120話
――白麗。
異界より侵攻せし妖魔には国も国境と言う概念すらなく、その為、一人の王を支配者に据える君主制の体制などあるはずも無いのだが、その一人の妖魔は、全ての妖魔の頂点に君臨する者として【妖魔の王】と呼ばれていた。
またの名を、知悉騒嵐之妖主・白香厭麗と名乗り、今よりも遥か昔、千五百年以上も時間を遡った過去に、大量のしもべを引き連れた妖魔の王はこの世界を蹂躙するべく、襲来した。
それこそが白香厭麗が妖魔の王と呼ばれる所以であり、人類の天敵として何万、何十万にも及ぶ人的被害を出した最悪の存在。しかし、悪夢の到来は人類に新たな力を与える切っ掛けとなり、妖魔に対応する術を持った倶利伽羅と言う存在が生まれた。その倶利伽羅によって、数多の犠牲をも出しながら妖魔の王は封印され、蹂躙されるがままだった人類は、倶利伽羅によって新たな正史を歩み出す事になったのであった。
それから人間同士が海を渡っても尚も幾度となく血を流し、長い年月を経て発展を遂げていったのに比例して、妖魔の王の封印は弱まっていった。その長い月日が流れた封印の中で、妖魔の王には新たな人格が芽生えていた。
それこそが、白麗。
破壊と混沌を望み、騒乱を生み出したかつて妖魔の王とは異なり、新たに芽生えた人格は無暗な殺生を避け、妖魔達の幸福を祈るかのような慈悲すらも持ち合わせた存在となって帰って来た。妖魔の王の帰還を待ち侘びた多くのしもべたちは、殺戮と破壊こそが生命活動であるはずの妖魔にとって必要の無いものばかりを携えて戻って来た妖魔の王を、まるで変異体である、と称し落胆し、ほぼ全ての妖魔が反旗を翻した。
しかし、支配者たる王が統治する訳でも無いのに妖魔の王が存在する理由。妖魔の王を妖魔の王たらしめる性質である「同じ妖魔には殺されない」と言う摂理が働くが故に、誰一人として妖魔の王に手を出す事は叶わなかった。例え手を出したとて、妖魔の王を殺す事は出来ないのだから、全てにおいて無駄でしかない。それでいて、妖魔の王は何と言ったか。
――私を、殺して欲しい。
それは、妖魔の王のしもべたる多くの妖魔にとって、絶対の命令。しかし、妖魔如きに過ぎない者達にとって、妖魔の王を殺す事は絶対に叶わない。そして、その命令が意味するのは、例え妖魔の王を殺したとて、代替わりに挿げ替えてやると言う挑戦的な意味では無い事くらい、千年以上も待ち侘びたしもべ達には疾く理解できた。故に、多くの力ある妖魔は野に駆り出され、数多の戦いにてその命を散らしていった。
誰もが妖魔の王の願いを叶えられぬ、と己の命を本能に委ねて燃やし尽くした。妖魔の王の願いが如何に不本意であろうとも、願いを叶えるために動かなければならない妖魔達は諦める他無かった。
――だが、しかし。今、この瞬間。
妖魔の王の拙い祈りは、聞き届けられようとしていた。
妖魔の王の願いが、叶う瞬間が間もなく訪れようとしていた。
「――燼月! こいつは白麗様じゃねぇ!! 正真正銘、妖魔の王だ!!!」
宿無真宵の力強く頼もしい声が、永新の迷いや不安を取り除くように響く。
場所は、永新も見聞き知ったる妖魔の王が創り出した、領域内部。異界の簡易版、とも言うべきそれは、異界のような自在性は無いものの、外部との繋がりに関しては異界よりも融通が利く妖魔の領域。使い方によっては蜘蛛の巣のように餌を捕まえる網にもなるし、外部からの干渉を防いで密室を作り出す事だって出来る。今回妖魔の王が選んだのは後者の使い道であり、その内外を行き来できる唯一の真宵が中にいる以上、この領域に踏み込んでこれるのはこの世に誰一人として居ない。故に、封印を解いて覚醒した妖魔の王と対峙するのは、ライダースジャケットを翻して手加減一切無しに妖魔に襲い掛かる宿無真宵と、妖魔でありながら妖魔の王を殺す力を秘めた少年、燼月永新の二人のみであった。
