖は感じなかった。
動かずにいると、何もないところからにゅっと手が伸びてきた。その手は俺の手首を引っ張った。逆らわずに従うと、何かを通り抜けた感覚がある。
思わず瞑った目を開けると、そこにはさっきまでの暗闇が嘘かのような明るい世界が広がっていた。
木漏れ日が輝くそこは、温かな気配に溢れていて美しかった。その光景に目を奪われていると、さっきの声が聞こえる。声の方に目をやるとそこには妙齢の女性がいた。
「ついておいで」
そう言いながら俺の手首を引く彼女は、清廉で美しく見えた。
凛とした後ろ姿を見つめながらついていくと、大きな木をくり抜いた家の前までやってきた。
手を離した彼女はくるりと振り返って俺をじっと見る。そして、朗々と言葉を紡いだ。
「御機嫌よう親愛なるお客人。きっとお前は後悔するだろうけれど、歓迎はするよ」
彼女は赤い目を面白がるように細めて、そして、家の扉を開けた。それから、チラリとこちらを見て、彼女は中に入っていく。
俺は、少し迷ってから彼女に続いた。
中は、世間一般によくある様相だった。リビングがあってキッチンがあって、少し変わっているのは螺旋状の階段だろうか。後は、山のような本。
彼女は俺に椅子をすすめて、キッチンに行ってしまった。待っているとコップを持った彼女が戻ってきて、向かいに落ち着いた。
コトリと置かれたコップからは爽やかな香りがした。
「ここは一体……」
「ああ、お前迷子だったのか。ここは魔女が集う場所さ。集会をしたり、情報交換をしたり、まあ、色々だ」
「そんなところに俺が入ってよかったのか?」
「悪いモノはここには来られないから大丈夫だろうさ。魔女以外で辿り着けるヤツなんて滅多にいないんだよ」
俺は魔女という存在に初めて出会った。城には時々魔女の長が来ているようだったけれど、俺は会わせてもらえなかったから。
父親はそういう契約だと言っていたけれど多分会わせたくないのだろう。兄で王太子のゼノンは子供の頃から会っているようだったから。
「名前聞いてもいいか?俺はニコラオス。ニコスって呼んでくれ」
彼女の目を見つめる。
宝石のように輝く赤い目が考えるように伏せられる。そして、すぐに弧を描いた。
彼女は馬鹿にするように俺を嗤った。
「はっ。名前、名前ねぇ。魔女は魔女でしかないと思うんだけれどねぇ」
──名前なんてそんなに必要かい?
彼女は本気でそう思っているのか、つまらなそうに頬杖をついた。
何故かその姿がどうしようもなく嫌で、俺は思わず立ち上がっていた。ガタリと椅子が倒れる。けれど、そんなものに構っていられなかった。
「必要だ!俺はあなたのことが知りたい!」
「……そうだねぇ。名を呼ばないのなら教えてもいいよ」
何故そんな条件を出されるのかはわからなかった。けれど、別によかった。彼女のことを知ることが出来るならどうでもよかったのだ。
だから、大きく頷いた。
彼女は大きく息を吐き出して口を開く。
「……私はイアン。魔女イアンだ」
彼女は嗤いを引っ込めてそう名乗った。
苦虫を噛み潰したかのような表情があまりにも人間らしくて思わず吹き出してしまった。
「自己紹介を笑うだなんて失礼なヤツだな。まったく……」
そう言いながら彼女も笑っている。
その姿がとても愛らしく感じた。
思えば、誰かをそんな風に思ったのは初めてだった。
俺はずっと平坦な毎日を生きていた。
別に何か嫌なことがあったとか、ショックなことがあったとか、そういうわけではない。ただ、優秀な兄と甘えたな弟の間に生まれた俺は、自己主張というものがあまり得意ではなく、結果放っておかれたので、他人への興味が希薄だった。
