幼妻は夜遊びには向かない(2/3)
ミケットが足を止めたのは、あるお屋敷の前だった。彼女が門番に小声で何かを話しかけると、すぐさま門が開いて中に通してくれる。
「知り合いのお宅?」
「いいえ。でも、その筋じゃちょっと有名なのよ。ここで開かれてるサロンのことは、ゴシップ紙にもしょっちゅう出てるわ」
「え……それ、大丈夫なの?」
なんだか不安になってきた。
ミケットがホラー小説と同じくらい好きなのはゴシップ紙だけど、そこに載っていることときたら、恐怖小説の怪事件とは別方向でおぞましいことばかりだ。
特に、どこそこの貴族が浮気してるなんて記事は、あまりに過激な単語が並んでいて、流し読みするだけで頭がクラクラしてくるほどだった。
前にミケットからもらったスクラップブックに貼ってあったランジャック夫人のねつ造記事も、かなり際どい内容だったことを思い出し、わたしは自然と警戒心を強める。
「ミケット……このサロンで、恋人でも見つけるつもり?」
「違うに決まってるでしょう。あたし、あのバカ夫と同じところに堕ちるつもりはないわよ。このサロン自体は健全なの。言ってみれば、『大人の男女が楽しくお喋りをする集まり』よ」
健全なら、ゴシップ紙には登場しないんじゃないかなあ……。
そんなことを考えているうちに、室内へ引っ張り込まれてしまった。通されたのは、かなり巨大な大広間だ。
照明は最小限で、辺りは薄暗い。あちこちに設置された小さなテーブルを挟み、ソファーに腰かけた二人組の男女が親密そうに話していた。
壁にかかっているのがどことなくいかがわしい絵ばかりだと気づき、わたしは慌てて目をそらす。ここはあまり道徳的とはいえない場所だという実感がひしひしと湧いてきた。
「キャンディスはおじさまが好きなのよね? ぴったりの男性を見つけてもらうように頼んであげるわ」
ミケットが入り口の近くに控えていた使用人らしき男性に何やら注文をつけ始める。いや、特別に年上の男性が好きなわけじゃなくて、わたしはフェルナンド様だから好きなんだけど……。
けれど、反論する前にミケットの姿は消えていた。ええっ、どこ行っちゃったの……? 一人になったわたしは、辺りに漂う少々不健全な雰囲気に気圧されてオロオロしてしまう。
もう帰っちゃおうかな……。
「お待たせいたしました。こちらへどうぞ」
でも、去ろうとした途端に使用人に声をかけられた。お喋りの相手が待ってるなら、その人に何も言わずに帰ってしまうのはさすがに申し訳ない。
わたしは校長室に呼び出されたイタズラ者の生徒にでもなった気分で、とぼとぼと使用人のあとをついていった。
「わあ、かわいい子だねえ」
案内されたテーブルにいたのは、生え際の後退した男性だった。背は低く、突き出たお腹が妊婦のようだ。薄暗い室内でも分かるくらい、顔が脂でテカテカと光っている。
「僕はアルバン。お嬢ちゃんは年上が好きなんだって? 嬉しいなあ。四十三にもなると、なかなか若い子には相手してもらえなくてねえ」
う、嘘でしょう!? この人、フェルナンド様より年下なの!? 世の中には色々なおじさまがいるんだなあ……。
「キャンディスです……」
わたしは顔を引きつらせながら小声で自己紹介した。アルバンさんはニタニタと笑いながら、わたしの全身を値踏みするように眺め回している。
ぞわっと肌が粟立つのを感じて、わたしは思わずソファーの上のお尻を動かして少しだけ後退した。
すると、わたしが退いた分だけアルバンさんが距離を詰めてくる。体がもう少しで触れ合いそうになり、ヒッと息を呑んだ。
「小さいのにこんなところに来るなんて、キャンディスちゃんはおませなんだねえ。おじさんが悪いこと、いっぱい教えてあげるからね」
アルバンさんが品のない笑い声を漏らす。悪いことって何? 誰かのカバンの中にイタズラでカエルを入れちゃうとか? とりあえず、「はあ……」と意味のない返答をしてお茶を濁しておくことにした。
