一章 アイの歓喜
ここは鬱蒼とした森の中。
光すら届かないような深い深いこの場所で、俺は祈るように一点を凝視している。これが成功しなければ、きっと生きていけないだろうと思いながら。
俺の視線の先には古びたぬいぐるみと一つの瓶がある。
ぬいぐるみはどんな生き物が形取られているのか全くわからないような歪な代物で、瓶は空だった。
その瓶には師匠の魂が入っている。普通の人には見えないけれど、魔女には見える魂というモノ。それは中途半端な魔の力しか持たない俺には微かな揺らぎとしてしか感じとることが出来ない。
手を組みその二つを睨めつけて、俺は小さな声で呪文を唱え始めた。
呪文を唱えるのはこれが初めてで──いや、魔の力を使うことすらこれが初めてで、体が震えている。こんな重大な局面でぶっつけ本番だなんて、酷い話にもほどがある。
冷や汗が伝うのを感じながら唱え続けていると、人形が形を失って靄のようになっていく。そして、暗闇の中で生き物のように蠢き始めた。
それは生きているようには見えないけれど、死んでいるようにも見えない。ただ、人外のモノだということだけは伝わってきて、俺は苦しくなった。
きっとこれはもう、師匠であって師匠ではない。
俺の考えが正しいのだと示すかのように、靄が段々と形をとる。
それはさっきのぬいぐるみだった。けれど、さっきのモノよりボロボロで、ところどころ焦げている。そして、身体中煤けて真っ黒だった。
俺は形を作り終えた、ボロ雑巾のようで人形と呼ぶのも憚られるモノに声をかけた。
「師匠……」
無理矢理笑みを作ってフラフラと人形の傍に近づいていく。
触れることは出来なかった。触れてしまえばボロボロに崩れて消えてしまうかもしれないから。
人形は俺の声を合図にするようにフワリと浮き上がった。
そして。
グッと伸びをし、俺を見て──パタリと倒れた。
「師匠?………何してるの、師匠」
人形は動かない。まるで中にあった何かがなくなってしまったようだった。
ああ、俺は失敗したのだ。悪魔に寿命を差し出したにもかかわらず、賭けに負けた。
やっぱり俺では無理だった。師匠をこの世に留めることなんて──。
心臓が激しく脈打っている。呼吸がどんどん荒くなり──けれど、苦しさは感じなかった。
ああ、いやに冷静な自分が嫌になる。馬鹿な頭は現状を把握しようと動いていく。現実を正確に捉えて、自分を絶望へと追いやろうとする。
そんな事実から目を背けるために、まばたきもせずに人形を凝視した。
「はは。…わかってるよ。俺をからかってるんでしょ。だから。だから!早くさっきみたいに動いてよ」
自分に言い聞かせるようにそう口にする。
縋るような声は震えていた。カタカタと小刻みに揺れる体が、この結果を認めているようで死にたくなった。
けれど、それでも。俺は自分にこれは師匠の悪趣味なドッキリだと言い聞かせたくて、見たくない事実を否定したくて、人形に手を伸ばす。
この手で触れてしまえばきっと真実がはっきりしてしまう。それが怖くて怖くて仕方なかった。だけれど、確かめずにはいられない。
ゆっくりと伸ばした指が人形に触れる。それは灰のように崩れおちることなく、その場に存在していた。なぞればちゃんと布の感触がする。
その事実に耐えられなくて、俺は嗚咽を漏らした。
体はここにある。つまり、全てが失敗したわけではない。だけれど、人形は動かない。
瓶に目をやる。瓶の中の揺らぎはなくなっていた。では、師匠の魂はちゃんとこの人形に宿っているはずだ。なのに──。
もしかして、この人形に師匠の魂は宿っていないのだろうか。もし、宿っていないのであれば、俺が失敗して魂を消してしまったということに他ならない。
──俺が師匠を殺した……?
