21話
「――やはり復活していたか、【妖魔の王】よ……!!」
白本人の口ではなく、第三者から告げられた白の正体に永新は聞き馴染みが無かった。それ以上に目の前に広がった目に馴染んだ人達が並ぶ光景に意識が割かれ、白の正体に集中など出来なかった。
身の丈程もある大太刀を一分の隙も無く構える老教師は先の一閃を放った張本人であり、その一刀は紛れもなく永新諸共白を切り伏せる目的で放たれた事を彼は否定しない。
外法を用いて妖魔に下った永新をこの場で始末するために刃を振るったのであった。
「……如何に妖魔の王と言えど、復活したばかりの力のないお前に、これから集まってくる倶利伽羅の主戦力を蹴散らすことが出来るか? ましてや今宵はお前達妖魔の力が増す満月の夜ではない。不用意に姿を現した事が運の尽きだ。そこの妖魔含めて、大人しく――死ぬがよい」
全身が震え上がる程の殺気を浴びた永新は白の腕の中で体を強張らせる。
本気の殺意を抱く老教師を前に永新は慄くばかり。そんな永新に安心感を与えるのは、つい先程まで怒りと憎しみの対象であったはずの、白。彼女は既に腕に抱く永新の体を更に自分へと密着させるように寄せる。それはまるで老教師が向ける殺意から身を挺して永新を守るかのようにも見えた。
「……あまり、私の永新を怖がらせないでくれますか? 永新、名乗るのが遅くなりましたね。紹介に与ったように、私は妖魔の王と呼ばれる存在。――【白香厭麗】と言います。またの名を、白麗とも言いますが、永新は今まで通り、白と呼んでくださいな。……永新に会うために永い時を超え、封印を破ってきたのですよ」
仰々しい名前を軽々しい様子で口にする白。
こちらからは怒りや憎しみと言った激情を向けているにも拘らず、白は変わらず今も永新に対して愛を向けてくる。
その愛が無償では無い事も、偽りかもしれない事も分かっていると言うのに、永新は向けられる愛を拒絶する事が出来ない。憎むべき相手だとしても拒絶できない点は、永新が「愛」と言うものに飢えている証拠。それだけ長い間永新は空虚な心を抱えて生きて来た事に他ならず、永新の行動は溢れんばかりの愛情と期待を受けて育ってきた四家や永恋、他の者達には決して理解できない感情であった。
「先生。妖魔の王、と言うのは本当ですか」
「……あぁ、間違いない。妖魔の王、その名は知悉騒嵐之妖主・白香厭麗。その昔、繁栄を重ねた京の都を配下の妖魔と共に僅か一晩で食い荒らした悪食の王。お前達四家のご先祖様が束になっても敵わない程に莫大な霊力と配下を有する妖魔の王を、ご先祖様方は数多の犠牲を出した上で更に命を懸けて封印した――はずだった」
「それが、最近になって封印が解かれている……、との噂が、まさか本当だったとはな」
「封印が解かれている様子も無かったから解くまで中は分からないと言うシュレディンガーの猫、ブラックボックスだった封印も、妖魔の王が今こうして目の前に居るのだから噂は正しかった……、と言う訳か」
「その噂も、四家しか知り得ない情報よ。それがまさか、あいつに取り入るなんて……! でも、どうしてあいつなんかに、妖魔の王が……!?」
「永新……っ」
「……永恋、下がってろ。正式な倶利伽羅ではないお前は、此処に立つべきではない。お前の事は、俺が守るから」
「――やめてッ! 離してッ!! 私が好きなのは、永新だけなのッ!!」
「くっ……、落ち着いてくれ、永恋!!」
「獅子王、その手を離すなよ。最悪の場合、気絶させてでも連れ帰るからな」
「分かってる。絶対に離すものか……」
「……先生」
「神来戸の判断は間違っていない。正式な俱利伽羅ではない小暮日は本来この場に居るべきではなかった。取り返しが付かなくなる前に判断するように。……俺も、どこまでお前達を庇えるか分からんからな」
老教師の額に滲んだ汗が、頬を伝う。
自分達が置かれた現状がどれだけ危険かを老教師の口から聞かされたことで、噂程度にしか認知が無かった四家の間に緊張が走る。
穏やかに微笑む美女が、もしも本当に妖魔の王だとするならば、如何に優秀な成績と類稀なる才能を持つ四家の子息令嬢と言えども力の差は歴然。
