沈黙は愛、雄弁も愛(2/3)
「フェルナンド様ぁ~!」
わたしは夫に縋りついた。
また視界が潤み始めたけど、今度は絶望ではなく安堵と喜びの涙だった。フェルナンド様、なんて温かい体をしているんだろう。これは命ある者の温もりだ。生きている! フェルナンド様は生きている!
「怪我はちゃんと治ったんですね! わたし、フェルナンド様が訓練中に重症を負ったって聞いて、そのせいで、し、死んじゃったのかもって思って……!」
「重症?」
わたしを胸に抱き留めて頭を撫でながら、フェルナンド様が首を傾げる。
「何のことだ? 訓練用の木剣にささくれができていたのに気づかず、指を傷つけてしまったことならあるが……」
「指を切断!?」
「いや、まだ繋がっているぞ」
フェルナンド様はわたしの目の前で、両手のひらを振った。一応本数を数えてみたけど、ちゃんと十本ある。それでも、わたしは警戒心たっぷりに尋ねた。
「ほかには? 命に関わるような怪我はしてないですか?」
「ああ。何の問題もない」
フェルナンド様は穏やかに笑った。わたしの肩から力が抜ける。
レズリーさん、嘘を吐いたのかな? フェルナンド様は無事じゃん! もちろん、喜ばしいことではあるけれど……。
……いや、彼を責めるのは間違ってるのかも。よく考えてみれば、レズリーさんは「隊長が訓練中に怪我をした」としか言ってなかった気がする。
でも、わたしは勘違いをして「フェルナンド様が重症を負った」って思い込んでしまったんだ。
つまり、全部わたしの早とちりだったってこと!? 何それ……すごく恥ずかしいんだけど!
いたたまれなくなって、わたしはこそこそと逃げ出そうとした。でも、フェルナンド様の目と鼻の先にいるのに、そんなことをするのは不可能だったようだ。
腕をつかまれ、わたしは床に座った夫の膝の上に強制的に乗せられる。
「どこへ行くんだ、キャンディス」
フェルナンド様がわたしの頬を両手で包み込む。
「やっと王都に帰ってくる気になったんだろう? もう少し一緒にいよう」
「……これは事故です」
恥ずかしすぎて顔が熱くなってくる。ううっ、棚があったら入りたいような気分だよぉ。
「わたしってば、すごくおっちょこちょいで……。本当にごめんなさい」
先ほどまでは恥じ入る気持ちしかなかった心の中に、ふと暗い影が差す。
「こんなに慌てふためいて、子どもみたいですよね」
大人なら、もっと冷静な判断を下せたはずなのに。それで、こんな勘違いもしなかったに違いない。
フェルナンド様はこんなバカみたいな間違いを犯したわたしを見て、どう思っただろう。きっと、呆れ返ったに違いない。
どうしてこんなことになっちゃったの? 大人リストは完成した。わたしはもう大人になったはずだったんだ。それなのに、なんでまだこんなに子どもみたいな一面が残っているんだろう?
「……もう一度実家へ帰ります」
わたしは沈んだ声で言った。
今度はフェルナンド様に辞職を考え直してもらうためじゃない。いつまでたっても子どものままのわたしなんて、もうフェルナンド様の近くにいる資格がないと思えてきたのだ。
「キャンディス、私は君に傍にいてほしい」
「でも、わたしはフェルナンド様に相応しくありません」
わたしは顔を伏せた。
「今度は、フェルナンド様に釣り合うような女性になった時に帰ろうと思います」
「それはいつだ?」
「……分かりません」
もしかして、一生無理かも。
頭の中でそんな意地の悪い声がして、わたしは唇をきゅっと曲げた。
「わたしはまだ子どもです。でも、このままじゃいけないんです。わたしはフェルナンド様が大好きで、だから離れ離れになりたくありません。でも、今のままじゃ一緒にいられないんです」
「どうしてだ」
「だってわたしの傍にいても、フェルナンド様は幸せになれませんから。……子どもの相手なんて、嫌気が差すでしょう?」
自分で言っておいて、気持ちがふさぎ込んだ。今のわたしは、間違いなくフェルナンド様の重荷だ。
「わたしはフェルナンド様を不幸にしたくありません」
それに、嫌われるのも嫌です。
こんなワガママを言えばますます子どもっぽく見えてしまうと思い、心の中でつけ足すだけにしておいた。
妻の言葉を、フェルナンド様は静かに受け止める。深緑の瞳に見つめられ、わたしは身の置き所がないような気分になった。
今のわたしは、フェルナンド様の目にはどう映っているのだろう。「早く大人になりたい」とぐずる子どものように思われているのだろうか。こんなこと、言わないほうがよかったのかもしれないと後悔した。
「キャンディス、君は何も分かっていないようだな」
フェルナンド様がため息交じりに呟いた。
やっぱりそうなんだ。今のわたしは、フェルナンド様にとっては背伸びした子ども。どんなに頑張っても、全然フェルナンド様には届かない存在なんだ。
けれど、わたしの心に根を張り始めた失意を、フェルナンド様はたったの一言で拭い去ってくれた。
「私にとっての一番の不幸は、キャンディスが傍にいないことだ」
わたしは思わずフェルナンド様をまじまじと見つめた。夫の整った顔に浮かぶ表情は真剣そのものだ。
「実家にいるキャンディスのことだって、本当は迎えにいきたかった。けれど君の決心は固いだろうし、無理強いするのもよくないと思ったんだ」
「……そんなこと考えないで来てほしかったです」
自分から出ていったくせにこんなことを言うのはおかしいと分かっているけど、わたしは本心を口にした。やっぱり、わたしはどこまでも子どもだ。お迎えがないと家に帰れない、と駄々をこねるなんて。
「フェルナンド様と会えなくて、すごく辛かったです。それに、サロメにもミケットにもお迎えが来たのに、わたしには何にもなしだなんて……。フェルナンド様はわたしがいなくても平気かもしれませんけど、わたしはフェルナンド様がいないとダメなのに……」
「そんなことはない」
「嘘です」
「本当だ。キャンディスが傍にいないと不幸になる、と言っただろう」
またうつむき気味になっていたわたしの顎を、フェルナンド様が指先で持ち上げた。濃い緑色の瞳と視線が合ったわたしの心が揺らぐ。夫の言葉を頑なに疑い続けるなんて、よき妻のすることではないと思えてきた。
「……分かりました。信じます」
わたしは夫の胸に頬を寄せた。すると、フェルナンド様が大きく息を吐き出す。
「キャンディス……本当に私の言いたいことが分かっているのか?」
「分かってますよ」
「言葉に出していないこともあるだろうと勘ぐる気持ちはないんだな」
「ありません。だって、フェルナンド様は全部話してくれたじゃないですか」
「……君は純真だな。本心を隠しているのが申し訳なくなってくるほどに」
フェルナンド様はためらうような表情を見せた。彼のこういう顔なら、前にも見たことがある。あの時のフェルナンド様は、わたしに機械音痴だと告白してくれた。
夫がまた何か秘密を明かそうとしている。そう直感したわたしは、無意識のうちに背筋を伸ばした。




