第1話 『いや』しか知らない少女
「いや」
それだけがあった。
「いや」
それがすべてだった。
「ほわん」
ほわん、がやってきて。
「ふに」
ふに、がふれて。
「ぽわ」
ぽわ、がはいってきて。
「いい」
すべてが、いい、になった。
そんな単語ですらない何かが、頭の中に流れ込んでくる。
……いや、単語じゃない。
私が勝手に自分の言葉に置き換えているだけだ。
本当はもっと、生まれたばかりの名前のない感覚みたいなものだった。
「いや」と「いい」だけが、はっきりしていた。
それ以外は何もわからなかった。
世界が「いい」で満たされた瞬間、音が爆発して、硬い衝撃がぶつかって。
すべてが「いや」に塗りつぶされた。
「いや」は、なくなってほしいもの。
でも、なくならない。
だから。
だから、まっくらにした。
ずっと、まっくらだった。
まっくらに、きらきらがきた。
たくさんのきらきら。
「いい」。
きらきらは「いい」。
この子はまだ知らない。
きらきらにも、名前があることを。
虹色のきらきらは、ヨルカを照らした。
◇◇◇◇◇◇
耳に何か聞こえてくる。
ぱちぱちと炭がはぜる音。
鼻がくすぐられる。
香ばしい煙の匂い。
眩しい光がまぶたを透かして入ってくる。
目を開けたら複雑な細工の模様が見えた。
だんだん見慣れてきたこれは……天井だ。
天井は薄っすら煙が漂って白くなっていた。
「君は本当に寝ているか食べているか、どちらかだな」
呆れた声が聞こえてきた。
いつものあの人だ。
「寝ていても起きていても、常に口が開いている」
しまった。
また、よだれを垂らしながら寝てしまった。
背もたれから身体を起こすと、声の主が目を細めてこちらを見ていた。
光に透ける金糸のような髪。
柔らかい蜂蜜色の瞳。
——スヴェロギ・ハルジオン王子殿下。
この重厚で伝統的な装飾の部屋の主だ。
「雇い主の名前は覚えておくように」と以前言われたので、たまにはちゃんと心の中で呼んでみる。
相変わらず長くて偉そうな名前だ。
すらりと高い背に、白い装束が映える。
洗練された服装に、格調高い部屋。
なのに。
それに似合わず、彼の手には分厚い肉の串焼きが握られている。
「ちょうど焼き上がったところだ。今日の火加減はかなりいい」
ハルジオンは満足そうに串焼きを差し出してきた。
この肉は、食べると牛肉とか羊肉に似ている。
だけど、私は何の肉なのか、まだ知らない。
肉になる前のその生き物をまだ見たことがないからだ。
「ありがとうございます」
私は串焼きに手を伸ばした。
「慌てるな。熱いから気をつけるんだ」
この人はたまに優しい声掛けをしてくれるときがある。たまに。
「いただきます」
これは私の翻訳だ。
この国の言葉でいただきますを意味する音は、だいたいカレールーだ。
神々の恵みと共に。みたいな意味らしい。
カレが神々という意味だと、これまでの経験で理解した。
この国の名前はカレンダエ。
二柱の神々が結んだ国という意味の、双神王国カレンダエだ。
カレンダエやハルジオンみたいな固有名詞だけは、そのまま聞こえた音で呼んでいる。
それ以外は、意味や用途をもとに、私の言葉に置き換えさせてもらっている。心の中で。
肉に噛み付くと柔らかくほぐれ、濃い肉汁が口の中に溢れた。
「どうだ。なかなかいい出来だろう」
ハルジオンは感想を待つように、私の顔をずっと見ていた。
「たしかに。ほぐれ具合と、閉じ込められた肉汁の量は過去一番かもしれません」
「そうだろう。君は正直な感想を言ってくれるから信頼できる」
すごく嬉しそうに頷いている。
でも、この嬉しそうな微笑みを見ていると不安になる。
本当にこれでいいのか。
『本日をもって、私スヴェロギ・ハルジオンと、我が従妹ユニワ・ナナリエの婚約を解消する』
『ならびに我々ふたりの王位継承の再考を求める』
いつも通りの議会で、閉会の直前に突如ハルジオンが告げた宣言。
誰も反対もせず、静かに現実だけが動いていったあの日。
ついでに、「王都の記録を消しまくる怪しげな魔女」という噂を広められた私は、この国を混乱に陥れた罪で、この国で一番の最適解王子と呼ばれるハルジオンの監督下に置かれることになった。
いや、正確には罰のために引き取られたわけではないのだが……。
あれから七日も経った。
私だって、このお肉はすごく美味しいと思う。
だけどこんなおしゃれな部屋で毎日食べている場合じゃない。
外を歩き回って、人々の生活を見る。
それが私の仕事だ。
「殿下……」
私はおそるおそる話しかけた。
実はこの人がちょっと苦手なのだ。
「さすがに毎日、火加減ばかりと向き合うのはどうなんですかね?」
以前なら、ここで、
「ほう。私の構想を全て理解した上での諫言と捉えていいのだな?」
などと、圧をかけてくるような人だったのに。
今は——
「私には見守らねばならない炭火と、監督せねばならない君がいる」
ハルジオンは蜂蜜色の瞳を柔らかく細めて、穏やかな口調で答えた。
大丈夫なのか、この人は。
若干気になるのは、炭火は「見守る」もので、私は「監督」するものという、その並立だ。
だけど、それは別にいい。
……もともと、肉の焼き加減なんかで一喜一憂する人ではなかった。
