妻は食わねど高楊枝(1/1)
けれど、わたしが幸福な気持ちに浸っていられたのも夕方までのことだった。
「本日の夕食はトマトづくしでございます」
料理長がテーブルについたわたしとフェルナンド様の前に、次々と皿を置いていく。どこを見ても赤、赤、赤……。テーブルは完全にトマトカラーに染まっていた。
わたしが顔を引きつらせていると、フェルナンド様が「大丈夫か?」と尋ねてくる。
「君はトマトが苦手だろう? 代わりのものを作らせようか?」
「……いいえ、平気です」
わたしは手近なサラダボウルを引き寄せて、葉野菜の上に載っていた小さな赤い塊を口に運ぶ。
途端に舌の上に汁気のある酸味が広がって、わたしはフォークを強く握りしめた。テーブルの下で足をバタバタさせ、身もだえしながらどうにか噛んで呑み込む。
「はあ……はあ……」
わたしは気が遠くなりかけた。あんなに小さいトマトをたった一つ食べるのにもこれだけ苦労するのだ。ここにある料理を完食する頃には、気を失って倒れているかもしれない。
「キャンディス?」
フェルナンド様が心配そうな目を向けてきたので、わたしは顔に笑みを貼りつけた。大丈夫。トマトくらいどうってことありませんよ? ……そう言っているように見えたらいいんだけど。
でも、その後のわたしは早々に根を上げてしまった。結局口にできたのは、小さめのトマトが三個だけ。お陰で、空きっ腹を抱えてベッドに入ることになってしまう。
しかも、足が痛い。靴を脱いで確認すると、両方の小指の外側に水ぶくれみができていた。どうやら靴擦れを起こしてしまったらしい。ハイヒールに詰め物をしすぎて足を締めつけてしまったのが原因かな?
お腹はグウグウ鳴るし、足指には違和感があるしで、いつもの就寝時間を過ぎても、わたしはなかなか寝つけなかった。
せめてフェルナンド様が傍にいてくれたら……。
でも、何か用があるとかで一旦は寝室に来たもののすぐに出ていってしまったので、彼は今ここにいない。どうしてこう悪いことばかり重なるんだろう?
「キャンディス、まだ起きているか?」
げんなりしていると、ドアの外からフェルナンド様の声がした。
よかった! 戻ってきてくれたんだ!
わたしは「はい!」と言って布団を跳ね飛ばして、ベッドから飛び降りた。意気揚々とドアを開け、フェルナンド様に抱きつこうとする。
けれど、夫が両手で何かを持っているのに気づいて思いとどまった。
フェルナンド様が持ってきたものはトレーだった。上には皿が載っている。中に入っている料理ってもしかして……。
「トマトグラタンだ」
フェルナンド様がナイトテーブルにトレーを置く。
「今日の君は、夜食が食べたい気分ではないかと思ってな」
「夜食……」
わたしはネグリジェの上からお腹を撫でる。フェルナンド様の気遣いは嬉しいけど、少し複雑な気分だった。
確かにわたしの胃は空っぽだ。
でも、それはトマトが食べられなかったからで、そこにトマトを使った料理を持ってきてもらっても、空腹が解消されるとは思えない。結局、この夜食もほとんど残してしまうに違いないんだから。
でも、それじゃあフェルナンド様のせっかくの厚意を台無しにしてしまうし……。一体どうしたらいいんだろう?
わたしが困っている間に、フェルナンド様はスプーンでグラタンを一口分すくう。薄い黄色をしたチーズが長く伸びた。トマトの赤との対比が美しい。
「ほら」
フェルナンド様がスプーンを差し出してきた。……ええい! 覚悟を決めなさい、わたし! フェルナンド様をがっかりさせちゃいけないでしょう!
