99話
柱からナメクジのように這い出てくる誠一郎。その姿はまるで石をひっくり返した時に虫がびっしりと張り付いていた時と似た怖気を掻き立てられるようで、永新は誠一郎から距離を取りながら息を飲む。
そんな永新は今、興奮故か、鈍化した痛覚に訴えるかのように真綿でじわじわと首を絞められていくかのようにゆっくりと、けれども確実にじくじくと痛む左の眼窩と左半身の違和感に襲われていた。
突如として視界を奪われた左の眼窩は、まるで眼球だけを抉り取られたかのようにぽっかりと穴が空き、覚えの無い違和感に戸惑うばかり。取られたのだと分かっていても、経験した事の無い違和感を受けてパニックに陥ってもおかしくなかった。しかし、永新がパニックに陥らずに落ち着いていられるのは、左半身が著しく欠けているお陰でもあった。その傷は、受け止めた巨大な柱より誠一郎が生え出てきたのと同じように、柱の面そのものに永新の体を穿つ突起が出現し、永新の体を抉ったのが原因。そして、それも誠一郎の弄した策の一つであり、彼は永新の弱い部分を徹底して突いて来たのであった。
――君は、君の弱さに足元を掬われる。
その言葉の通り、計画の初めから、誠一郎は永新の弱点を徹底して突いて来た。
計画の始まりはどこからだったか、それが誠一郎の口から語られる日が来ることは無いが、今日に至るまで、彼は徹底して永新を追い込んでいった。
その結果浮き彫りになった永新の心の弱さ。
誠一郎は、香織と絵麻に危険が及んだ場合、燼月永新は必ず身を以て二人を庇う事を初めから理解した上で、「もう二度と手は出さない」と嘘を吐いた。永新の頭から、その可能性を排除するために。しかし、当然こちらを信用などしていない永新がその言葉を信じるはずもなく、誠一郎は己の行動でその言葉の真偽を示した。
切り札は、最後まで取っておくべきだからこそ、永新単体に狙いを付けて徹底抗戦の構えを見せていた。
そうして訪れた、千載一遇の好機。誠一郎曰く、チャンスは待つものではなく、生み出すものだと。そもそも、異界に誘い込んだ時点で、彼の弱点は常に曝け出されたようなもの。しかし、少しでも欲目をかいてしまえば、離れた位置で異界を操る場合、距離が離れれば離れる程にズレが生じてしまう為、狙いが読まれてしまう可能性があった。故に、誠一郎は最後の一瞬までポーカーフェイスを保ち、一度足りとて歯茎を晒す事は無い状態で我慢に我慢を重ねた結果、ようやく今、この時を、この瞬間を迎えたのであった。
――終幕だ。
その喜びは、約六十五万分の一の奇跡でもあるロイヤルストレートフラッシュを掴んだ時のような絶頂と比べても遜色ない程に歓喜と興奮に沸くもので、困惑し後退る永新の恐怖に染まった思考すらも手に取るように分かる全能感すらも感じられる。
誠一郎は今、無限に湧き出る黄金の蜂蜜に飛び込んでいるような甘ったるい快感が全身に奔っており、脳のミラーボールが快楽物質で体中を照らし続けるような悦楽に支配される中で、血塗れになって倒れる永新を睥睨する。
最早抵抗の余地すらない程に、完膚なきまでに叩き潰した最後の秘宝を手中に収めた海賊が如く高らかに笑うその姿は、狂気に満ちていて。
「――あッ、はははははは!!!!! そうだね、そうだよね。君なら……、永新クンなら、必ずそうすると思っていたよ……!! 君の心が折れる、この瞬間を、どれだけ待ち望んでいたか……!!!」
高揚感と冷静さの狭間にあるかのように昇ってくる興奮を抑えてクツクツと笑う誠一郎に対し、血の流出が治まらない永新は息を切らして誠一郎から遠ざかろうと無様にも逃げていく。
