121話
――燼月永新は妖魔であるかどうか。
それは是とも否定とも取れる問いと言える。
しかし、正解が無いかと言われると、それもまた違うとも言える。
何せその問いの答えは「どちらでもある」と言うのだから、なんとも意地の悪い問いと言えよう。
人間でもあり、妖魔でもある。
それは裏を返せば、人間ではなく、妖魔でもないと言う事。
人間としての幸福も知る傍らで、妖魔としての不幸を知る。
妖魔としての幸福を知る傍らで、人間としての不幸を知る。
両方の性質を併せ持つと言うのは、人間であっても妖魔であっても、決まってどちらかの悪い面の影響からは逃れられない。それはつまり、永新は今後一生、恒久的な幸せを手に入れる事は出来ない事が運命づけられているようなもの。
永新が自罰的な考えを持ち、心優しい精神の持ち主である限り、この縛りからは一生逃れる事が出来ないのであった。
そんな永新が心優しい性格の持ち主であるのは、限りなく狭い永新の交友関係の中でも頭一つ突出しているであろう燦然院香織から貰った言葉が答えであった。
――親御さんから愛を注がれたからこそ、培われたものですわ……!
命の選別を突き付けると言う悪魔の所業を行う邪悪極まりない誠一郎に対して、香織は一歩も退く事無く、鬼気迫る勢いで永新の事を肯定してくれた。あの言葉があったからこそ、永新は自分を愛してくれた母親を信じる事が出来たし、自分が妖魔である、と言う可能性を受け入れる猶予が出来た。
しかし、悲しいかな。永新が妖魔である事を裏付ける証拠が現れてしまう。他でもない、永新自身の血が、永新は妖魔であると言う事を物語ってしまったのだ。
認めたくない事実。認めざるを得ない現実。自分は最初から人間ですらなかったのか、と思い知らされた永新は壊れかけたものの、ルゥの言葉で自覚させられた。
――えいしん。あなたはまちがいなく、おかあさんにあいされていた。
妖魔であるルゥが言う。永新の姿を思えば、出会った事も無い永新の母親を想像するのは容易いと。それだけ面影が残るくらい無償の愛を注いでくれた女性を、母親と呼ばずして何と呼ぶのか。それを思い知らされた永新は、自分が妖魔であろうとなかろうと、人間であろうとなかろうと、燼月新夏の息子であった、と言う紛れも無い真実だけは、二度と疑わないと心に決めた。
だがしかし、それら一連の騒動は所詮は永新の心構えの話で留まり、依然として真実からは遠いままであった。
永新の出生には白が関わっている可能性が高い事、ただそれだけが手掛かりであり、その真実を知りたいと願うのは永新に与えられた当然の権利であった。
だけど、永新にその答えを探し求める時間など与えられぬまま、彼は最終決戦に挑まなければならなかった。羅威竿とルゥの死を受け入れ、気持ちに整理を付ける時間さえも与えれず、ただひたすらに荒んだ心を騙すように「白の願いを叶えるために」と目の前に優先順位の最も高い問題を掲げて自分に言い聞かせる事で、永新は自分の事を後回しにする。
これまでもそうしてきたように、――いつか自分に余裕が出来た時に――と他者を優先した結果、その待ち侘びたいつかが永遠に奪われた事を、今になって思い出す。後回しにした事すらも後回しにする永新は、いつしか、欲望の解放の仕方が分からなくなっていた。そして遂には、自分の感情を吐き出す事さえ、不器用になっていった。
真宵を超える強さが欲しい。
凍吉に色々聞きたい事があった。
香織に謝りたい。
絵麻と話したい事がたくさんある。
羅威竿の死を気が済むまで嘆きたい。
自分なんかの為に命を懸けたルゥの期待に応えたい。
知らなければならない自分のルーツを知りたい。
めぼしいものだけでもこれだけあると言うのに、永新はこの中の一つさえも叶えることが出来ないでいた。
学園でも、家でも、欲望を口にする事が、分不相応だと教え込まれたから。欲望を口にしたところで、否定されるのがオチだから。
そうやって染み付いた幼き頃の習慣と言うのは、どれだけ環境が変わろうとも変える事の出来ない、二の足を踏ませる呪いのようなもの。欲望を口にしようとすると、永新は決まって、首を絞められるような息苦しさを覚えてしまう。