聞かされた通りに自分達が立つ白い空間が妖魔の王の領域であれば、自分達は既に妖魔の王の間合いの中だと言う状況に、生まれて初めて感じる窮地と言うものを味わわされる。
不幸中の幸いか、妖魔の王はこの場における最高戦力である老教師しか眼中に無い為、逃げに徹すれば四家の血筋は守られるだろう。
だと言うのに、こんな状況にもかかわらず妄信的に愛を叫ぶ少女、永恋の存在が四家の後退する足を止めてしまっていた。
妖魔の王の復活、と言う倶利伽羅全体に激震が走るような誰もが危機感に差し迫られる状況下において、永恋だけは他の誰も気に留めない外法に堕ちた永新をただひたすらに求め、羽交い絞めにされても尚永新に向かって手を伸ばす。それが人間としてどれだけ愚かしい行動で、倶利伽羅としてどれだけ非難されるべき行動だとしても、永恋は誰よりも自分の心に素直に、この場において何よりも大切だと思う存在を守るべく手を伸ばし続けるのであった。
そして、そんな永恋に感化されるかのように、白に対して一定の感情を抱く永新もまた、自分を求めて手を伸ばしてくれる永恋から目を離せずにいた。
憎悪と怒りに狂わされても尚、差し向けられた殺意から守ってくれた白。
老教師や四家が揃って殺意を向ける中でも自分を信じて手を差し伸べてくれる永恋。
そんな二人の間で揺らぐ永新の心を射止めたのは、意外にも永恋の方であった。
理由は単純。
永恋だけが、四家や老教師とは異なり武器を構えていないから。
永新にはその姿が、自分との約束を守って、自分が来るのをずっと待っていただろう永恋のいじらしい心模様が見て取れたような気がしたから――。
――などと言うのは永新の勝手な思い込みでしかなく、永新はただ、自分を攻撃する相手から逃れたいが為に、自分にとって楽な方を無意識に選択しているに過ぎなかった。
永新に殺意を向ける老教師、四家。
そして善意の皮を被った悪意の塊である、白。
どこに一歩踏み出したとて、待っているのは酷な未来しか見えない中、永恋だけは違った。
確かに永恋からは、自分との約束を今も信じてくれているのを感じられる。その声に熱が込められているのも理解できる。だがそこに、永新が求めているのは安寧のみで、永恋が与えてくれようとしている愛情に永新は応えるつもりなど、初めから、無い。
一度見限られ、見放された相手から差し伸べられた手を掴む理由など推して知るべしであって、永新がそこに見出したのは、誰よりも永恋の傍が楽だからと言う理由でしか無いのであった。
その真実は「愛」と言う名のフィルターで誤魔化されて、永新は自分が楽な道を選びたいが為に、苦痛から逃れたいが為だけに永恋の恋心を利用しようとしている事実に、気が付かない。
そして、そんな永新の心変わりを、誰よりも長い時間近くで永新と接してきた白が気が付かないはずもなく――。
「……」
不敵に笑った白は、何を考えたのか永新を拘束する両腕を解放し、あろう事か永新の背中を押して倶利伽羅へ――永恋に向けて永新を送り出した。
「――この子は私に騙された可哀そうな子供。利用されて投げ捨てられるだけの可哀そうな子供なのです。お望み通り、返して差し上げますよ。彼はただ、亡くなった母親に会いたかっただけ。何の罪も無い彼を殺すのでしたら、お好きにどうぞ? ……ただ、その代わり、この場で私を見逃してはくれませんか? 貴方の仰ったように、今宵は満月の夜でもなければ、私は復活したばかり。全盛期の三割の力も出し切れないと言った所でしょうか。それでも尚、私は貴方達を屠るには十分なのですが……ここで力を使うのは私としても不本意なのですよ。ですから、どうです? 悪くない取引だと思いますが」
「……言語道断だな。ここで私が命を賭してでも貴様の力を削ぐよりも、貴様を野放しにした方が良いと考えると思ったか? 後方に控えている大勢の俱利伽羅が到着するまで、私は足止めすればいいだけの話だ。燼月の処遇は、その後でも構わぬ」
「あらあら……。彼も貴方の可愛い生徒でしょう? 血を重んじる倶利伽羅にしては、血も涙もない事を口走るのですね」