左目、左の肩、左の脇腹と、継戦能力を奪うには十分すぎる負傷をした永新は、辛うじて無事だった下半身をなんとか奮い立たせるも、逃げ腰の状態では覚束ない足取りしか出来ぬままま何度も躓きながら誠一郎から距離を取っていく。
「どこに逃げると言うんだい、永新クン。逃げ場なんてもう、どこにも無いって言うのにさぁ」
永新が描く血の道を踏み躙るかのように後を追う誠一郎は、これまでの張り付けただけの作り物の笑顔とは打って変わって、心からの悦びを表したかのように満面の笑みで異界を操り、永新の逃げ道を塞いでいく。
「う、く……っ!?」
「その体じゃあ、力を振るえても一度や二度が限界だろう? ましてや、攻撃なんて出来っこない。逃げたところで、君を助けに来てくれるヒーローやヒロインは、この世界には居ないのさ。だからほら、さっさと諦めて……いや、君が逃亡を図った事だし、ペナルティと行こうかな」
「は……、ペナルティ……?」
追い詰めた永新を足蹴にして転がした誠一郎は、永新を見下ろし睥睨する。
僅かに残っていた力も、今こうして大量の血となって体から零れ落ちていく永新の姿を見て、誠一郎は征服欲が満たされていく。一つの欲求が満たされれば、次は二つ目が欲しくなる。それは妖魔であろうと人間と変わらぬ欲求の在り方であり、永新より強欲と称された誠一郎が次に求むるは、支配欲。
征服欲と支配欲。それら二つは誠一郎の中では似て非なるもの。前者は力によって屈服させる事であり、後者はその屈服を永遠のものにしたいと言う欲求。即ち、誠一郎は永新の心を折る事で永新を我が物とし、次は罰と言う形で永新を縛ろうとしているのであった。
そこで誠一郎が選ぶ罰は、永新の傷を抉る事――ではなく、永新が庇った香織と絵麻の始末であった。
誠一郎の足が自分に、ではなく二人の元へと向かったのを見て、永新は誠一郎の足にしがみつく。
「っ、分かった……! 言う事を聞く、言う事を聞くから……二人には、手を出さないで――」
みっともなく、なさけなく、ちからなく。
敗北者の末路としてこれだけ相応しい姿があるものか、と己の欲求が次から次へと満たされていく心地良さに誠一郎は思わず仄暗い笑みを浮かべて足にしがみつく永新を見下ろす。
天井知らずに上っていく優越感は誠一郎の笑みを深め、優越感が頭のてっぺんまで辿り着いたタイミングでしがみついた永新を乱暴に蹴り飛ばす事で、優越感の塊は花火のように弾け、改めて誠一郎の体全身に行き渡る。その快感は言葉で言い表す事さえ出来ないくらいの興奮をもたらし、ズクン、と疼く下腹部が怒りを帯びる。
だが、まだ足りない。
永新の心を折る為には、彼自身を幾ら傷付けても彼は落ちない。故に、永新にまつわる彼の大切な物を壊す事で、誠一郎の欲求は成就する。幸運にも、大切にしているものが二つある。二つあると言う事は、片方を壊したとて、もう一度同じかそれ以上の恐怖を与える事が出来ると言う事。それが手っ取り早いからこそ、誠一郎は永新の宝物に手を伸ばすのだった。
「絵麻さんの方から壊そうか。いや、永新クンにとっては、燦然院さんの方が大切なのかな? これは罰だ。君が初めから僕についてくれれば、羅威竿も死なずに済んだし、絵麻さんも燦然院さんもこうして危険に晒されることは無かったんだから――」
誠一郎が、無抵抗のまま横たわる二人の元へと歩みを進めて行く。永新への罰と称して、そのどちらかを殺す為に。
どちらを殺そうか、永新の懇願を聞いてからでも遅くは無い。むしろ止めてくれと希う姿を存分に味わってからの方が、真なる絶望は味を深めると言うもの。そう思って誠一郎が視線を後ろに向けた――その時。誠一郎の耳に、信じがたい声が聞こえてくる。
