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神田明神に赤い饅頭を置くな  作者: 島流しパプリカ


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3/7

3.不正記録

 キロクシナの本社は、ガラス張りで、社名以外に記憶の残らない建物である。


 休日のオフィスには誰もいなかった。


 ただし、私が呼び出した黒瀬湊だけは、二十分後に現れた。


 三十二歳。サイバーセキュリティ担当。


 技術は確かだが、上司への敬意を簡潔に省略する癖がある。


「神田明神の饅頭から始まったんですか」


「正確には封筒だ」


「そこは安心材料になりません」


「内密に調べてくれ」


 黒瀬は、座りかけた椅子から離れた。


「嫌です」


「なぜ」


「僕の技能だけ使うなら、外注と同じです。判断を求めるなら、情報を全部ください」


「急いでいる」


「テレビでは相棒は撃たれてから作戦を知らされますけど、会社では労務案件です」


 私はすべて話した。


 筆名のことも、海藤のことも、赤い饅頭のことも。


 黒瀬は饅頭の部分だけ二度確認した。


「課長」


「何だ」


「今日は一度も、自分を客観視できていませんね」


 その指摘は保留した。


 黒瀬が申請システムのログを調べる間、私はアゼルバイジャン向け輸出案件を開いた。


 医療用画像センサー工場で使用する中古検査装置。


 買い手はバクー郊外の新設企業。


 契約額は大きい。


 取引が成立すれば、次世代メモリ工場への融資にも好影響がある。


 私は最終需要者証明を読み直した。


 アゼルバイジャン語だった。


 文法も、綴りも、敬語も正確だった。


 正確すぎた。


 地元企業同士の書類なのに、外国人向け教科書の例文のようだ。


 最初の審査でも、私は違和感を覚えていた。


 だが、「翻訳会社を使ったのだろう」と処理した。


 それが、読んだつもりの読み方だった。


 海藤の言葉を思い出した。


 あれは君に宛てて書かれている。


 書類は、誰かが、誰かに向けて書く。


 では、この不自然な正確さは誰に向けられている。


 現地の役所は通す。


 日本の営業担当も通す。


 輸出審査の九割も通す。


 立ち止まるのは、言語の癖だけを趣味で三十年読んできた、少し面倒な人間だけだ。


 私だった。


 添付された音声ファイルを再生した。


 現地責任者による、設備用途の説明。


 男は正確なアゼルバイジャン語を話していた。


 最後に、録音を止めたつもりで誰かへ短く声を掛けた。


 初回審査では、私は雑音として聞き流していた。


 音量を上げる。


「……アルメニア語だ」


「分かるんですか」


 黒瀬が振り返った。


「全部は分からない。祈りの定型句に近い」


 私は三度聞いた。


 意味を組み立てた。


 読む者よ。止めてくれ。


 背中が冷たくなった。


 この書類一式は、輸出申請ではない。


 瓶に詰めて流された手紙だ。


 宛先は、最終審査でこれを読める誰か。


 月曜朝の私だった。


「課長」


 黒瀬の声が変わった。


「申請内容が書き換えられています」


「誰に?」


「課長の電子証明書で」


 画面には私の名前があった。


 最終需要者の住所。


 装置の用途。


 輸送経路。


 三か所が、私の権限で変更されている。


「やってない」


「知っています。課長が休日にログインすると、だいたいパスワードを忘れて電話してきますから」


 信用されているのか、されていないのか分からなかった。


「アクセス元は?」


「経営企画部門の閉域端末です」


 使用者名が表示された。


〈真壁 清隆〉


 キロクシナ専務。


 十年前、半導体事業の売却を先導した男だった。


 同時に、私のパソコンへ警告が出た。


〈不審なアクセスを検知しました。アカウントを停止します〉


 画面が暗転した。


 黒瀬が言った。


「課長、犯人にされる準備まで完了しています」


 出港まで、五時間四十二分。

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