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102話

 



 倶利伽羅の追手を撒いた永新は、まるで都会に暮らす鼠のように人目を避けて路地裏を突き進む。


 手負いの永新を始末しようと倶利伽羅が迫る中、全身に血を浴びて、欠損した体を常人の前に披露した暁には、即座に倶利伽羅に居場所が発覚してその身に危険が迫るのは間違いない。その為、永新はあのコンテナ群を離脱してから長い時間をかけて何度も何度も回り道を重ねなければ、事務所へは辿り着けないでいた。


 誠一郎との戦闘からこの方、異界を脱出する時まで続いていた脳の興奮物質が痛覚を鈍化させてくれていたお陰で、本来であれば動く事すらままならないような状態でありながらも異界の探索を続けられていたのだが、倶利伽羅が集うあの場所から離脱すると同時にそのボーナスタイムは終わりを迎えて永新は己の全身を隈なく犯す激しい痛みに耐え忍んで歩かなければならなかった。



「……フゥ、フゥ、フゥ――」



 限界を超えた先で朦朧とする意識の中、永新は己の体に走る激痛で無理矢理にでも覚醒させられる。


 頭が割れそうな頭痛。四肢が千切れそうな激痛。体に空いた穴は風が吹くだけで、指の先まで痺れるような痛みが走り悲鳴が上がりそうになるのを、必死で噛み殺して喘ぐばかり。

 自ら斬り落とした左腕は止血を施したお陰で血は止まっているものの、今もまだ黒い炎でその身を焼かれているかのような幻肢痛が永新の神経を、そして精神を蝕んでいく。


 一人が背負うにはあまりにも重すぎる苦痛の数々は、倶利伽羅であればとうに死んでいてもおかしくない程の重症の数々であり、今でも永新が歩けてすらいる理由は、偏に妖魔であるからに過ぎない。妖魔であるからこそ、歩みを進めなければならないのであった。



「後、少し……」



 歩いて行ける、と言う事は、いつでも歩く事を止められる、と言う事でもある。

 それでも苦痛に苛まれる体を引きずってでも歩むことを止めないのは、一度でも足を止めてしまえばもう二度と動けなくなる事が分かっていたから。だが、その余りにも想像を絶する苦痛に、永新は何度も「誰の人目につかないような路地の片隅であれば問題無い」――そんな甘えた思考が脳裏に浮かんできてしまう。しかし、そんな場所こそ、妖魔が息を潜めている。もしも今、この場所で活動を止めてしまえば永新はまな板の上の鯉同然であり、抵抗もなく妖魔に貪られて姿を消してしまうだろう。かと言って、道行く見知らぬ人に助けを求める訳にも行かず、永新はただひたすらに無心のまま、とにかく人目を避けて、遠ざけて、自分の帰る場所までの道を歩き続けなければならない。


 何故ならば、永新には生きなければならないと言う誓約が、羅威竿から引き継いだ覚悟が胸に宿っているから。死ねない理由が、そこにはあったから。



 ――白麗(びゃくれい)様を、頼んだ。



 羅威竿の、最期の頼み。羅威竿の、遺言。

 彼の魂を首飾りに受け継いだ永新は、彼の願いを果たす、義務があった。


 故に、こんなところで死んでなどいられない。諦めてなど、いられなかった。



「――は」



 知らず、永新の口元には笑みが浮かぶ。

 気でも狂ったのかと思わざるを得ないような、淀んだ笑み。

 眼球を抉られた左の眼窩は血で固まって動かす事すら出来ず、疲労と精神の摩耗がありありと浮かんだ右目は決して笑っているとは思えない、泥のような瞳で目を細めていた。


 誰にも見つけてもらえず、誰にも助けを求められないこの状況。どこか懐かしさすら感じる、世界から隔絶されたようなこの感覚。


 過去に嫌と言う程味わったあの感覚を、もう一度味わう羽目になるとは思ってもいなかった。同時に、疲労や負傷の具合が違うだけで過去に一度味わった苦痛だと思ってしまえば、それまで鉛のように重たかった体が少しだけ軽くなったような心地すら感じられる。


 長い事、捨て去る事の出来ない重荷を背負わされていた体が、重荷を下ろした訳でも無いのに軽く感じる境地。それはまるで、過去の出来事をなぞっているかのよう。


 強烈な孤独は永新の砂上の楼閣のような心を簡単に削っていき、きっかけを与えられたが最後、永新が選んだのは自死だった。自死を決意した時の、無限に続くような絶望感に反して溢れ出る全能感。勝手に足を運んでくれるような、そんな感覚を覚えたのを思い出したかのように、永新の足取りは軽さを取り戻す。



「はは――」



 見慣れる程通ってもいない事務所までの道程を、人が通れるような道幅では無い入り組んだ路地裏を、不気味な笑みを湛えて駆け抜ける。


 この道を抜けた先には、皆が待っていると信じて。

 何でもないような顔をして、羅威竿が出迎えてくれて。(ハク)が、真宵が、ルゥが、誠一郎が出迎えてくれる、そんな在りし日の思い出を蘇らせる永新が、事務所へと続く最後の曲がり角を曲がった次の瞬間、それは全て、夢であったと、幻であったと思い知らされる。



