これが大人の夫婦?(1/2)
カチ、カチ、カチ、ガチッ、ギギギ……、カチ、カチ、カチ、ガチッ、ギギギ……。
高原から戻ると、ランジャック博士にもらった時計から、異音がするようになっていた。
きっと爆発の日が近いからだろう。変な音が鳴る度にリストの締め切りが頭の片隅でちらつくようになり、わたしの気持ちは自然と引き締まっていく。
仕事へ行く前のフェルナンド様がある重要な話を打ち明けてくれたのは、時計の表示が『爆発まで、あと9日』となった日のことだった。
「君は以前に、私が副騎士団長に昇進するのを断った件について尋ねてきたことがあったな」
フェルナンド様にいってらっしゃいませのキスをしようとつま先立ちになっていたわたしは、ハッとなって固まった。
「あの話は本当だ。私は副騎士団長になるつもりはない」
そんな……せっかく昇進できる機会なのに!
……やっぱり、わたしのせいですか?
そう聞こうと思ったけど、フェルナンド様が次に発した言葉の衝撃で、わたしは声をなくしてしまった。
「それというのも、私は騎士を辞めるつもりだからだ」
……騎士を辞める?
思いもよらないセリフに、わたしの頭は疑問符でいっぱいになった。今のは聞き間違い? フェルナンド様は、辞職するって言ったの?
「騎士じゃなくなるなら……何になるんですか?」
混乱のあまり、愚かな質問をしてしまう。
けれど、フェルナンド様はバカにするでもなく、真剣な表情で答えた。
「よりよい夫に」
フェルナンド様はわたしの手を取って、甲に口づけた。
「副騎士団長は多忙な役職だ。帰りが遅くなることも増えるだろうし、朝も早くから出ていかなくてはならなくなるだろう。だが、それでは君が悲しむだろう? そう思った時に気づいたんだ。いっそのこと仕事を辞めてしまえば、キャンディスに寂しい思いをさせてしまうこともない、と」
夫はよどみない口調で話す。まるで、辞職なんてごく当たり前の決断であるみたいに。
フェルナンド様は、わたしを気遣ってくれていたんだ。
でも、心に喜びは湧いてこなかった。それどころか、強いショックで手が震えだす。
だって、「フェルナンド様の未来が閉ざされたのはわたしのせい」というのが本当だったと分かってしまったから。
ミケットが文武交流会で聞いたのは、フェルナンド様が昇進を辞退する話なんかじゃなかった。彼が辞めるつもりだったのは騎士の仕事そのものだったんだ。
副隊長さんが、どうしてわたしに厳しいことばかり言っていたのかも理解できた気がする。彼女はきっと、フェルナンド様に騎士を辞めてほしくないのだろう。
そして、それはわたしも同じだった。
「ダメです!」
気がつけば、わたしは玄関ホール中に響くような大声を出していた。
「お願いです、考え直してください! わたし、フェルナンド様がいなくたって、ちっとも寂しくなんかありません」
わたしは懸命に首を横に振った。
「フェルナンド様は皆が憧れる素敵な騎士なんですよ。それなのに辞めてしまうなんて、もったいないです。わたしはフェルナンド様に、これからも騎士として活躍してほしいんです。それで、副騎士団長になってください」
わたしがつまらないことで心を悩ませてしまうために、フェルナンド様が輝かしい将来を捨てるはめになったなんて、到底受け入れられる話ではない。何があっても、夫の考えを変える必要があった。
けれど、わたしの説得にフェルナンド様はちっとも心を動かされなかったようだ。
「キャンディス……」
フェルナンド様がわたしの頭を撫でる。考えすぎかもしれないけれど、その表情は、ワガママを言う少女をどう扱おうかと悩んでいる大人のそれに見えた。
「わたしはそこまで子どもじゃないですよ」
自分の未熟さを突きつけられた気がして、わたしはムキになって半歩下がり、フェルナンド様から距離を取った。
「もう充分大人です」
少なくとも、十分の九は。
残った大人リストの項目のことを考えながら、わたしは心の中でそうつけ足した。
「大人だから、フェルナンド様がいなくても寂しくありません。……そのことを証明してみせます!」
わたしはフェルナンド様が止めるのも聞かず、屋敷の外に飛び出した。
といっても、行く当てがあったわけじゃない。足が向くままに朝の王都を歩く。辺りを見るともなしに眺めながら、わたしは一生懸命に考えていた。
勢いで「フェルナンド様がいなくても寂しくないと証明する」と言ってしまったけど、一体何をすればいいの?
見当もつかず、わたしは途方に暮れた。
でも、あんなに力強く宣言した手前、何も思いつかないうちから家に戻るのも気が引ける。屋敷を出た時にはキビキビしていた足取りが段々と重たくなっていった。
それにしても、どうしてフェルナンド様はここまでの気遣いを見せてくれるのだろう。もうわたしに対する関心なんて、すっかり薄れてしまったと思っていたのに。
ひょっとしたら、これまでの頑張りを評価して、わたしのことを見直してくれる気になったんだろうか。
そうだとしたら、うかうかしていられない。フェルナンド様がまたわたしへの興味をなくしちゃう前に、もう大人だから寂しいなんて思わない、ってきちんと分かってもらわないと!
