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咆哮のグレーテル  作者: 胡桃ヌイ
★第九章 『太陽と月とターリア』――Kapitel 9:Sonne, Mond und Talia――
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Ⅵ 『無垢な天使に無空な悪魔』

寒帯を射貫く不自然な炎熱。堅氷をも溶かす煮え立つ燎火(りょうび)は、双子の兄――アデムが放った紅蓮の

鋭鋒(えいほう)だ。それまでの体感温度に、肌に、暖気が伝わってくる。咫尺(しせき)で燃ゆる煉獄の荒波は、ヘンゼ

ルとグレーテル、二人の隔たりを引き離すかのように縦貫した。


「お兄さま!」


兄との距離を遮られ、グレーテルが焔の向こうを心配する。消火後、ヘンゼルとアデムの姿が無い

ことから、どうやら兄はアデムに誘導され、森の中へと消えてしまったようだ。


ヘンゼルへの(うれ)わしさがいっそう加速する。そんなグレーテルの(みだ)りが(いささ)か癇に障ったのか、


「よそ見なんて、してんじゃないわよ!」


双子の妹――氷結のイヴが語気を強めて怒りをぶちまけた。歯を剥き出しにしてグレーテルに飛び

かかる。目の前に敵対者がいるというのに、自分には見向きもしないで兄のことを気にかける……

兄妹愛。なんて余裕めいた態度が、曲がりなりにもイヴの神経を逆撫でしたようだ。噛んで吐き出

すようにグレーテルを地面へと押し倒す。


グレーテルは、敵愾心(てきがいしん)を燃やすイヴの抱え落ちに、成す術なく組み伏せられた。さすがに全体重を

掛けられてしまってはどうしようもない。


「――っ」


決河の勢いで倒れたグレーテルに、イヴが馬乗りになってマウントを取りに来る。両ひざでグレー

テルの身体をがっちりと挟み込み、そのまま寝技へと持っていく。一切の手加減をやめ、容赦なく

グレーテルを痛めつけるつもりだ。


イヴの拳がグレーテルに降り注ぐ。相手が同性だろうが関係ない。『キャットファイト』などとい

う、見世物試合をやっているわけではないのだから。彼女たちがやっているのは争奪戦――それも、

生命のやり取りを前提にした〝殺し合い〟だ。


「死ね! 死ね! 死ねぇっ!! あんたを倒して、もう一度ママに認めてもらうんだからぁっ!」


彼女の打擲(ちょうちゃく)は、言うなれば氷塊のように冷たかった。何かに我執(がしゅう)しているのか、暴力に迷いがない。

抒情的(じょじょうてき)な狂態とは裏腹に、その素性はまるで、無縁社会に生きる操り人形のようだ。


「ママ……ママ……ママ!!」


イヴの攻勢は尚も続いた。ここぞとばかりに出て行けがしの雨あられ。昨日今日出会ったばかりの

グレーテルに、やりたい放題で排撃を繰り返す。人情味――なんて感覚は、三綱五常(さんこうごじょう)、持ち合わせ

ていないのだと声高に伝わってくる。


思い返せば、〈笛吹きの男〉――『ピエッド・ピッパー』もまた、彼女と同じ直言居士(ちょくげんこじ)だった。両

親に名誉(エーレ)という名の証――市民権が与えられていなかったために、彼は母共々に酷い格差社会に痛

めつけられ、かつかつの生活を余儀なくされてきた。


そしてそれは次第に、ピエッド・ピッパーから幸を……光を……仁慈までも奪っていった。幼い頃

の辛く厳しい成育環境が、彼の人格形成に大きな(ひずみ)を生み出し、彼を夢遊病者へと駆り立てたのだ。


だからもし――もしもだけど、彼女にも何かしらの事情があって、このような気性に育ってしまっ

ているのなら、それこそ彼女の心底にある――イヴの性格を変えた――〝強大な過去〟と、正面か

ら向き合わなければならない。


取りも直さず、何の罪もない大切な友達を傷つけられたのだから。決して許されることではないし、

それこそ、ユーデリカたちの仇討ち――とまでは言わないが、彼女には争奪戦を通じて、二人への

あらぬ振る舞いをきちんと謝ってもらいたいとも思っている。それが友人として、グレーテルが二

人にやってあげられる、目一杯の友情表現でもあったからだ。


そして、いつぞやの赤頭巾の言葉にも、今でなら納得がいく。


【いい、グレーテルちゃん? 〝友達でも〟ケンカはするんだよ】


彼女の言い分は間違っていなかった。友達になるのなら、相手にまずは自分のことを知ってもらわ

なければならない。


相手とケンカして、戦って、互いを認め合って……赤頭巾はそうやって〝作戦〟を立ててホームに

争奪戦を仕掛けてきた。本当はすでに〝友達になっていた――〟にもかかわらず、だ。


彼女には感謝をしなければならない。あの時、赤頭巾は『昨日の敵は今日の友』――という古言を、

身を挺して自分に教えてくれていたのだ。


加えて、いつか来た道二の舞が、まさにこの瞬間だと――


グレーテルが巻き返しに打って出る。盲蛇(めくらへび)に怖じず、イヴに逆捩(さかね)じの抵抗を見せた。


まずは不利な体勢を打開するため全力で寝返りを打ち、身体の上からイヴを跳ね除ける。このまま

マウントを取られたままでは彼女には敵わない。グレーテルの持ち技はあくまで護身術。立ち身の

状態でなければ術を生かしきれないからだ。


それでもイヴは、グレーテルの背中を掴み、押し付け、押し倒し、組み伏せにくる。立たせるつも

りも、逃がすつもりもないようだ。二人は庭園に舞う露霜を巻き込みながら、車輪のように草むら

を転がった。低温化によって凍てついた野面がひどく冷たい。どちらも優位性を取られまいと必死

になってせめぎ合う。


「うざったいわね! おとなしく、やられなさいよ!!」


返す返すいたちごっこの末、蒸し返し天来へと着いたイヴが、悪しざまに権威を押し立てる。こん

なにも手ひどいダメージを与えているのに、てんとして根を上げないグレーテルへフラストレーシ

ョンが溜まっていく。これほどまでに粘り強い女の子は同年代では初めてだ。〈笛吹きの男〉を倒

したという信憑性がますます膨らんでいく、と。


そこへ、今度は上半身を起こしたグレーテルが、勢いそのままに頭角でイヴの体幹部を突っぱねる。

その衝撃で、イヴは身体をくの字に曲げながら、後方へ一回転し、吹き飛ぶように尻もちをついた。


そもやそも、グレーテルに降参しろと言い放ち、屈服させること自体、土台無理な話だった。鼻面(はなづら)