「抜かせ、人の形をしていようとも、中身は汚らわしい化け物めが……!」
「汚れているのは、どちらでしょうね?」
「――永新……ッ!!」
白と老教師。
二人はお互いにお互いのみを視界に収め、余計な情報は手に入れようとはしない。
それだけ、お互いにとって相手が相当の実力者である事を認めている訳で、一瞬たりとも気が抜けない状況に置かれていた。
そんな二人の間で揺らぐ永新は、白に背中を押されるがままに恐る恐る一歩を踏み出していく。
自分にとって都合の良い方へ、楽な道の方へと向かって、自分に窮地を背負わせる白から逃れるようにして手を差し伸べてくれる永恋に向かって一歩、また一歩と足を逸らせていく。
対する永恋も、白と老教師の対峙に緊張が走って生まれた隙を狙って獅子王の拘束から抜け出し、逸る気持ちが幾度となく足を躓かせるも、決して足を止める事無く大好きな永新に向かって身を乗り出していく。
周囲を警戒していた永新の目に永恋だけが映るようになり、自身の安寧を求める永新は愛ゆえに差し伸べられた永恋の手を掴もうとこちらからも手を伸ばす。
その手を見て、こちらに駆け寄る永恋が破顔した――次の瞬間。
――伸ばした右手が、永恋の手を掴もうと伸ばした永新の右腕が、目の前で消し飛んだ。
「――ッ゛!? あ、あ゛ぁ゛ァァァァぁァアアッ!!!!???」
悲痛な叫びと、恐怖に歪む表情。
突然の右腕の消失に困惑する永新が視界を閉ざす直前に見えたのは、刀を切り上げた老教師の姿であった。
「っ、先生、どうして……! どうして、私と永新の邪魔をするの……ッ!! どうして、みんな……ッ!!」
「――チィッ……! 仕留め損なったか……。だが次で――シィ!!!!」
永新が永恋の手を掴む直前、それまで白と睨み合っていた老教師が、真っ先に動いた。
腰に佩いた刀の柄から決して手を離さないでいた老教師は永恋を後ろに押し退け、熟練の技術でもって居合一閃を放った。それは永新の目では到底捉えられるようなものでは無く、本来であれば永新の胴を逆袈裟に切り裂いて決して助かりようのない致命傷を負わせることが可能な一撃であった。
だが結果としてもたらされたのは、何の価値も無い右腕一本を切り落としただけ、という成果。
老教師が一瞬で永恋を押し退けて永新の眼前に移動したのと同じように、永新の背後に移動した白はその手でもって永新を後ろに引き寄せ、本来であれば死に至らしめる致命傷を負っていた一撃を右腕一本で防いだのであった。
しかしパニックに陥る永新にその一部始終を把握できるだけの余裕など存在しておらず、ただひたすらに呻き声を上げて切り口から噴き出す鮮血でもって真っ白な石が敷き詰められた境内を赤に染めていく。
如何に痛みに慣れる訓練を重ねていると言っても、精々が掠り傷や打撲程度。
腕の一本が切り落とされる痛みに耐える訓練など、道徳的精神を疑ってしまう。戦闘に耐え得る肉体を手に入れれば十分であり、倶利伽羅にとって拷問に耐える必要など無いのだから。
ましてや永新は油断した瞬間を狙われての一撃。痛みを忘れさせてくれる興奮物質であるアドレナリンも放出されていない状態で受けた痛みは、永新の体を一切考慮しない120%の痛みが脳に直接流し込まれたようで、傍から見ている四家でさえも余りの永新の苦痛の叫びに思わず口を塞いでしまう程にショッキングな光景。
肉体が変質化した影響か、気を失えない自分の状態に気が狂いそうな程だった。
「――大丈夫。大丈夫ですよ、永新。私の声だけを聴いて。私はずっと貴方の傍に居ますからね。ゆっくり息を吸って、吐いて。そう、上手ですよ」
そんな永新の気が狂う寸前で押し留めたのは、他でもない、永新を後ろから掻き抱く白の存在。
絡みつく蛇のように永新に身体を這わせ、冷たくも確かな体温を伝えるように頬に手を添え、永新にとって安らぐ、脳を直接震わせるような甘美な声で永新の意識をはっきりと保たせる。
その間、永新にトドメを差そうと老教師が刀を振るうものの、白は文字通り片手間でそれを防ぎ、なんて事の無い、涼しい顔をして永新に囁き続ける。
