20話
永恋や絵麻、四家、クラスメイト。それから、父親。
永新にとって辛く苦しい記憶と結びつくそれらは、長い月日が経った今でも思い出す事さえ苦痛を伴う。
それでも彼らを憎んでいるかと聞かれたら、永新は間違いなく「否」と答える。
生まれながらにして誰かを憎み、厭う感情が欠落しているのではないかと思える程に性善説を地で生きる永新にとって、憎悪と言う感情は自分を救ってくれないと理解していた。
ただ、その底無しの優しさにつけ込まれて利用された結果、永新は孤立を選ぶ羽目になったのだが、そうした今でも誰かを恨んだりすることは無い。
そんな、母親である新夏が「自慢の息子」と褒め称える心優しい永新。
自分が傷付いて終わるのならそれでいい、と自罰的で周りの高貴な子供たちの中で、誰よりも劣等でありながらも誰よりも大人であった永新。
恨み、嫉み、妬み、憎しみ。それらの邪な感情を一人で抱え続けた永新。
だがしかし。
真っ直ぐに歪んで、伸びて折れた永新の心は、遂に限界を迎える。
特段許せなかった、と言う一つの原因が存在する話ではない。全ては、永新が母親の霊力と引き換えにこの世に生まれ落ちてから今までの十五年の間に積もり積もった内に秘めた鬱憤が、ここに来て限界を迎えたと言うだけの話。
『――お誕生日おめでとう、永新』
「――あああああああああああああああああああッ!!!!!!!!」
くすくす、と鈴が転がるような笑い声と共に頭上から降り注ぐ声に、瞬く間に覚醒していく永新の体は自分の内から溢れ出す情動に駆られて勝手に動き出す。
瞼が開いてギョロりと動いた眼球は、頭上で佇む白い女性を視界に捉える。
彼女は欲しかった玩具を目の前にぶら下げられたかのように体をうずうずさせていて、今か今かと待ち遠しい様子で永新が動き出すのを待っていた。血管が透けて見えるかと思える程に白い女の頬は、永新が目を覚ましたのを見るや否や一気に朱に染まり、頭をくらりと揺らすような恍惚とした笑みを浮かべている。
混濁する記憶の中、女性の艶やかな笑みを見た永新は憧憬と恋慕、憎悪と厭悪と言う相反する感情が混ぜ合わせになって脳内を蹂躙される。
それと同時に、意識を失う直前の記憶が流れ込んできて永新は自分の置かれた状況を瞬時に理解する。正確には思い出した、と言うのだが、永新の内に芽生えた感情は後者の激情の波に攫われて瞬く間に支配され、朧気で幼気さすら残していた目覚めたばかりの永新の表情は一瞬にして忌々しさを抱いた歪んだ表情へと豹変させる。
「………………ッ、どうして、騙した……! どうして、母様と会えるだなんて騙したんだ、白……ッ!!」
歯噛みして非難する声は、初めて自分の内に渦巻く激情に身を任せられないのかどこか不安げで、されども悲痛な面持ちであった。口走る言葉の裏には「言ってくれれば騙されたのに」、と言う依存性のある感情が覗くのだが、白はそれに気付かない振りで触れようとしない。
彼女にとっては、それに触れれば最後、余りにも愛おしくて抱き潰してしまいそうだったから。
愛くるしくもあり、愚かしくもある永新の姿に、地面に降り立った白は敢えて悠々と立ち振る舞って不敵な笑みを浮かべる。
