完璧な旦那様の隠し事(1/6)
「では、行ってくる。なるべく早く帰ってくるからな」
「わたしのことなら気にしなくていいですよ。楽しんできてくださいね」
ノアくんの家から帰ってきてから数日後。わたしは玄関ホールでフェルナンド様のお見送りをしていた。
といっても、今日のフェルナンド様はお仕事へ行くわけじゃない。ランジャック博士のパーティーにお呼ばれしたのだ。
フェルナンド様がどうしても行くなと言うから、結局わたしは大人しく家で留守番をすることになった。
というか、その件を持ち出す度にフェルナンド様は不自然に話題を変えるから、ちっとも話し合いにならないのである。
そのため、どうして彼がわたしに同行を許してくれなかったのかは分からずじまいだった。でも、大した理由なんてないんだろうと思うことにする。
さて、今日はお茶会の予定も入ってないし、大人リストでも片づけちゃおうっと。
フェルナンド様が屋敷を出たあと、自室に戻ったわたしはリストが書いてある手帳をポシェットから出そうとした。
その拍子に、何かが床に落ちる。見覚えのない黒い手帳だ。これ、何だろう?
「……ああ、ミケットからもらったんだっけ」
ノアくんの家に遊びに行く前、急に訪問してきたミケットにこの手帳を押しつけられたことを思い出した。
確か、フェルナンド様のいるところでは見ちゃいけないとかで、すぐには中身を確認しなかったんだ。今の今まで、すっかり忘れていた。
フェルナンド様はさっき出ていったし、今のわたしは部屋に一人きりだ。何が書いてあるのか確かめるなら、いいタイミングかもしれない。
わたしは気軽な気持ちで手帳を開いた。それから中身を確認し終えるまでには、三十分もかからなかったと思う。最後まで読み終えたわたしは、震える手で手帳を閉じた。
この手帳の正体はスクラップブックだった。中に貼られていたのは、ミケットが愛読しているゴシップ紙『淑女の夢』の切り抜きだ。
なんだかロマンチックなタイトルだけど、記事の内容はそんな名前のイメージとは真逆である。えげつない文体で、ランジャック博士の奥さんの身持ちの悪さをこき下ろしていた。
わたしは急にフェルナンド様のことが心配になってくる。
だって、フェルナンド様はあんなに格好いいんだもん! 浮気性のランジャック夫人が放っておくとは思えない。もしフェルナンド様が夫人に襲われちゃったらどうしよう!?
悪い想像が頭の中を駆け巡り、わたしは居ても立ってもいられなくなって屋敷を飛び出した。馬車を飛ばして、ランジャック博士の家に急ぐ。
わたしはフェルナンド様の奥さんだ。だから、旦那様のことはわたしが守ってあげないと!
ほどなくして、目的地に到着した。
ランジャック博士の家は、見た目はごく普通のお屋敷だった。
でも、時折ボン! という爆発音のようなものが屋内から聞こえてくる。
その度に歓声とも悲鳴ともつかない声が上がっているけど、一体中で何が行われているんだろう? 勢いに任せてここまで来てしまったものの、ちょっぴり不安になってくる。
だけど、今さら引き返すわけにはいかなかった。すべてはフェルナンド様のためだ。わたしは大きく息を吸ったり吐いたりしながら、屋敷の門をくぐり、呼び鈴を鳴らす。
「はイ、お呼びデスか」
応対してくれたのは、どこかおかしな発音で話をする使用人だった。しかも、声がかなりくぐもっていて聞こえにくい。
かなりの巨体で、縦にも横にもわたしの二倍近くはありそうだ。顔は仮面で覆われているので表情は分からない。機械でも携帯しているのか、体からカチカチと歯車が回転しているような音がする。
「パーティーに来たんですけど」
わたしは使用人の大きな体に圧倒されて、おずおずと用件を告げる。
「お客様、何名デスか」
「一人です」
「招待状ヲ、拝見シます」
使用人がぎくしゃくとした仕草で手を差し出す。けれどわたしは「ごめんなさい、持ってないです」と首を振った。
多分わたしの分の招待状は、フェルナンド様が保管しているんだろう。少なくとも、今手元にはなかった。
「夫が先に来ているんです。彼の同行者ということにしてもらえませんか? 名前は……」
「招待状ヲ、拝見シます」
「ですから、招待状は持っていなくて……」
「招待状ヲ、拝見シます」
「あの……」
「招待状ヲ、拝見シます」
使用人は手を差し出したまま、同じ言葉を繰り返すばかりだ。持ってないって言ってるのに、この人、耳が遠いの? 動作も少しぎこちないし、もしかして話が通じないタイプなんじゃ……。
「おや、どうしました」
屋敷の奥から、白衣を着た知的な顔立ちのおじさまが顔を覗かせる。わたしは使用人に困惑の視線を向けて、「この人が中に入れてくれないんです」とわけを話した。
「招待状ヲ、拝見シます」
使用人は相変わらず同じ言葉しか喋っていない。おじさまは「おやおや」と肩を竦める。
「この子は、手順にない出来事には対処できないんですよねえ」
おじさまが使用人の頭を両手でつかむ。
次の瞬間には、使用人の首は胴体から離れていた。わたしは思わず悲鳴を上げかける。
けれど、身につけているウエストポーチの中からおじさまがねじ回しを取り出して使用人の頭をいじり始めたことで、彼は猟奇殺人犯じゃないと気がついた。この使用人は人型をした機械だったのだ。
それにしても、機械が喋るなんてどういう仕組みなんだろう?