でも、焦ったところでいい方法が思い浮かぶわけじゃない。
こういう時に大事なのは、まずは落ち着くことだ。ちょうど目の前に公園がある。あそこのベンチで一休みして、じっくり作戦を練ることにしよう。
そういえばこの公園、わたしが誕生日の演出を考えるために高齢者にインタビューした場所だったっけ。
でも、今回は老人サロンのメンバーはいなかった。
その代わりに、東屋では四、五人くらいのご婦人方が談笑している。年齢は三十代から五十代くらいまでと様々だけど、随分と盛り上がっているようだ。彼女たちが高い声で交わす会話が聞こえてくる。
「うちの旦那って、本当に最低なのよ。誕生日に宝石を買ってくれるって言ったのに、すっぽかしたの!」
「私なんて、夫が許さないせいでもう半年も新しいドレスを作ってないわ」
「旦那が歌劇鑑賞につき合ってくれないの。あんなものはくだらない、って言って」
どうやら、このご婦人方は旦那様の愚痴を言い合っているらしい。ここにミケットがいたら、嬉々として会話に混ざるんだろうなあ。
そんなことを考えていると、彼女たちの口から聞き捨てならないセリフが飛び出した。
「どうしてあんな男と結婚しちゃったのかしら」
「本当よ。夫なんていらないわよねえ」
夫なんていらない?
それってつまり……旦那様がいなくても寂しくないということ?
フェルナンド様が不在でも耐えられると証明する方法を探していたわたしは、即座に彼女たちの話と自分の悩みを結びつけた。この人たちから話を聞けば、わたしの問題を解決するいい案が浮かぶかも……。
「あの、ちょっといいですか」
わたしはポシェットから手帳を取り出しながら、ご婦人方に話しかけた。
「皆さんはどんなふうにして、旦那様がいなくても平気になったんですか?」
「……どちら様?」
突然現れたわたしに、皆は不審そうな目を向ける。……おっと、これはまずい。変な人扱いされたら、質問に答えてもらえなくなっちゃうかも!
どうしようかと悩んでいると、ふと手帳に一枚の名刺が挟まっているのが目に留まった。
……これだ!
わたしは何食わぬ顔で、その名刺を差し出した。
「わたし、こういう者です」
「あら。ゴシップ紙の記者さんだったの? 小さいのにすごいじゃない」
「『淑女の夢』、よく読むわよ」
「なんだか男性みたいなお名前ねえ」
よし、上手くいった。皆、わたしのことをあっさり受け入れる気になったようだ。わたしが彼女たちに渡した名刺は、この前うちへ取材に来たゴシップ紙の記者のものだったのだ。
こんな手を思いつくなんて、わたしってすごく冴えてない?
「実は記事を書くために、王都民の夫婦生活について、調査を行っておりまして」
わたしはペラペラと嘘を並べ立てる。
「ですので、皆さんにもぜひお話を聞かせていただければと」
「もちろんいいわよ」
「私のインタビューが新聞に載るの? ドキドキしちゃうわ!」
ご婦人方は、何でも聞いてちょうだいという表情になる。わたしはできるだけ記者っぽく見えるように、詮索好きそうな声色を作った。
「皆さんは、日頃どのように旦那様と接しているのですか?」
「あら、接してなんかいないわよ!」
一人の婦人が、大口を開けて笑う。
「私、もう何年も旦那と口を利いてないもの」
「な、何年も!? 『おやすみ』とか『おはよう』もなしですか?」
「ええ。というよりも、夫がいつ起きていつ寝ているかも知らないの」
「同じベッドで寝ているのに?」
「まさか。寝室は別よ」
ほほほ、と婦人が笑う。夫婦なのに、別室で寝ている人たちもいるんだ……。わたしは衝撃を受けつつも、メモを取った。
「ということは、寝る前のキスもなしなんですね……」
「キス?」
ご婦人方が、げっという顔になる。
「夫とキスなんて、気持ち悪くてできないわよ!」
「まったくね。触られただけでも鳥肌が立つわ」
「それどころか、話しかけられるのもごめんよ」
そ、そうなんだ……。なんだか寂しい話ばかりだなあ……。
……いやいや! 寂しくなんかないよ? わたしは平気! こういうのが旦那様がいなくても問題ないって証明する方法なら、実践あるのみだ。
ここにいるのは、皆わたしよりも年上の女性ばかり。ということは、大人の夫婦って、きっとこういう距離感が普通なんだろう。
発明家のランジャック夫妻みたいな例外もいるけど……。あの人たちはちょっと変わってるからなあ。
「貴重なお話を聞かせていただき、ありがとうございました」
わたしはお礼を言って、彼女たちのインタビューが新聞に載る嘘の日付を教えてから公園をあとにした。
実際に記事が書かれることはないけど、この件で出版社に苦情が来ても、わたしの胸はちっとも痛まないだろう。あの記者には、随分と不快な目に遭わされたんだ。このくらいのささやかなお返しは許されるよね?