を取って引き回され、素直に白旗を上げるほどグレーテルは(しと)やかではない。両親や兄のヘンゼル、

友人や仲間、果てには見ず知らずの他人にまで、人のためになると向こう見ずになってしまう性格

は、彼女にとって生まれ持っての本能だからだ。


ゆえに、普段の物静かでおっとりとしたグレーテルは今現在ここにはいない。ユーデリカたち友達

が傷つけられてしまった時点で、その性格は跳ねっ返りの強い荒々しい少女へと成り変わっている。


お陰で、いくら中央区最強の被験体と言えども、そうなってしまったグレーテルを止めるには、か

なりの骨を折る必要があった。


「つっ……」


もつれ合いから一転。ここにきて、ようやく二人の間に幕あいができる。グレーテルは、でんぐり

返るイヴの隙をついて起き上がり、その(てい)で相棒のムーちゃんに手をかけた。若干だが視界がぐら

りぐらりと揺らついていて船心地になっている。何度も何度も転げ回ったせいで酔歩になっている

のだろう。


もっともそれは、イヴとて同じ状態だった。おぼつかない足取りで、彼女もフラフラと立ち上がる。

ところが、グレーテルが咄嗟に防衛の構えを取ったのに対して、イヴからの速攻はない。先ほどの

荒っぽさとは打って変わり、静止したまま気息奄々(きそくえんえん)でいる。


一瞬、体力の回復を待っているのかと思ったが、そうではない。単にそれは嵐の前の静けさに過ぎ

なかったからだ。


「この感じ……」


突然の身震いに何かを感じ取ったのか、グレーテルが一面を振り仰ぐ。降雹(こうひょう)によって氷結化した寒

帯が小刻みに顫動(せんどう)し、うねりを上げているのが分かる。この感じ・この高揚感に間違いはない。想

いが……強い想いの集約が、イヴに《カタチ》にしろと呼び掛けているのだ。


幸遺伝子の覚醒。民謡伝術の前触れだ。


「……あなたなんかに……あなたなんかにっ!」


イヴがグレーテルに向かって両手を突き出す。そこに、それまでの体感温度が生ぬるく感じるほど

の凍てつきが集まり、それが水色の魔法円となって像を結ぶ。星状六花の紋章が後付けで反映され、


「《童術・氷菓あいん・すくりーむ!》」


童派型と思しき氷系の童術が放たれた。言う口の下から即に地層が凍り始め、シャーベット状のそ

れは、雪崩のように地を滑りグレーテルに襲い掛かる。ほのかに香る甘い匂いはヴァニレだろうか。


避ける間なんてなかった。いや、避けきれたところで、その後すぐにどうなるかも目に見えていた。

正確には、技が放たれた時点で、回避できる場所なんてどこにもなかったからだ。


術式の範囲が〝あまりにも〟広すぎて、身体が動くより先に、平原のほうがそれを上回る速さで凍

結してしまったのだ。緑野が天然のアイス・アリーナへと変わるまで、その間わずか数秒。グレー

テルが、どうにもならないと諦めを判断したのも仕方がない。


「これで、思う存分あなたを痛めつけられるわ」


クスッと笑うイヴの表情は、天使のようで可愛らしい。が、背後には、憎しみと愛情に支配された

悪魔の影を落としている。旧約聖書に(なら)うなら、天使ではなく堕天使と呼んだほうがいいのだろう。


いずれにせよ、地の利を奪われてしまったのは確かだった。とうに足腰への踏ん張りが全くと言っ

ていいほど利きやしない。力を入れれば入れるほど、靴底が地面を蹴って、あわや転覆しそうにな

る。郷里(きょうり)である山奥の村ですら、これほどまでに堅氷(けんぴょう)が張ったことはない。


そんな中――凍原と化したリンクの上を、イヴが超高速度滑走で華麗に切り込んでくる。銀盤に悪

戦苦闘するグレーテルとは反対に、イヴは氷上の表面を水を得た魚のごとくスイスイと泳いでいた。

靴先にスケート靴のような摩擦ブレードでも付いているのだろうか。悠々と迫りくる彼女の風体は、

背中に翼でも生えているかのようだった。


「死んじゃえ! 薄汚い貧乏人!!」


スピードに乗ったイヴの平手打ちが、グレーテルをヌイグルミごと吹き飛ばす。通常なら《羊毛綿

