106話
「随分と、頼もしい背中になったものだ」
「……勝ちます。勝って、誓いを果たすんです」
真宵と並び立つ永新の表情は険しい。
それは、覚悟だけでは語り切れない、彼に課せられた様々な人の想いが重荷となって永新の双肩にかかっているから。その中でも永新の覚悟と同等か、それ以上の感情というのが、言わずもがな、羅威竿とルゥの願いであり、二人と交わした誓いであった。
何があろうとも、これだけは守らなければならない、貫かなければならない。そんな思いを胸と目に宿して、永新は白い空間へとその身を投じる。
「――」
ここは異界。他でもない、白の領域であり、破壊され瓦礫の山となった御社の上で白は横たわっていた。
いつか見た和装姿に変わっている白の姿。白魚のような指を絡み合わせて胸の上に置いたその寝姿は眠っていると言うより、穏やかな横顔と相俟ってまるで死んでいるかのよう。
だがしかし、彼女から漏れ出る霊力がこの空間を形作っている訳であり、足を踏み入れてすぐに感じられたプレッシャーは、いつかの満月の夜に相見えたもう一人の白を前にしているかのようでもあった。
「……白は、どうなってるの?」
「夢の世界――つまりは白麗様の表層意識の中で二つの人格が鬩ぎ合っている状態、ってのが分かりやすいか。善意と悪意。過去の倶利伽羅による封印を解いたのは、白麗様の善意の方だ。悪意と言う名の本体の意識は、つい最近まで出て来やしていなかったんだ。だから自分の本性が目を覚ます前に殺してくれって願ったんだろうが、本性の悪意はそれを容認など出来なかった。だからこそ、体の主導権を奪い返そうと躍起になっている、って訳だ。幾ら善意の白麗様の力が弱い、っつっても、腐っても妖魔の王を名乗れるくらいだ。精神体でしかない本性様にとっちゃ、やりにくい事この上ないだろうな」
「もしかして、白が勝つ可能性も、無きにしも非ず?」
そうなればいい、と一縷の望みをかけて問いかけた所、真宵は悩む素振りを見せずに即座に返答をする。
「無いな」
簡潔に、一言で終わらせた真宵は、横たわる白から目を離すことなく、そう言ってジャケットのポッケに手を突っ込む。希望など感じさせない剣呑な眼差しを向けたままポツリと零す。
「希望的観測は止せ。弱みとなって付けこまれるだけだ。……オレ達はここに、殺すか殺されるかの二つに一つでやって来てんだ。全員が助かる未来はもう残されちゃいない。それくらい、分かってるはずだ」
横目を向けた真宵の視線の先は、永新の首から下がる首飾りと、宝石のような輝きを宿した左の瞳。
その視線が意味するのは、永新は今少なくとも二つの犠牲の上でここまで進んでこれたのだ、と言われているかのよう。
永新もまた、その事実を決して忘れていた訳では無い。けれども、真宵の一言でその楽観的人生観、希望的観測が弱点となって誠一郎の手で痛い目を味わわされた事が思い出された永新は、自分の手に滲んだ手汗を拭う。
「……二つに、一つ。殺すか、殺されるか……」
真宵までもを、自分の弱さで奪わせるわけにはいかない。もうこれ以上、自分のせいで誰かが傷付く事など容認できるはずが無いからこそ、永新は自分の弱さを徹底的に排除する事に決めた。
「それなら俺は、殺す事を選ぶよ」
「……変わったな、お前は」
永新がまさか奥歯を噛み締めてでも苦痛の道を往くとは思ってもみなかったからか、真宵は驚いて目を瞠る。驚愕から視線を横に向けたところで、永新の横顔が歪んでいるのが見えて、真宵は呆れたように笑みを零す。
真宵からすれば永新はまだまだ子供であって、何を強がっているのか、と鼻で笑えてしまう。けれども、そんな子供に全てを託さなければならないと言う事実には何も変わりなく、彼の端正な顔立ちが苦痛で歪な形を少しでも和らげてやろうと、ポケットから抜いた手で永新の頭を撫で回す。
『なんだよ、この火傷はよぉ……!』
真宵にとって永新は初め、ただの可哀そうな子供でしか無かった。
医務官として学園に囲われていた真宵は、連日のように負傷した倶利伽羅の子供達を治癒して回っており、医務室で腰を落ち着かせる時間なんて一日に三十分もあれば良い方だった。それでも妖魔故に披露の心配も無い真宵は言われるがままに医務官としての責務を果たしていた。そうする事で、彼女と共に『最強』の名を冠した倶利伽羅が見出したとされる生き甲斐というやつに出会えるかと期待して。
