八章 ミカの切迫
朝からなんだか嫌な予感がしていた。背筋がゾワゾワするような、悪寒にも似た感覚。
こういうことは偶にあって、絶対によくないことが起こる。
母様が魔女に殺された時も、魔女が処刑されてニコス兄様が可笑しくなった日も、虫の知らせのような何かが僕に訪れた。
そして、今日も嫌な感じがしている。それは、夜になるにつれてどんどん大きくなる。急かされるように僕は父様の部屋に向かっていた。
勘でしかないけれど、そこでよくないことが起こるような気がするのだ。そして、何故か僕の勘は基本的に外れない。
何も起こりませんようにと無理な願いを頭に浮かべながら父様の部屋の扉を開けた。
ノックはしなかった。してはいけないと思った。僕は目をギュッとつぶって、ノブを掴んで力いっぱい押した。
そっと目を開けると、中には血塗れの魔女と虫の息で血溜まりに沈んでいる父様がいた。
理解出来なかった。まるで現実感のない光景だ。けれど、咽せ返るような血の匂いに嘘ではないのだと理解させられる。
「やっぱりきてしまったのか。魔の力が感知出来るというのも考えものだねぇ。第三王子殿」
呼吸が浅くなるのを感じる。これは恐怖なのか怒りなのか、わからない。
震える体を誤魔化すように両手を握りしめて、唇を噛み締める。
ああ、思考がまとまらない。
「どうした?そんなところで固まって。人を呼びに行かなくてもいいのかい?といっても、もう助からないけれど」
魔女は煽るようにケタケタと笑う。
「ああ、心配しなくても見えるところに傷はつけていないよ。死体をどう処理するのかは知らないけれど、もし葬式をするというのなら、綺麗に整えられるだろうさ」
父様をあまりにも馬鹿にする言い草に、胸の奥で負の感情が煮詰められていく。
憎い。目の前の魔女が憎い。
父様も母様を殺された時こんな気持ちだったのだろう。
早く殺さなくては。もう一度、このバケモノを。
僕は胸元に忍ばせているナイフに手を伸ばす。
魔女は父様を見下ろしていて、僕に意識を向けてはいない。
僕はゆっくりと魔女に近づいた。魔女は取るに足らないと思っているのか、動く僕を見もしない。
──その慢心がお前を殺すんだ
「馬鹿馬鹿しい。他人に刃を向けるということをお前はわかっていない」
刃を向けたその瞬間、魔女はそんなことを言う。
やれやれと言いたげに両手を広げた魔女は僕に体を向けて、蔑んでいる。
「……父様を殺したのに自分は命乞い?」
魔女に負けないように僕は魔女を睨みながら鼻で笑った。
「まさか!ただ、人殺しはお前には荷が重いと言っているんだ」
「人殺し?お前は殺しても死なないバケモノでしょ!」
僕の言葉に魔女は堪えきれないといった風に吹き出した。
「ふっはは、バケモノね。なるほど。そう思うなら刺してみればいいさ」
魔女は嗤って、どうぞと力を抜いた。
今なら確実に刺せる。
ナイフを両手でギュッと握った。力を込めれば込めるほど、カタカタと手が震える。
落ち着こうと息を吸う。けれど、上手く吸えない。まるで犬のように荒く息をしていて一向に酸素が入ってこなかった。
徐々に狭くなってくる視界に、魔女の声が響く。
『さあ、早く』
これは本当に魔女が口にした言葉だろうか。わからない。
視界の中にいる魔女がぐにゃりと歪んだ。
もう何もわからない。
緊張と酸欠で回らない頭で、目をつぶった僕は勢い任せにナイフを刺した。
目を開けると、嗤う魔女がそこにいた。
呆然とその姿を見ていると、手に生温かいモノが触れる。手に目をやると、魔女の血が僕の手に滴っていた。
僕は悲鳴をあげて手を離した。
黒い服でわかりにくいけれど、魔女の体からだくだくと血が流れている。足元に血溜まりが出来ている。
「残念ながら、私も他人と同じ人間でね。少々特別製だけれど、血は赤いし、刺せば死ぬ。さあ、仇を討つ気分はどうだい?」
魔女はまるで何も起こっていないかのように、ケラケラと笑っている。
僕は怖くて動けなかった。
「声も出ないか。まったく王族というのは馬鹿なヤツしかいないねぇ。まあ、せいぜい王太子殿に怒られるといい。……いや、存外弟に甘い男だから何も言わないかな」
心底呆れたように言葉を吐き出した魔女は、私はもう行くよと足を踏み出した。と同時にフラリと体を揺らして立ち止まる。
魔女は眉を顰めて小さく舌打ちしてから、また歩き始めた。
魔女が部屋の扉まで来た時、嫌な気配がした。その所為か、魔女は何かを睨みつけている。
『アンタの弟子と契約することにしたの。だから、ちょっとオマケしてあげる』
そんな声が聞こえた気がした。




