壁に耳あり葉陰に猫あり(1/3)
投石事件からしばらくの間、わたしはビクビクして過ごしていた。屋敷にいても、石がどこからともなく飛んでくるんじゃないかと思い、窓に近寄る度に心臓が騒がしい音を立てるようになったほどだ。
けれど一週間もたつ頃には、なんとか立ち直っていた。その間、何も物騒な出来事が起きなかったからかもしれない。
フェルナンド様はあの時のことを聞いてもとぼけるだけで、犯人を捕まえることはできたのかを含めてろくな情報を与えてくれなかったけど、それ以外はいつもの優しい旦那様として接してくれたから、いつしか事件のことはわたしの記憶から消えていった。
フェルナンド様の顔の傷が大したことがなくて、すぐに目立たない程度にまで回復したことも大きかったかもしれない。
その日、わたしは親友二人とお茶会をしていた。あの事件以来、外出も滅多にしなくなっていたから、サロメとミケットに会うのは久しぶりだ。
そんなお茶の席で、ミケットがある相談事を真剣な顔でわたしに持ちかけてきた。
「今度、武官と文官の交流会があるでしょう? あたし、そこでうちのバカ夫をスパイしようと思うの。キャンディスも協力してちょうだい」
「……え?」
突飛な提案に、わたしはオレンジジュースでむせそうになる。軽く咳き込みながら、「スパイって何を探るの?」と尋ねた。
「ミケットがやりたいことなんて一つしかないでしょう。旦那様の浮気調査よ」
訳知り顔でサロメが言った。ミケットは、「そのとおりよ」と頷く。紅茶に入れたミルクをかき混ぜる親友の手は、怒りのあまり震えていた。
「あたしのバカ夫は、すぐによその女に目移りするんだから。この文武交流会でも、きっと新しい浮気相手を見つけてくるに違いないわ。あたしはその詳細を調べて、バカ夫をこてんぱんにしてやりたいのよ。そのために、人手が必要なの」
「でも、何でわたしが?」
「今回の交流会は、家族の同伴も許可されているからよ。あんたもフェルナンドさんと一緒に行くんでしょう? だったらちょうどいいかと思って。それに、協力者は信用できる人じゃないと」
ミケット、わたしのことを信頼してくれているんだ。なんだか胸が熱くなって、わたしは深く考えずに「分かった。やるよ」と親友のお願いに首を縦に振った。
「大丈夫なの? スパイなんて」
サロメが眉をひそめた。ミケットが片眉を上げる。
「騎士団本部で開催された団内親睦会へこっそり忍び込んだ人がよく言うわ。最後まで見つからなくてよかったわね」
「そういえば、サロメはこの文武交流会に興味はないの?」
いつもなら、「いい男が見つかるかもしれないわ。このチャンスを逃す手はないわよ!」と言って、目を輝かせそうなのに。
わたしの質問に、サロメは自慢げに笑った。
「あたくし、この間の親睦会で知り合ったある男性と、親しくおつき合いをしているの。今は大事な時期なのよ。下手なことはできないわ」
わあ……! フラれてばっかりのサロメにも、ついに運命の人が現れたんだ! わたしはジュースの入ったコップを持ち上げて、「おめでとう!」と乾杯のマネをした。
「よかったわね。……あたしたちも、スパイ作戦の成功を祈って乾杯」
ミケットが、紅茶のカップを高く持ち上げてわたしのコップにカチンと当てた。
帰宅したわたしは、手帳に書かれた大人リストを眺める。
『大人になるためのリスト』※期限は三カ月!
NO.8 秘密を持つ
NO.10 周りの人といい関係を築く
スパイって、相手に知られないようにこっそりと活動することだよね? だったら、このリストの『NO.8 秘密を持つ』にも関係してくるかな?
正直に言って、この『NO.8 秘密を持つ』を考えついたわたしは天才だと思う。だって、秘密があるのって大人っぽいでしょう?
秘密という言葉で、わたしが真っ先に思い出したのはフェルナンド様のことだった。ランジャック博士のパーティーでは、フェルナンド様の隠し事が発覚した。そのお陰で、わたしはよりフェルナンド様が好きになったんだ。
つまり、秘密を持てば好感度が上がるってことじゃない? わたし、今よりももっとフェルナンド様に好かれちゃうの? 最高すぎる。
「……そうだ。どうせなら文武交流会の間、ミケットの旦那様だけじゃなくて、フェルナンド様のこともスパイしちゃおうかな?」
夫を影から見守る。すごく秘密めいた行為だ。ちょっとドキドキしちゃう!
なんだか文武交流会の日が待ちきれなくなってきた。わたしは私室の壁にかけた時計を見る。
『爆発まで、あと23日』
リストの完成期限までは、すでに一カ月を切っている。このスパイ作戦、絶対に成功させて、大人リストの『NO.8 秘密を持つ』にチェックを入れてみせないと!
