二章 ニコスの慟哭③
「それで頼みたいことなんだけれど……お前内容も聞かずに引き受けるなんて警戒心がなさすぎるんじゃあないか?」
人形は苦々しい声音でそう言った。
頼んだ方がそんなことを心配するだなんて馬鹿馬鹿しいと思うけれど、それが益々彼女らしい。
「どこに警戒する必要があるんだ?お前が彼女に会わせてくれると言ったんだ。嘘をつかないとも」
「ああ、確かに言ったさ。言ったとも。けれど、その盲目さは身を滅ぼすよ。……あの利己的な魔女へ固執するなんて馬鹿のすることだ。まさか利用されていると気づいていないわけはないだろう?」
人形はケタケタと笑う。
俺を諭すふりをしている言葉は嘲りを多分に含んでいる。けれど、それは俺ではなく彼女に向けられているように感じた。
それは、生きている彼女がいつも自身を卑下する風景を思い起こさせるのには十分で、腹の中に嫌な感情がどんどん積もっていく。
「利己的?どこをどう取れば俺がそう思うと思うんだ。お前が彼女だと言うのならば、俺が彼女を貶める言葉が一番嫌いだと知っているはずだ」
彼女が嗤って、自身を語る。それを聞くことがどれほど苦痛だったか知らない彼女ではない。
けれど、彼女がそれを止める気はさらさらないのを知っていたから、苦笑いで嘲りを否定することで怒りを飲み込んでいた。
彼女自身に価値があるのだ、と訥々と語ったところで、彼女は愉快そうに嗤うだけなのだから。
だけれど、今、俺は彼女に対する気持ちを抑える理由を見出せなかった。だって、抑えたところで彼女は戻ってこない。
膨らみすぎた彼女への怒りは、少し突かれただけで容易く破裂するだろう。
けれど、何故か俺はすんでのところでこらえていた。
彼女の残滓だと言っても人形に怒ったところで意味はなくて、さらにちゃんと話を聞くべきだと思ったのもあるけれど、やはり彼女が相手だと感じてしまうからだろうか。どうしても、強く言うことが出来なかった。
結局、俺は絞り出すように言葉を吐き出した。
「……俺を怒らせるメリットなんてないだろう」
「確かにそうだ。いやあ、揶揄うのが楽しくてつい力が入ってしまったよ」
人形は悪びれる様子もなく、それどころか馬鹿にするかのようにくるりと回った。
「それで、なんだったかな。ああ、そう頼み事だね」
大仰に手を打った人形は、徐ろに俺の手を取った。そして、詠唱を始める。
「ちょっと待て。何をするつもりだ」
振り払うと、人形はコテンと首を傾げた。
「契約を結ぶんだ。お前は引き受けると言っただろう?なら、好きにしていいはずだ」
「説明はなしか」
「面倒だからしないと言ったはずだけれど……。お前は私の主になるんだ。そうすれば、私はこの世界にいられる時間が伸びる。依代と関係の深いお前なら、私をこの世に縛ることが出来るってわけさ」
人形は面倒そうにそう言って手を出した。
「わかったなら早く手を出しな」
「……彼女に会わせてくれよ」
「わかったわかった。会わせてやるから、ほら」
雑な返事に不信感を抱きながら、跪いて俺は手を差し出した。
手の甲を向けて差し出した俺に人形は満足そうに頷いて、何かを描いている。
当たり前なのだろうけれど、彼女のやり方と全てが同じで、俺は唇を噛んだ。
「いやはや、よく覚えているもんだねぇ。一度たりともお前と魔女は契約なんぞしたことがなかったはずだけれど」
「内容がなんであれ彼女と契約出来るヤツが羨ましかったからな。忘れるわけない」
彼女は俺に何かを与えるのを嫌がった。
俺と彼女が深い縁を結ぶことは破滅呼ぶのだと何も許してくれなかった。
それなのに、家を訪ねる俺を追い返したことが一度もないのは、彼女の甘さだったのだろう。
名前を呼ばれることさえ厭うたくらいなのに、家に入れるのはいいだなんて、彼女の考えはいまだによくわからない。
人形は俺の言葉が聞こえていないかのように無視をして、再び詠唱を始めた。
その瞬間手の甲が熱を持ち、段々と熱くなるのを感じた。それはまるで燃えているかのようで、体中から冷や汗が吹き出す。けれど、視覚ではそれを知覚することが出来ない。ただ、模様を刻まれた皮膚がそこにあるだけだ。
自分は狂ったのかもしれない、そんなことを頭の端で考えながら、歯を食いしばって耐える。
──名前を思い浮かべるんだ
人形の言葉が脳裏に浮かぶ。
それと同時に彼女との会話も思い出した。
『使い魔に名前をつけることは命を吹き込むのと同じようなものだ。つける時にパッと浮かぶその名前が真名なのさ』
楽しそうな彼女が悪戯っぽく笑う。
『それはとても不思議な感覚でね』