だからこそ、永新が本当の願いを口に出す事が出来る時、と言うのは酷く限られており、一つは、真に心を許した者の前でだけ、安息を得た上で小さな願いを口にすることが出来る。絵麻や、白、羅威竿の前で見せた事は無いが、どんなに小さな願いであっても永新は体が強張ってしまうが故に、そこに至るまでの道のりは簡単では無かった。
そして二つ目が、たった今永新が置かれている状況そのものであり、
「お願い、します……! 知りたいんです、俺の、本当の、親を――」
「――惨めだな。敵を前に首を垂れるか? 子犬、どうやったらこんな愚鈍な失敗作を我が子と呼べる? ハッ……。一周回って滑稽にすら思えて来たわ」
真宵の制止すらも振り切って、永新は五体を地に付け、懇願する。
負い目すら感じる余裕もないくらい、完膚なきまでに心を押し潰されなければ、永新は自分の本心を曝け出す事すら出来ないのであった。
真宵すらも視界に入れられないまでに恐怖に支配された永新は、自分の中に延々と渦巻き続けていた問いの答えを求めて、恐怖の対象にしてこの世界で唯一永新の知りたい「答え」を持っている妖魔の王に、恥も外聞も投げ捨てて問いかける。
死ぬ前に、殺される前に、どうしても知りたかった。
どうしても知らなければならなかった。そう考えてしまえば、永新は気兼ねなく本心を曝け出せる。
そこまで追い詰められなければ、永新はいつまでも抱え込んだまま、誰に打ち明ける事すら出来ないのだ。それこそが今の永新を作り出すに至った黄金世代や彼を取り巻く環境が抱える原罪であり、もし仮に永新が白と出会っていなかったとしても、永新の未来は暗闇に閉ざされていた事だろう。いつか必ず、解消されずに積み重なっていくばかりの自らの欲望に潰されて、死んでいく。そんな希望の無い未来だけが、大口を開けて永新を待ち詫びていたに違いない。
しかし、その未来は今も変わらずそこにあって、ありとあらゆる手段を用いて永新を苦しめる。
その苦痛から永新を解放する手立てを、真宵は持ち得ておらず、恐怖に染められた永新の体を物理的に支えてあげる事しか出来ないのであった。
「……燼月」
「――子犬の面白い顔も見れた事だ。出来損ないの貴様の冥途の土産として、教えてやろう。貴様の、出生の真実をな」
見慣れた和服を着崩した姿の妖魔の王は、首回りを血肉で汚しながらも人を惹き付けて止まない甘美なる毒のような美しい佇まいを見せる。
そして「これも余興の内だ」と言ってくつくつと笑って語り出す。
嘘偽りない、白が関わる永新の出生の秘密を。
「――小僧の名など興味は無いし、私のもう一人の性格が何を思って作ったかなど考えるだけ無駄ではあるが、残念なことに、記憶はお互いに共有しているのでな。全て覚えているぜ、小僧を作った理由も、何もかもな。どれ、どこから話そうか……。そうだな、私が封印されていた事を知っているのなら都合が良い。そこから話すとしよう」
「……っ」
「――忌々しい倶利伽羅に裏切られた私は、長い事封印されていた。その封印を解くのに、私自身の力を使い果たしてしまってな……。封印を解いたとて、身動きが取れない状態で封印の内部に留まっているのは危険だからな、そこで私は、必要無いと断じて捨て置いた感情の一つに肉体の制御を任せ、封印された場所から離れる事だけを決めて休息の為に眠りについた。それが、お前達の良く知る、愚鈍で何の取柄も無い私の人格だ。そんな私が存在していた、と言うだけでも腹立たしいが、全ては私自身を構成するもの。元は妖魔の王たる私の分霊なのだ。手放した先で変異されても困るのでな、我が手中にて首輪を付けておいてやらねばならなかったのだ。今になって思えば、それが正解であったと、過去の私を褒めてやりたいものだ。何せ……奴は、私の体を使い、妖魔の身でありながら――懐胎を果たして見せたのだからな」
妖魔の王、白香厭麗が語る内容は、永新にとって頭の天辺から足の裏にまで電撃が走ったかのような衝撃を与える。
それ以上の言葉を聞かなくても、永新は答えに辿り着いており、喜怒哀楽の感情の全てが綯い交ぜになったような複雑な感情が瞬く間に全身を駆け巡る。
手足は震え、筋肉は痙攣し、息は苦しく、呼吸は荒く、頭が割れるような激痛と言ったあらゆる体の不調が永新を襲うも、妖魔の王はそれに構う様子もなく、話を続ける。
