泣きっ面に遭難(1/3)
その日以来、わたしはありとあらゆる面で慎重さを心がけた。
朝はフェルナンド様よりも早く起きて、夫の制服を準備する。
食事のメニューは何がいいかと聞かれたら、フェルナンド様の苦手なものが入っていない献立を挙げ、庭の小石で夫が転んで怪我をしないように、使用人に交じって箒を握り、掃除もした。
とにかく、何が原因でフェルナンド様に迷惑がかかってしまうか分からないんだ。どんな些細なことでも、やれるだけはやらないといけなかった。大人の女性に気遣いは必須だ。
けれど、フェルナンド様が不愉快な思いをしないように毎日のように神経をピリピリと尖らせていたために、何日かするとわたしは少し疲れてきた。
まだ寝るような時間でもないのに夕食の最中にうとうとして、うっかりとスープの入ったお皿に顔を突っ込んでしまいそうになる。
「大丈夫か、キャンディス」
そんなわたしを一緒に食事を取っていたフェルナンド様が心配そうに見ていた。……いけない。フェルナンド様に気を使わせてしまった? このままだと、大人失格になっちゃう!
わたしは頬をピシャリと張って、眠気を吹き飛ばした。
「問題ありません」
わたしはにっこりと笑ってみせる。「そうか……」と頷きつつも、フェルナンド様はまだどこか影のある表情をしている。
……どうしよう。わたしの言葉、あんまり信用されてないみたい。夫に心配をかけるなんて、大人のすることじゃないのに!
「今度、郊外の高原にでも行かないか?」
うろたえていると、フェルナンド様が意外なことを言い出した。
「私たちだけではなく、ノアも誘って。いい気分転換になるだろう」
「気を使ってくれなくても大丈夫ですよ」
「いや、私が行きたいんだ」
フェルナンド様が事もなげに言った。
フェルナンド様が行きたいのかあ……。それなら、夫につき従うのが妻の務めだよね?
「分かりました。お供します」
わたしは夫の提案を了承した。郊外の高原は、緑豊かで落ち着く場所だ。そんなところに行けると分かり、わたしの張りつめていた気持ちが少し和らぐ。
「ありがとう」
フェルナンド様が穏やかに笑った。……よかった。フェルナンド様の気も晴れたみたい。きっと、高原に行くのが楽しみなんだろう。夫を喜ばせることができるなんて、わたしってデキた妻だ。
それから一週間ほどたって、わたしたちは宣言どおり、高原に来ていた。
ここは保養地としても人気の場所で、別荘を建てている貴族も多かった。我が家も例外ではなく、わたしたち夫婦はノアくんや彼の母親とダンジュー家の別荘に一泊二日の日程で滞在することになっている。
ちなみに、ノアくんのお父様は今日も欠席だ。相変わらずお仕事が忙しいみたい。
野外で料理人に串焼きを作らせて、皆で頬張る。ほかにも滞在している人がいるのか、近くの別荘からも賑やかな音楽が聞こえてきて、気持ちが自然と浮き立った。
「キャンディス~! 山を探検しようよ~」
活発なノアくんは、着いてからずっと大はしゃぎしていた。近くにそびえる小さな山を、目をキラキラさせて指差している。
「ノア、あんまり遠くへ行ってはいけませんよ」
テンションが上がりすぎて息子が羽目を外さないように、彼の母親が釘を刺した。そんな義妹に対し、わたしはドンと胸を叩く。
「平気だよ。わたしも一緒だし。それに……ほら!」
わたしはポシェットの中から、一枚の紙を誇らしげに出して頭上に掲げてみせた。ノアくんが「何、それ」と聞いてくる。
「地図だよ。屋敷の図書室で、この辺りの地形をあらかじめ調べておいたんだ~」
これがあるなら安心でしょう?