「うふふっ。愛する人にもう一度会えると聞けば、人はなんだってします。それが愚行だと知っていても。そうでしょう、永新。あなたもこの方法が間違いである事は薄々気が付いていたはずでしょう? でもあなたはそれを指摘しなかった。いえ、出来なかったという方が正しいでしょうね。だって、私の機嫌を損ねれば愛するお母様に会えなくなってしまうかもしれないんですものねぇ? 死者に会える。そんな都合の良い話がある訳も無いのに必死に縋る姿は実に愚かしくて、滑稽でした。――自分だけが不幸であるかのように振舞うあなたに同情する素振りは正直面倒でしたが、それでも面白いように踊ってくれる貴方は私のお気に入りでしたよ、永新。あぁ、永新。そんな目で見つめられたら、ゾクゾクしてしまいます。うふふっ、外法で手に入れた新しい体はどうですか? 馴染んでいますか? 腸が煮えくり返って仕方が無いでしょう? 私を殺したくて仕方がないでしょう? ……ですが、これは全て、貴方が望んで手を伸ばしたもの。望んで手に入れた力なのですよ。あなたに用意された真っ当な倶利伽羅の道を逸れ、気が遠くなる数の妖魔を殺し、ようやく手に入れたその力……。馴染むでしょう? 馴染むように私と絡まる度に調整してあげたのですから。私の好みに、あなたの四肢を、ねぇ? ですがこれで、あなたの邪魔をしてきた人達を皆、その手で屠ることが出来ます。あなたを絶望に追いやった憎い連中も、あなたを裏切った友達も、恋人も、家族も! そして、他ならぬ、私も……。……自分が望んだ力なんかじゃない、ですって? いいえ、いいえ、いいえッ!! これは全部、あなたが望んだ力。あなたが欲した力! 嘘を吐くな、ですか。人間は揃いも揃って理解出来ない事象を嘘と断定するのがお好きです事。ですが、私が与えたその力は紛れもなくあなたの願いを具象化させたものですよ。死んだ母に会いたい。ええ、ええ。実に健気で愛らしい、磨り潰したくなる願いでしたね。ですがそれが叶わなかったのは、あなたの願いが不足したせいです。母親に会うことよりも、力を欲した。それが全ての答えなのですから。……ああ、そう言えば、もしもお母様に会えたら言って欲しい言葉があったんでしたっけ? 確か、『お誕生日おめでとう』でしたか? あなたの願いが叶わなかったお祈りに、私の口から贈らせていただきました。いかがでしたか? 受け取ってくれましたか? ――ですが、あなたのお母様を殺したのは私なんですけどね」
とめどなく溢れ続けて止むことの無い白の着物に身を包んだ女性。それが人を象った妖魔であるとはこの時点で誰も気付いていない。むしろ、彼女と対峙する永新の姿の方が妖魔に程近い。だが、集った倶利伽羅は漏れなく永新の顔を知っている。それと同じくらい、目も眩むような女性が語り聞かせた話の中身が下衆以下であることから、誰もが彼女を妖魔と断定した。
「は……?」
「うふふふふ……」
にこやかに、されど残酷に真実を口にする白の姿は、どこまでも非道だった。
人間の皮を被った狡猾な悪魔を前にしてみれば、永政が放った突き放す言葉の数々が児戯のよう。
永新は彼女の発言を聞いて目を瞬かせる。彼女のカミングアウトは、永新の思考を停止させた。まるで、彼の穢れ無き純白だった頭の中を、どす黒いインクで塗り潰していくかのよう。これまで永新との間に築いてきた信頼を笑顔で蹴り崩す白を前に、永新は次の瞬間。彼女の狙い通りに全身に駆け巡る激情にその身を任せて、白の懐へと踏み込んでいた。
白の言葉が嘘である可能性も、白の言動の端々から感じられる別の目的にも気付いていながら、それらを無視して昂る激情そのものをぶつけるかのように彼は白に襲い掛かった。
「――っふ、ざけるなっ!!!!!!」
永新の激情に応えて、霊力が迸る。
全身が軋むように音を立てて空を切るが、血が滲むほど食い縛った永新に痛みは無い。
ただひたすらに、死を悼む事すら許されなかった愛する母を殺したと自称し、愚弄する目の前の存在を排除しなければならないと言う一心のみで、永新は体を動かしていた。
故に、自分のたった一歩の踏み込みの衝撃で玉砂利が弾け、再びの土煙が魔うことにも気が付かない。