「…………おかえり、えいしん」


「――」



 そこで待っていたのは、神妙な顔つきを隠そうともしないルゥが、ただ一人佇んでいるだけだった。



「えいしん、ひとり?」



 聞こえてきたのは、なんでもない、ただの問いかけ。

 羅威竿と誠一郎、それから永新の三人で出て行ったはずが、帰って来たのは、生きているのがやっとな状態の永新ただ一人だけ。そんな当たり前の質問であるからこそ、永新は自分が一人であると言う事実を受け入れざるを得ず、あらゆる感情の波が一挙に押し寄せて来た永新の体は遂に限界を迎えてしまう。


 ふらつく足取りのままルゥに駆け寄った永新は、自分の足に躓いて派手に転ぶ。

 一度足を止めてしまえば最後。もう二度と動かす事が出来ないとすら思えてしまえる程の疲労に襲われ、まるでその場に根が張ったかのように永新は体を少しも持ち上げる事が叶わなくなってしまうのだった。



「うっ、うぅぅ……っ。ルゥ、るぅ……、ごめん……っ! 俺、俺は……!!!!」


「……わかってる。ぜんぶ、わかってるから。いまは、ゆっくりやすんで。ゆっくりやすんで、ねておきたら、ちゃんとぜんぶはなそう。もう、じかんもないから……」


「ルゥ……?」


「だから、いまだけは――おやすみ、えいしん」


「待っ、て――」



 ルゥのささやかで穏やかな声が、強制的に永新を夢の世界へと誘う。

 今までどれだけ意識を失おうとも、風が吹くだけで全身に走る痛みによって覚醒させられていた永新の意識は、闇の奥の奥、意識の最も深い場所へとルゥに手を引かれていくかのように落ちていく。


 それから間もなくして、永新は目の端に光るものを宿しながら、寝息を立て始める。



「……こんなにていこうされるなんてね。うん、えいしんならきっと――」



 寝ても覚めても苦痛に追われる永新の頭を撫でて、誰に聞かせるでも無い独り言を呟いたルゥは、永新の半分しか無い体躯にもかかわらず横たわる永新を軽々と抱き上げ、人目につかないように居場所を事務所の中に移動させるのだった。











「――ハッ!?」



 次に永新が目を覚ましたのは、それから一夜が明けた翌朝の事だった。

 未だに荒れままの、片付けのされていない事務所の中で唯一腰を落ち着かせられる場所であるソファの上で横になっていた永新は、目を覚ましてすぐに人影を探した。


 意識を失う直前の出来事は全て夢で、目が覚めた今なら、羅威竿がひょっこりと顔を出してくれるに違いないと考えて。こんな夢を見たんだと泣き付けば、「俺様が簡単に死ぬ訳ねぇ」と笑い飛ばしてくれる事を求めるかのように。


 しかし、そんな永新の理想を虚しく切り捨てるかのように、決して揺らぐことの無い現実が逃避を許さなずに、現実のものとして夢ではない事を自覚させられる。



 ――失われた片腕。半分に割れた世界。そして何よりも、首飾りに宿った羅威竿の命。



 それら決定的な証拠たちが、あの異界の中で起こった出来事が現実のものだと言う事を証明して見せる。

 永新がどれだけ現実から目を背けたとしても、永新の肉体が、他ならぬ永新自身が、夢であって欲しいと願った理想を切り捨てて嫌と言う程に現実を突き付けてくる。


 現実を否定しなければならない永新にとって、自分自身の存在そのものが夢では無かったと証明してしまう、と言う事実がどれだけ残酷な事か。


 これまでの全てを受け入れざるを得なくなった、その時。

 呆然とソファの上で上体を起こしていただけの永新の耳に、事務所の扉が開かれる音が飛び込んで来た。



「羅威か――」



 現実を突き付けられても尚、その現実が受け入れ難かった永新にとって、その音はまるで目の前に垂らされた夢へと繋がる蜘蛛の糸のようなものであった。どれだけ望みが薄くとも、どれだけ希望が薄くとも、羅威竿が生きているかもしれない、と言う可能性が目の前にあるのなら縋るしかない程に、永新の心は追い詰められていた。


 故に、輝きを取り戻した永新の瞳は、羅威竿の姿を幻視する。



「――おはよう、えいしん」

「ッ!?」



 しかして、永新の目に映ったそれは、あくまでも幻。

 羅威竿のように見えた人影は永新の頭が生み出した幻に過ぎず、人影に重なった羅威竿の幻は背景に溶け込むように掻き消えていくのみ。


 そうして幻の剥がれた人影がルゥのものであった事を認識すると同時に、ルゥの声が永新の耳朶を打つ。


 途端、永新の頭は「帰って来た」と言う安心感を宿すと同時に、それはそれまで受け入れ難かった誠一郎の裏切りから始まり、羅威竿の喪失。永新の大切なものが、守らなければならないありとあらゆる尊厳を傷付けられ、蹂躙された現実が、それまで閊えていたのが嘘のように胸の奥にストンと落ちていく感覚を抱く。