****
親睦会は、騎士団本部で開催された。
メインの会場は、騎士団員の半分くらいを収容できそうなほど巨大な多目的ホールだ。周辺の庭にも自由に出入りしていいとのことらしい。
会場が広いだけではなく参加者も多いし、油断していたらすぐに迷子になってしまいそうだ。
「キャンディス、大丈夫か?」
受付の時点で早くも人混みにもみくちゃにされかけているわたしの肩を、フェルナンド様が颯爽と抱く。危ないところだった。これではぐれる心配はない。わたしはフェルナンド様の鍛え上げられた体にぴったりと寄り添った。
この集まりに参加する武官の大半と同じく、今日のフェルナンド様は軍装をしている。でも、仕事中に身につけている略式の制服じゃなくて、外部の人も出席する宴だからか、今回は普段よりも豪華な軍服を着ていた。
黒を基調としているのは相変わらずだけど、襟や裾には金糸で刺繍が施されていて、ボタンも宝石みたいにキラキラと輝いている。シワ一つない白いマントが、フェルナンド様が動く度に背中で優雅に揺れていた。
胸が痺れるほどに凜々しい旦那様に負けないように、今日のわたしも気合いを入れておめかししていた。見て! この深緑色のドレス。フェルナンド様の目の色と同じなんだよ? 素敵でしょう?
ドレスの背中や肩は白いレース生地で覆われている。最初はホルターネックだったんだけど、届いた服を試着したわたしを見て、フェルナンド様が「これはいけないな」と言ったので、急遽布地を継ぎ足したのだ。
フェルナンド様は、わたしにあんまり露出の多い服装で歩き回ってほしくないみたい。風邪を引いちゃうかも、って心配してるのかな?
レースを白色にしたので、ブレスレットや腰帯なんかのアクセサリーも全部それと同じ色で統一してみた。下ろし髪を飾っているのも白いカチューシャだ。
わたしとしては、もっとフリルがついた服がよかったんだけど……たまには違うデザインを着るのも悪くはないかな。
文武交流会は、以前に騎士団で行われた団内親睦会と同じく、立食形式だった。わたしたちが入場するとすぐに、ミケットがこちらに近づいてくる。
「ご機嫌よう、フェルナンドさんにキャンディス」
ミケットは澄まし顔で挨拶をした。
普段は地味な服を好むミケットだけど、大規模なパーティーだからか、今日はほんの少しだけオシャレをしている。紺色のドレスの腰元には、初咲きのマリーゴールドを添えたリボンがついていた。
ミケットは、わたしに意味ありげな視線を向ける。
ミケットの旦那様は、妻の後ろを散歩中の犬みたいに大人しくついてきていた。今は、フェルナンド様と挨拶を交わしているところだ。彼の胸ポケットにも、マリーゴールドの花が挿してあった。
夫婦で同じ花を飾っているけど、これは仲良しアピールじゃなくて、「あなたのやっていることをいつも監視しているわよ」というミケットからの警告だろう。
「もう少ししたら、バカ夫をわざと一人にするわ」
ミケットが手にした扇を広げ、それで唇の動きを隠しながらスパイ作戦の内容を説明する。
「そうしたら、夫は浮気相手を物色しにいくはずよ。あたしとキャンディスは気づかれないように、その後ろからそっとついていくの」
「フェルナンド様はどうするの?」
「置いていきなさいよ。かさばるじゃない」
確かに、フェルナンド様は背が高くて逞しくて格好いいから、目立っちゃうか。スパイ活動に同行させるには不向きかも。わたしは「分かったよ」と了承した。
わたしたちは、しばらく四人で談笑していた。やがて、ミケットがわたしのドレスのスカート部分を引っ張る。合図だ!
わたしとミケットは、それとなく夫二人から離れた。このままどこかの物陰にでも隠れてしまえば、上手くまけそうだ。
けれど、フェルナンド様はわたしが傍にいなくなったことにすぐに気づいてしまった。
「キャンディス、おいで」
フェルナンド様がわたしの手を優しく握った。
「あまり離れると迷ってしまうぞ。私の目の届くところにいなさい」
「でも……」
フェルナンド様と一緒にいられるのは嬉しいけど、今回は彼が傍にいると何かと不都合があるのだ。わたしは困り果てて、ミケットをチラチラと見る。
「あたしがいるから、心配いりませんわ」
ミケットは扇を広げ、にこやかに言った。
「それでも不安だとおっしゃるのなら……ふふふ。フェルナンドさんって、随分と独占欲が強いのですね」
「そのとおりだ」
フェルナンド様も笑いながら返す。
一見すると穏やか会話だけど、わたしには二人が静かに火花を散らし合っている様子が見えた気がした。ミケットの旦那様が、あわあわしながら取りなすような口調で二人をなだめる。
「ミケット、キャンディスさんのことは、ダンジュー将軍に任せてはどうだい? 君は私と一緒に……」
「あなたは少し黙っていてちょうだい」
ミケットに一喝され、彼女の夫はすっと下がった。そして、近くにいた文官の集団の話に加わる。
おお! ミケットの旦那様が一人になった! これはスパイ活動を再開するチャンス!
……そのはずなんだけど、ミケットはフェルナンド様とバチバチやっていて、それどころじゃなさそうだ。これ、どうしたらいいの?
そんなわたしたちに、救いの手が差し伸べられた。団内親睦会でも見かけた騎士の制服を着た白髪頭のおじいさんが、フェルナンド様に話しかけてきたのだ。
どうやら彼は騎士団内での地位が高いらしく、フェルナンド様も無視するわけにはいかないのか、完全に彼との会話に気を取られてしまう。ミケットが「不戦勝ってやつね」と勝ち誇った顔になった。




