10話
ジリジリと肌を焼く灼熱の日差しが降り注ぐ夏真っ盛りの時候。
毎年更新される熱さの中で、永新は今日も気絶するまで走らされる。
倶利伽羅の学園における基礎教育は基本的に詰込み型で、日に数時間程度の授業を行うのみ。それ以外の時間、学園では霊力の実践授業が一日の大半を占めていた。だが、未だに霊力をまともに扱えない永新にとっては霊力の実践授業は体作りを強制される時間であり、皆が修練場で霊力の扱いを学ぶ場にすら立つことが出来ないのであった。
霊力の励起でスタートダッシュを決めた永新であったが、あの日から数か月経った今でも永新は停滞したまま一歩すら進むことが出来ていない。それに比べて、真っ当な鍛錬を積んで霊力の扱いを学んで伸びていく他の生徒達は順調に前へ前へと進んでいて、当初はかけ離れていた永新との距離も、最早目と鼻の先とも言える程に詰められていた。
そうなると永新にも焦りが浮かんでくるものの、破魔弓術初級を一発放つだけで気絶してしまうのは変わらない為、ただひたすらに無心で走り続ける他無いのであった。
「僕は、いつになったら……」
拭った傍から汗は噴き出し、簡易霊具である修練着は重みを感じる程に汗を吸い込んで汗でぐっしょりと湿った下着が腰回りに不快感を訴えさせる中で、永新は修練場の横を通る度に嫉妬と憂いが混じり合った感情の視線を送る。
自分も参加させて欲しい、と何度老教師に訴えかけようとも、老教師が出した最低限の線引きである「気絶しない」と言う課題を永新は乗り越えることが出来ずにいた。そして、その度に自分が戦闘不能に陥る事で周囲にどれだけ迷惑をかけるのかを説き伏せられ、永新はすごすごと引き下がるしか無いのであった。
一体いつになったら自分は彼らと土俵を同じくすることが出来るのだろうか、と自分の不甲斐なさに何度も打ちひしがれても、永新は決して諦めない。
努力を続ければ、いつか必ず花開く時が来るからと信じて、永新は一人走り続ける。
「……燼月、あんたまた走らされてんの?」
「あ、御厨さん。御厨さんこそ、どうして此処に……」
「お手洗い言ってただけよ。それじゃあ、あたしはあんたみたいな落ちこぼれとは違って、霊力の授業があるから忙しいのよ」
永新のマラソンコースの途中で待ち伏せしていたかのように御厨七星が挑発するかのように言葉を投げかけてくるが、それが彼女なりの気遣いの一端なのだと気が付いたのは、七星が他の四家同様に破魔弓術初級を扱えるようになったという噂を耳にしてから。
自分の言葉が四家程の彼女の糧になった、などとは自惚れにも程があると言えるのだが、これまで興味も欠片も無かったような対応から、きちんと永新を見て軽口を飛ばしてくるようになったのは余裕の表れのようなものを感じて、永新は羨ましいと思う反面、彼女の努力が実ったのを素直に賞賛したいと思えた。
だからこそ、今では無駄だと思えるこの体力づくりの一環であるマラソンも、いつか役に立つ時が来るのではないかと思う事で、妬み嫉みに心が染まるのを苦痛で誤魔化し続けているのであった。
「……水、飲もう」
七星と分かれて、長いマラソンコースを一周終えたところで、永新は独り言を零す。
霊力の実践授業が始まって、一人の時間が増えた永新はこうして独り言を零す事が多くなったが、それを注意してくれる人は誰もいない。
心が乾くと同時に、流した汗が喉の渇きを訴える。
流石の老教師も鬼畜ではないため水分補給は許しを得たのだが、監督教師はあまり良い顔をしない。
その為、監督教師が例に漏れず修練場に顔を出している頃合いを見計らなければならないのだが、永新が置かれている状況から見てもその程度の我慢は容易いもの。
修練場から聞こえてくる騒がしさを羨みながら、永政から与えられる生活費で購入したペットボトルに手を伸ばした、その時だった。
「火打ち――」
――漏れ聞こえる喧騒に混じって破魔弓術初級を放つ声が聞こえたのは。
修練場から聞こえて来たものかと気負わずに、永新が水の入ったペットボトルを傾けた直後に、事件は起こった。
「――、ッ!?」
何処からともなく放たれた矢は、ペットボトルを穿ちて永新の目と鼻の先を掠めたかと思うと、永新のすぐ横で火炎が弾け、花弁を散らすかのように火花が飛び散る。
永新は寸前でペットボトルを持っていた手に走った衝撃によってペットボトルを手から離して蹲っていたが、その痛みが何かに思い当たるより先に永新の鼓膜を破りかねない轟音が鳴り響く。
「っ?! あ、熱い、熱いッ、――!!?」