「妖魔の体が孕む事は無い。普通ならばな? この私、妖魔の王の力があれば、不可能をも可能に出来る。私が眠っているのを良い事に、奴は処女懐胎をしたのだ。その為だけに、私の崇高なる肉体を人間の女に寄せた。その目的が何か分かるか? 世が世なら神として崇め奉られるような奇跡を起こした理由、それはな、奴は自分を――妖魔の王を殺す為の力を、妖魔の王の力によって御子に授けようと企んだのだ。己を殺す為に、己が力を分け与えるとは、なんたるマッチポンプか。実に、失笑ものだな。……だが、妖魔の体は所詮、人の体を模したに過ぎない。人の赤子を胎の中で育て、産み落とす事など出来るようには造られていない。そんな初歩的な事すらも忘れていたあ奴は、我が妖魔の王を殺す力を授けた御子を自らの失態で失いかけた、その時だ。あ奴も所詮は私の人格。くくくっ……、懐妊したばかりの人間の胎の中と交換すればいいと思い付いたのは中々傑作だった。そこで目を付けたのが、例の倶利伽羅の夫婦だ。くっ、くくくっ……! 我が身可愛さ、いや、我が子可愛さに人の子すらも殺す奴の発想には、些か驚いたさ。私では絶対に思いつかない小細工だからな。――その結果、お前は母親の霊力を食らってすくすくと育っていった。人の形をして出て来たのは、一時的とはいえ人間の母親と繋がっていた事が原因かどうかわからないが、奇跡とも言えよう。奴は、もし仮に生まれた時点で妖魔の姿であったなら、妖魔の王の復活を知らしめることとなったとしても、奪い返そうと考えていたようだが、人として生まれて来たお前を見て、奴らにお前を育てさせることを決めたんだ。妖魔の王を殺す為に、倶利伽羅の力が必要だったからな。好都合だったんだろ。……だがまさか、その唯一の希望を託した小僧が、ここまで落ちこぼれだったとは、考えても無かっただろうなぁ?? 奴の一世一代を賭けた大勝負は、欠けた相手が余りにも弱すぎた。くくっ……、余りにも愚かな結果を、笑わずして見ていられるか? 実に、実に滑稽で、私をここまで楽しませてくれたものだ――」
くくくっ、と腹の底から湧いて出る愉快さを抑えきれないかのように笑う、白香厭麗。しかし、妖魔の王の表情に浮かぶ笑顔と言うのは、冷笑や嘲笑と言った類のもので、彼の者にとって愉快、と言うのは、人の不幸を刺す。
遂に語られた永新の出生にまつわる話は、真宵ですら知り得ないものであり、当事者ですらない真宵ですらも妖魔の王が紡いだ話からは幾らでも枝分かれする未来が見えるようだった。
ましてやそれが、当事者である永新ならば、尚の事。
「……白、が……俺を、作っ、た……? 母様に、移し替えて、その後は……? 母様達の、本当の子供になるはずだった、子は――」
「死んださ。私の胎の中でね。倶利伽羅の血を継いでいるからか、霊力に優れた男の子だったよ。でも残念。期待された将来も、与えられるはずだった愛情も、健やかに育つ事も無いまま、彼は世界に産声を響かせる事無く、死んださ。――それもこれも……ねぇ?」
「ッ!!!!??」
妖魔の王は、遠く離れた場所から永新の瞳を覗き込んで言外の意図を訴えるのだが、永新は妖魔の王が意図したものをそっくりそのまま受け取ると、食道を通って上がってくる胃液を堪えきれずに盛大に吐き出してしまう。
「う゛、ぉえ゛ぇぇッ!! えぁ……ッ、けはっ、ゲホッ……!! ぅ゛、え゛ぇぇ……ッ!」
白香厭麗が語った、本来燼月家に生まれるべきだった命の行方。
――彼が座るはずだった燼月家の椅子。彼を抱くはずだった母親の腕。彼に与えられるはずだった名前。彼に注がれるはずだった愛情。彼が過ごすはずだった家の温もり。
妖魔の王の言外の意図ではなく、永新が持つ想像力が、彼に気付かせてしまう。
そう、永新は、気付いてしまったのだ。
あるはずだった可能性を。本来居るべきだった、本当の「燼月永新」から。未来を、可能性を――遍く運命を奪ったのは、自分なのだと。彼の座るべき椅子を奪ったのは、人間でも無ければ、妖魔でも無い、中途半端で、何も持ち得ない、出来損ないと言う言葉がこれ以上無いくらい当てはまる程の、失敗作。そんな落ちこぼれの自分が、彼から何もかもを奪ってしまったのだ。