そんな僅か三十分にも満たない時間の中で運び込まれてきた大怪我を負った少年、燼月永新の火傷痕を見て、真宵は思わず呟いた。
学園の医務官、と言うのは、所詮訓練上で負った怪我を治癒させるのが目的で、酷くても骨折程度。火傷だって、霊技の暴走で腕が焼け爛れる程度。だと言うのに、運び込まれてきた燼月永新は入学したばかりの齢六つにしての大怪我。それも、学園内で起こった怪我の程度とは到底思わないような、重篤な火傷。もしも今この瞬間に自分が居なかったら、少しでも処置が遅れていたら、燼月永新の体には一生消す事の出来ない傷痕が残ってしまっていたとすら思えるような火傷を負っていたのだ。
訓練上ではない、技の暴発でも無いその火傷痕は、まるで誰かに霊技を向けられたかのような残酷極まりない現実を物語っており、それが僅か生まれて六年しか経っていない子供に向けられたのだとすれば、それがどれだけ可哀そうな話であるかなど、妖魔である真宵でさえも理解できてしまえる程に、人間は愚かしかった。
だが、それ以上に、目を覚ました永新の言葉に、真宵は耳を疑った。
『あの、永恋は……』
自分の事よりもまず先に他人の心配をするその子供がどこまでも憐れに見えてしまった瞬間、真宵は自分をこの道に誘ったかつての最強を見限る事を決意したのだった。
それから間もなくして、「私を殺して」とだけ伝言を置いて消息を断っていた妖魔の王が燼月永新に目を付けていると知った。それがなくとも、真宵は燼月永新を守ろうと動こうとしていた。それは偏に、かつての最強が手にした第二の生に繋がる『やりがい』と言う名の生きる目標だと思われたのだが、その時の真宵に自覚は無く、燼月永新と言う弱者を庇護する事だけを優先した。
しかし、彼は誰かに助けを求める事すら出来ない程に弱く、自分から逃げ道を塞いでしまうような存在であった。にもかかわらず、妖魔の王は「それでいい」と不敵に笑うのみで、主上の思惑を言い当てられない己の無能さを呪うばかりであった。
そして遂に、燼月永新に変革に火が灯された日がやってくる。
結局、真宵が永新を守る事が出来たのは、一度として無かった。人の枠に囚われている以上、真宵に出来る事など何も無かった。大人として、守ってあげなければならなかったと言うのにもかかわらず。
故に真宵の胸の奥には永新への引け目があり、拭えない贖罪の気持ちが燻り続けていた。
だからこそ永新が「変わりたい」と言えば変われるように手を貸したし、永新が前に進めるように背中を押し続けた。それは偏に、燼月永新と言う子供を子供のままで居させてあげられる環境を提供しようと言う、真宵のエゴでもあった。
どれだけ重い宿命を背負っていようと、永新には永新の生きる道がある。それを理解しているからこそ、例え妖魔になってしまったとしても真宵は永新には人である事を諦めて欲しくなかった。
――殺す事が、当たり前にならないで欲しかった。
だがしかし、無情にも現実は人としての永新を押し流していってしまうもので、度重なる不幸が永新を大きく変えてしまった。
真宵の手では、永新を守る事は出来なかったのだ。
そもそも、変わりたいと言った永新の言葉の通り、大きく変わった現状は永新が望んだものであり、変わらないでいて欲しいと言うのは永新の意思を無視した真宵のエゴ。永新は一度たりとも子供のままで居たい、などとは言っていないのだから。
それでも真宵は、永新には変わって欲しくなかった。
真宵の主である妖魔の王がそれを望んでいたとしても、永新がそうありたいと望んでいたとしても、変わるべきではないと、真宵は考えていたから。
妖魔の王の意向を無視したって良いとさえ、真宵は思っていた。
妖魔の王は、良い意味で永新の人生を大きく変えた。真宵には出来なかった、永新に手を差し伸べる事も、永新を周囲の害悪から守ってあげる事も叶えた。
だがそれは、永新の人生の可能性を閉ざしたとも言える。
永新の前には今、一本の道しか無い。
本来あるべきはずの、無限の可能性が広がるはずの道が、今は一本しか無いのだ。
それが妖魔の王が実現せしめた永新を庇護した結果だと言うのであれば、真宵にとってそれは正しいとは思えない。永新には、もっともっと広い世界があるべきなのだと。
だけども、今更それを声高に叫んだところで、もう遅いのだ。