手放しに私を褒め称える人でもなかった。
少なくとも、私が知る限りは。
そこまで考えを巡らせたとき、慌ただしい足音が近づいてきた。
「殿下!」
部屋に男性がふたり、慌てて飛び込んできた。
おそらくハルジオンの元・部下だと思う。
ハルジオンは串焼きを持ったまま、鋭い視線を彼らに投げかけた。
元・部下たちは姿勢を正して、右手の甲を胸の位置に掲げた。
「ケセラン」
ふたりは揃って頭を下げる。
「パソラン」
ハルジオンも右手の甲を胸の位置で掲げた。
右手の中指で琥珀の石が輝く。
この国では、朝も昼も夜も、会った時も別れる時も、挨拶はいつもケセラン・パソランだ。
「何があった」
ハルジオンは串焼きを元・部下たちに渡す。
ありがたそうに受け取りながら元・部下たちは報告を始めた。
「予算案が通りません。アメジスト宮とシトリン宮の対立が深まっています」
ハルジオンはひと通り話を聞いたあと、少しだけ考えて口を開いた。
「反対理由を聞くな。譲れる条件を聞け」
一度そこで言葉を区切った。
「……いや」
小さく首を振る。
「忘れてくれ、私はもう降りた身だ」
琥珀色の瞳に影が落ちた。
「殿下……」
元・部下たちは涙ぐみながら、肉にかじりついた。
……そこは、ちゃんと食べるんだ。
それでも自分を頼ってくる元・部下たちに、ハルジオンは柔らかい笑みを向けた。
「心配するな。この国も、大臣たちも、君たち若手議員も、非常に優秀だ」
元・部下たちは涙を流しながら肉の焼き加減を誉め讃え、名残惜しそうに何度も振り返りながらハルジオンの執務室を出ていった。
「やはり肉は最後に少し休ませた方がいいようだな」
ハルジオンは何事もなかったように炭焼きグリルの後片付けを始めた。
とても手際がいい。
この人は全てにおいて手際がいい。
事を起こす前に全ての盤面を整えて、最後はボタンをひとつ押すだけにしてしまう。
自分の婚約も王位継承権も、手際よく解消してしまった。
そうして、ハルジオンは整った顔で肉を焼き続ける人になってしまったのだ。
あまりにも整いすぎた盤面に一番苦しめられたのは、彼自身なのかもしれない。
……いや。
あっさり婚約解消を了承した、彼女の心の内を確認するまでは断言はできない。
瞳を虹色に輝かせて、好奇心の赴くままに検証を繰り返す理系の王女。
ユニワ・ナナリエ。
この世界に降り立った私を見つけてくれた彼女。
私のいる座標を示し、私の輪郭を取り戻してくれた。
私の、大切な友達。
会いたい。
『アンリ!』
この世界で迷子になった私を見つけるたび、ナナリエは名前を呼んで駆け寄ってきてくれた。
そしてひんやりと気持ちのいい手で、私の手をぎゅっと握ってくれた。
この、手を。
手を見たときに、自然と目に入る黒髪。
黒。
私の色じゃない。
文化人類学者として働いていた二十七歳の私、アンリは、この世界にやってきてしまった。
十四歳の少女、ヨルカの身体に入り込む形で。
言葉も習慣もわからないまま目覚めた私は、ナナリエに言葉を教えてもらったんだ。
教えてもらったというのは正確ではない。
彼女と楽しく世界を見て回っているうちに、自然と言葉を覚えたんだ。
——そうか。
私は自分の身体を見る。
細くて頼りない手足。
ヨルカもそうだったのかもしれない。
ヨルカもまた、ナナリエに世界に連れ出され、言葉を覚えていったのかもしれない。
最初に目覚めたとき、私——ヨルカは、暗くて冷たい石壁の納屋で寝転んでいた。
ここがどこなのかも、自分が誰なのかもわからないまま。
裸足で触れる石畳が冷たいことだけわかっていた。
屋外の石畳が熱くて痛かった。
だけどどっちも同じ「いや」だった。
「いや」と「いい」だけだった感覚。
そこに言葉が結びついた。
お腹が空いて「いや」だった。
いい匂いが「ほわん」と漂ってきた。
手を伸ばしたら「ふに」が触れた。
食べたらお腹が「ぽわ」と膨れて。
美味しくて安心して「いい」になった。
だけど店先のものを勝手に食べたから大きな声で叱られて。
腕をギュッと掴まれたから怖かった。
怖くて目を瞑った。
だけど、ナナリエがヨルカを見つけてくれた。
暗闇に虹がかかった瞬間だった。
からん。
と、音がした。
私は、はっとして顔を上げた。
「顔色が悪いな」
ハルジオンが蜂蜜色のお茶と氷が入ったグラスを差し出していた。
「水分もとった方がいい」
お礼を言って受け取ると、ハルジオンはじっと私の目を見た。
「その瞳……」
私の瞳は、光を返さないほど黒い。
この底知れない黒い瞳と、この国にはない黒い髪。
それが、王都を少しだけ混乱させた。
「本当に、光を吸い込んでいるのだな」
蜂蜜色の瞳が覗き込んでくる。
急に真剣な顔でどうしたんだろう。
私はグラスを握りしめた。
ひんやりと気持ちいい。
「……殿下?」
溶けた氷が崩れて、からんとなった。
氷の音が消え切る前のその瞬間。
「勝手に何やってんだよ」
快活で意志の強そうな声が聞こえた。
執務室の扉を見ると、そこに小柄な青年が立っていた。
太陽みたいに眩しい金色の髪。
雨上がりの空のように澄んだ青い瞳。
だけど、その目には怒りが滲んでいた。