「一瞬だけ痛みが走りますが、永新ならきっと我慢できます。……ね、ほら。もう、元通り」
永新の肘から先が消えた右腕に添えた白の右手。
それをどうするのかと誰もが注目する中で、白は一切の躊躇いも無く永新の傷口に、血肉に触れてぐちゃぐちゃ、と音を立て始める。
血肉が飛び散る中で、白はまるで粘土で形作るかのように血肉を捏ねると、瞬く間に傷は塞がり、嘘のように永新の右手が生え揃う。
「嘘、右腕が、再生した……!?」
「……聞いた事がある。上級の妖魔ともなると、再生能力を持つ、と」
「相手は、妖魔の王だぞ。それも、燼月の腕を……。これはつまり……」
「……皆さん、後退の用意を。私達では、手に負えません。小暮日さんを、引きずってでも帰りましょう」
「お前達、私が合図したらあの鳥居の外まで走れ。絶対に振り返るんじゃないぞ」
脂が光を反射して光を放つ右腕を確かめるようにぐっ、ぱっ、と拳を閉じたり開いたりを繰り返す永新は、額に浮かんだ大量の汗を拭って、そして老教師と四家に視線を向ける。
「――これで、誰が貴方の敵かはハッキリとしたでしょう、永新。敵を排除するための力は、既に持っているはずです。さぁ、一緒に唱えて。私は、いつまでも貴方の味方ですからね」
静かに立ち上がる永新は、白の声に今度は違う意味で背中を押され、自分の中に眠っていた霊力を叩き起こすかのように強く念じる。
這ってでも永新の元に駆け付けようとする永恋の姿さえも、視認することなく、ただひたすらに、眼前の敵を焼き払わんとする。
――霊力は血。血は霊力。
その言葉の通り、永新の血に眠る霊力は永新の強い願いに応えて力を与える。
その規模はこれまで破魔弓術初級を数回放つだけで気絶しそうになっていたこれまでの永新が嘘のようで、行き場を失って胸の奥深くで眠りにつくしか無かった多くの激情を糧に、永新の霊力はどんどんと火力を上げていく。
永新の体が過去のままの肉体であったならば、この時点で膨大な量の霊力に肉体が耐え切れずに自壊し始めるのだろうが、今の永新の肉体は特異な状態にあり、鼻血を出す程度の被害で留まっている。
それだけでも十分危険な状態と言えるのだが、今の永新は体の内から溢れてくる霊力の高まりに気分は高揚しており、その手に感じる全能感に酔い痴れんばかりであった。
「あれは……黒い、炎……っ!? 【纏炎】。……不味いな。これでも防ぎ切らんかもしれん」
永新が放とうとする霊力の高まりに異常を感知した老教師が、それでも尚叩き伏せようと刀を構えるも、永新にとってはどうでも良かった。
今は只、胸の奥に蓄積し続け、澱と化した行き場のない感情をぶつけたい、その一心で霊力を高め続けていく。
――窮屈な世界に押し込められた鬱憤を。
――勝手に期待して、勝手に落胆されて汚名を被せられた屈辱を。
――信じた人に裏切られ、貶され、弄ばれた深い絶望を。
――ただ愛してほしかっただけなのに、罵声を浴びせられた暗くて深い暗澹たる淀みを。
「……スゥ。悪く思うな、燼月。これも倶利伽羅の使命なのだ。紅蓮一刀流、奥伝・絶、天――ッ!?」
これまで押し殺して来た感情の多くは、暗く、深く、重くなって永新の心を縛り付けて来た。
そうでもしなければ、とうの昔に壊れていてもおかしくない程の激情は、霊力が応える糧に使用しても尚、余りある。故に、こんなことをしても晴れる訳ではない。
だと言うのに迫り来る敵に攻撃を放つのを止めないのは、誰かにこの感情を理解してほしいと願うからだろうか。
利用しているだけの白は違う。理解していると言ってくれても、所詮そんなのは上辺だけの言葉。
ならば永恋はどうかと聞かれると、永新は否と答える。
そう、これは永新の我儘でしかない。
生まれて初めて実行に移す、一世一代の大勝負。
――どうして分かってくれないのか。
その一言をもっとずっと前に口にしていれば、きっと未来は大きく変わっていたのに。
その口を閉ざした彼らが見守る前で、永新は両手に集う莫大な霊力を迫る老教師目掛けて放つ。