咄嗟に蹲ったおかげで火炎爆発による被害からは免れたものの、弾けた炎熱は無数の火花となって傍に居た永新の生身の体に降り注ぎ、火花は容赦なく永新に肌を焼く痛みを味わわせる。襲い来る激しい熱と痛みに堪らず地面に転がった永新は患部を反対側の手で押さえるのが精々。
ペットボトルを持っていた手は、それが掠ったせいか肉を裂き、多量の出血をしていると言うのに降り注いだ火花によって生じた火傷の痛みの方が大きい余り、その痛みすらも感じる暇がない。
倶利伽羅として痛みに慣れる指導を受けて来たものの、突如として永新の身に降りかかった出来事と、自分の身体が血の赤に染まっていく有様を目の当たりにした永新の頭はたちまちパニックを起こし、激痛に喘ぐ身体は腰を抜かして滂沱の涙を流すばかり。
「――ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ……、っ!!!??」
激しい痛みに堪えながら、何が起こったのかを認識しようと頭を働かせるが、パニックで真っ白になった頭に思い浮かぶのは、あと一歩でも前に出ていたら撃ち抜かれたのはペットボトルではなく、自分の頭だった――と言う事実のみ。
そう思い至ってしまえば、後になって恐怖がじわじわと広がっていく。
バクン、バクン、と大きな音を立てて鼓動する心臓と同時に股間部分に強い湿り気を感じるも、永新の感情は全てが恐怖心で塗り潰されていて恥を感じる余裕など一切ない。
「大丈夫か、永新!?」
死を間近に感じた永新がパニックに陥って過呼吸を起こした時、一番に永新の元に駆け付けて来たのは思いもよらぬ人物、天炎晴也だった。
「ゆっくりだ、ゆっくり息を吐け。大丈夫、落ち着け、落ち着くんだ……!」
晴也は、永新が「神童」と呼ばれるようになってから永新にとって関わりが増えた人物であり、その意図は読めないながらも何かと永新を気にかけてくれる人物。四家である事を笠に着ない様子で永新に関わる事で、永新に対するやっかみはより陰湿さを増したと言えるのだが、それでも両親に心配をかけるような嫌がらせが落ち着いたのは永新にとっても救いであり、学園内で永新が心を開き始めた数少ない人物でもあった。
そんな彼が一番に駆け寄ってきては永新を落ち着かせるべく背中を擦る。
それでも、パニックに陥った永新の頭は制御不能な状態で、吸っても吸っても息苦しい状態が続く余り、晴也の声が届いていないかのように狂ったように呼吸を繰り返す。
「――何の音だ!?」
永新が苦しみに喘ぐことも出来ない状況の中、晴也に続いて火花が弾ける音を耳にした監督教師が駆け付けてくると、目に見えて分かる程に多量の出血と晴也に支えられる永新を見た教師は慌てた様子で事態の把握に努める。
けれども、音に聞いた教師に続くように騒ぎを聞きつけた生徒達が次から次へと「何事か」と様子を伺いに顔を覗かせたせいで、修練場内部で教鞭を執っていた老教師までもが騒ぎの元に足を向けてくる。
「まだ授業中だぞ。一体何を騒いで――ッ、燼月!? こ、これは一体、何が起こったと言うのだ!? 何をどうすればこのような事態になると言うのだ!? 貴様は燼月の監督を任じたはずだろう!! 一体何が起こったらこうなるのか、一から納得のいく説明をだな――」
「先生!! そんな事よりも、永新の怪我を……!」
「……っ、そうだったな。すまない、頭に血が昇り過ぎた。天炎、お前はそのまま燼月を保健室に運んでやれ。手が足りないようなら――」
「――永新ッ!! 永新、永新えいしん、ッ!!!」
「永恋っ、落ち、着いて……! 嘘、何この、馬鹿力……!?」
「はなっ、して……! 永新が、永新が――ぁっ……」
「手荒な真似をしてごめんなさい、小暮日さん。これで少しは落ち着くでしょう。……七星さんは晴也さんを手伝ってあげて? 獅子王さんは私と一緒に事態の収束をお願いできますか?」
「永恋の目が覚めた時が怖いが、それくらいならば任されよう」
「先生方はそこで下卑た笑みを浮かべる生徒達から事情を聴取なさるとよろしいかと。霊力の痕跡がありありと残っていますから……」
「「「――、ッ!?」」」
「っ、永新!? しっかりしろ! おい、永新!! クソっ……、七星! 手伝ってくれ!!!」
自分が注目の的になっているのを感じて緊張が走れば走る程呼吸は更に苦しくなって、次第に意識が朦朧とし始める。