その可能性に思い至って、息が出来なくなった。
俺は縋るように人形を胸に抱える。現実を直視したくなくて、ギュッと力一杯抱きしめた。押し潰してしまいそうなほど強く。
失意にくれた俺はそうすることしか出来なかった。胸の喪失感を誤魔化す術なんて知らないから。
そんなこと師匠は教えてくれなかった、なんてまるで子供のようなことを考えて自分を嗤う。
やっぱり俺は師匠がいなきゃ生きていけない。
──独りは嫌だよ、師匠
一人で抱えるには強すぎる感情をどうすることも出来ず、さらに腕に力を込める。
「グエッ」
その時、カエルが潰れるような声がした。
俺は慌てて腕の力を緩める。
すると、人形はスルリと腕を抜け出して、地面に着地した。
「全く……殺す気かい?」
「し、師匠ぅ」
俺は目からボロボロと涙を溢して、呆然と立っていることしか出来ない。
これは現実だろうか。現実であってほしい。けれど、信じた瞬間夢から覚めてしまうかもしれない。
そんなことをぐずぐずと考えていると、人形が呆れたように口を開く。
「あー、そんなに泣くことないだろう」
「ううぅ。だってぇ。だって、師匠がぁ」
これ以上師匠に呆れられたくなくて、俺はグスグスと鼻を啜って涙を止めようと頑張る。
それを見た師匠は大きく溜息をついた。そして、仕方がないと言わんばかりの身振りで俺の涙を拭う。
人形の手は煤けているからきっと目元は真っ黒だけれど、そんなことどうでもいい。
ここに師匠が在る。
それだけで、俺はもう満足だった。
「これだから、子供は嫌いなんだ」
師匠がいつも口癖のように吐き出すその言葉に思わず笑ってしまった。
これが本心でないとわかるくらいには一緒に生きてきた。幼い頃から大切に育ててくれたことを俺は知っている。
「まったく、どうして拾ってしまったのかねぇ」
師匠は首を振りながら、面倒そうに言った。
そして、お前が森に捨てられてさえいなければこんなことにはならなかったのに、とぼやいた。
その口振りにようやく師匠がここに在るという実感が湧いてきた。こうした言葉は生前の師匠がよく口にしていたから。
ああ、師匠が本当に動いている。姿なんてどうでもいい。ここにいてくれるだけで、それだけで──。
再び泣きそうになっている俺を見て、師匠はやっぱり呆れたように溜息を吐いた。そして、俺の様子を無視して言葉を続けた。
「はぁ。で、今はいつなんだい。お前の感じを見るにあまり時間は経ってなさそうだけれど」
「多分三時間くらいだと思う」
さらりと答えた俺に師匠は絶句している。
「……褒めてくれる?」
首を傾げて恐る恐る尋ねると、師匠は頭を押さえて口を開いた。
「お前…。馬鹿だ馬鹿だと思っていたけれど、本当に救えない馬鹿だね。どうせ、家に用意してたアレも使っていないんだろう?」
「えへへ」
誤魔化すように笑うと、師匠は器用に俺の頬を掴んで引っ張った。
「考えてから行動しろとあれほど言っただろう。一体誰に何を差し出したんだい」
「んー?悪魔に名前ってあるの?」
「……ないよ。けれど、どんな奴かというのはわかるだろう。少なからず私の隣で取引を見てきたんだ。だから、今回お前は取引が出来たんだろう」
師匠はもしかしたら混乱しているのかもしれない。こんなもの聞くまでもない問だ。答えはどう頑張っても一つしかない。
「……師匠の魂を留めることの出来る悪魔なんて限られてるんだから聞くまでもないでしょ。師匠が嫌いなあの子だよ」
あの子なんて呼称した所為だろうか、師匠から怒りの感情が伝わってくる。
けれど、師匠に関わる事象に対して悪魔と取引をするならあの子とするべきだ。あの子は師匠が欲しくてたまらないから、そのためならかなり良い条件で取引をしてくれる。あくまで、他の悪魔と比べて、だけれど。
「お前は馬鹿なのか!アイツとだけは契約してはいけないとわからないわけじゃあないだろう!力の強いアイツは契約を破れるんだよ!」
「でも、師匠もあの子に頼むつもりだったでしょ?」
「……ああ、そうさ。けれど、それはあくまで私が対価を支払って代理を立てるという形をとる予定だったんだ!なのに、アイツは契約を破った!私としか契約は結ばないという話だったのにも関わらず!」
師匠は怒っている。あの子にも俺にも。
けれど、俺は間違ったことをしたとは思っていない。自分があの子に対価を払って師匠をこの世に留めたことを間違いだとは微塵も思えない。
「……書き置き一つでいなくなる師匠が悪いんだよ」
ポツリと呟くように言葉を吐く。
朝目が覚めて、家に誰の気配もなくて、机には紙切れ一枚。
その時の俺の気持ちなんて師匠はわからないのだろう。
世界から音も色も遠のいて身体が凍えていくような感覚。気持ちだけがはやって思考はとっ散らかるし、体は震えて思うように動かなくて──結局、取る物も取り敢えず家を飛び出したのだ。