ただの霊力の塊を、一つの霊技へと昇華させる方法は知っている。既に白に教えてもらっているから。後はただ一言、唱えればいい――。
「――魔鏖極天」
と。
両手に灯る漆黒の輝きを宿す炎。
永新を始末せんと踏み込み間合いへと足を進めた老教師に対して、永新もまた、老教師に向かって一歩を踏み出した。
纏炎を発動させ、常人の数倍の身体能力を手にした老教師の本気の動きは、四家ですら捉えるのがやっと。それを前にして永新は悠々と一歩を踏み出し、気付いた頃には老教師の懐にまで潜り込んでいた。
それと同時に勢いよく突き出された両拳は老教師の胴を衝き、真っ白な境内に今度は黒い火花が大輪を咲かした。
「――!!」
瞬間、老教師が手にしていた刀が半ばから折れ、黒い炎に焼かれた状態で老教師は大きく後方へ弾き飛ばされていく。その先で静かに佇んでいた真っ白な鳥居に激突し、老教師は白目を剥いて沈黙するのであった。
鳥居の根元で今も尚燃え盛る黒い炎が、老教師の身を焦がしながら。
「先生――っ!」
大きな破壊音と共に沈んでいく老教師の姿に、それを為した永新の前から動くことが出来たのはたった一人だけ。世代筆頭の火加々美甘奈ただ一人だけであり、残る四家の三名は瞳を震わせながら永新にそれぞれの得物の先端を向けるのみ。
「永、新……?」
四家に遅れて我に返った永恋もまた、信じられないようなものを見る目で永新を見る。
膨大な霊力の行使による反動で震える手で鼻血を拭った永新は、彼らの怯える目を見て、もう二度と彼らと道を同じくする事は無いのだと悟る。
――あぁ、俺は一線を越えたんだな。
感慨深い訳でも、爽快感のある気分でもない。
ただただ不快で、反吐が出そうな気分。
だからと言って後悔しているわけではない。
これが永新の進む道だった、ただそれだけの話。
そう思えてしまえば、初めから永恋とも、四家とも、絵麻とも、永政とも同じ道を歩む事など不可能だった訳で、永新だけがどこにも馴染めなかった事にも納得がいく。
それでも、受けた傷が癒える事も消える事も無いのだが。
自覚してしまえば、そんな環境に身を置こうと無駄な努力を重ねていた過去の自分が白が言うように愚かでしかなかった事に気が付き、嘲笑すら湧いてくる。
その意味に気付いたのは、恐らく永恋だけだっただろうが、既に白へと身を翻した永新はその事に気が付かない。
「……白、連れて行ってくれ」
「うふふ。乗り気になってくれたようで、何よりです」
「こうなるように仕向けたのは、お前だろう」
「えぇ、そうですね。永新の居場所を奪ったのは、私ですからね」
「まどろっこしい話し方はよしてくれ。そう言う意味だってのは分かってるからな」
「……ですが、私が貴方の敵である事には、変わりないでしょう?」
「当たり前だ。……お前は、絶対に俺が殺す」
「えぇ、えぇっ。その時を心待ちにしていますね。それでは、脚を呼びますから少々お待ちください」
魔鏖極天を放った今、永新は老教師と同じ実力者の領域に足を踏み入れていた。
それ故に、白の異常なまでの強さの一端を認知することが出来るようになり、先に放った魔鏖極天では白を殺す事は出来ない事を感覚で察していた。
ただでさえ底知れない白の事を知れば知る程、更に高みを知るような、どんだけ深く入って行ったとしても見えない底に震え上がるような恐怖を感じるのだが、白が母親の仇である以上、永新が抱く殺意が薄れる事は決して無かった。
物々しい雰囲気で重苦しい空気が漂う中、軽妙な会話を繰り広げる永新と白。
困惑と驚愕、歓喜と嫉妬に狂う永恋は、自分でも自分が分からなくなるような感情の渦に飲み込まれながらも、希望に縋るように、永新の背に向かって手を伸ばす。
「――待って、待ってよ、永新……。行かないで、お願いだから、私を、置いて行かないで……! 私は、永新と一緒に居たい、永新が居れば、他に何もいらないの……! だからお願い、私を、一人に、しないで……。約束、してくれたでしょ……っ」
妖魔の王、白が目を逸らしているとは言え隣にいるにもかかわらず、永恋は悲痛に満ちた様子で歩みを寄せる。その胸の内は、永新を愛している自分と、倶利伽羅である自分の葛藤が占めているのだろうが、その天秤は明らかに片方に傾いていた。