朧げな意識の中、鬼気迫る形相でこちらに駆け寄ろうとする永恋の姿が視界の端に映るも、カヒュッ、とか細い息の音を上げた後、突如として永新の全身から力が抜ける。余りにも突然の脱力に危機感をあらわにした晴也は存外慌てて七星を呼び寄せて、様々な思考が頭を過る中で永新を保健室へと運び込むのであった。
「――ら、言った――いか」
「まさ――事するとは――いじゃない」
「――け脅かせ――って――」
「――たしだっ――」
意識が浮上し始めた半覚醒時。
うつらうつらとした意識の中で、永新は傍で誰かが話し合っている声を耳にして目を覚ましていく。
「んぅ……」
永新が身動ぎした事でその会話ははたと止まって、永新に心配の眼差しが注がれる。
ぼんやりとした目が周囲を映すのだが、シルエットさえも歪んだ視界に空目した永新はこの場にいない人物の名を口にしてしまう。
「え、れん……?」
「……」
「……」
鉛のように重たい体を持ち上げて彼女の名を呼ぶのだが、次第にはっきりとしていく視界に映った世界に、永新が求めた彼女の姿は無いのであった。
代わりに、普通なら決して有り得ない顔触れが並んでいるのを見て、永新の頭の中に気を失う直前の記憶が流れ込んでくる。
「てんえんくん、と、みくりや、さん……。どうしてここに……僕は確か――」
「永新、落ち着いて良く聞いてくれ。永新は――」
思い出したくも無い記憶が湧き上がってくるのを止める手立ては無いものの、永新は思いの外取り乱すことなく記憶の捻出を終える。
けれども永新の心中を知る由も無い晴也と七星が緊張し、意を決した様子で口を開く直前で、永新は落ち着き払った様子で言葉を挟む。
「全部、覚えて、ます。でも……」
凄惨とも取れる記憶を思い出したとは思えないような、落ち着き払っているとも取れれば、どこか他人事のようとも取れる永新の反応に晴也と七星の二人は訝しむ。
だが、永新がそんな反応を見せる理由は、続く言葉で明らかになった。
「どこにも、怪我が見当たらないのが、不思議で……」
そう言って、被せられた清潔な布団から両手を抜いて見せた永新は、記憶の中では受けていたはずの大怪我が嘘のように綺麗さっぱり痕も残さずに消えている事に驚愕する素振りを見せる。そのせいで実感が薄れているとも言えるのだが、そのお陰で永新はそれ以上の精神的負荷を覚えずに済んだとも言える。
「永新は霊力での治療を受けるのは初めてか? 俺は切れた手足がくっ付くのだって見た事あるんだぜ? だからあの程度の傷、治せないと医務官としては恥で――「誰が恥だって?」――痛ェッ!?」
「ま、真宵先生……!」
「……動けるようになったんならさっさと退いてくれよ。ベッドに放り込まれたいガキ共はまだまだ後が閊えているんでね」
晴也が和ませようと戯言を口にしたと同時にその背後に現れると言う驚愕の一部始終を目撃した永新に対して、白衣の女性は安心させるのか脅したいのかどっちか分からない素振りを見せて永新の頭を撫で付ける。
黄昏時の空をそのまま髪に投影したかのような明るい毛先は、頭頂が濃い藍色に見える事から染め色である事が分かるのだが、荒々しさと清廉さを両立させたかのような特徴的なウルフカットは藍と染め色が生み出すグラデーションがまるで一つの芸術作品かのように永新の目には映る。
安心させるように笑顔を見せた際に唇の端から覗く一際鋭い犬歯は彼女のチャームポイントであり、患者は患者であると言う貴賎ない対応……、と言う名の粗雑な応対が多くの生徒から好評である反面、家柄に重きを置く倶利伽羅の多い環境ではその応対にケチを付けられる事も多い存在。
そんな彼女は――、
「……」
「自己紹介が遅れたね。アンタは何度か保健室を利用しているようだけど、こうして顔を合わせるのは初めてだな。オレぁ、宿無真宵。この学園の医務官だ。宿無しって言ってるが、住む処は一応あるから安心しな。他のジジババと同じように倶利伽羅だが、治癒術が得意だ」
――霊力による、治癒術。
それは倶利伽羅が妖魔との闘いの上で継戦能力を求めた末に生み出した術。
対象の霊力を強制的に活性化させることで肉体の組成を捗らせる事で自然治癒力を増進させるもので、晴也が言ったように千切れた手足の接続も可能とする奇跡の術式。
「とは言え、治癒術はあくまでも緊急対処だ。本来なら使わねぇ方が絶対良い。お前達のようなガキに治癒術を使っちまうと、成長を阻害しちまうからな……。この辺りはお前達がもう少し大きくなってから学ぶところで……って、なんでそんなお前がこんな怪我を負った? ……一年の連中はそんな危険がある訓練はしないはずだろ。それこそ、弓術の初級くらいのもので――って事は、初級を人に向けて使った馬鹿がいるってのか!?」