「――破魔弓術初級・火打ち」
それは、枯れたような声だった。
不意に紡がれた、忌まわしき記憶が宿った、呪いのような言葉。
永新を傷付ける発端であり、実際に傷付けられた霊技の名。しかし、あの時と同じように、永新の言葉にその身に宿る霊力は今日も寸分違わず、応えてくれる。
聞こえた声に振り返る誠一郎。
しかし、その時には既に永新の放った霊技は彼の眼前にまで到達しており、「火打ち」は誠一郎の目の前で炸裂。強力な音と閃光が瞬き、火花を撒き散らす。これで倒せるのは、精々が最下級の妖魔程度であり、誠一郎の人の体を覆う妖魔の肌には一切傷付かない。
しかし、至近距離で味わえば子供の鼓膜を破り網膜を焼き尽くすような光の猛威が人間だろうと妖魔だろうと平等に襲い掛かる。ましてや、不意を突かれた誠一郎では塞ぎようもなく、誠一郎の聴覚と視覚はブラックアウトする。
「ッ!? 小賢しい、真似を――」
妖魔の性質を持ちながらも、人の体を基礎に持つ誠一郎にとって五感の内、二つの喪失は大損害と言っても過言ではない。状況の判断はまともに出来ず、回復を待つ一瞬、と言うのは嫌に長く感じられる。
その間、誠一郎の頭は「どうして永新がこんな真似を」と無駄な知恵を回し出す。そもそも永新が倶利伽羅の霊技をまともに使えないのはリサーチ済みであるからこそ脅威にすら感じていなかった。その上、霊技の行使に必要な得物の入手が不可能である以上、そもそも選択肢にすら浮かんでこない。だと言うのに、永新は一体どうやって弓矢の霊具を入手したのか、などと言うふざけた疑問が脳内を駆け巡る。
それら全ての疑問に「どうでもいい」と答えを返した誠一郎は、視覚よりも先に聴覚が戻ってくる感覚に耳を澄ませる。すると聞こえてくるのは、いつの間にかすぐ傍で聞こえてくる何者かの足音。否、何者か、ではなく、まず間違いなく燼月永新の足音。それに加えて、燼月永新の、声が聞こえてくる。
「――纏炎闘術無手焼灼流・送り火」
ぼんやりと光を捉えられるようになってきた誠一郎の目が、迫る永新の姿を捉える。
だがしかし、その時には既に永新は誠一郎に肉薄しており、後ろに下がるよりも、永新を弾き飛ばすよりも、霊力を高めた永新の腕が誠一郎に触れる方が早かった。
そう。負傷した体ではこれ以上戦う事は叶わずとも、触れる事は、出来るのであった。
「……お前が、何を狙っているかは分かっていた。だからこそ、お前が隙を見せるのは、その時だけだと……。俺の、勝ちだよ、誠一郎さん――」
誠一郎の体に触れた永新はそう言って別れを口にした直後、永新の掌から黒い炎が出現し、その炎が触れた傍から、邪な霊力を纏う妖魔の血の悉くを灰燼にせんと黒い炎がたちまち燃え広がる。
「――オ、オォォォオ゛ッ、燼、月……永新ンッッッッッ!!!!!!!!!!!!!!!」
黒い炎が燃え広がる瞬間、誠一郎が今この瞬間まで秘匿していた完全妖魔化を遂げようとするも、それは無駄に終わる。
何故ならば、誠一郎が危惧した黒い炎、それは妖魔に堕ちた永新が慣れない倶利伽羅の霊技を使う時に起こるただの付随効果に他ならず、本来の「纏炎闘術無手焼灼流・送り火」の効果はまだ真価を発揮していないから。
そして永新がここぞと言う時を待って選んだ「送り火」の効果は、かつて白に放った「残火」よりも強力な火炎を巻き起こす霊技で、誠一郎の体は噴出する黒い炎に身を焼かれると同時に、押し出されていく。
――UGWOOOOAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!!!!!!