しかし永恋の足もすぐに第三者の手によって止められてしまう。
歩みを止めさせたのは、残された四家の三名。
左右から天炎晴也、神来戸獅子王が、そして永恋の胴にしがみついてでも引き留める、御厨七星。
離して、と藻掻く永恋だが、同等以上の力を持つ人物三名に引き留められては抜け出す事も叶わずに徐々に後退させられていく。
それを見て、永新は目を伏せながら満足そうに口走る。
「……うん、そうだ。それが正しいよ、永恋」
細められた目は彼らの後方、白い鳥居を潜って駆け込んでくる大勢の倶利伽羅達の姿を捉える。
彼らは鳥居の根元で気を失った老教師を見て緊急事態と騒ぎ立てる。その中には燼月永政、永新の父親の姿もあって、父親の先見の明は正しかったのだと永新は一人内心でほくそ笑む。
永新の姿を探すように境内の中で視線を彷徨わせる姿は、変わり果てた永新の姿を認めたくないからか、それとも変わり果てた永新を見ても我が子だと気が付かないのか。その答えは不明ながらも、永新は後方にも聞こえる声で高々と宣戦布告を口にする。
「――四家、それから倶利伽羅一同。お前達が俺を殺そうとする限り、俺は全力で抵抗する。追うも追わぬもお前達次第だが、そこで寝転ぶ倶利伽羅と同じ目に逢う覚悟をして掛かって来い。その事を、努々忘れないで欲しい」
永新の口から老教師をやったのは自分だと語られた事で、隙を伺っていた倶利伽羅の多くが二の足を踏む。その中で永政は困惑に満ちた表情を張り付けるばかりで、永新の説得に動こうともしなかった。
そんな父親からは早々に視線を逸らし、永新は最後に永恋に向かって微笑みかける。
「こんな僕を好きでいてくれて、ありがとう。……でも、これでお別れだ」
優しい声音は、永恋の知る『大好きな永新』そのもので、本当の意味で別れを告げられたかのように感じられた永恋は気が触れたかのように「嫌だ」、「行かないで」、「待って」と泣き叫んで藻掻き苦しむも、既に耳を塞いだ永新にその声は届かない。
傍で喉が張り裂けんばかりの叫びを聞かされる四家の面々は眉を顰めるばかりで、同性である七星に至っては永恋と同様に涙を流して歯を食い縛ってでも、永恋を引き留めなければならなかった。
「さぁ、永新。脚が到着しましたよ」
「ったく、人遣いが荒いんだよ、お姫様はよ」
「…………真宵先生?」
永恋の悲痛な叫びに耳を塞いで振り返った先、白が「脚」と呼んで呼び寄せたのは、永新にも見覚えのある人物、ウルフカットと気の強い顔付きが記憶に残る医務官の宿無真宵その人だった。
彼女は常日頃白衣を身に纏っていたはずが、今は違う。彼女の長い四肢を映えさせるような黒光りするライダースに身を包んだ彼女はどこまでも野性的で、学園の医務官として勤めていた時とはまるで異なる雰囲気を醸し出しながら永新に問いかける。
「……オレがこんなこと言えた義理じゃねぇが、本当に良かったんだな?」
「……はい」
「そうか。詳しい話は、また今度だ。今はほら、尻尾ん中入んな」
白と関わりがある時点で彼女が只者では無いにしろ、今この状況で話し込めるほどの余裕は無い。真宵が肩にかけてくれたジャケットに身を包みながら、永新の胸にはどこか安堵が生まれていた。
何せ、意気揚々と宣戦布告したはいいものの、永新は現時点で霊力の放出による反動で満身創痍と言っても過言ではない状態である以上、白の呼んだ真宵先生が何者であろうと関係ない。
真宵の細身の臀部から陽炎のように揺らめく大きな尻尾が生えていたとしても、気にしている余裕などないのであった。
そして、永新は白に続いて真宵の尻尾、と思しき陽炎に向かって歩を進めて行き、姿を眩ます。
永恋が消えゆく永新の背を眺めているにも拘らず、永新は別れを告げたものとして最後まで、永恋を振り返る事が無いままに。
燼月永新の運命が大きく動き出したこの日、それに連なる者達の運命も大きな変化を始め、安泰の時を迎えていた倶利伽羅の運命を大きく動かす――。




