沈黙は愛、雄弁も愛(1/3)
馬車が王都に到着したのは、実家を出てから数日後のことだった。
随分と無茶な日程で動き回ったので、御者もわたしもヘロヘロだ。馬も何回変えたのか覚えていない。馬車を洗っている暇も惜しかったので、車体も泥や土まみれになっている。
最後のひと頑張りとして、御者には騎士団本部まで送っていってもらった。本部には、怪我をした団員専用の病院があるのだ。重症を負っているなら、きっとフェルナンド様はそこに入院しているはずだと思ったのである。
本部の門の前でわたしを下ろすと、御者は明らかにほっとした様子だった。これ以上の重労働は勘弁してほしいと言いたげに、馬に鞭を当てて去っていく。
なんだかひどく無茶をさせちゃったな……と反省する気持ちが湧いてきたものの、それよりも今はフェルナンド様だ。わたしは小走りで守衛室に向かう。
疲れているのは御者だけではなくわたしも同じだったけど、騎士団本部の建物を見た瞬間に、興奮で疲労なんて吹き飛んでしまった。早くフェルナンド様に会いにいかないと、という焦りが一歩進むごとに増していく。
「夫に会いにきました」
わたしは守衛さんに早口で来訪の目的を告げた。
「きっと病院にいますよね? どこにあるのか教えてもらえませんか?」
「ダンジュー将軍が病院に……? いいえ、そのようなお話はうかがっておりませんが」
守衛さんは手元に置いてある分厚いスケジュール帳のようなものをパラパラとめくる。どうやら、騎士団の偉い人たちの予定はここにメモしてあるらしい。
それにしても、フェルナンド様が病院にいないってどういうこと? 入院してるんじゃないの?
もしかして、もう怪我は治ったんだろうか。それで、通常の業務に戻れるようになったのかも。
全身に安堵が広がっていく感覚がした。よかった、フェルナンド様が無事で……!
でも、せっかくここまで来たんだ。元気な夫の姿をこの目できちんと確かめておこう。入門の許可をもらい、わたしはフェルナンド様の執務室へ向かった。
「フェルナンド様、キャンディスです」
ドアをノックして待ったけど、返事がない。席を外しているのかな?
勝手に家を出ていったという気まずさと、一カ月ぶりに会うというドキドキ感が混じり合って緊張していたっていうのに、なんだか拍子抜けだ。
「フェルナンド様? 入りますよ?」
本当に不在なのか確かめたくて、わたしはうっすらとドアを開けた。室内を見回してみたけど、人の気配はない。やっぱり留守か……。
ドアを閉めようとした時、わたしは執務室の床に気になるものが置いてあるのに目を留めた。なんだろう? シーツかな? 何かを覆っているみたいに膨らんでるけど……。
その膨らみが人の形をしていると気づいた時、わたしは息が止まりそうになった。ドアを大きく開けて、室内に駆け込む。
「そ、そんな……!」
わたしはシーツの傍にがっくりと膝をついた。
来るのが遅すぎたんだ。
大怪我を負った夫、ガランとした執務室、そして、人の形に膨らんだシーツ。これらの事柄をつなぎ合わせたわたしは、この布の下にあるものの正体を自然と察してしまった。呼吸が乱れ、手足が震える。
「フェルナンド様、どうして死んじゃったんですか……!」
わたしはシーツの下にある物言わぬ夫の遺体に向かって、かすれた声を出した。
ただ寝ているだけなら、全身を布で覆う必要はない。重症だとは分かっていたけど、そんなに怪我がひどかったなんて……!
