泣きっ面に遭難(2/3)
「帰るよ、今度こそ」
わたしはきっぱりとした口調で言って、ポシェットに手を突っ込もうとした。
その際、また悪い癖が出ていたことに気づく。ポシェットの掛け金が留まっていなかったのだ。不用心だし、この悪習、早く直さないといけないなあ。
やれやれとなりながら呑気にポシェットの中身を漁っていたけど、そんなにのんびりしている場合じゃないとすぐに思い知った。中に入れていた地図がなくなっている。
「きっと、鹿が走っている時にどこかに落としたんだよ」
ノアくんに事情を説明すると、彼は眉をひそめながら辺りを見渡した。
「探せば、その辺にあるんじゃないかな?」
そうであると願いたい。わたしたちは急いで周辺を探った。
結果だけ言えば、地図は見つかった。ただし、一部分だけだったけど。
木の枝に引っかかったり、トゲのある植物の茂みに突っ込んだりして、地図は細切れになっていたのである。そんな状態だから、当然中身を読むことはできなくなっていた。
「こ、こんなものがなくても大丈夫だよ!」
わたしは地図の残骸を見て、引きつった笑い声を上げた。
「ちゃんと戻れるよ。大丈夫、大丈夫……」
わたしは周囲にきょろきょろと視線をさ迷わせた。
……本当に戻れるよね?
鹿を追いかけたり、地図を探したりで、もうどこから来たのか完全に分からなくなっている。ノアくんが「キャンディス?」と不安そうな声を出した。
「僕たち……帰れるんだよね?」
「も、もちろん」
わたしは声が震えないように、必死で自制した。
「こういう時は、太陽を見ればいいんだよ。それで方角が分かるから」
「別荘がどの方角にあるか、知ってるの?」
「……」
わたしは黙り込んだ。ノアくんがその場に座る。
「待っていれば、誰かが助けにきてくれるよ。皆、僕たちが山に行ったことは知ってるんだから」
「う、うん……」
恥ずかしながら、ノアくんのほうがよっぽど冷静なようだ。わたしはうつむきながら、ノアくんの横に腰かける。
「ノアくん……寒くない?」
「平気」
そう言いつつも、ノアくんがわたしとぴったりと肩を寄せる。生乾きの服越しに相手の体温が伝わってきて、少し心が慰められた。
「なんだか疲れたね」
「僕も」
わたしたちは力無く笑い合う。そして、しばらく二人でうつらうつらした。
目が覚めると、太陽の位置が変わっている。あと何時間かしたら、夕方になりそうだ。
「夜が来たら……僕たちどうなっちゃうんだろうね」
先に目覚めていたらしいノアくんが、ポケットから懐中時計を出して時間を確認した。
「真っ暗でも、見つけてもらえるかな?」
「じゃあ、火をおこそうか」
少し眠ったら、気分も落ち着いてきた。わたしは近くから木の枝を持ってくる。
「これをこすり合わせると火がつくんだよ。難しい本で読んだことがあるんだ」
わたしは片方の木を地面に置くと、もう一方の先端をその上に乗せた。そして、木を手のひらに挟んでクルクルと回す。
「……それ、どれくらいかかるの?」
ノアくんは物珍しげにわたしのしていることを眺めている。わたしは「さあ……」と首を傾げた。
「多分、そんなに長くはかからないんじゃないかな?」
そう言ってみたものの、なかなか火はつかなかった。きっと、枝が悪いんだろう。わたしは近くに落ちていた別の棒を握る。
けれど、その木を使っても火がつく気配はない。仕方ない。今度はこっちの枝だ。
そうして五回ほど木の棒を変えたあと、不意に手のひらに鋭い痛みが走った。
「……っ!」
あまり強度がなかったのか、握っていたほうの枝が折れている。小さな木の破片がわたしの手のひらに刺さっていた。
「へ、平気、平気。慣れてないんだから、こういうアクシデントもあるよ」
わたしは破片を引っこ抜いて、ポイと地面に捨てた。手のひらには、うっすらと血がにじんでいる。大した怪我じゃないけど、フェルナンド様が見たら大慌てしそうだ。
フェルナンド様……。
夫のことを思い出したわたしは、急に心細くなってきた。今ここにフェルナンド様がいてくれたら、どんなに心強かったことだろう。きっと、今頃わたしたちは無事に別荘に戻れていたに違いない。
「ごめんね、ノアくん。わたし、頼りなくて……」
わたしは木を放り出して目元を拭った。周囲に散らばる上手く扱えなかった枝の数々に、ひどく情けない気持ちになる。
「地図はダメにしちゃうし、火はおこせないし、本当にダメダメだよね」
「泣かないでよ、キャンディス」
ノアくんがわたしを抱きしめて、頭を撫でてくれる。その手つきがあんまりにもフェルナンド様と似ていたものだから、わたしは耐えられなくなってしまった。
「フェルナンド様ぁ……。会いたいよぉ……!」
「……うん、僕も母上に会いたい」
ノアくんがわたしの背中をさすってくれる。よしよしとなだめられ、しばらくするとわたしの気持ちも静まってきた。
「火、おこしてみようか。今度はきっと上手くいくよ」