恐怖に染まった永新の心は、永新にとって何よりも辛く、苦しいその事実を前にして耐えられるはずも無かった。
「――ぁっ……、あぁ……、あああああ……っ、うわぁぁぁあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
硬く握り締めた拳を振り上げ、吐瀉物に塗れた地面を何度も何度も打ち叩く。
喉からは、永新が生きてきた生涯の中で最も大きな声が吐き出され、喉が裂ける。
たった今、その生涯はあるはずだった本当の「燼月永新」と言う男が得るはずのものだったと知り、本当の「燼月永新」の人生を犠牲にして成り立つ今の永新の人生に、永新自身が一切の価値を感じられなくなってしまう。
喉から血が吐かれようとも、打ち付けた額が割れようとも、全身が吐瀉物で塗れようとも、最早自分の体など、どうでも良かった。
他人から奪ったこの体に、一体何の価値があるのか。
人間だったとしても、妖魔だとしても。一度たりとも好きだと思えなかったこの体に、最早微塵も価値など感じられなくなっていた。
「あ、あぁ……あぁぁ――」
体も心も凍り付くような慟哭を続けた永新は、壊れたように呻く事しか出来なくなって、自分の体を小さく丸めて蹲る。それは、正しい意味での現実逃避であり、傍に立つ真宵は彼を立ち上がらせるのを躊躇してしまう。今ここで立ち上がらせたとして、永新は果たして立ち直る事が出来るのだろうか。かと言ってこのまま蹲らせている訳にもいかない。永新の立場であれば塞ぎ込むのが当然であると考える真宵は、即座に自死を選ばなかった事だけでも安堵する他無い。
一度でも選んだ事のある選択肢は、その後も必ず彼の前に現れる。
過去に命を絶つ選択をしている永新は、いつだって命を絶つ選択が出来る状態にあったからこそ、塞ぎ込むだけで済んだのは真宵にとっては僥倖。しかし、傍に居てあげる事しか出来ない真宵が、今永新の為に出来る事は何かと思考を巡らせていると、遠方より近付いてくる白香厭麗の声が真宵の鼓膜を震わす。
「壊れたなぁ、子犬よ。どうせなら、そのまま自滅してくれれば良かったものを。……して、どうする? その小僧を引き渡すのなら、お前の非礼は見なかった事にしてやろう。現代においてお前程の妖魔は貴重だからな。失くすのも惜しいと言うものだ。お前も、最早壊れた玩具に執着する程幼くは――」
「――お断りします」
「よく聞こえなかったんだが……何と言った? 私の命令が、聞けぬと言ったのか?」
真宵の中で、燼月永新を見捨てる、という選択肢は有り得ない。
それは、白との約束でもあると同時に、真宵の矜持でもあった。故に、悩む素振りも見せずに即答して見せたのだ。
その上で、真宵は自分に出来る事は何かと、早急に答えを出す。
真宵が見つけた答えと言うのが――、
「……永新」
「あ、あぁぁぁぁあ――」
「見ていろ、オレの背中を。……オレの背中だけを、見ていればいい。安心しろ、オレは、お前を信じてる。倶利伽羅である燼月永新ではなく、妖魔である燼月永新でもない。……お前を、お前の中に在る心を、信じているんだ。だから、見ていろ。片時も、目を離すんじゃねぇぞ」
「真宵、先生――」
――自分の背中を見せる事。
真宵は、お世辞にも口が達者な訳では無い。故に、行動で示す他無いからこそ、永新の顔を無理やりにでも上げさせる。
残酷な現実に打ちひしがれる永新の顔は、汁と言う汁でぐちゃぐちゃだったが、真宵には弟分のその顔がどこまでも愛おしく見えてしまう。両の手で挟んだ永新の顔を親指の腹で拭ってやると、左右で異なる色の瞳が真宵を映す。
その瞳に自分が映っているのを確認した真宵は、自分の掌が施す治癒術で癒えた額に口づけを落とす。
キョトン、とする永新に、上着を脱いで被せた後、真宵は背を向け、白香厭麗――妖魔の王に立ち向かう。
「――最強。その名に相応しい力を見せてやるよ、妖魔の王サマ?」
「……自惚れるなよ、子犬風情が――ッ!!!」
牙を剥く白香厭麗に対して、真宵はその顔に余裕の笑みを張り付けたまま、踏み出していく。
蹲ったままの永新の目には、「見ていろ」と背中で語る真宵の背だけを、ただ茫然と見送るのみなのであった。