真宵の「躊躇うんじゃねぇ」と言う言葉を受けた永新は、黒曜石のような漆黒の髪をかき上げて息を吐いた後、髪色と同じ漆黒の右目と、紫と黄が重なり合ったマジックアワーの空色をそのまま切り取ったかのようなアメトリンの左目を瞬かせる。左右の異なる色をした瞳は、捉える景色もまた左右で異なる。その差による違和を感じる事無く、永新は腰を落とし、四肢に力を込める。
永新の四肢は、呪われた四肢。一万匹もの妖魔の血を啜り、一万匹もの妖魔の本能に晒され、一万匹もの妖魔の憎悪に塗れたその四肢は、永新に変わる為の力を与えてくれた。全てを変えてしまう、力を与えてくれた。全てが始まり、全てが終わるその瞬間まで、永新はこの四肢を呪うし、感謝するだろう。
永新は首から提げた雷の宿る首飾りに祈るように触れた後、永新は全身に迸る霊力を滾らせる。心拍数を跳ね上げ、全身に巡らせる血に四肢が歓喜するかのように震え上がる。最後の戦いであるからこそ、永新は全てを出し尽くす。
その為の準備として、永新は力の変速を一段階上げる。
「――渾成気闘・焔」
倶利伽羅の技術革新の代名詞たる、纏炎。纏炎の最大出力に加えて、妖魔と人間の身体構造を理解した上で、霊力によって肉体の限界を突破する妖魔の技術を併用した、永新の為の、永新にしか使えない霊技。
妖魔化した四肢に浮かぶ無数の血管には炎が奔り、吐かれる息は灼熱をも宿す。
そうして迎え撃つは、永新を地獄から救ってくれた恩人。永新に可能性を与えてくれた恩人。永新に居場所を作ってくれた恩人。大好きで、尊敬していて、何よりも大切な、白――、
――の、姿をした【知悉騒嵐之妖主・白香厭麗】の名を持つ、妖魔の王。
「ハハハッ!! 子犬風情が、私を御する事が出来るとでも思ったか――ッ!!」
「チィッ……! 下がれ、燼月ッ!!!」
「――ッ、我流・邪空ノ葬」
永新の目では、妖魔の王、白香厭麗が如何にして最強無敵と名高い真宵の瞬間移動を妨げたのか、如何にして真宵の攻撃を避けたのかが分からない。しかし、こちらに向かってきているのが分かっている以上、その向かう先に炎を置いて措けば、ただそれだけで白香厭麗はその身が炎で焼け焦がされるはず。そう考えた永新は、真宵の「逃げろ」と言う発言も無視して妖魔の王を『邪空ノ葬』にまで誘いこむ。
真宵の横を抜けて、永新の元に駆けてくる妖魔の王。しかし、永新の目には、妖魔の王がコマ送りのようにいくつもの絵が重なって動いているかのようにしか見えず、真宵が確保してくれた彼我の距離はたった三度の瞬きで無かったものにされてしまう。
しかし、妖魔の王を誘い込む以上、向こうから永新に手を伸ばしてくれるのは好都合であり、妖魔の王の手が永新に触れようとした、その時。永新は予め用意して、巧みに痕跡を隠していた炎の軌跡に霊力を込め、妖魔の王を業火で焼き付くすべく全ての邪空ノ葬を発動させる。
それは妖魔の王の進行方向、真宵の元から永新へと続く道を作り出すかのように交差し、その道を通るもの全てを焼き尽くす悪魔のような道へと作り替える。
そして妖魔の王がそれを食らったのを見届けた、次の瞬間――、
「――熱烈な歓迎をどうもありがとう、我が息子よ」
「ッ!?」
右の肩に体重が乗り、耳元でそう囁く声と共に、永新は頬を撫でられる。
羽のように軽い体、男のものに変わっていながらも面影が残る蠱惑的な声、白魚のような指。
そのどれもが白のものであり、妖魔の王が我が物のようにそれらを振るう現実を苛立ちを覚えると同時に、永新は心臓を鷲掴みにされたかのような恐怖を味わう。