面白がるような声が蘇った。
人形は詠唱し終わったのか、こちらを見ている。
──さあ、呼んで
「レネ」
呼ぶと、手の甲の熱が体中に勢いよく流れ始めた。フツフツと熱された血潮が駆け巡るのがわかる。
けれど、さっきまでと違い、痛みは感じなかった。のたうちまわってもいいくらい体が熱を持っている感覚があるのに、影響は感じられない。冷や汗も引いていた。
どれくらいそれが続いたのだろう。
それは彼女が言ったようにとても不思議な感覚だった。体中がドクンドクンと鼓動のように脈打ち、沸き立っている。
「相性が良かったようで何より」
レネは愉快そうに笑う。
その言葉で、レネと確かに繋がったのだとわかった。目に見えない何かが流れていくような感覚がする。
俺は何故だか歓喜していた。泣きたいくらい嬉しくて、笑いたいほど怖かった。
そして、繋がって確信した。レネは確かに彼女に類するモノだ。
そして、繋がりが切れる未来が待っているのだと気づいて指先が震えている。
俺はそれを誤魔化すように手を握った。
「良かった良かった。合わないと弾けて肉が欠片も残らない、なんてこともあるからね。安心したよ」
俺が混乱しているのに気づいているのかいないのか、レネはうんうんと頷いている。そして、心配はしてなかったけれど、なんてケケケと笑った。
怒るべきことを言われているような気がするけれど、頭がついていかない。
俺は、ただぼーっとレネを見ている。
「おーい。聞こえているかい?」
目の前で手をふられるけれど、反応を返すことが出来ない。
回らない頭でレネが本当に彼女の一部なのだと納得しようとして──けれど、心が追いつかない。
「相性がいいのも考えものだ。魔の力に酔うほど深く混じるなんて……」
レネは嬉しくなさそうな声音で呟いた。
きっと俺に聞こえているとは微塵も思っていないのだろう。俺の様子を確認することもなく、考え込んでいる。
俺は意識を明瞭にしようと頭を振った。
この現実を受け止めるよりももっと大切なものがあることを思い出した。
「なあ」
「気がついたかい」
「これで彼女に会わせてくれるんだよな」
言われたレネはクツクツと喉を鳴らした。それを俺は睨みつける。
「まだダメさ。私の用事が終わってからじゃあないと。力が足りなくなったら困るだろう?」
さも当たり前かのように言われて、思わず舌打ちが漏れる。
「心配いらないよ。ちゃあんと約束は守るさ。お前はアレと違って待てが出来るだろう」
レネは彼女の犬を引き合いに出して全てを嗤う。
まったく酷い話だ。待てが出来るだろうなんて。
待っているから俺はこんなにも彼女を切望していて、待っているから世界に絶望しているのだ。
それなのに、まだ待てと。
それに、彼女の犬と比べられるのだって業腹だ。いつだって彼女はアイツに甘くて、待てを破ったって怒られないとわかっているからアイツは破るのだ。俺とは違う。
俺は意に反することをすれば彼女に会えなくなるかもしれないと怖くて、利口にしているだけだ。待てるから待っているのではなく、待たなければ先にあるのは拒絶だけなのだ。
待つことが簡単だと言わんばかりの言葉に歯噛みする。けれど、言い返すことは出来ない。
だって、結局俺はレネの言葉通り待つのだ。用事とやらが終わる未来に焦がれ続けて。
「……用事ってなんだ」
「アハハ、秘密さ。お前には関係のない話だからね。心配しなくてもそんなに時間はかからないさ」
煙に巻くように嗤う姿に眉が寄る。
彼女がこんな物言いをする時は大抵よくないことが起こる。
「一体何をするつもりなんだ」
「言ったろう?秘密だって。もっとも事が起こればすぐにわかるだろうけれど。……大丈夫。お前が危ない目に遭うことはないさ。だって関係ないからね」
突き放すようにそう言われて、何も言えなくなってしまう。
何をどう聞いていいのかわからなかった。
話さなくなった俺にレネは満足したと判断したらしい。体を抱いてくるりと一回転をする。
「もういいかな?そろそろ時間切れだ」
レネは綺麗に礼をした。
それは、どこまでも彼女を模した行動だった。
「では、今夜はここで失礼させてもらうよ。御機嫌よう我が主」
そのままレネは窓の外へ背中から飛び降りる。
慌てて俺は窓の下を見たけれど、もう影も形もなかった。
静寂が訪れる。
俺はまるで夢から醒めたかのような気分だった。
先程のことが現実にあったことなのか信じられなくて、レネが触れた手の甲を撫でる。
レネが何かを描いていたはずなのに、そこには何もない。
ただ、体の中に混ざる魔の力だけが、真実だったのだと示していた。