「――その通りだ」
「……ジジイ。それが事実だとしたら、てめぇ、どの面下げて被害者の前にやって来れんだ? あ゛?」
倶利伽羅の鍛錬は常に怪我との付き合いであり、それ故に幼い頃から痛みに慣れるよう訓練されてくるのだが、それでも危険な事には変わりない。それゆえ、真宵は常日頃から怪我の絶えない学園内のあらゆる場所に治癒術を届けに動き回っている為、永新が気絶した程度では保健室に返ってくることは無かった。
そもそも今回永新が真宵の治療を受けることが出来た事自体奇跡のようなもので、偶然手が空いた真宵が保健室に駐留していたから良かったものの、彼女が不在であった場合は応急処置を施して倶利伽羅が運び込まれても文句は言わせない病院へと運び込まれる手筈であった。
「燼月。お前を危険な目に逢わせて、申し訳ない」
武骨で、頑固。
その印象が強い老教師は、真宵に凄まれたからではなく、自分がそうするべきだと判断してベッドで上体を起こすだけの永新に頭を下げた。その事に誰よりも驚いたのは、老教師に凄んだ真宵。
「……どう言う風の吹き回しだよ。てめぇ、オレに何か隠してやがんな?」
「…………燼月、お前はもう歩けるな? であるならば、今日はもう疲れただろう? 今は何も考えず、帰っていい。事態の把握は明日する。……明日から、また学んでいこう。――天炎、御厨も看病ご苦労。燼月同様に、もう帰って構わない」
老教師は背後から刺さる真宵の鋭い視線に振り返る事無く、口では労いながらもまるで催促するかのように永新達の退室を急かす。
有無を言わせぬ空気に居た堪れなくなった晴也と七星が退散するように保健室を後にする中、永新も釣られていそいそとベッドから這い出る。
それでも、これだけは聞いておかねば、と保健室を後にする寸前で振り返って老教師に尋ねた。
「……あの。永恋は……」
「小暮日か。……凄まじい荒れようだったからな。無理矢理落ち着かせて、先に帰らせた。いや、迎えに来させた、と言う方が正しいか。お前の事を、心から心配していたぞ」
「! そう、ですか……! 失礼、します」
老教師の返答にホッとした様子を見せた永新は、体の不調を感じさせない体の運びでそのまま走り去っていく。
そんな子供達を見送った後の保健室には物々しい空気が満ちており、その発生源は苛立ちを隠そうともせずに足先をパタパタと動かす真宵の姿が。
「……ガキ共を騙して肩の荷が下りたつもりか、ジジイ。いつまでそんな腐った真似をしやがるんだ」
「……そう言われたのだから、こうする他あるまい」
「上の命令は絶対……ねぇ。粗方予想は付くよ。どうせ、後方でふんぞり返ってるだけの世代筆頭様になんとか言われたんだろ。加害者はお偉いさんとこの倅か何かか? だが、それなら尚更、オレが治す必要は無かったはずだ。病院に連れて行ったところで、あの子の家は相当低い家柄……それこそ、名家の存続の為ならこの程度、揉み消すのも容易いんじゃなかったのか?」
「燼月……。あの子供は、小暮日の孫娘の婚約者だ」
「こっ――!? ……永恋ってのが、そうなのだとすれば、確かに伝手を回って小暮日に話がいった場合、困るのはアンタらだろうね。……それで? あの子の事はどうするんだ」
「…………どうもしない。それが決定。この件は、これで終いだ」
「はぁ!? それ本気……、で言ってる顔だな、それは。……本当に、それで、いいんだな?」
真宵が醸し出す重苦しい空気が、より一層重たくなって老教師の肩に圧し掛かる。
この返答が最後になると、そう感じさせるような、そんな凄みを、感じさせる。
だが幾つもの修羅場を潜り抜けて五体満足で現役を退いた老教師がその程度で折れるはずもなく、真宵の向ける真摯な瞳に、静かな肯いを映すのであった。
「……見損なったぜ、世界最強の倶利伽羅とも言われた男が、権力に屈する様なんて見たくなかったのによ。オレはお前には少しは期待してたんだぜ? それがこうも落ちぶれた姿を見せられるとはな。お前が何もしないのなら、オレは本業に戻らせてもらうぜ。せいぜい苦しんで死ぬと良いさ、耄碌爺。皇龍火殿」
老教師――皇龍火の小さくなった背中を見て、つまらなさそうに鼻を鳴らした真宵は慇懃な物言いを残して保健室から姿を消す。彼女が立っていた場所には微かな燃えカスが残るのみで、一人取り残された皇は長い時間をかけて刻まれた皺を震わせた後、自らの抱く正義を信じて前を向くのであった。