瞬間、全身の汗腺は開き、ぶわっ、と大量の汗が永新の額に浮かぶものの、全身を支配されてしまったかのような感覚に陥った永新は、指の一本すら身動き取る事が許されていないかのようで、眼球を動かす事と呼吸をする事以外、何も出来なくなってしまう。
そんな永新と密着した白香厭麗は、白の顔で、白の声で、永新を貶める。言葉の意のまま、甚く失望した気配を漂わせながら。
「私の生命に手が届き得る力。それを我が息子が持ち得るとは――実に滑稽。実、魂が震える話だとは思わないか? ……だと言うのに、妖魔の王の名を汚す程に……貴様は弱すぎる。弱きことが罪であるとするのならば、貴様は大罪人だ。慈悲など与えぬ。貴様の生は、何一つとして意味が無かったと知れ。万死に値する。故に、お前を殺――」
「燼月から、離れろ――ッ!!!」
「ぐぶ――ッ」
永新の顔を白魚のような指が這う度に、張り詰めた緊張が自分の呼吸の音だけを大きくしていく中、永新の鼓膜に世界の音を取り戻したのは、真宵の鼓動であった。
白香厭麗の妨害を抜け、永新の元に瞬間移動した真宵は、永新の顔の横に頭を置いた妖魔の王の顔面を、岩盤をも打ち抜く威力を誇る蹴りで粉砕し、妖魔の王の手より永新を奪い取る。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ――」
「大丈夫だ、安心しろ。お前の事は、オレが命を懸けてでも守る。そう約束したからな。だから、お前は逃げていれば――」
頭部が吹き飛ばされ、全身から脱力した妖魔の王の腕の中から永新を奪うのは難しい事ではなく、真宵は永新を奪った後、妖魔の王を視界に捉えられる範囲で領域内を瞬間移動し、離れた場所で恐怖に呑まれた永新を抱き寄せる。
妖魔の王はその名に相応しい強大な力を有している。封印を解いて抜け出したのは白の人格の方であり、その間も白香厭麗と言う妖魔の王の本体は白の体の中で封印され続けて来た。故に、今現在の妖魔の王は、長い年月の間封印されていた影響で力の殆どを失っている状態であった。
それでも、全盛期の倶利伽羅を相手にして、討伐は不可能と言わせしめた実力は本物。それに加えて、妖魔の王が放つ権威は、力とは違って妖魔の王と言う存在そのものに染み付いているが故に、決して衰えてなどいなかった。
それに中てられた永新は、瞬く間に思考を恐怖に染め上げられてしまった。
妖魔の王の言葉の通り、この戦いにおける最低ラインは、人化した真宵と同等の実力を持つ者であり、今でもその真宵に片腕で御される永新は、どう考えても実力不足。足手纏いであった。
「――っ」
「……燼月? おい、燼月?」
命と引き換えにルゥの目を、羅威竿の雷を引き継いだ永新は、少しでも強くなれたと勘違いしていた。
人から分け与えられた力で強くなった気になっていたが、実際はたった今味わわされたように、妖魔の王相手に永新は手も足も出せないのだ。迎え撃つ、などと言う思考は余りにも傲慢でつけあがった思想だと言うのを否が応でも思い知らされた。
その上、自分は守ってもらう事しか出来ない。
それは自分が弱者である事を突き付けられているかのようで――、否。永新は弱者であり、この戦いには分不相応である事に変わりはない。
だと言うのにこの場に連れて来られたのは、妖魔の王を殺す事が出来るのが、永新だけだから。しかし、それは裏を返せば、永新ではなく、永新が持つ唯一無二の力を見越しての事。永新自身が望まれたのではなく、永新が力を持っているから、選ばれたのであった。
分不相応、実力不足、足手纏い。そんな事、誰に言われずとも分かっている。その事を、どうして今になって忘れてしまえたのか。
羅威竿から力を授かったから?
ルゥか思いを引き継いだから?