抱えきれない程の感情を背負わされ、その重荷を下ろす事さえ許されない脅迫状態。そんな環境で永新が取れる選択肢など一つしかない訳で、真宵がそれを否定する訳にはいかない。
最早真宵がどれだけ引け目を感じようと、贖罪の意識に駆られようと、自分の道を選んで進む永新を肯定する以外の道は残されていないのであった。
「真宵先生は、俺に出来る事しか言わない。要求しない。……だから、今回もきっと、出来るよね」
「……あぁ、そうだな。お前なら、きっと問題無い」
「……永新って、もう一回呼んではくれないんですか?」
「ハッ。オレの名前呼びはそんな安かねぇ。……ただ、そうだな。全部終わったら、呼んでやってもいい」
「約束、ですよ」
「あぁ、約束だな」
まだまだ真宵の背丈を抜かすのには時間が必要で、永新は隣を見上げる事しか許されない。
黒く艶めくライダースに身を包んだ真宵は何よりもカッコよく、永新にとっては姉のような存在感を誇る。ルゥとは違う、強くて逞しい、大人な女性である。だからこそ、永新は真宵に憧れたし、近付きたかった。けれども、どれだけ努力しようとも、どれだけ手を伸ばそうとも、憧れには手が届かない。
手が届かないからこそ憧れだと言う人が居れば、永新はそれは違うと答えるだろう。
手を伸ばしたいと思えるからこそ、憧れなのだと。
その結果手が届くかもしれないし、届かないかもしれない。永新はまだ手が届きはしないものの、いつか必ず届くと信じている。真宵は、手を差し伸べてくれるから。永新が望めば、喜んで強くしてくれるからこそ、永新は自分の力で真宵を超えたかった。
だがそれは、今では無い。
今では無いからこそ、永新は様々な力に頼るしかないのであった。
「ルゥの目は、永新の目では捉えられない物を見ていてくれるだろう。羅威竿の雷は、永新の体を動かしてくれるだろう。だが、白麗様の力と言うものは、それでも尚、足りないだろうな。だから、オレが攻める。永新は自分の身を守る事だけに注力しろ。必ず隙を作るから、その隙を縫って、白麗様の体に血清を注入するんだ。いいな?」
「……今じゃ、駄目なの?」
無防備に横たわる白の体。それを前にして永新がふとした疑問を問い掛けると、真宵は「それもそうだな」と言って前に進んで出ると、壁にぶつかった。
あるはずのない、目に見えない透明な壁。真宵がそれに触れる度に空気が揺らぐかのようにヶべの向こうの景色が歪む。真宵の真似をするように永新がその壁に触れると、即座に壁の正体に思い至る。
「なんて、霊力……!」
「白麗様を中心とした周囲二メートル範囲を囲うように霊力によって守られている。それも、地上のみならず地下にも巡らされている。言うなれば、異界の中に生まれたもう一つの異界、って感じだな。異界に外から干渉するのは困難を極める。それも、妖魔の王の異界だ。オレでも干渉するのは難しいだろうな。だから、白麗様が起きるまでは白麗様に近付く事すら出来ねぇって訳だ」
「……ッ!」
触れた指の先から感じられる、分厚い霊力の塊。
異界の生成、発生条件すらも無視した強制的な異界の展開。それを成す為には尋常ならざる霊力を発現させなければならなず、永新には不可能な技術であった。そしてそれを白は簡単に実現させられると言う自分とのかけ離れた実力を改めて思い知らされた永新は、厚い霊力の壁に手を突いて、戦慄する。今からそんな化け物と戦うのだと、今更になって自覚せざるを得ない状況に陥り、永新の口の中は急速に渇きを訴える。
真宵に手が届かないような分際で、自分如きが妖魔の王に楯突くなど、恐れ多い事だと自覚しながらも、永新は首飾りを堅く握り締める。
今更逃げる事など叶わない。
ガラス球に映るアメトリンの瞳を見下ろして、固く誓う。
やるしかないのだと。
戦うしか、無いのだと。
相手は強大。強大な力、という表現すらも生温い、永新の認識を遥かに超えるような化け物を相手にするのだ。この程度で怯んでいてどうする、両の頬を勢いよく叩いて気付けすると、その様を見ていた真宵がけらけらと牙を剥いたような笑顔を向けてくる。
「気合十分だな」
「負けませんから」
