アリさんの試練(1/3)
次の日。わたしは朝から図書室に来ていた。棚から一番分厚い辞書や事典やその他の難しい本を引っ張り出してきて、よろけながら机の上に置く。ワクワクしながらページをめくり始めた。
といっても、わたしに辞書を愛読するような変わった趣味はない。ただ、ここに書いてあることを丸暗記すれば、年下の少年を……ノアくんを導けると思ったのだ。
ノアくんは、わたしの甥だ。正確には、義理の甥って言ったほうがいいのかな。要するに、フェルナンド様の妹の子どもということだ。
ノアくんはまだ十歳だけど、わたしは彼と遊ぶのが好きだった。木登りしたり、おやつを食べたりして、彼の家ではいつも楽しく過ごさせてもらっている。
でも、今回は遊び以外のこともするつもりだ。だからこその辞書の暗記である。なにせ、わたしは年上なのだ。わたしには持てる知識を活用して、年少のノアくんに教育的指導を施す義務がある。
しかも、こうして難しい言葉をたくさん覚えれば、大人リストの『NO.9 知的な会話をする』の項目を達成するのにも役立つはずだ。どう? いいことずくめでしょう?
試しに辞典を引いてみると、こういうのは「一石二鳥」と言うらしい。すごい! わたし、早くも賢くなってる!
ちなみに、さっき言った「教育的指導を施す義務」っていうのも、持ってきた難しい本に載っている言葉だ。意味はよく分からないけど、格好いい響きだから使ってみたくなったのである。
興奮に背中を押されるように、わたしはどんどんページをめくっていく。けれど、高揚感が引いてくると、段々と頭痛を覚え始めた。
だって、辞書って挿絵とか全然ないんだよ? それってつまり、息抜きできるポイントがゼロってことだ。ただでさえ、わたしには読書の習慣なんてないっていうのに……。
それでも、わたしは必死になって机にかじりついた。これもノアくんのため、そして、リストを完成させるためだ。頑張れ、頑張れ……。
「キャンディス? 君、朝からずっとここにいないか?」
辞書の上に影が落ちて、わたしは顔を上げる。すぐ傍にフェルナンド様が立っていた。
「もう夕方ですか!?」
ついさっき、お見送りをしたと思ったのに! わたしは慌てて時計を確認しようとする。するとフェルナンド様は、「午後から休暇を取ったんだ」と言った。
「それは何の本だ?」
フェルナンド様がわたしの読んでいるものを覗き込む。わたしは胸を張って「辞書です!」と返した。
「ここに書かれていることを全部覚えようと思って」
「随分と頑張るな。二千ページくらいはありそうだが」
「に、二千!?」
一瞬、意識が遠退きかけた。まだ十ページくらいしか読んでない段階でこんなに苦戦しているのに、それがあと……ええと……千九百九十ページもあるなんて! こんなの、一生かかっても読み終わらないよ!
わたしが椅子の上で固まっていると、フェルナンド様が「どうして辞書を暗記しようと思ったんだ?」と尋ねてきた。
「ノアくんのためです」
わたしは一気に気持ちが萎えていくのを感じながら言った。
「ノアくんに、何かためになる話をしたくて。それで、難しい話をするためには難しい本を読まないと、と思ったんです」
「だが、ほどほどにしないと体を壊すぞ」
フェルナンド様に頭を撫でられる。確かに少しぐったりしていたけれど……。
でも、ここで諦めるわけにはいかなかった。わたしは枯れかけた気力を振り絞り、再び辞書のページをめくり始める。
「今回のことで、よく分かりました。二千ページの辞書を暗記しないといけないくらい、この世の中は厳しいところだって。だから、わたしもノアくんに厳しく指導をしないと……」
「ふむ……」
フェルナンド様は顎に手を当てて、しばらく何かを考え込んでいた。かと思うと、棚から一冊の本を取り出してくる。……それって童話集?