「フェルナンド様……」
夫の遺体を揺さぶった拍子にシーツがずれて、腕が外にはみ出る。
手袋に包まれた手を思わず握ったけれど、まったく体温が感じられなかった。
それに、ひどく固い感触がする。どことなく無機質で、生物らしさがないよそよそしい感じ。死んでしまうと、人間はこんなふうになるのだろうか。
もはやフェルナンド様はわたしとは違う世界の住民になってしまったという事実を叩きつけられた気がして、わたしはシーツ越しに遺体に覆い被さって泣き声を上げた。
「ごめんなさい、フェルナンド様! ごめんなさい……!」
こんなことなら、実家になんて帰らなければよかった。そうしたら、せめてフェルナンド様の死に目には会えたかもしれないのに。わたしは妻失格だ。夫の命が絶たれてしまってから、彼のもとに駆けつけるなんて……。
後悔が噴水のように湧き出てくる。けれど、もう何を思っても手遅れだ。わたしとフェルナンド様は永遠に離れ離れになってしまったのだ。
「フェルナンド様……わたしを一人にしないでください……」
大きくしゃくり上げながら、わたしはくぐもった声で囁いた。シーツが涙でべしょべしょになっている。
「フェルナンド様がいなくなったら……わたし、寂しいです。寂しくて寂しくてたまらないです……」
「私もキャンディスがいないと寂しいよ」
どうやらわたしはショックのあまり気が変になってしまったようだ。だって、フェルナンド様の声が聞こえたんだから。
ああ、後ろから抱きしめられる感触までする。フェルナンド様なら、落ち込むわたしをこうして慰めてくれただろう。
振り向くと、そこには愛しい夫の顔があった。わたしはいよいよ正気をなくしかけているらしい。もう死んだ人が生きていた時と変わらない姿で目の前にいるように錯覚してしまうなんて。
でも、またフェルナンド様に会えるのなら何でもよかった。たとえ幻でも、わたしは夫と再会できたんだ。お化け嫌いを克服しておいて本当によかった。ひょっとしたら幽霊っていう可能性もあるもんね。
「大好きです」
わたしはフェルナンド様にキスをした。一カ月ぶりに触れる夫の唇の柔らかさに、わたしの胸はきゅうっと締めつけられる。
けれど、そんな切ない感傷も甘美なキスがもたらすうっとりとした感覚にすぐにかき消えてしまった。
フェルナンド様は久しぶりに食べる好物を味わうように、時間をかけてわたしの唇をたっぷりと堪能する。体の奥がじんじんと痺れてきて、わたしはキスの合間に喘いだ。
「フェルナンド様……大好きです……」
わたしは夫の背中に腕を回しながら、濡れた唇で囁いた。
「フェルナンド様が死んじゃっても、この気持ちはずっとずっと変わりませんからね。わたしにとって、フェルナンド様はとても大切な人です。できれば、生きている時にこう言ってあげたかったですが……」
わたしはフェルナンド様の肩に顔をうずめた。甘やかな気持ちと深い悲しみが胸の中でごちゃ混ぜになって、心がマーブル模様に染められていくようだ。
「それなら安心してくれ。私はまだ死んでいない」
「……そうですね。わたしもフェルナンド様が生きていればいいなって思っています」
つい、気のない返事をしてしまう。けれどフェルナンド様は怪訝そうに、「本当に生きているぞ?」と言った。
「ほら、きちんと心臓は動いているだろう?」
フェルナンド様がわざわざ服をはだけて、わたしの手を胸元に引き寄せた。手のひらに伝わってくるのは、力強い鼓動だ。
「……いいんですよ、フェルナンド様。わたし、ちゃんと分かっていますから」
きっと、フェルナンド様はわたしを慰めようとしているんだろう。幻とはいえ、わたしの夫はやはり優しいのだ。
「あなたは本物じゃありません。わたしの旦那様は、ここにいるんです」
わたしはシーツの下の遺体に目を向けた。フェルナンド様が「何だって?」と訝しげな顔になる。
「キャンディス、ここに何が置いてあるのか知っているのか?」
「もちろんですよ。亡骸でしょう? ……フェルナンド様の」
「私の亡骸?」
フェルナンド様はわたしの言葉をオウム返しにした。そうかと思えば、急に笑い出す。
「つまり、私は死ぬと木になるというわけか?」
フェルナンド様がシーツをめくった。まだ夫の遺体に対面する心の準備ができていないのに! と思ったけど、目を伏せるには遅すぎた。わたしはシーツの下にあるものを間近で見てしまう。
「な、何これ……?」
横たわっていたのは、騎士団の制服を着た木製の人形だった。目鼻はついておらず、全体的に粗い作りだ。
「訓練で使う備品だ。的の代わりだな」
「そうだったんですか……」
よく見れば、人形の服は穴だらけで、顔や胴体にも無数の傷がついている。訓練で損傷した跡だろうか。こんなにボロボロにしちゃうのに、自国の騎士の制服を着せるなんて、なんだか悪趣味じゃない?
わたしは額を手のひらで押さえる。てっきり夫の死体が出てくるだろうと思っていたので、肩透かしを食らった気分だった。
……あれ? ちょっと待って。フェルナンド様の遺体がここにないってことは……。
「あなたは……本物のフェルナンド様ですか?」
「もちろん。幽霊でも幻でもない、生きた人間だ」
そう言われてもすぐには受け入れられず、わたしは夫の体のありとあらゆる場所をペタペタと触った。フェルナンド様は大人しくされるがままになっている。
そうしているうちに、段々と実感が込み上げてきた。今目の前にいるのは、紛れもないわたしの夫、フェルナンド・ダンジューだ。非の打ち所のない最高の旦那様。
わたしはもう一度フェルナンド様の胸に手を当て、彼の体の奥で脈打つ命をしっかりと確認した。
今日のフェルナンド様はいつにも増して完璧だ。だって、彼の心臓はまだきちんと動いている。そう、フェルナンド様は生きているんだ!