「……肩の力抜いても良いんだぜ? 外じゃあ凍吉も待機してっからな。もし万が一、倶利伽羅がここを嗅ぎ付けたとしても凍吉が居るから問題ねぇし、もしも異界が解除されたら、白麗様はオレ達妖魔側との総力戦だ。つっても三人しか残ってねぇがな。だが、それすらも白麗様も望んではいないだろうな。下手したら連戦で倶利伽羅も加わるかもしれねぇんだ。それなら、自分の得意なフィールドで閉じ籠ってオレ達を相手した方が何倍も楽に決まってらぁ。それに、あっちさんはあっちさんで、人形使いの暴走で手一杯みたいだけどな」
「凍吉さんが……!」
妖魔の王に、姿をくらますのに必要な足は無い。
その足が、今回は敵としているのだから、一対多の戦闘は避けたいと願うのが当然。
もし仮に、この白の領域が破られたとしたら、ただでさえ白は自分同士の体の主導権争いで消耗しているところに襲われるのだ。如何に妖魔の王と言えど、最強の名を冠する真宵を相手にしながら異界の支援が無くなれば不利になるのは目に見えている。
故に真宵は、勝負はこの異界の中で決まると考えているようだった。
「それなら――」
と瞬間的に永新が口を開こうとした、その時だった。
触れていた霊力の厚みが割れ、大気が鳴動するかのように震え始める。まるで火山が噴火する兆候のような変化に、永新と真宵の間に緊張が走る。
――妖魔の王が、目覚める。
善意の白がか勝利して、いつものように微笑んでくれる、と言った永新の淡い期待を打ち砕くかのように、ゆらり、と動き出した白の体は、顔を覆い隠すように揺らぐ純白の髪の毛を手で払うと、その邪悪な笑みが陽の光の下に曝け出される。
「――ハッピーバースデイ、ってやつさ。燼月永新?」
女性的で蠱惑的な、慈母の如き永新の見慣れた白の顔ではなく、満月の夜に見た中性的で、悪意に満ち溢れた妖魔の王としての顔。丸ごと作り替えられているかのように不気味な笑みが永新を貫き、邪悪な声と共に永新に手を振って見せる。
「もっと笑顔を見せてくれよ。せっかく生まれ変わってやったんだ。祝ってくれよ……。この世でたった一人の――、お前の親の生誕をよォ??」
身を包んでいた和服を動きやすいように着崩し、これまで封じられていた霊力を解き放つ。
放出される霊力は永新の肌をじりじりと焦がす日差しのように熱い。
しかし、それ以上に永新の耳に飛び込んで来た声は、永新の喉を震わせた。
「……ッ!!!」
想定していなかった訳では無い。むしろ想定していたからこそ、この程度の衝撃で済んでいると言うもので、永新は声を失っても尚、白と対峙するのであった。
「その様子からして、知っていたのか……。つまらん。やつの最期の抵抗、切り札だとして? 貴様程度が私に対して何が出来ると言うのか。……いや? 目が覚めて一番にすることが、血の繋がった子を殺す……。実に面白いではないか。興が乗る――」
白の顔で、白の声で、永新を突き放すどころか、殺気を乗せて語り掛ける姿は永新にとって苦痛に満ちた光景。されども、永新の体は妖魔の王の霊力の顕現を前にして、震えが止まらないでいた。
やはり、圧倒的な力不足。この場に相応しくないのは自分が一番分かっていたとは言え、こうして実際に現実を突き付けられると認めざるを得ない。
妖魔の王にとって、燼月永新を殺す事は赤子の手をひねるくらい簡単だろう。
だが、だからこそ、永新は少しでも抵抗の意を示さなければならない。
窮鼠猫を嚙むように、例え絶対的な死が待ち受けていようとも、永新は己に課せられた誓いを果たさなければならない。
そうして覚悟を決めた永新が顔を上げると同時に、永新の体に纏わり付くような王者の霊力を引き剥がすかのように、熱風が白の領域に吹き荒れた。
「――白麗様ァ……、余所見は、いけませんよ、ッと!?」
「……子犬風情が、飼い主の手を噛むと言うか? 余興の邪魔をするでないわッ!!!!」
「……思った通り。今の白麗様よりも……、オレの方が断然強い。せめて、オレに本気を出させるくらいはあって下さいよ?」
「貴様ぁ……ッ」
陽炎を生んで瞬間移動を繰り出す真宵によって妖魔の王の目線は永新より外される。
地鳴りがするような霊力を渦巻かせる妖魔の王に対して、都度、真宵は挑発を繰り返し、妖魔の王の興味を惹き続ける。彼女の言葉の通り、真宵は人の形を保ったまま妖魔の王を翻弄し、掌の中とも言われる異界の中でさえも彼女は自由だった。
故に、永新は予め決められた通りに動き出す。
課せられた自分の役目を果たす為に。
交わした誓いを、果たす為に――。




