6.嫌われ役
横浜港の保税倉庫に着いたとき、空はもう暗くなり始めていた。
コンテナの前に、真壁専務が立っていた。
傍らにいるのは黒服ではない。
物流担当者と法務部員。
悪の親玉ではなく、正しい資料を揃えた決裁権者の顔をしていた。
その方が怖かった。
「片桐君」
真壁は穏やかに言った。
「君は、この取引を止めるつもりか」
「最終需要者が偽装されています」
「証明できるのか」
「私の電子証明書を使ったのは、専務ですか」
「会社を守るためだ」
真壁は、キロクシナの工場がある町の名前を挙げた。
数千人が働いている。
取引を止めれば融資条件が崩れる。
設備投資が遅れる。
競争力を失う。
工場が閉じれば、町が死ぬ。
「君も書いていただろう」
真壁は言った。
「技術を失った国に、独立などないと」
私は返せなかった。
私の文章だった。
自分の言葉ほど、よく刺さる武器はない。
真壁は一度、本当に会社を救っている。
親会社から半導体事業を切り離し、外部へ売却した。
日本の宝を売った男と呼ばれた。
だが、売らなければ事業そのものが消えていたかもしれない。
正しい判断をしたことのある人間は、間違えるときにも信念がある。
倉庫の入口から海藤が現れた。
「技術を売った男が、今度は兵器へ売るのか」
真壁の顔が歪んだ。
「あなたは会社を捨てた」
「会社が私たちを捨てた」
「あなたが守りたいのは技術ではない。自分が作った時代だ」
「お前が守りたいのは会社じゃない。自分が切り売りした判断だ」
二人は、十年前から同じ場所で争っていた。
真壁は、切り離して生かしたと言う。
海藤は、子供を売ったと言う。
どちらも技術を愛していた。
どちらも、その愛のために他人を使っていた。
海藤が携帯電話を掲げた。
「資料はすべて公開する」
「待ってください」
私は言った。
「隠蔽も、無差別な暴露も同じです。書類の向こうの人間を見ていない」
「時間がない」
「だから、私たちの仕事をするんです」
真壁が笑った。
「君の感覚だけで、数百億円の取引を止めるのか」
「感覚だけでは止めません」
声は背後から聞こえた。
黒瀬がノートパソコンを抱えて走ってきた。
息を切らしている。
格好よさは、たいてい走った距離に負ける。
「電子署名、アクセスログ、輸送指示、最終需要者証明。四つとも一致していません」
真壁が言った。
「君に止める権限はない」
「ありません」
黒瀬は私へパソコンを差し出した。
画面には、緊急輸出停止の承認欄が表示されていた。
承認者氏名: [ ]
空欄だった。
「止めるのは課長です」
黒瀬が言った。
「証拠は僕が揃えました。責任は、課長が自分の名前で引き受けてください」
「失敗したら?」
「二人とも無職かもしれません」
「君も?」
「僕も自分の名前で調査記録へ署名しました」
黒瀬は軽く息を整えた。
「今回は、最初から共有しています」
私は氏名欄へ入力した。
〈片桐航平〉
送信ボタンを押す。
一秒。
二秒。
倉庫の照明が赤く変わった。
搬出口のゲートが閉まる。
電光掲示板に表示された。
〈輸出審査停止 搬出禁止〉
港湾システムから警告音が鳴った。
遠くから複数のサイレンが近づいてくる。
黒瀬は画面を確認した。
「税関、監査部、警察、取締役会監査委員へ証拠一式を送信しました」
真壁が私を見た。
「会社を潰す気か」
「分かりません」
私は答えた。
「私が止めたのは、今日の一便だけです。その後の会社をどうするかは、一人で決める仕事ではありません」
海藤が言った。
「甘いな」
「そうかもしれません」
「正しい者は、最後には一人になる」
私は海藤を見た。
「それは正しい者の宿命じゃない。説明を諦めた人間の言い訳でしょう」
海藤の顔から、初めて言葉が消えた。
黒瀬がパソコンを閉じた。
「普通の仕事です」
その言葉が、やけに胸へ刺さった。
普通の審査。
普通の差し戻し。
普通の情報共有。
普通の、嫌われ役。
瓶の手紙は、秘密の英雄ではなく、普通の仕事をする人間に宛てて流されていた。