そして、師匠が死ぬ姿をこの目に焼き付けて、俺は悪魔と契約をした。
そこまで考えて、けれど、師匠はこの悲惨な感覚を理解しても同じことをするだろうと思い至った。必要ならば非情な決断も厭わない人だから。
「はぁ……私はそんな風に育てた覚えはないよ。自分の身を粗末にするような方法を取るなんて……一体誰に似たんだか」
その言葉に思わず吹き出した。
そんなの考えなくてもわかる。俺はほとんど外の人と関わることなく生きてきたのだから。
「ふはっ、師匠以外に誰がいるの?」
師匠は自覚があるのか、目を逸らして溜息を吐いている。
自覚があるなら身を削る生き方を改めてもらいたいところなのだけれど、まあ無理だろう。他人の為に死ぬ為に生きると予言されて生まれた魔女だから。
「あーもうそんな話はいい!お前の対価を詳しく聞くのは帰ってからにする。ほら帰るよ」
師匠はおざなりにそう言って歩き出した。
俺はゆっくりとその後ろを歩く。自分の歩幅の小ささに気づいた師匠は、ふわりと宙に浮いて俺の隣に並んだ。そして、人間と同じ速さで進み始めた。
俺はそれにならって同じ速度で歩く。
「しっかし、お前は何を依代にしたんだい。どうしてこんなに腕が短いんだ」
師匠は恨めしそうな声を上げた。そして、クルクルと回りながら自分の姿を確認しようとしている。
もしかして、焦げかけている上に煤けているからわからないのだろうか。
けれど、依代になるモノは本人に深く関わりのあるモノでなければいけない。それに向ける関心が強ければ強いほど、成功しやすくなるからだ。
だから、ぬいぐるみだと気づいた時点で師匠がわからないわけがない。
「一つしかないでしょ。お祭りの時にもらったってやつ」
首を傾げると、師匠は平坦な声で答えた。
「ああ……。あまりにも不細工で見ていただけなのに、気に入ったと勘違いしてアイツが買って寄越したやつだね」
無理矢理平坦にした声は微かに震えている。弾みそうな声を──心を抑えようとしているのだと俺にはわかった。
師匠は大切なモノを持ちたくない。だというのに、出来てしまったイレギュラー。きっと思い出して心を乱したくないのだろう。今はまだ。
けれど、俺はそんな師匠が嬉しかった。まだ他人に全てを捧げきっていなくて、押し殺せないほどの感情が存在していることに。
だから、俺は全力で笑う。
「ナイスチョイスっしょーっ!」
師匠は俺が“師匠が自分の為だけに生きてほしい”と思っていることを知っている。それが俺だけではないことも。
けれど、師匠は行動を改めることはない。
だから、俺は跳ねて笑って殊更喜ぶ。そうして、師匠に罪悪感を少しでも感じさせることが出来たなら、生に対する執着を多少は持ってくれるかもしれないから。
「……馬鹿弟子め」
師匠は呆れたように笑ってそう言った。
俺は思わず立ち止まっていた。
「っ、師匠!」
泣いてしまいそうだった。
俺は師匠のことを師匠と呼んでいるけれど、今まで弟子だと認めてもらえたことは一度もない。お前は人の子だから、と何度願っても弟子にはしてもらえなかった。
師匠だって人の子であるし、師匠と暮らしている時点で今更なのに、頑なに認めてくれないのだ。師匠の魔の力を浴びて、魔の力についての本を読んで育った俺が単純な人間であるはずがないのに。
だから、師匠が俺を弟子だと認めてくれたことは俺にとってどんなことにも勝る誉だった。夢見ていたことだった。
師匠が死んでから叶うなんてどんな皮肉だとは思うけれど、それでも嬉しくてたまらない。
「なんだい、その顔は。ほら、足を動かせ」
俺を放って行こうとする師匠をギュッと抱きしめた。
グエッという声がまた聞こえる。
「ごめんっ!師匠!」
「お前はぁ……。もういい。なんでもいいから帰るよ。ちゃっちゃと歩きな」
師匠は呆れたように俺の肩に座った。
その軽さが、怖くて、悲しくて──。
俺は奥歯を噛み締めて歩き始めた。
そのことに気づいただろう師匠は何も言わなかった。ただ、黙ってそこに在る。
その沈黙が俺は怖くて、どうでもいい話をペラペラと話し続ける。師匠の呆れたような相槌が俺の心を保っていた。
家が見えてきた頃、師匠がポツリと呟いた。
「……今更ようやく終わりが寂しいと思うんだ。死ぬまでそんなこと思いもしなかったのにな」
その言葉は俺にとっての福音であると同時に、師匠に人形を渡したアイツの悲しみを表していた。
俺はちゃんと師匠に会えたからこの言葉が師匠の未練だと喜べる。けれど、きっと師匠は師匠としてアイツの前に出ることはない。それがアイツを苦しめる。
師匠の言葉は本当に今更だ。俺以上に悲しんでいるだろうニコスが可哀想だと思った。
魔女の処刑が終わったある日のことだった。