「キャンディスちゃん、歳はいくつ? おませさんだから、もうキスくらいはしたことあるよねえ? おじさんにもしてくれないかなあ?」
アルバンさんが口をすぼめて、こちらに突き出してくる。いつもならユーモラスなその表情に笑っていたのかもしれないけど、今はとてもそんな気になれない。わたしは「ええと……」と困り果ててうろたえた。
すると、アルバンさんがニタリと笑う。
「あはは、本気にしちゃった? 冗談だよ。キャンディスちゃんはおませかと思ったら、意外とウブだねえ」
アルバンさんの目は、子ジカを狙う肉食動物そっくりだった。わたしはどうしていいのか分からずに、アルバンさんから視線をそらしてうつむく。
その拍子に、ソファーの後ろに回されたアルバンさんの手が、わたしの肩に伸びてきているのを発見してしまった。アルバンさんにぎゅっと肩を抱かれている光景を想像し、わたしの背筋が凍りつく。
「あ、あの! わたし、急用を思い出したので、失礼します!」
勢いよく立ち上がると、わたしは素早く断りを入れて、急ぎ足でテーブルから離れた。アルバンさんと距離を取った途端に、全身が安堵感に包まれて肩から力が抜ける。
けれど、ほっとしていられたのも短い時間だけだった。アルバンさんが「待って!」と言いながら、追いかけてきたのだ。
「どうしたの、キャンディスちゃん。夜は長いよ? 楽しまないと損すると思うけどなあ」
勘弁してよぉ! わたしは必死になって広い会場を出口を目指して横切っていく。
何度も人にぶつかったり、給仕係が持っていた飲み物をうっかりと床にぶちまけてしまったりするうちに、ようやく扉が見えてきた。
でも、安心した瞬間に足がもつれ、盛大に転んでしまう。ポシェットの中身が辺りに散らばり、大慌てでかき集めるはめになった。
わたしは、ポシェットの掛け金を止めるのを忘れがちになってしまうという自分の悪い癖を、心の底から呪いたい気持ちになる。
「僕の小鳥ちゃ~ん? どこに行ったのかなあ~?」
後ろからアルバンさんの粘っこい声が迫ってくる。何、「小鳥ちゃん」って!? あの人、頭おかしいよ!
わたしは拾ったものを焦りながらポシェットの中に突っ込んでいく。すると、入り口の番をしていた使用人が傍にかがみ込み、ウサギの手帳を差し出しくれた。
「あとのことはお任せを。さあ、お行きください」
使用人が力強く頷いてくれた。わたしは手帳を受け取ると、「ありがとうございます」と礼を言って、扉の外へと全力疾走する。
背後で、先ほどの使用人が「嫌がるレディーに無理やり迫るのは感心しない行為ですよ、旦那様」と言っているのが聞こえてきた。
そのあとのことは、必死すぎてよく覚えていない。気がついたらわたしは屋敷に戻っていた。自宅へ帰ってきたことでやっと緊張が解け、寝室の床にヘナヘナと座り込む。
アルバンさんのネチネチした視線や声は、まだわたしの脳裏に鮮明に残っていた。あの鳥肌が立つような一時を思い出し、二の腕を強くこする。
フェルナンド様がいれば慰めてもらえるのに、彼はまだ帰宅していなかった。わたしはのろのろと服を着替え、寝間着になる。こんな精神状態で、ちゃんと寝られるかなあ……。
不安に思いながらベッドに入ったわたしは、傍らにかけてあるフェルナンド様の夜用のガウンに目を留めた。
何気ない気持ちで、それをネグリジェの上から羽織ってみる。思ったとおりブカブカだ。けれど、その大きさにわたしは無上の安心感を覚えた。まるでフェルナンド様に包み込まれているみたいだ。
「フェルナンド様……」
わたしは袖口からちょこんと指先だけを出し、自分自身をきゅっと抱きしめる。膝を折り曲げ、体を丸めるようにしてベッドに寝転がった。
そうしているうちに、少しずつ心が癒やされていく。眠る時、フェルナンド様に後ろから抱きしめてもらうところを想像して、わたしは口元を少し綻ばせた。




