壁に耳あり葉陰に猫あり(2/3)
わたしと親友はその場をひそかに離れ、ミケットの旦那様のスパイ活動に戻ろうとした。
けれど、そう上手くはいかなかった。白髪頭のおじいさんに同行していた彼の妻らしき老婦人が、わたしたちを目ざとく発見して、声をかけてきたのだ。
そのタイミングで、ミケットの旦那様が知り合いでも見つけたのか、遠くにいる人のところへ手を振りながら移動していく。どうしよう! この広い会場であんまり離れると、見失っちゃうよ!
わたしはどうにか失礼のないように老婦人のもとから離れようとしたけれど、適当なところで話を切り上げようとしても、彼女はこちらの都合などお構いなしに、好き勝手なことを喋っている。
しかも、その話の退屈なことといったらなかった。わたしは途中で気が遠くなり、スパイのことも忘れて立ったまま寝てしまいそうになる。
けれど、船をこぎ始めたところで足の甲に激痛が走り、いっぺんに目が覚めた。「ぎゃっ!」と言って飛び上がる。
「まあ! いきなりどうしたの?」
ミケットがわざとらしく扇を口元に当てる。でも、彼女の靴が足の上から素早く移動するのを、わたしは視界の端でちゃんと捉えていた。あのすさまじい痛みは、ミケットに足を踏んづけられたせいだったらしい。
「足が痛いのね。急病かしら? 医務室はあっちよ。さあ、行きなさい」
ミケットは一息に言うと、わたしの背中を強く押して、老婦人から遠ざけた。
ミケットがわたしに目配せする。……なるほど。「ここはあたしに任せてあんたは任務を遂行しなさい」ってことか!
ありがとう。ミケットの犠牲、無駄にしないよ! でも、次からはもっと優しく踏んでね。まだ足がズキズキしてるから。
わたしはお喋りを続ける老婦人と、辛抱強く聞き手に回る親友の傍から離れ、もうほとんど見失いかけていたミケットの旦那様に近づいていった。
今度は厄介そうな人に声をかけられないように慎重に振る舞いながら、物陰から親友の夫をこっそり監視する。
でも、彼はこれといって目立ったことはしなかった。
何人かの女性と話しはしたけど、それだけで浮気だと決めつけるのは「時期少々」だろう。妄想力の強いミケットなら、「あれが新しい愛人ね!」と騒いだかもしれないけど。
何の成果も上げられないまま、しばらく時が過ぎる。ミケットも全然合流する気配がないし、このスパイ作戦、ひょっとして上手くいかないんじゃないかな……?
わたしがそんなふうに心配し始めた時だ。ミケットの旦那様が、一人でホールから出ていくのが見えた。そうして、どんどん人の少ないほうに向かっていく。
誰も同行させずに、人目につかない場所へ行く。これってひょっとして……密会?
やっと浮気の証拠をつかめそうなことに、ミケットには申し訳ないけどわたしの心が湧き立つ。
ミケットの旦那様は、庭の一角にある東屋の中に入っていった。そこには先客がいる。あの人が浮気相手なのかな? わたしは身を屈めて近くの草むらの影に忍び込み、こっそりと様子をうかがった。
その途端、大声を上げそうになり慌てて手のひらで口を塞ぐ。東屋にいたのは、わたしの夫だったのだ。
どうしてフェルナンド様がここに!? ま、まさかミケットの旦那様の浮気相手って、フェルナンド様だったの!?
パニックに襲われそうになったけど、よくよく二人を観察しているうちにわたしは考えを変えた。
彼らの間には、特に恋人らしい甘ったるい雰囲気は漂っていない。二人とも、あくまでも妻の親友の夫を相手にするのに相応しい、ほどよい距離感で接している。
それに、ここで彼らが鉢合わせたのはただの偶然だったようだ。ミケットの旦那様が「奇遇ですねえ」とフェルナンド様に言うのが聞こえてきた。
「キャンディスさんとご一緒ではなかったのですね」
「少し目を離した隙に離れ離れになってしまいました。きっと、あなたの奥方と一緒にいるのでしょう。……夫よりも親友といることを選んだのかと思うと、少々複雑ですが」
「相変わらず仲がよろしいのですね」
ミケットの旦那様が微笑ましそうに言った。フェルナンド様が破顔する。
「私の妻は天使です」
フェルナンド様が恋の詩を読み上げるような口調で言う。
「あれほどかわいらしくて愛にあふれた生き物が、ただの人間とは思えません。寝ぼけ眼をこすっている時も、特大のケーキを頬張っている時も、キスをねだって目を閉じている時も、愛らしくない瞬間が一秒たりともないのです。日々、愛おしさが募っていくばかりですよ」
わあ……。
わたしは頬が熱くなるのを感じていた。
フェルナンド様は、どちらかといえば言葉より行動で愛情を示す人だ。キスもハグもたくさんしてくれるし、膝の上にだって乗せてくれる。
それはもちろん嬉しいんだけど、その代わりに甘いセリフはあんまり言ってくれない。だから、こうして彼の考えていることを聞くのは、とても新鮮な体験だった。
ときめきの波が押し寄せてきて、胸が激しく脈打ち始める。わたし、フェルナンド様にそんなふうに思われてたんだ。思わず、体を二つに折り曲げて悶絶してしまう。
なんだかフェルナンド様の心の中を覗き見してしまったような気分だった。ちょっぴりやましくて、でも不思議な快感がある。旦那様をスパイするのって最高かも!
……いや、違った。わたしが今監視しないといけないのは、フェルナンド様じゃなくてミケットの旦那様のほうだった。いつまでもデレデレしてないで、本来の目的を果たさないと!