「辞書も悪くないが、こういう本も使えるのではないか?」
「でも、それってわたしよりももっと若い子向けですよね?」
「表面上は、な。だが、見方によっては年齢に関係なく役に立つはずだ」
フェルナンド様は白手袋をはめた手で、本のページをめくる。
「たとえば……。キャンディスは、太陽と北風が旅人のコートを脱がそうと競争する話を知っているか?」
「はい、有名ですから。競争には太陽が勝つんですよね?」
「ああ。君は、この話は詰まるところ何が言いたいんだと思う?」
「え……? 寒いと着込みたくなるものなのに、北風ってバカだなあ、ってことじゃないんですか?」
むしろ、ほかに何かある? フェルナンド様は「その解釈も正しいな」と言った。
「だが、私ならこう考える。『人を動かすのは、厳しさよりも優しさだ』と」
フェルナンド様が童話集の該当ページをこちらに向ける。
「わざときつく当たって強制的に何かさせようとしても、相手は頑なになるばかりだ。だから、北風は失敗した。太陽が勝ったのは、相手に強要するのではなく、自主的に行動を起こすように促したからだ」
挿絵の北風は、いかにも怖そうな顔をしていた。一方の太陽は、穏やかな顔つきをしている。この二人のどちらの言うことを聞きたいかと問われたら、わたしも太陽を選ぶだろう。
「童話って奥が深いんですねえ」
わたしはすっかり感心していた。子ども向けとバカにしたのが申し訳なくなってくる。
「もしかして、ほかの話にもこんなふうにためになる教訓が盛り込まれてるんですか?」
「そうだろうな。一緒に探してみるか?」
「はい!」
わたしは手近な椅子に座ったフェルナンド様の膝の上に腰を下ろす。フェルナンド様が童話集を広げ、わたしの耳元でウサギとカメが丘の上まで競争する話を音読し始めた。
フェルナンド様は、頭の奥のほうまで染み渡ってくるような深みのある声をしている。わたしはそんなフェルナンド様の声が大好きだった。
こうして耳元で囁かれていると、体の内側をしっとりと愛撫されているような気分になってくる。まるで全身を流れる血がとろとろのハチミツに変わってしまったみたいに、胸の中に甘い感情が広がっていくのだ。
でも、今は夫の美声に聞き惚れている場合ではない。わたしは上の空になりかける度に、腿をつねって気を引き締め直した。
この分だと、一冊読み終わる頃には、わたしの足はアザだらけになっているかもしれない。
フェルナンド様に「なぜ肌がまだら模様になっているんだ?」って聞かれたら何て言い訳しよう? ああ、それにしてもいい声……ハッ、またぼんやりしちゃった。
そんなふうにちょっと大変なこともあったけれど、読み聞かせの時間は全体的に見ればとても楽しく有意義なものだった。たくさんの教訓も仕入れられたし、わたしの知性にも磨きがかかった気がする。
けれど、このあとがいけなかった。フェルナンド様が「ほどほどにしないと体を壊す」と言っていたとおり、遅めの昼食を食べ終えてしばらくすると、わたしは熱を出してしまったのだ。
「きっと読書なんて慣れないことをしたせいですね」
わたしは体のだるさと戦いながら言った。ベッドの傍らの椅子に腰かけたフェルナンド様が、桶の水にタオルを浸し、固く絞ってわたしの額に乗せてくれる。
「医師の話では、安静にしていればすぐによくなるそうだ。私も妻の病気が治るまでは休むと職場に連絡を入れておいた。つきっきりで君を看病しよう。だから元気を出してくれ」
フェルナンド様が励ますようにわたしの手を握る。心配しなくても、熱の割には元気なんだけどね。ええと……こういう時に使う言葉が辞書に書いてあったような……。あっ、思い出した!
「大丈夫ですよ。満身創痍ですから」
わたしはにっこりと笑いながら言った。すると、フェルナンド様が顔を強ばらせて「薬の用意をしてこよう」と部屋を出ていく。……あれ? 「満身創痍」って、「ボロボロだけど元気」って意味だったよね?
フェルナンド様が茶色い小瓶を片手に戻ってくる。その中身をスプーンに注ぐと、「飲みなさい」とこちらに差し出してきた。
「お薬ですか……」
うへっ。いかにもひどい味って感じの匂いがする。これ、絶対苦いよ。できれば飲みたくないなあ……。
「こんなものは飲まなくても、満身創痍だから平気ですよ」
「満身創痍だから飲むんだろう」
フェルナンド様は一歩も引く気はなさそうだった。もう覚悟を決めて飲むしかないのかな……?
仕方なしに、わたしは小さく口を開けた。フェルナンド様がスプーンの中身をわたしの口の中に流し込む。予想どおりの苦味に、わたしは悶絶した。
「ま、まずい……」
なんとか飲み終わると、恐るべきことにフェルナンド様がまたしても薬をなみなみと注いだスプーンを差し出してきたではないか。わたしは軽い絶望を覚える。
「また飲むんですか……?」
「そんな顔をしないでくれ。これで最後だ」
そう言われても……。わたしは忌々しい思いで薬を見つめる。すると、フェルナンド様が「仕方のない子だな」と肩を竦めた。
ひょっとして、呆れちゃった?
……そうだよね。お薬を嫌がるなんて、子どもみたいだ。
わたしは大人になるって決めたんだ。薬くらい、スプーン一杯どころか、笑顔で一瓶を飲み干すくらいの気概がなくてどうするの?
ほら、「良薬は口にまずし」って事典にも書いてあったじゃん。まずいってことは、いい薬ってことなんだよ。多分。
わたしは無理やり口角を上げ、気持ちを奮い立たせた。
「分かりました、飲みます」
そう言った途端に、フェルナンド様にキスをされた。何かが口の中に入ってくる。思わず飲み込むと、フェルナンド様に「よく頑張ったな」と背中を撫でられた。
今飲み込んだのは薬だったんだとわたしが気づいたのは、フェルナンド様が片づけを始めてからだった。
不思議。お薬は苦くて大嫌いだったはずなのに、さっきは何も感じなかった。
それどころかフェルナンド様にキスしてもらったのが嬉しくて……。今度は作った笑顔ではなく、本物の笑いがわたしの顔に浮かんでくる。
「ありがとうございます、フェルナンド様」
「早くいつもどおりに戻ってくれ、キャンディス。元気に走り回っている君がいないと、この屋敷が妙に広く感じてしまう」
フェルナンド様はベッドに横たわったわたしの顎まで布団を引き揚げると、薬瓶とスプーン片手に退室していく。
わたしはその後ろ姿を見ながら、フェルナンド様がまたあんなふうに薬を飲ませてくれるなら、瓶一個くらい、余裕で空にできそうだなと思っていた。




