これが大人の夫婦?(2/2)
屋敷に戻ると、早速使用人に命じて客室のベッドを整えさせた。今日からはここがわたしの寝室だ。もうフェルナンド様とは一緒に寝ない。食事も別室で取ることにして、それから……。
やることを考えているうちに、あっという間に夫の帰宅時間になる。でも、わたしは出迎えにいかなかった。部屋に閉じこもり、手帳にメモしたご婦人方の話を見返してほくそ笑む。
よしよし、順調だ。夫と顔を合わせないのは、基本中の基本である。夕食も先にすませておいたし、何もかもが計画どおりに進んでいる。
やがて、寝る時間がやって来た。わたしは大あくびをしながら部屋を出る。いつもの寝室まで行きかけて、今日からは客間のベッドを使うんだと思い出して引き返そうとした。
その時、廊下の向こうにフェルナンド様がいるのを見かけてしまう。わたしは顔を強ばらせた。
「キャンディス」
フェルナンド様も妻の姿を認めて、こちらに近寄ってこようとする。わたしはうろたえた。
――話しかけられるのもごめんよ。
フェルナンド様がいなくても平気だって証明するためには、ここで返事をしちゃいけない!
わたしは回れ右して逃げ出した。フェルナンド様が「キャンディス?」と不審そうな声を出す。でも、わたしは何も答えずに客間へ飛び込んだ。
「キャンディス、どうしたんだ?」
フェルナンド様が客間のドアをノックする。わたしは扉に背をつけ、冷や汗をかいていた。うっかり返事をしないように、口を手で塞ぐ。
「なぜそんなところに閉じこもっているんだ? もう夜も遅い。早く寝室へ行こう」
それはできません。フェルナンド様とはベッドを別にすると決めたんですから!
わたしは心の中でそう返した。
「旦那様、奥方様は当分はこのお部屋でおやすみになるそうですよ」
扉の外から家令の声がした。多分、偶然この辺りを通りかかったのだろう。フェルナンド様が「何だって?」と訝しげな声を出す。
「何を考えているんだ、キャンディス」
そう言われても、わたしは何も返事ができないのだ。けれど、そんな事情などまるで知らないフェルナンド様は話を続ける。
「今日は朝に話したきり、ずっと君の顔を見ていない。……もしかして、私が騎士を辞めると言ったことを怒っているのか?」
別に怒っているわけじゃありません。
わたしは口をパクパクさせた。でも、扉越しではいくらフェルナンド様でも唇の動きを読むのは無理だ。
どうしようかと困っていると、客間のテーブルに置かれた真っ白のメモ帳とペンが目に留まった。わたしはそこに素早く言いたいことを書きつける。
『怒っていないから大丈夫です。でも、フェルナンド様にはこれからも騎士でいてほしいです。わたしはここで寝るので、フェルナンド様は寝室へ行ってください』
わたしは伝言の書かれたページを帳面から破り取って二つ折りにし、扉の下の隙間から差し出した。
会話はしちゃダメだけど、筆談は禁止されてないもんね。やっぱり、今日のわたしは絶好調だ。記者だって嘘を吐いた時といい、こんなに素晴らしいアイデアばかり閃くなんて!
「……本当に怒っていないのか?」
ドアの外から紙がこすれる音がしたあとで、フェルナンド様がそう尋ねてくる。わたしはメモに『はい』と書いて、もう一度扉の外に滑らせた。
「分かった。今日は一人で寝よう」
フェルナンド様が根負けしたように言った。
「だが、明日からはいつものように君の隣で朝を迎えたい。……おやすみ、キャンディス」
足音が遠ざかっていく。わたしはふぅ、と息を吐き出してベッドに座った。
とりあえず、夫がいなくても寂しくないアピールの第一歩は成功しただろう。あとは、フェルナンド様が考えを変えるまでこの生活を続けるだけだ。
わたしはベッドに潜り込む。
そういえば、客間のベッドで寝るのって初めてかも。なんだか変な気分。
……いや、妙な心地になってるのは、いつもと眠る場所が違うせいばかりじゃないのかな?