ノアくんが労るような口調で言った。なんだかこの短い間に、彼は急に頼もしくなった気がする。
ノアくんはポケットから懐中時計を取り出すと、石を打ちつけて表面を覆っているガラスを壊した。わたしは「何をする気?」と目を丸くする。
「まあ見てて」
ノアくんは頭上にあまり木の葉が茂っていないところに移動する。それから枯れ葉を集め、こんもりとした山にした。
その山の上に、ノアくんが先ほど懐中時計のガラス部分を壊して作った破片をかざす。ここまで来れば、わたしにも彼のしようとしていることが分かった。
しばらく待っていると、枯れ葉の山から煙が細く立ち上り始める。火がついたんだ! わたしは小躍りしたいような気分になった。
「すごい! すごいよ、ノアくん! この煙を見たら、わたしたちがここにいるってフェルナンド様に気づいてもらえるよ!」
「そのためには、もっと大きなたき火を作らないとね」
ノアくんは枯れ葉の山の別の箇所に、ガラスを掲げた。
けれど、事態は思ったように進展しなかった。どんなに頑張っても、わたしたちにできたのはせいぜい葉っぱを焦がすくらいで、巨大なたき火を作り上げられる気配なんて、微塵もなかったのである。
そうこうしているうちに日が暮れてきた。太陽が沈んでしまえば、この方法は使えなくなってしまう。わたしは大声を上げて、ガラスの破片に声援を送った。
「あなたが頼りなんだよ! 早く大きな火をおこさないといけないの!」
けれど、応援も虚しく、太陽は山の端に姿を消してしまう。わたしはがっくりとなった。
もうじき夜がやって来る。そうなれば、この辺りは真っ暗になってしまうだろう。闇の中にポツンと取り残される光景を想像して、わたしは鳥肌を立てた。
「どうしてこんなことに……」
もう長いこと何も食べていないからお腹は空いているし、さっきから火をつけようと気を張りつめさせていたので、ひどく疲れてもいた。それに加えて、近づいてくる夜の気配がわたしを怯えさせる。
わたしたち、もう一生帰れないんじゃないの?
ふとそんなことを考えてしまって、わたしは身震いした。ますます気分が落ち込んでくる。
空耳かもしれないけど、びゅうびゅうと吹き荒れる強い風の音に交じって、何かの生き物の鳴き声のようなものが聞こえた気がした。わたしはごくりと息を呑む。
「キャンディス、元気出して。僕の音楽を聞かせてあげるから」
ノアくんが励ますようにわたしの肩に手を置いた。近くの草むらから長い葉っぱを一枚もぎ取ってくる。
ノアくんはその葉っぱを唇に当てて、息を吹き込んだ。すると、素朴な音色が辺りに響く。草笛だ。
わたしが感心して目を見開いていると、ノアくんがこちらを見てウインクした。それを見たわたしは勇気づけられ、それと同時に申し訳なさも覚える。
怖いのは、きっとノアくんだって同じだ。でも、彼は色んな手を使ってわたしを力づけようとしてくれている。
甥にこんなに気を使わせているのは、大人として失格だ。本当なら、年上のわたしが彼を慰めてあげるくらいの心意気で臨まないといけないのに……。
その時だった。遠くのほうで、茂みがガサゴソと音を立てた。どうせ風の仕業だろうと思ったけど、どうもその音はこちらに近づいてきているような気がする。
ひょっとして、と思い、わたしの気分は一気に高揚した。
「助けが来たんだ!」
わたしは音のするほうに向かって、「おーい!」と大声を出そうとした。
けれど、その途端にノアくんに口を塞がれる。
何するの?
わたしが目で問いかけると、ノアくんが声を落としてその質問に答えた。
「あれが僕たちを助けにきた人じゃなくて、野生の生き物だったらどうする?」
「野生の生き物? あの時の鹿みたいな?」
ノアくんに手を退けてもらって、今度は自分の口で質問した。ノアくんは「そうだといいけど」と心なしか強ばった声で言う。
「でも、もっと凶暴な動物かもしれないよね? たとえば……クマとか」
クマ!?
わたしは息が止まりそうになった。
「こ、この山、そんなに危険なものが住んでるの?」
「それは分かんないけど……でも、絶対にいないとも言い切れないと思う」
わたしたちが会話をしている間にも、茂みをかき分ける音はどんどん近づいてくる。わたしはゾッとなった。
「あ、あれがクマなら、早く逃げないと! ……そうだ! 木に登ってやり過ごすのは?」
わたしはノアくんを近くの大木の幹に押しつけた。
「ほら! 早く行って!」
「でも、キャンディスが……」
「わたしのことはいいから!」
ついに、わたしたちの近くの茂みが大きな音を立てた。
見つかった!
そう思った瞬間に、わたしとノアくんは明るいロウソクの光に照らし出されていた。こちらにカンテラを掲げていたのはクマではなく、見知った顔の男性だ。わたしとノアくんは同時に声を上げた。
「フェルナンド様!」
「伯父上!」
わたしたちは茂みから顔を覗かせたフェルナンド様に駆け寄り、がっしりと抱きついた。




