二章 ニコスの慟哭②
カタッ、と音がして目を覚ました。知らないうちに寝てしまったらしい。
バタバタとカーテンがはためく音を聞いて、懐に閉まっていたナイフに手を伸ばす。
窓は鍵がかかっていたはずなのに。
目をこらすと窓枠に黒い何かがいた。
在ったと表現するべきかもしれないそれは、雲が月明かりを遮ったせいで上手く捉えることが出来ない。
近づくのも躊躇われて、じっとそれを見つめる。
「これはこれは御機嫌よう第二王子殿」
彼女だ、と思った。自分が愛してやまない魔女イアンである、と。
まがりなりにも王子である自分を、こんな揶揄う調子で仰々しく呼ぶのは彼女くらいのものだった。
けれど、彼女はもういない。
部屋に軟禁されていてこの目で見たわけではない。けれど、確かに彼女は処刑されたのだ。
この窓からでも勢いよく燃え上がる炎の柱が見えていた。一年前の出来事だというのに、今でも鮮明に思い出せる。血のようなあの赤を。
──では、コレは一体なんだろうか
声は、紛うことなく彼女のモノだ。俺が間違えるはずがない。
人は声から忘れるというから、必死に彼女の声を頭の中で繰り返して、一つの漏れも無いように彼女の欠片を集めてきたのだ。だから、間違えるわけがない。間違えるなんて許されない。
月を覆っていた雲が途切れる。
それは、黒い煤けた人形らしき何かだった。
フッと嘲るような嗤いが溢れる。
ああ、今すぐに死んでしまいたい。
──こんなモノを彼女だと思うなんて
いつの間にか噛み締めていた奥歯から嫌な音が聞こえた。
そこでハッとする。
もうずっと薄い膜に覆われた世界で生きているのに、彼女のことになると意識がハッキリするのだから、嗤ってしまう。そして、彼女に溺れ続ける自分がいることに安堵する。
未だ彼女への想いは薄れていない。それだけが、今の俺の支えだった。
俺は、彼女の真似事をする薄気味悪いこの人形を今すぐに壊してしまいたい衝動にかられていた。彼女を穢すモノはなんだって許せない。こんなモノが彼女であるわけがない。そんなこと認められない。
けれど──と思う。
どうしても、彼女であればいいのにという気持ちを捨てられなかった。
もしコレが彼女であるならば、俺は彼女にもう一度会えるのだ。あり得るはずがないことでも信じていたかった。
夢だって構わない。彼女に会いたい。
「無視だなんてつれないじゃあないか」
その声で思考に沈み込んでいた意識が浮上する。
ケラケラと今にも笑いましそうなこちらを揶揄う声音に手が震える。
どうしても彼女の声に聞こえる。彼女の言葉に聞こえる。
とうとう俺は頭が可笑しくなってしまったのだろうか。
「お前は何だ」
「何ときたか。これはこれはよくわかっていらっしゃる。私は人ならざるモノ。お前が求める魔女の残滓さ」
人形は仰々しく、そしてせせら嗤うかのように言う。
心底馬鹿にした物言いに、泣きたくなった。どう聞いたって彼女の物言いなのだ。
言葉選びも話し方も全て彼女のモノで、目を瞑ってしまえば、きっと違いはわからない。
目を閉じて世界を閉ざして、この声だけを聞いて生きてしまいたくなる。彼女の残滓というのが本当であるならば、それはとても甘美な世界だ。
「……お前が彼女の残滓だというならどうして俺の前に現れたんだ」
もう一度彼女と生きられたなら──なんて、あり得ない夢物語だ。
「どうして……俺を殺しにきてくれたわけじゃないんだろ」
「まさか!お前が求めた魔女がそんなことをすると思うのかい?あの魔女は殺したくないから死んだんだろう」
まるで他人事のように人形は話す。
その言葉が胸に刺さる。
俺が彼女といたいと願った所為で、魔女嫌いの王が彼女を殺す大義名分を得てしまった。曰く、彼女が俺に魅了の力を使っていると。
そんなモノこの世に存在しない。単なるでっち上げだ。俺の願いは、ただただ俺が彼女と生きたかっただけの話だった。
口に出すべきではない願いを口にした所為で、彼女は殺された。
「そんな顔をしないでくれないか。まったく……はぁ」
言われて自分の表情が抜け落ちていることに気がついた。
ああ、苦しい。苦しくてたまらない。
「私がここに来たのは他でもない、第二王子殿下に頼み事があったからさ」
人形は両手を広げてくるりと回り、カーテシーの真似事をする。
それは彼女が宮中の人間を煽る時によくやる仕草だった。それが俺に向けられることはないと思っていた。
コレは決定的に何かが違うのだ。もしかしたら、残滓というのも嘘なのかもしれない。彼女を真似ているだけの偽物。でなければ、俺にそんな──。
「私はあの魔女の使い魔。私は私の主を探しているんだ。詳しい話は面倒だからしないけれど、依代に関係が深い人間でなければならない」
依代と言われて、その人形に見覚えがあることに気がついた。
それは彼女に初めてあげたモノだった。俺の勘違いで渡したそれは彼女に笑われてしまったけれど、あれほど愉快そうに笑う姿は滅多に見られなくてついつい見入ってしまったことをよく覚えている。
可笑しいと思った。彼女がそれを使い魔にするはずない。彼女は使い魔の依代には思い入れのあるモノを使うのが一般的だと言っていた。だから、俺が渡したモノを使うなんてありえない。彼女の犬が渡したモノならまだしも。
それに、俺の知る限り、彼女に使い魔なんていない。彼女は形のあるモノは好きではない。だから、使い魔をわざわざ作るはずがないのだ。
「嘘をつくな!それはありえない。お前が彼女の残滓だというのなら、その言葉が可笑しいとわかるだろう」
「あー、うん。確かにそうだね。らしくないのは重々承知さ。けれど、それが必要だったんだから仕方がないだろ?……お前はどうやら魔女の性格をよくわかっているようだから理解出来るはずだ」
どうやら──だなんて泣いてしまいそうだ。まるで彼女への感情が薄かったかのようではないか。
俺の心は彼女に伝わっていないと明言されている気がして手が震える。くしゃりと自分の顔が歪むのがわかった。
「……嫌だ。頼みなんて聞かない。他所を当たってくれ」
「それは困ったねぇ。……じゃあ、お前が頼みを聞いてくれたなら、あの魔女に会わせてやろう。そして、そうだなあ、一つだけ願いを叶えてやろうじゃあないか」
言われてこの話が悪魔の甘言だとしても構わないと思った。彼女に会えるなら何だって出来る。例え、命を差し出せと言われたとしても構わない。
「本当に……?」
「ああ。あの魔女も嘘は言わなかっただろう?」
確かに彼女は嘘をつかなかった。本当のことを言わないことは多々あったけれど。
俺はもう何もかもどうでもよかった。だから、その甘言に飛びついた。
「……引き受けてやる。けど、約束を違えたその時はお前を殺す」
きっと約束が叶わなければ俺は狂うだろうから、先に宣言しておく。
人形は呆れたように鼻で笑ってから、俺の目の前まで来た。そして、その時は殺されてやるよと睦言のように囁いた。