自分は「選ばれただけ」なのに、たったそれだけの事で自分が強くなったと勘違いした馬鹿野郎は、どこのどいつか。
――俺だ。
これまで不運な事に、選ばれ続けて来ただけの自分が、何をどうすれば、妖魔の王なんて化け物に立ち向かう事が出来たのか。言われてようやく自覚した。今までの自分は、ただの自惚れに浸っていたに過ぎないのだと。
「…………こんな事なら、こんな惨めな思いをするくらいなら、誰にも見つからず、世界の隅で、ひっそりと、死んでいたかった。選ばれたくなんて、なかった――」
「っ……!」
たった一言。
会話では無く、一方的に言葉を浴びせられただけで、永新の心は簡単にポッキリと折れてしまった。
様子のおかしかった永新であったが不意に零された彼の言葉に、真宵は衝撃を受ける。
永恋に見初められた事。
学園で虐められた事。
父親に疎まれた事。
母親を亡くした事。
そして、白に救われた事。
そのどれもが、永新は「選ばれた」と言っても過言ではない。
実際に、彼は運命のいたずらによって、本来であれば経験する必要の無い経験をいくつも積んでいる。
心が壊れるまで誰かに傷付けられる事も、近しい人の命が奪われる事も、関わったばかりに大切な人の命を危険に曝す事も。
普通に生きていたならば、経験しようも無いような事ばかりを。
そしてそれらの経験は、彼が「選ばれた」からこそ降り注いだ試練であって、それらを乗り越える事で永新は強くなっていった――と勘違いしていた。
彼は最初から、一度として「選ばれたい」などとは思っていなかったのだ。
選ばれた結果、永新は何度も何度も傷付けられ、心は常に擦り減った状態。そこに、選ばれたから、人の身では到底抱えきれない程の重荷を、何の説明も無く背負わされたのだ。それは正しく、詐欺紛いであり、幼かった永新は心の弱みに付け込まれ、騙されたと言っても過言ではない。
だと言うのに、燼月永新は心優しい少年であるが故に、手足が潰れようとも、肉体が、精神が疲弊を訴えようとも、一度背負った重荷を下ろす事は無かった。
騙されていても尚、選ばれた事を疎んでいても尚――彼は選ばれた事に対して、受けた恩に対して感謝した。そう在るように、教えられてきたから。心優しくあれ、と言われてきたから。
だからこそ、永新は妖魔の王の権威を前に、潰れざるを得なかった。
既に限界を超えていた永新の重荷。誠一郎との一件で、ただでさえ潰れかけていた精神状況に追い打ちをかけるかのように羅威竿とルゥの想いまで引き継いだのだ。限界まで積み上げられたジェンガのように穴だらけで斜めに傾いた永新の心は、それらを支えられる力なんてものは疾うに残っていなかった。
後はただ、ほんの少し小突いてやるだけで、簡単に崩れ落ちる。
使命感と、想いを継いで強くなった自分の虚像、と言った、吹けば飛ぶような支えしか残っていなかった永新の心は、永新が隠していた心の声を漏らして、潰れてしまうのだった。
「――ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……ッ!」
選ばれただけ。そう言って誰かの所為にする事さえも永新にとっては苦痛が生じ、自分で選ばなかった事に後悔を吐き続ける。謝罪の言葉は、選んでくれた人々に対してだろうか。詐欺まがいの手法で騙されておきながら、それでも受けた恩着に報いる事が出来なかったと嘆く彼を、誰が責める事が出来るものか。
「――私の子であると言う事実さえなければ嗤えたものを、ただその一点が、私の興を削ぐ……。己が歩む道すらも人に委ね、自分で何もしてこなかった付けが回って来ているだけであろう? 人を逃げ道にしておきながら、自分が追い詰められれば人の所為か。どこまでも滑稽よな。お前もそう思うだろ、子犬」
「……っ」
永新の置かれた環境を知っても尚、白香厭麗だけは、例外であった。
砕かれた首から上を再生しながら笑って見せる妖魔の王は、真宵が忠義を誓ったはずの白と同じ顔、同じ声をしているはずなのに不気味であり、不快でもあった。
そもそも妖魔の王に人の心など求めるだけ無駄であり、白と言う存在が如何にして変異体と呼ばれるかが分かると言うもの。同時に、真宵もまた、妖魔の王と同じ意見を抱いていたのもまた事実。それは真宵が妖魔であり、目的を果たす為ならば全てを為す覚悟があるから。
だが、永新は違う。
永新にはそもそも、選択肢が与えられなかった。
選ばれなければ、彼に待っていたのは「死」のみ。選ばれる事だけが永新にとって救済であった以上、彼は縋るしか無かった。頼るしか無かった。受け継ぐしか、無かったのだ。
――そうする事でしか、彼は生き延びられなかったから。
「……まぁ良い。それよりも、だ。その様子では、知らないのだろう? 小僧、貴様のルーツを。貴様が私の子となった、経緯を」
「……白の、子が――」
「燼月、聞く必要はない!!」
「聞かずとも、聞こえる声で話せば良い。どれ、教えてやろうか。貴様の出生について――」
声に乗せて運ばれる、恐怖。一つでも声を聞けば、泥沼に引きずり込まれるかのような恐ろしさを前に、永新は耳を塞ごうとする真宵を押し返してでも、妖魔の王の言葉を聞き入れようとしていた。
――どうしても知らなければならない。
そう感じていたからこそ、聞き入れる度に脳が侵されていくような感覚を覚えながらも、妖魔の王の口が紡ぐ永新の出生の秘密に耳を傾けるのであった。
こいつ、いっつも絶望してるな……。




