幼妻、記者と腹の探り合いをする(3/3)
記者は凍りついたように動かなくなっている。フェルナンド様の目つきが険しくなり、刃が記者の首の皮ふを薄く裂いた。あふれ出た赤い血が一筋、記者の首を伝う。
首筋に感じた痛みに、記者はようやく自分が今取るべき行動を理解したらしい。這うようにして、わたしとフェルナンド様から距離を取った。
フェルナンド様が記者のほうを警戒しつつも、わたしの傍にかがみ込む。
「もう大丈夫だからな」
先ほどすごみのある声を出していたのと同じ声帯から発せられているとは思えないくらい、フェルナンド様の声色は優しかった。慰めるような手つきで、自分の頬を覆っていたわたしの手をそっと引き剥がす。
その途端に、フェルナンド様の顔色が変わった。
「……殴られたのか?」
フェルナンド様が唇を震わせる。素早く立ち上がり、記者の元へ大股で近づいていった。
殺気立つ夫が抜き身の剣を手に持ったままだと気づいたわたしは、慌てて背後からフェルナンド様を抱きしめて動きを封じる。
「これは、転んだ拍子にテーブルでぶつけたんです!」
わたしは頬の痛みも忘れて大声を出した。記者に必死の視線を向ける。
「命が惜しいなら逃げて!」
気色ばむフェルナンド様の姿を見て、記者はわたしの言葉が決して大げさなものではないと分かったらしい。まるで猟犬に追われるウサギのように、怯えた顔で応接室から去っていった。
記者が視界から消えても、フェルナンド様の怒りは収まらない。低い声でわたしに問いかけた。
「なぜ助けたんだ。あの男、体を切り刻むだけでは足りないだろう」
「ですから、暴力は振るわれてないんですよ」
「では、なぜ君は床にうずくまっていたんだ。彼に突き飛ばされたんじゃないのか? それに、奴はキャンディスを泣かせた。どう考えても許してはおけない」
「それも色々と誤解で……ううっ……」
わたしはフェルナンド様の背中に顔をうずめ、泣き声を上げた。
「そんなに怒らないでくださいよ、フェルナンド様ぁ。激怒している時のフェルナンド様、本当に怖いんですから……」
といっても、彼がここまで怒るところを見たのは、アルバンさんと最初に対面した時以来なんだけど。
「彼ではなく、私を怖がっていたのか?」
フェルナンド様はぎょっとしたような口調で言うと、すぐに剣を鞘に収めた。体の向きを変え、膝を折ると、わたしと視線の高さを合わせる。
「申し訳ないことをした。許してくれ、キャンディス。君を怯えさせたかったわけではないんだ」
「……はい、分かってます」
素直に頷くと、フェルナンド様がほっとしたような顔になる。そして、わたしの濡れた頬をハンカチで拭ってくれた。
わたしたちはしばらく無言で応接室のソファーに座っていた。少しして、わたしの気持ちが落ち着いてきた頃合いを見計らうと、フェルナンド様がおもむろに口を開く。
「先ほどの男は記者だったそうだな。少しだけ君たちの会話が聞こえてきた。彼は私が昇進を断ったことをなぜか知っていたようだが……」
「……副騎士団長にならないって、本当だったんですね」
「いや、それは……」
フェルナンド様が口ごもる。わたしは肩を落とした。
実を言えば、わたしは心のどこかで期待していたのだ。フェルナンド様の昇進辞退の話が、まったくのデタラメであるということを。
けれど、彼の反応を見る限り、そんなことはなさそうだった。フェルナンド様は副騎士団長になる気はないんだ。
「あの記者は、アルバンさんの嫌がらせが原因でフェルナンド様がそういう決断を下したのかもしれないと言っていました。……そうなんですか?」
「いや。そのこととは何の関係もない」
「でも昇進を断ったのは、わたしのせいなんでしょう?」
フェルナンド様の言葉を聞いても、少しも心は晴れなかった。わたしは爪の跡が残りそうなくらいに、自分の手を強く握りしめる。
「わたしのせいで、フェルナンド様は……」
「君は何も悪くない、キャンディス」
フェルナンド様は意外そうに目を見開いた。
「昇進を断った件については、のちのちきちんと話そう。ただ、その出来事は正確に言えば事実の一部でしかないんだ。それは覚えておいてくれ」
事実の一部でしかないって、どういう意味なんだろう?
気にはなったけど、なんだか聞くのは怖くて、結局わたしは口をつぐんでいることにした。ぐったりとした気分で自室へ戻る。机の椅子に深く腰かけ、うなだれた。
「……わたし、フェルナンド様の重荷になってたのかな」
フェルナンド様は昇進辞退はわたしのせいじゃないと言っていた。けれど、わたしは心の底からその言葉を信じることができないでいる。
きっと、わたしは気づかないうちにフェルナンド様に迷惑をかけて、それが彼の未来を閉ざすきっかけになってしまったんだろう。そんなふうに思えて仕方がなかったのだ。
さっきまでは、何を反省すればいいのか分からないと思っていたけど、よく考えてみれば、わたしの振る舞いは反省することだらけな気がしてきたのである。
フェルナンド様なら、そんな至らない妻を許してくれるだろう。けれど、その優しさに甘えて夫に負担をかけるのは間違いだと思う。
わたしはポシェットの中から手帳を取り出し、大人リストが書いてあるページを見た。
『大人になるためのリスト』※期限は三カ月!
NO.10 周りの人といい関係を築く
わたしはこれ以上フェルナンド様の足枷になっちゃいけない。そのためには、フェルナンド様に相応しい奥さんにならなきゃダメだ。
フェルナンド様に相応しい奥さんっていったら、やっぱり大人の女性だよね。大人の女性は、他人に迷惑なんてかけないはずだから。
今日からは、何があってもフェルナンド様の足手まといにならないようにしないと! 夫の邪魔にならないように、細心の注意を払うんだ。
大丈夫。まだ何もかもが悪い方向に進むと確定したわけじゃない。
わたしが心を入れ替えたと分かれば、フェルナンド様ももう一度昇進の話を考え直してくれるかもしれないもん。
昇進辞退は事実の一部でしかない、ってそういうことだよね? きっと、副騎士団長にならないのは決定事項じゃなくて、ただそういう選択肢も視野に入れているだけっていう意味のはずだ。
……というより、そうであってほしい。
わたしは再び大人リストを眺めた。
『NO.10 周りの人といい関係を築く』
この「周りの人」の中には、フェルナンド様も含まれているはずだ。フェルナンド様はわたしの一番大切な人。そんな人を困らせないのが大人の女性なんだから。
わたしは大きく深呼吸をして、気合いを入れる。わたしは大人になってみせる。何があっても。必ず。
壁際では、ランジャック博士がくれた時計がカチカチと音を立てている。その表示は、『爆発まで、あと21日』となっていた。