そんなわけで、わたしはノアくんと手を繋いで山に向かうことになった。
山中は、ほどよく木漏れ日が差し込む気持ちのいい場所だった。整備された道路はないものの、わたしたちのほかにも散策をする人がいるのか、地面には踏みしめられて細い道のようになった箇所がある。
ここを通っていけば安全に探検ができそうだ。
と思った矢先、ノアくんがコースを外れる。
「わあ! あの木、すごく登りやすそう!」
ノアくんは自宅の庭に生えているものよりずっと高い大木を見て目を輝かせ、草むらを分け入っていく。わたしは「待って!」と慌ててあとを追いかけた。
「迷子になったらどうするの!」
「大丈夫……うわっ!」
よそ見をしていたノアくんがバランスを崩した。彼が転んだ先には、川が流れている。
ノアくんは一瞬沈んで姿が見えなくなり、その後、頭だけを出して「ぷはっ」と大きく息を吸った。
「ノアくん!」
わたしは血の気が引く思いで、ポシェットを放り出して慌てて川に飛び込んだ。目の前で甥が溺れているのに、ぼんやりしていられない!
「待ってて! 今助け……あっ! わたし、泳げないんだった!」
わたしは手足を必死にばたつかせる。どうにかして息をしようと、必死に上を向いた。
「た、助けて、フェルナンド様!」
「キャンディス……」
「ううっ……もうダメ……」
「ねえ、この川、足がつくよ」
すぐ傍でノアくんの冷静な声がして、わたしは我に返った。言われたとおりに立ち上がってみると、水はわたしの胸の下くらいまでしかない。
「……もう上がろうか」
わたしは恥ずかしさを誤魔化すようにそそくさと岸を目指した。ノアくんがあとから着いてくる。
「びしょ濡れになっちゃったねえ」
川からはい出たノアくんが、朗らかに笑った。わたしもノアくんも、頭の先までずぶ濡れになっている。濡れた服がずっしりと重かった。わたしが裾を絞ると、地面に大きな水たまりができる。
「もう戻ろう」
わたしはげんなりしながら言った。今が春でよかった。しかも、運のいいことに今日は夏みたいに暑い。これが冬なら、わたしたちは体の芯まで冷え切って風邪を引いていただろう。
「そうだね」
さすがに濡れた服で探検をしたいとは思わなかったのか、ノアくんも同意した。
「ええと……来たのはあっちからだったよね」
辺りはどこを見ても木が生えている似たような風景が広がっているけど、すぐそばに小道があったので問題なく戻れそうだ。
ノアくんは川に背を向けて歩いていこうとする。けれど、そんな彼をわたしは「ちょっと待って」と止めた。
「念のために地図を確認しよう?」
万が一にも迷ってしまったら大変だ。それにしても、わたしってなんて用意がいいんだろう。さすが、デキる大人の女性だ。
「キャンディス!」
にんまりしていると、ノアくんが警戒心たっぷりな声を出す。彼が指差すほうを見たわたしは、げっと顔をしかめた。
立派な角を持つ鹿が、地面に落ちているわたしのポシェットを鼻先で突いている。まさか、食べるつもり!? 鹿って植物以外も口にするんだっけ?
「頼むから離れて」
わたしはできるだけ優しい声を出しながら、鹿に向かってそろそろと近づいた。
「それは食べ物じゃないんだよ~。いい子だから返してね~」
わたしはポシェットのほうにゆっくりと手を伸ばした。もう少し……もう少しで取れる……。
「はくしょん!」
その時、後ろからノアくんの盛大なくしゃみの音がした。驚いた鹿がパッと顔を上げ、駆け出す。その角には、わたしのポシェットが引っかかっていた。
「ノアくん!」
「ご、ごめん。濡れた服が気持ち悪くて……。責任取って、ポシェットは僕が取り戻すよ!」
言うが早いか、ノアくんは鹿を追いかけて駆け出していた。何でこんなことに!? 仕方なく、わたしも走り出す。
でも、足の速い野生動物に追いつくなんて到底無理だった。瞬く間に引き離され、鹿は木立の向こうに姿を消してしまう。
「はあ……はあ……」
わたしもノアくんもすっかり息が上がって、地面に座り込んで肩を上下させた。うっ……脇腹が痛い……。
でも、一つだけいいこともあった。ノアくんが草むらに落ちていたわたしのポシェットを拾ってくれたのだ。きっと、走っている鹿の角から振り落とされたんだろう。