上背は三メートルを超え、誠一郎の体はさらに肥大化し、覆っていた黒のボディスーツが破れて鱗のようなものに変化していく。破れた傍から素肌が曝け出されるのだが、陽の光を浴びるのは改造が施された人の体ではなく、歪に変形した妖魔の体。そうして現れるのは余りにも醜い妖魔の姿であり、誠一郎が最後まで妖魔化をしなかったのは永新を軽んじていたのではなく、妖魔としての優位が崩れてしまう事にあったのだろう。
しかし、単純な膂力は今の誠一郎の方が勝っている。異界の主としてありとあらゆるサポートをしていると言うのに、永新の放つ黒い炎にどんどんと追いやられていく。
それは黒い炎が誠一郎の力を削いでいる、と言うのもあるが、この最後の霊技に永新が残りの霊力の全てを注ぎ込んだからと言うのが最たるもの。
黒い炎は、誠一郎が常に警戒していたものでもあり、不完全故に使用を渋る永新に「黒い炎を使う」と言う選択肢すら消し去る為に心を折る手段を選択したのだが、まさか己の体さえも灰燼と帰すことさえも厭わずに使って来るとは、完全に誤算であると同時に、誠一郎にとって最大の判断ミスでもあった。
「左腕くらい、くれてやる」
誠一郎の体と同様に黒い炎の餌食となって使い物にならなくなった左腕が、燃え尽きていく。
本来であれば黒い炎の行使と共に妖魔化した永新の体も黒い炎の餌食になるはずだが、永新は努めて冷静に、脆くなった左腕を千切って投げ捨てる。それが、誠一郎の命の駄賃だと言わんばかりに。
誠一郎にとって誤算だったのは、永新の心が折れていなかった事、そして黒い炎がたかだか腕一本の犠牲で行使できると言う事実を棚上げ――否、可能性を見落としていた事の二つ。その二つのどちらともに誠一郎にとっては致命であり、こうして全身が黒い炎に巻かれていく。
――ここまで舞台を整えて。
永新の心を後少しまで追い詰める事が出来た、己の野望に指が掛かったと言うにもかかわらず、己が欲求に足元を掬われ、結果手にすることが出来た成果は、永新の左腕一本のみ。
(……あぁ、そんなみじめな結果など、認められるものか。僕は、この世界を混沌に染める者。燼月永新を足掛かりに、妖魔の王を、そしてこの世界を平らに均す偉大な功績を果たす者だと言うのに。こんなところで、死んでたまるか。僕は、俺は――)
「この世界を、壊す、んだ――」
不完全な妖魔化のせいか、人としての誠一郎の意識が黒い炎に抱かれる中で浮上する。
そんな未練に満ちた声が永新の耳にも届く。異界の全域に、響き渡る。
瞬間、その声に異界が呼応したかのように空間が震える。空間が、歪み出す。
「ッ、香織、絵麻……!!!」
地面が捻じ曲がるかのように蠢き、力なく横たわるだけの香織と絵麻が流されていくかのように離れていく。永新は咄嗟に腕を伸ばしたものの、掴むことが出来たのは、片方だけ。片腕しか、残されていないから。掴むことが叶わなかったもう一人は、空間の鳴動に飲み込まれていくかのように姿は消え、永新もまた、掴んだ腕と共に異界の変動に飲み込まれていく。
「――」
異界の変動の最中、永新は目撃する。変動の中心、異界の真ん中で黒い炎に巻かれた誠一郎が、ニタリ、と笑みを浮かべる光景。その笑みは、ただでは死なぬ、と語り掛けられるかのように悍ましく、この世の物とは思えない程に歪んだ笑みだった。
そして永新は一人を腕に抱いたまま、異界の変動に巻き込まれていく。
周囲は正に混沌。混沌の限りを尽くしたかのような光景が延々と繰り返される中、突如として永新のいる異界に穴が開く。
ここから逃げられるのではないか、と画策する永新であったが、最早右も左も縦も横も分からなくなった空間で人一人を抱えて即座に動き出せる余裕は疎か、立ち上がる気力すらも尽きているような状況で永新が試行錯誤を繰り返していると、穴から一人の影が落ちてくる。
「きゃあっ!?」
一人では死なぬ、とばかりに永新のトドメを刺す為の刺客を差し向けて来たのか、と永新が警戒していると、永新は落ちてきた人影に見覚えがある事に違和感を覚える。
どうして此処に居るのか。何故、お前なのか。
そんな疑問が次々と浮かんでくる中、決して警戒を解いたりはせずに腕に抱いた女性を守るように動くと、落ちてきた人影は永新をその目に捉えるのだった。
「痛た……。って、え? 燼月!? なんで、こんなところに……?」
落ちてきた人影。それは永新を知る人物であると同時に、永新もまた、その人物を知っている。
落ちてきた人影、それは――御厨七星。
妖魔の敵である倶利伽羅にして、指折り数えられる程の実力者、四家の令嬢が、流星の如く異界に落ちてきたのであった。