「からくり人形、というのですよ」
おじさまが使用人の首を元通りにして、説明してくれた。
「研究のために各国からこのような人形を集め、私も自分で作っているのです」
「ご自分で? ……もしかして、あなたがランジャック博士ですか?」
「いかにも。して、あなたは……」
「おや! キャンディスさんじゃありませんか」
屋敷の中から声がする。やって来たのは、垂れた目尻が優しそうな印象を与える男性だった。あっ、この人は知ってる!
「ミケットの旦那様ですね? ええと……」
名前、何ていうんだったかなあ。ミケットはいつも「バカ夫」としか言わないからど忘れしちゃった……。
「旦那様、どなたと話しているのかしら?」
ふと、博士たちの背後から恨みがましい声が聞こえてくる。登場したのはミケットだ。
「あたしの目の前で浮気なんていい度胸ね。今度は一体誰を口説いているの?」
ミケットにギロリと鋭い目つきで睨まれ、わたしは息が止まりそうになった。けれど、玄関ポーチにいるのが自分の親友だと分かると、すぐにミケットの表情から険しさが抜ける。
「なんだ、キャンディスじゃない。もう風邪は治ったの?」
「風邪?」
「フェルナンドさんが話してるのを聞いたのよ。『妻は風邪で熱が四十度もあるから、残念だが今日は来られそうもない』って」
「……わたし、ピンピンしてるけど?」
「そうみたいね。ほら、いつまでもそんなところに突っ立ってないで、早く中に入りなさいよ」
ミケットがわたしを手招きする。ランジャック博士のほうをうかがうと、彼はにこやかに頷いてくれた。
からくり人形が「招待状ヲ、拝見シます」と手を差し出すのを横目に、わたしは屋敷内に足を踏み入れる。
招待された人数が多いのか、室内は随分と賑やかだった。わたしはあちこちに置かれた奇妙な装置に目を奪われる。これもからくり人形みたいに、自動で動くのかな?
ふと、わたしの前を通っていった女性客が、ハンカチを落とした。それを拾ったのは、ミケットの旦那様だ。
旦那様は、ハンカチの持ち主のあとを慌てて追いかけ始める。その様子を、ミケットが針のように鋭い目つきで眺めていた。
あれは完全に浮気を疑っている顔だ。疑り深いミケットは、こんな些細なことですら夫を攻撃する口実にしたがる。これは一波乱ありそうだと思い、わたしは巻き込まれる前にそろそろと親友の傍を離れることにした。
「あらぁ、また新しいお客さん?」
頭上から華やかな声がした。二階へと続く階段を、綺麗な女性が降りてくる。着ているものは豪華なドレスだけど、その上に白衣を羽織っているのが何ともチグハグな雰囲気だ。
「紹介しましょう。私の妻です」
ランジャック博士が白衣の女性を手のひらで示しながら言った。でも、紹介される前から、わたしは彼女の正体を察していた。だって、ゴシップ紙に似顔絵が出ていたから。
早速敵と鉢合わせたことでわたしは緊張を覚えたけど、ランジャック博士はそんなことにはまったく気づかずに、今度は自分の妻にわたしのことを紹介した。
「この方はフェルナンド殿の奥方だそうだよ。キャンディスさんとおっしゃるらしい」
「まあ、かわいらしいこと! これはフェルナンドさんが大切になさるのも分かるわね、あなた」
「そうだね、お前」
ランジャック夫妻はわたしより二十歳以上も年上に見えるのに、まるで十代の恋人同士のように秘密めいた笑いを交わす。いかにも熱々って感じだ。
親密な二人を見ているうちに、わたしの中に戸惑いが生まれ始める。
ゴシップ紙によると、ランジャック夫人は夫にはすっかり飽きてしまい、手当たり次第に男を漁っているということだった。
でも、今目の前にいる二人はとても仲がよさそうに見える。ランジャック夫人の顔には、「私の旦那様が世界で一番素敵」とはっきりと書いてあった。世界で一番素敵な男性は、フェルナンド様なんだけど!
……いや、そうじゃなくて。今大事なのは、ランジャック夫人は自分の旦那様のことがすごく好きで、ほかの男性なんて眼中になさそうだということだ。
じゃあ、あの記事は一体何だったんだろう? 全部でっち上げとか? それならフェルナンド様が襲われちゃう心配はないから、わたしがここにいる必要はなくなるけど……。
「キャンディス?」
不意に、屋敷の奥からわたしを呼ぶ声がした。フェルナンド様が目を丸くしてこちらを見ている。わたしは反射的に夫に駆け寄って抱きついた。
「来ちゃいました」
えへへ、と笑うとフェルナンド様は「そうか」と言って表情を緩めた。フェルナンド様の笑顔に、わたしの胸が踊るように弾む。やっぱり世界で一番素敵な男性はフェルナンド様で決定だ。異論は認めません!
「お似合いですわね」
おほほほ、とランジャック夫人が笑う。夫人への敵意がすっかり薄まっていたわたしは、満面の笑みで「はい」と答えた。