故に、自分が突き出した右腕が白の腹部を貫通していることに驚きを隠せなかった。
初めて抱いた激情。
初めて感じる、暴力による支配欲。
感情のままに動く事がどれだけ気持ちが良い事かを証明するかのように、白の腹部を貫いた永新の脳には快楽物質が排出され、激昂しながら高揚する自分に収束つかぬ様子で白に詰め寄っていく。
「どうしてっ……! どうして母様を、どうして僕に近付いたんだッ!!? どうして――」
血走った眼を白に向け、訴えるのは無数の疑問。
母を殺した理由はなんだ。自分に近付いた理由はなんだ。それ以外にも、どうして優しくしてくれたのか、どうして愛を与えてくれたのかと言った数多の疑念が生じているものの、永新の視界が白に焦点を合わせた時、白の表情を目の当たりにしたお陰で、それ以上の言葉を紡ぐことは出来なくなってしまう。
「──うふふっ」
永新が目にした白は、永新の腕が腹部を貫通して多量の出血をしているにもかかわらず、怒りに狂って衝動に駆られるまま眼を血走らせる永新に対して、狂気の笑みを向けていたからだ。
狂気の笑みは永新の目の奥に差し向けられていて、自分の腹を突き破る永新の腕を愛おしそうに、艶やかに撫でた後に、密着する永新の頭を掻き抱くように両腕で包み込む。そしてそのまま、彼女は甘美に打ち震えるかの如く感極まった様子で妖しく耳元で囁く。
「――あぁ、この時をどれだけ待ち侘びたものでしょう。さぁ、このまま私と、どこまでも堕ちていきましょう!」
腕が貫通しているとは思えない程に平静な白が囁くその言葉はどこまでも魅力的で、どこまでも破滅的であり、言葉の通りに二人は自分たちだけの世界に没頭していく。
「っ!」
しかし、飲み込まれそうな瞳に見つめられながらも咄嗟に我に返った永新は、土埃が舞う瓦礫の上で白の胴に突き刺さった腕を引き抜き、彼女から遠ざかるようにして自由になる。
それと同時に、一歩で彼女に迫り、一歩で大きく距離を取ることを可能にした自分の脚力、それから白の胴を紙でも突き破るかのように貫いた力に驚きを隠せない。
推定されるだけでも相当に練度を積んだ俱利伽羅が発動する纏炎の筋力瞬発力の爆発的増加に比肩するもので、最下級と言う等級にすら数えられることの無い妖魔を倒すので精一杯だったこれまでの永新では到底考えられないような領域に足を踏み入れた事に対して永新は僅かな恐怖心と、盛大な高揚感を得る。
これが、力。
どれだけ手を伸ばしても届く事の無かった、憧れた力。
その一端に触れた永新は胸が疼いて自分の体を見下ろした、その時――。
想像だにしていなかった光景を目にして、絶句する。
「――は」
これまで幾度となく夢見た力を噛み締めるように自分の掌に視線を落とすと、永新の視界に映ったのは、赤黒く変色した自身の前腕。
片腕だけでなく、それは両方にも及んだ。
肘まで変色する両腕は、その赤黒い部分が更に侵食を深めようと手を伸ばしているかのように血管を収縮させており、言いようのない悍ましさを覚えずにはいられなかった。それと同じくして、視界の端に映った自分の両足もまた、同じように膝から下の部分が赤黒く変色している事に気が付く。
途端、沸き上がった高揚も、興奮も一瞬にして冷めていく。
泡沫の夢の如く、パッと弾けて覚めていく。
だが、夢とは異なるのは、気分は冷めても現実は変わらないと言う点だ。
冷静さを取り戻すにつれて、永新は自分の身に起きた異変が取り返しのつかないものであると理解が及んでしまう。
「……っ」
思考停止した永新の脳が思い出すのは、意識を失う直前に見た、大量の妖魔の血。
自分が集めた、妖魔一万体分の、大量の血液。
――明らかに異質な存在感を放っていたアレは、目が覚めた時、どこに消えた?