わたしは口を開き、フェルナンド様にグラタンを食べさせてもらった。落ち着け、落ち着け。まずは息を止めて、なるべく味わわないで呑み込んで……。
……と思っていたけど、口内にあのトマト独特の酸っぱさは広がってこなかった。代わりに感じられるのは、チーズのまろやかな風味だ。わたしは目を見開いた。
「美味しい……!」
たっぷり入ったチーズがトマトの酸味をマイルドにしてくれて、グラタンはとても食べやすい味になっていた。
わたしはフェルナンド様からスプーンを受け取ると、まるで四日くらい断食していたみたいに、一心不乱にお皿の中身を平らげていく。
グラタンをすべて食べ終わる頃には、すっかり満腹になっていた。空だった胃が喜びの声を上げているのが分かる。
「わたし、トマトが食べられるようになりましたよ」
わたしはフェルナンド様に向かって誇り高く告げた。「よかったな」とフェルナンド様が頭を撫でてくれる。
「フェルナンド様はいいですね。嫌いな食べ物とかなくて」
わたしは夫の肩にもたれかかりながら言った。フェルナンド様は「そうだな……」と考え込む。
「別にないことはないが……。脂っこいものは苦手だ。……いや。あれは嫌いな食べ物とは少し違うか……」
フェルナンド様がブツブツと呟く。わたしは目をパチクリさせた。
嫌いじゃないけど食べられないものもあるなんて、大人の世界は一筋縄じゃいかないんだなあ。
何はともあれ、大人リストの『NO.4 食べ物の好みを変える』は達成できたわけだ。だって、トマトが食べられるようになったんだよ? これはもう完了でいいでしょう?
まだたった一項目だけを終わらせたにすぎなかったけど、わたしの心はもうリストのNO.1からNO.10のすべてをやり遂げたような満足感で満たされている。
気分が高揚していたせいなのか、いつの間にかフェルナンド様が隣に座っていないことにもすぐには気づかなかったくらいだ。
床にひざまずく夫を発見したわたしは、「どうしたんです?」と首を傾げた。
「このままだと痛いだろう?」
フェルナンド様はわたしの足の小指の靴擦れができた箇所に、細く裂いた包帯を巻いているところだった。
治療のためにフェルナンド様がわたしの小指に顔を近づける。この角度から見るフェルナンド様も素敵だ。思わずうっとりとなる。
「怪我してるの、よく分かりましたね」
「歩き方がいつもと違ったからな」
フェルナンド様が事もなげに答える。さすが、目の付け所が違うなあ。やっぱりわたしの旦那様は最高だ。
「今週末はノアのところへ遊びに行くんだ。それまでに、少しでも治しておかないとな」
そうだ! ノアくん!
ほかにもやることが色々あって、すっかり忘れていた。けれど、予定を思い出したからには、週末が断然楽しみになってくる。
それに、せっかくの機会だ。これは、リストのあの項目を片づけるチャンスじゃない?
早くも『NO.4 食べ物の好みを変える』にチェックが入ったことで、わたしはすっかり浮かれていた。きっと今回の目論見も成功するだろうという根拠のない自信がむくむくと湧いてくる。
「行かなきゃいけないところは、ノアくんの家だけじゃないですもんね」
フェルナンド様が今後の予定のことを口にしたのをきっかけに、わたしは昼間お茶会で聞いた話を思い出した。
「ランジャック博士がパーティーを開くんでしょう? わたしたちも招待されてますよね?」
包帯を巻くフェルナンド様の指が一瞬止まった。「誰からそのことを?」と尋ねられる。
「サロメとミケットが言っていました。今、博士は軍に所属しているからわたしたちもパーティーに招待されてるだろう、って。招待状、届いてますよね?」
「そうだったかもしれないな」
フェルナンド様は治療を手早く終えて、空になったグラタンのお皿をトレーに載せる。部屋を出ていこうとする夫の背中に、わたしは「わたしもパーティーへ行きますね」と言った。
「いや、来なくていい」
フェルナンド様は奇妙にも思えるほどの早口で言った。
「行っても絶対につまらないぞ。博士の家には、私一人で向かうつもりだ」
「え、でも……」
「キャンディス、君は家で待っていなさい。いいね?」
有無を言わさぬ口調である。わたしの返事を聞かないうちに、フェルナンド様は部屋を出ていった。
しかも、なぜかなかなか帰ってこない。フェルナンド様、一体どうしちゃったんだろう?
そんなことを考えながらごろんと横になっていると、やっとフェルナンド様が戻ってきた。そして、半分眠りかけていたわたしをそっと抱きしめる。
「フェルナンド様……博士のパーティー……」
「君は来ないよな?」
「はあ……」
眠たくて頭が回らない。わたしは肯定とも否定とも取れるような返事をした。
フェルナンド様はそれで満足したのか、「おやすみ」とわたしの耳元で囁く。
そうしてわたしは、夫の腕に抱かれながら眠りに落ちたのだった。




