トロフィーは災いの元(2/3)
「負けるな、やっちまえ!」
「うおおぉ! 行けぇっ!」
隣にいる男性の集団から、野太い歓声が上がる。選手たちの槍と槍がぶつかった時、彼らの興奮は最高潮に達した。
「そこだ! やれぇ!」
すぐ横にいた男性が、獣じみた声を上げた。振り回された腕がわたしの背中に当たる。
痛い!
と思った時には、柵を起点にして体が一回転していた。一瞬だけ上下が逆転したあとで、今度は背中だけではなく、全身に衝撃が走る。
固い地面に容赦なく叩きつけられて、うっかりと舌を噛みそうになった。ううっ……。困ったお客さんもいるんだなあ。
目を回しながら、わたしは席に戻ろうとした。けれど、何歩か歩いたところで異変に気づく。闘技場の床は石造りのはずなのに、どうして今立っている地面には、土が敷き詰められているんだろう?
不意に、客席から悲鳴が上がった。わたしはようやく自分の身に何が起きたのか理解する。ここは観客席じゃない、試合が行われている真っ最中のグラウンドの上だ!
わたしは慌てて席に駆け寄った。観客の悲鳴が高くなる。
何事かと思って振り向くと、フェルナンド様の対戦相手の騎士の馬が暴走して、こちらに向かって疾走してくるところだった。
乗り手は必死に馬を制御しようとしているらしかったけど、このままじゃ間に合わない! 逃げようとしたわたしは、地面のくぼみに足を取られて転んでしまった。馬はもうすぐそこまで迫っている。
跳ね飛ばされる……!
わたしは最悪の事態を覚悟して、ギュッと目を瞑った。その瞬間、誰かに強く腕を引かれ、引きずられるようにしてその場から避難させられる。
「フェルナンド様!」
目を開けたわたしは夫の腕の中にいることに気づいて、安心感がどっと湧いてきた。わたしを助けてくれたのは馬を下りたフェルナンド様だったのだ。
フェルナンド様の対戦相手の馬は、先ほどまでわたしがへたり込んでいた場所を、地面を抉りながら走り抜けていった。
しばらくすると、やっと乗り手の言うことを聞く気になったのか、ブルブルと首を振って立ち止まる。まだ大分興奮しているようではあるけれど、もう勝手に走り出すことはなさそうだ。
「キャンディス……無事か?」
よっぽど急いで駆けつけてきてくれたらしく、フェルナンド様が息を乱しながら言う。
のんびりとした性格なのか、フェルナンド様の馬は乗り手がいなくなっても騒いだりせずに、観客席に首を伸ばして体を撫でてほしそうに鼻面をヒクヒクさせていた。
わたしはフェルナンド様の質問に、「はい」と頷く。
その時、甲高いラッパの音が闘技場に響いた。試合終了の合図だ。
高く掲げられたのはフェルナンド様の対戦相手の紋章が描かれた旗だった。
……それって、向こうの勝ちってこと?
「ちょっと待ってください!」
会場中から歓声が上がる中、わたしはフェルナンド様の制止も聞かず、審判に抗議しにいった。
「どうしてフェルナンド様が負けるんですか!? こんなの納得できません!」
「ダンジュー将軍は馬を下りましたので」
審判はわたしの剣幕にたじろぎながら言った。
「馬上槍試合のルールでは、途中で落馬した者は失格となるのです」
そ……そんなぁ……!
規則違反と言われれば、これ以上ごねることはできなかった。わたしはすごすごと引き下がるしかない。
「ごめんなさい、フェルナンド様。わたしを助けようとしたばっかりに……」
審判のところから戻ってきたわたしは、ふがいない気持ちでいっぱいになりながらフェルナンド様に謝った。
「フェルナンド様なら絶対に優勝できたはずなのに、一回戦で敗退するなんて……。それもこれも、皆わたしのせいです」
「別に気にしていない。そんな顔をしないでくれ」
フェルナンド様はわたしを抱きしめようとしたけれど、鎧が邪魔で上手くいかなかった。やれやれと肩を竦める。
「着替えたほうがよさそうだな。向こうに控え室があるから、少しだけ待っていてくれるか?」
わたしは大人しくフェルナンド様に教えられた部屋で待機する。次の試合が始まったのか、外から観客たちの熱っぽいざわめきが聞こえてきた。
フェルナンド様は「控え室」と言っていたけど、室内はどちらかといえば記録保管室という雰囲気だった。
部屋の奥の机には、馬上槍試合の歴史が書かれた本が並べられており、壁には歴代の優勝者の肖像画がかかっている。
わたしのほかに人がいないせいか、絵の中の優勝者たちがこちらを高いところからじろりと見下ろしているようで、落ち着かない気持ちにさせられた。
飾り棚に置いてあるのは、優勝トロフィーのレプリカだ。片手で持てるくらいの大きさで、色は金。台座に載った杯の形をしていて、両側には取っ手がついている。磨きたてなのか、どれもまったくホコリを被っていなかった。
わたしはトロフィーを一つ手に取る。あーあ……。わたしが試合を邪魔しなかったら、フェルナンド様もこういうのをもらえていたかもしれないのに……。ため息でピカピカのトロフィーの表面が曇る。
わたしはしおしおとした気分で、トロフィーを棚に戻そうとした。パキッと音がしたのはその時のことだ。
思わずその場に凍りつく。
トロフィー本体は、わたしの右手の中にある。
でも、上のほうについていた取っ手が片方なくなっている。そして、わたしの左手に握られているのは、金属製の輪っか。
……何が言いたいかって? 要するに、こういうことだ。
トロフィーの取っ手が取れちゃった!
「ど、どうしよう、どうしよう……!」
多分、このトロフィーはとても貴重なものに違いない。動揺のあまり、右手に持ったトロフィーもうっかり床に落として粉々にしてしまいそうになる。
落ち着きなさい、キャンディス。大丈夫、大丈夫……。
わたしは震える手でトロフィーを元あった場所に戻した。ほら、こうしておけば、取っ手が取れたことなんて誰も気づかない……。
……いや、気づくよ、これは。ほかのトロフィーは全部取っ手が二つついているのに、一個だけ片っ方しかないんだもん! はっきり言って目立ちまくりだ。
肖像画の中の優勝者たちが、こちらに非難の眼差しを向けている気がする。外から聞こえてくる歓声が、やたらと耳に痛かった。わたしは汗びっしょりの手のひらをドレスで何度も拭う。
こういう時は……接着剤だ! それか、糊とかでもいい。とにかく、取っ手を元通りにくっつけることができるものを探さないと!
その時、観客席からの大声に半分掻き消されるようにして、こちらに向かってくる足音がした。フェルナンド様が戻ってきたんだ! わたしは血の気が引く思いがした。
わたしのせいで試合に負けてしまったのに、大事なトロフィーまで壊れちゃったと分かったら、フェルナンド様はどう思うだろう? きっと、失敗ばかりする妻に呆れ返ってしまうに違いない。
これ以上フェルナンド様をがっかりさせたくはなかった。わたしは近くにあった箱の中に大慌てでトロフィーと取れてしまった取っ手を放り込み、棚の空いているスペースに載せる。
けれど、奥まで押し込んで箱を隠す前に、入り口に人影が現れた。わたしは飛び跳ねるようにして棚から遠ざかる。