導き出される答えに永新の脳が拒絶反応を示した時、砂塵の中を悠々と白が音を立てて歩み寄る。
「……あぁ、やはり、まだまだ力不足のようですね。ほら見て下さい、すぐに塞がってしまったでしょう? ですが、これでもう心配要りませんね。私を殺す手段は用意できたも同然。後は永新には死ぬ気で強くなってもらうだけですから。──私を殺せるくらいに、ね?」
にこやかに、底抜けに明るい様子で語り掛ける白の腹部は微かな傷跡も残さずに再生されていて、一片の汚れも無い透き通った白い腹部が空気に晒され、白は愛おしそうに手を添える。
「うふふ。これはお気に入りでしたが、目が覚めた時点でこれを貫けるだけの力を有している事が分かっただけでも十分。私の見込みは間違っていなかったと証明されましたっ。ねぇ、永新。また今度、新しい洋服を見繕いに行きましょうね。……それとも、続きを殺りますか?」
まるで人が変わってしまったかのように、以前と変わらぬ笑みを湛える、白。
まるで姿が変わってしまった、以前とまるっと変わった姿の、永新。
どこまでも狂った現実が永新の脳内を蹂躙し、正気を保つ事が馬鹿らしくなる中、永新は息を荒げて問いかける。
「俺は、どう、なって……。白は、お前は、一体何者なんだ……!?」
「……あらあら、正気に戻ってしまいましたか? そんな、化け物でも見たような眼で見ないでください。興奮しちゃうでしょう? ……なんて、うふふ、冗談ですよ。それに、正確な自己紹介はまだでしたね。では六、七、八……、九年越しの自己紹介と参りましょうか。私の名は、白。そして――」
砂塵舞う視界の悪い中でもはっきりと目に映る白の表情は愉悦に富んでおり、場違いな程にどこまでも楽しそうな笑みを浮かべていた。
しかし、そんな悦楽に満ちた白の言葉を遮るように横やりが、土煙を裂く鋭い一閃が永新と白の間に介入し、続くはずだった彼女の口を塞ぐに至る。
「――シィッ!!!!!!!!」
高度なまでに練られた霊力を迸らせて振られる一閃は、目にも止まらぬ速さと、何物をも断つ鋭さを有する。
土煙が裂かれていく傍から晴れていく視界の端では、永新に向かって降り注ぐ数多の殺気を敏感に察知することが出来たものの、錯乱状態に近い永新では咄嗟に動く事は叶わず、一瞬の硬直が生まれる。
故に、完全に永新の不意を突いて振るわれた一刀は必殺の一撃となって永新の首を――。
「感動のシーンに茶々を入れるなんて、どこまでも無粋ですね……」
「――チっ」
刎ねることは叶わなかった。
永新の首と胴が別れを告げる事は無いまま一刀は空を切り、気が付いた頃には永新は白の腕の中に収まっていたから。
頭上から聞こえてくる億劫な声と吐息に咄嗟に永新は白から距離を取ろうとするが、白は自分の傍が何よりも安全だと主張するかのように永新の体を離そうとはせず、永新は彼女の華奢な腕すら振り払えない。
視界の晴れた先に永新に向ける愛情深い笑みとは異なる笑みを向けて、敵意を放つ。並の俱利伽羅であればともすれば卒倒しかねない程の存在感は圧迫感として彼女の前に立ちはだかる者達へと降り注ぐ。
白に釣られて一閃を放った人物へと白の腕の中から顔を向けた先では、見慣れた人物たちが永新に向かって武器を構える光景が待ち受けていた。
「――やはり復活していたか、【妖魔の王】よ……!!」
忌々しい、とばかりにジリジリと肌が焼けるような殺気を向けるのは、永新の目にも見慣れた老兵。
その背に立ち並ぶのは、同年代にして永新に決して消える事のない傷を負わせた四家と、様々な感情を目に宿した永恋が、老教師に倣うようにして永新に対して殺意を向けているのであった。