だから、俺の人生には胸を弾ませるようなことも、心が震えるようなこともなかった。そして、今後もそんなモノはないと信じて疑わずに生きていた。
きっと俺はこのまま適当な年齢で、適当な相手と結婚して、子供を儲け、なんとなく死ぬのだろうと思っていたのだけれど。
彼女に出会って、そんな生き方はしたくないと思った。彼女の傍で生きたいだなんて思って、そこで初めて自分が彼女に一目惚れをしていることに気がついた。
どんな人間かなんて知らないのに、彼女がいいと思ったのだ。そして、きっと知れば知るほど彼女への気持ちは募る予感がした。
好きも嫌いもない俺の世界で初めて出来た好きなモノだから。
彼女は何も言わずに、思考の海に沈んだ俺を見ていたようだった。ふっと気がつくと呆れたように彼女が笑っている。
何か言わなければと口を開けた時、玄関から声が聞こえてきた。
「師匠ー!食材買ってきたよぉ!」
驚いてそちらを見ると、よほど間抜けな顔をしていたのかクスリと彼女が笑うのが聞こえた。
「犬が帰ってきたらしい」
「……犬?」
困惑している俺を置いて、彼女はその犬とやらに近づいていく。
「いいモノはあったかい?」
「今日はトマトが美味しいって言うからいっぱい買ってきたよっ!って……お客さん?」
不思議そうな少年と目が合う。
どういう顔をしていいかわからなくて、黒に見紛うほどの深い藍色の目を見つめ返す。
「親愛なるお客人さ。結界の前で佇んでいたから連れてきたんだ」
「なるほどー!俺はアイだよ。師匠の弟子なんだ!」
俺の前まで駆けてきて、自慢そうに胸を張る姿が褒めて欲しい時の弟にダブって見えた。
「アイはすごいんだな」
思わず頭を撫でる。くるくるしている橙色の髪は思ったよりも手触りがよかった。
そして、気持ちよさそうに目を細める姿に、なるほどこれが犬かと納得した。
「犬だろう?」
アイが買ってきた食材を片付けた彼女が俺たちを見て笑っている。
俺は揶揄うような言葉に大きく頷いていた。
「ちょっと師匠ぉ〜!?なんでいっつもそんな紹介するの!俺は師匠の弟子だって言ってるでしょ!」
「お前を弟子にした覚えは一度もないよ。お前なんて犬で十分さ。そうやってキャンキャン吠えるんだからね」
拗ねたように頬を膨らませていたアイは、彼女の言葉を聞くにつれてしおしおと萎びていく。それを見た彼女はアイを鼻で笑って、キッチンへ行ってしまった。
その姿を見送る俺の肩をアイはガッと掴んだ。
「師匠、酷いと思うよね!?思うでしょ!えっと」
「……ニコスだ」
「ニコスも見たでしょ!師匠いっつもああやって俺を笑うんだよ!」
アイは俺をガクガクと揺さぶりながら、師匠酷い!とぐずっている。
その姿に苦笑しながら、この場の温かさが幸せの温度なのだろうと、ぼんやり思った。
結局、遅めの昼食を彼女が運んでくるまで、アイは俺に力いっぱい嘆いていて、それを見た彼女は慈しむような表情でアイを叱った。
邪魔にならない内に帰ろうと席を立つと、二人に不思議そうな目で見られた。困惑していると、もう一度椅子に座らせられ、目の前には食事が並んだ。
二人と囲む食卓には全ての幸福が詰まっていると思った。
それから、俺は彼女のもとへ通った。
彼女の知識や考えに触れるたびに幸福を感じ、彼女とアイの世界に混ざるたび、愛おしく思った。
俺はいつの間にか彼女を愛していた。それは何にも代えられない感情で、その熱に溺れた。
そこから、俺が恋に、愛に、狂うのは一瞬だった。
そして、今。
彼女さえいればいい世界で、彼女のいない地獄を生きている。