客間はとてもしんとしていた。何の物音も聞こえず、人の気配もしない。そんな空間に横たわっているうちに、わたしは自分がこの世界で一人きりになってしまったように思えてきた。
なんて頼りない気分だろう。まるで、胸の中を風が通り過ぎていくみたいだ。それは、今の季節には似つかわしくない冷たい北風だった。
フェルナンド様と違う部屋で寝ているから、こんなふうに感じてしまうんじゃないの?
ふいに心に浮かんできたそんな言葉を、わたしは首を振って慌てて打ち消した。別に寂しくなんてない。わたしはもう大人なんだから。
でも、ほんのちょっぴりもの悲しい気分になってしまっているのなら……それは多分、わたしの中にまだ子どもっぽい部分が残っているからなのだろう。だって、わたしの大人リストはまだ完成していないんだから。
わたしは残ったリストの項目『周りの人といい関係を築く』のことを考えた。
フェルナンド様はわたしのために将来を棒に振ろうとしている。そんな犠牲の上に築かれたのが、「いい関係」のはずがない。少なくとも、わたしはそんなものは認めない。
わたしがフェルナンド様のためにできることは――彼の決断を覆すためにできることは、まだあるはずだ。
一緒に寝てくれる人がいなくて寂しいと子どもみたいに落ち込んでいる暇があったら、夫のために行動を起こす大人の妻にならないといけない。まずは、このお一人様の状態に慣れないと!
そう思っても、なかなか眠りは訪れなかった。
フェルナンド様は今頃あの広いベッドに一人きりで寝ている。わたしもその隣に横たわりたい。それで、朝からろくに顔も合わせていない埋め合わせとして、美しい夫の姿をじっくりと眺めて……。
……ダメだ。どうしてわたしって、こんなに心が弱いんだろう? 自分が嫌になる。
そうやって自己嫌悪にひたっているうちに、長い長い夜はのろのろと過ぎていった。
****
わたしがフェルナンド様と家庭内別居状態になってから、百年が過ぎた。
もちろん、これはものの喩えだ。実際は四日しかたっていない。でも、わたしにはその四日間が百年にも感じられたのだ。こういうの、「一日先週」っていうんだよね。
そんな難しい言葉は置いておくとして、この四日間でわたしの心は段々と枯れ果てていった。
現在のわたしは、フェルナンド様が仕事へ行ってから起きて、彼が帰ってくる前に夕食も湯浴みもすませて、夜になると寝室代わりの客間へ引っ込む、という生活を送っている。
フェルナンド様が休みで家にいる日は、一日中自室に閉じこもって、どうにか顔を合わせないようにしていた。
我ながら、なかなか頑張っているほうだと思う。でも、その頑張りがわたしの気分をじめじめとしたものに変えていたのだ。
四日もフェルナンド様と接していないなんて、結婚してから初めてのことだった。彼のことが恋しくてたまらない。たったの一秒でいいから、夫の逞しい腕にぎゅっと抱きしめてもらいたくてたまらなかった。
でも、そんな甘えたことを考えちゃいけないんだよね。わたしがこんなだから、フェルナンド様は騎士を辞めるなんて言い出したんだ。もっとしっかりしないと、フェルナンド様の気持ちを変えるなんて絶対に無理だ。
それに、わたしを悩ませていることはもう一つあった。ランジャック博士からもらった時計の異音がますます激しくなっていたのだ。きっと、爆発まであと五日しかないからだろう。
そう、たった五日だ。期間は三カ月も用意したのに、わたしってば今まで何をしていたわけ? このままだと、家が爆発しちゃうのに!
そんなこんなで四日目の朝、わたしは頭痛を覚えながらベッドからはい出た。
フェルナンド様と一緒にいられなくて精神的に参っているせいなのか、ここ最近はろくに眠れないことが多い。体のだるさと戦いながら、誰の手も借りずに服を着替えて、客間の外に出た。
思わぬ人物と対面したのはドアを開けた瞬間のことだった。腕組みをしたフェルナンド様が、外の廊下に立っている。