「……えいしん。ないていいんだよ」



 そして、現実を受け入れてしまってからは、すぐだった。

 永新はルゥの顔を見るや否や、涙が止まらなくなり、酷い嗚咽と共に涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら自分の胸につかえていた複雑な感情を一から吐き出していく。


 羅威竿を守れなかった、見殺しにしたも同然の結果を生んだ事。

 香織を傷付けられ、絵麻を傷付けた自分の愚かさも、何もかもを吐き出していった。


 その間、ルゥはずっと永新の手を握った状態で「うん、うん」と耳を傾け、否定も肯定もする事無く、ただひたすらに寄り添い続けてくれた。

 永新にとってその行為は、もう二度と羅威竿が戻ってこない事を証明するのと同意であり、起こった事を過去にしてしまう儀式のようであった。過去に執着する永新にとってその行為は忌避感が強く、思いの丈を吐き出す事に後ろめたい気持ちがあったものの、そうする事で覚える充足感は、永新の傷付いた心を癒してくれる。そうして立ち直る事すら、失ったものに対する愚行とさえ思えていたのだが、不思議と永新は泣き叫ぶ事を止めなかった。正確には、止める事が、出来なかった。


 永新は何度も何度も「ごめん」と言葉を繰り返し、自分より小さなルゥの体を掻き抱くかのように縋り付く。


 一度壊れた心が、長い時間と様々な人との関りを経て、ようやく新たな芽吹きの時を迎えていたのだと言うのに、永新の心は易々と踏み躙られてしまった。それはまるで、永新には安寧を迎える事すら烏滸がましいと言われているかのようで。

 だからこそ、現実を受け入れていた永新は「自分の所為で」、と考える事で重くて苦しい罪を受け入れようとしていた。


 しかし、どんな人物、どんな生き物にでも限界があるように。

 一度壊れてようやく芽吹きの時を迎えたばかりの永新の心は、その罪の自覚を背負っていける程頑強ではなかった。故に、このまま押し潰されて壊れてしまうくらいならばいっそ――と、永新の体は、自分の意思とは異なる行動を取ったのであった。






 ――羅威竿は死なずに済んだかもしれない。

 俺の所為で羅威竿は死んだんだ。羅威竿を殺したのは俺だ。俺は香織も傷付けた。俺なんかと関わったばかりに狙われた。香織は俺を信じてくれていたのに、俺は香織を見捨てようとした。結局、俺は香織の事を守れなかった。俺は絵麻を苦しめた。俺を追ったが為に利用され、醜い姿に成り果てた。絵麻を傷付け、殺しそうになった。倶利伽羅に関してもそうだ。過去の諍いを引きずって、いつまでも恨んで、羨んで、憎み続けている。向き合わなければならなかったはずなのに、話さなければならなかったはずなのに、全てを突き放した。現実から目を背けるのは、楽だから。逃げるのは、楽だから。今までも、これからもずっとこうだ。変わらない。変わりたいと願ったところで、変わったように見せかけたところで、根幹は何も変わっちゃいない。舐められて、傷付けられて、前に一歩踏み出す事さえできない、弱い子供のまま。見せかけだけが変わったところで、俺はずっと、弱いまま。憎んで、怒って、恨んだ振りをし続ける、幼稚なガキでしかない。そうする事でしか、変われなかったから。だから憎む。全てを画策した、誠一郎を、憎んだ。羅威竿を奪い、香織を傷付け、絵麻を苦しめた誠一郎が、憎かった。だがそれ以上に、何も出来なかった俺自身が、何よりも憎い。誠一郎も、殺さない選択肢があったかもしれない。俺がもっと強ければ。小細工すらも打ち壊す力と、強い心があったなら、だれも傷付かず、死なせずに済んだ未来があったのかもしれない。だからこそ、俺は俺自身を許せないし、俺は俺が嫌いだ。だから俺は――。






 一度弱音を吐き出してしまえば、その後は面白いようにスルスルと本音が零れていくもので、止めようと意識を集中させればさせる程、永新の口は軽くなっていく。吐き出せば吐き出す程に心が軽くなるのだが、気持ちは落ち着きを取り戻していく。



「……ハァッ、ハァッ、ハァッ……」


「ん、よくがんばったね、えいしん」



 体の熱が上がっていくのに反して落ち着きを取り戻していく永新は、ようやく我に返る。

 永新が掻き抱く右手が彼女の背中を裂いたとしても、永新の体液でどれだけ汚れていようと、ルゥは変わらず、慈しみのこもった眼差しで永新の頭を撫でてくれる。



「えいしん。……つぎは、あたしのはなしをきいてくれる?」



 永新の涙を拭うかのように目の端を擦るルゥの手はとても小さく、それでも確かな命を感じられる体の熱に永新は首肯を返しながら、姿勢を整える。

 思い出すのも恥ずかしいような泣き言を訴えた後の静かな沈黙は永新にとって何とも言えないような時間であったが、二人の間にお互いの息遣いが聞こえるような静寂が続いた後に、ルゥはゆっくりと話し始める――。







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