の盾》で受け止められるはずなのに、体幹に力が入らないせいで、ダメージを軽減できないでいる。


「クスクス。みっともない転げ方ね」


つっと物腰を上げようと意識するも、体勢を立て直すことすら一苦労だった。なんせ、大地に足が

着かないでいるのだから。バランスを取るかのように立ち上がったところで、フォアインスリーで

ターンをし終えて戻ってきた、イヴの次なる繋ぎ技が押し迫る。


ウサギが跳ねるような抱え込みジャンプ『バニーホップ』から、片足を軸に反転し、もう片方の下

肢で立脚点への足払い『ハイドロブレーディング』。たまらずひっくり返ったグレーテルを他所に、

舞踏『ハミルトン』で再びグレーテルをロックオン。爪を立て四つん這いになりながらも起き上っ

た彼女に、今度は容赦のない蹴り上げ『インカウンター』で、グレーテルを上へ下へと叩きのめす。


その光景はあまりにも一方的で、ついには白い歯をニヤリと零し、イヴはまったくもって成す(すべ)

ないグレーテルの周りを、右へ左へ『スリーステップ』で挑発的に回った。


「あーあ、快っ感。満点の演技だわ。それに比べて、あなたのそのへっぽこな動き……笑っちゃう」


グレーテルの口から返事はない。代わりに、先ほどの乱打を受けて、つむりのどこかしらを殺傷し

たのか、額から下がくにかけて、血液が冷たい緑土へと滴り落ちている。重症と呼ぶほどの傷では

ないが、グレーテルのそんな痛ましい姿は、遠くからその様子を眺める、ユーデリカとフラウミル

の目に(うれ)いを映し出していた。


もはや、あの少女から助けてあげることも、逃がしてあげることも、何も叶わない。ただただ自分

たちの代わりに戦ってくれているグレーテルを思い(わずら)うことだけが、二人が彼女にしてあげられる

精一杯の力添えだ。


それほどまでにユーデリカたち二人の不安視は、横目に見ても伝わってくる。


だが、冷徹の少女は違う。二人の痛心を何とも思わないどころか、逆にそれを利にさとい、


「ほんと、期待外れもいいところね。その程度の実力で粋がっていたなんて。あなたなんかに負け

 てるって思ってたイヴがバカみたいじゃない。それとも何? 友だちの前だからってカッコでも

 つけたかったの? あんな芋みたいなやつら、助けたところで何の得にもならないのに」


我が田に水を引くような物言いで、イヴは這いつくばるグレーテルをこき下ろした。ユーデリカや

フラウミル、友人たちがいる前で、徹底的に辱めの誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)を言い浴びせる。


肉体的だけでなく、精神的にまでグレーテルを追い負かすつもりらしい。


「だいたいさぁ~あなたのそのきったないヌイグルミ。いいかげん捨てたらどうなの? 貧相なあ

 なたと相まって見ているこっちが恥ずかしいわ。ま、庶民の持ち物らしく、お似合いって言えば

 お似合いだけどね」


ツンと向こう面を斜めに傾げ、右手の甲でツインテールの片房を上品にかき散らす。イヴのそのよ

うな仕草は、さながら、上流家庭で育ったお嬢様のようで、幼少期の頃から青息吐息で気苦労続き

だったグレーテルには、そういった高踏的なイヴの身のごなしが、『華麗だな――』とも、『輝か

しいな――』とも思う。おそらく、銀のスプーンをくわえて生まれてきたのだろう。


だけど、グレーテルは、それを羨ましいとは思わなかった。何故なら、幸せに対する価値観は人に

よって千差万別で百味があるからだ。相手の幸せが必ずしも自分の幸せとは限らない。イヴにはイ

ヴなりの幸せが、グレーテルにはグレーテルなりの幸せがある。


だからこそグレーテルは、自分の生まれ・育ってきた環境が、他の家庭に比べて恵まれていなかっ

たとは思わないし、富者であろうイヴと比べても幸薄だったとは思わない。


たとえ周りからどんなに卑賎視(ひせんし)されようとも、自分の生涯に後悔はないし、むしろ誇りを持ってい

る。それゆえに――それだけに、どうしても聞き捨てならないことがあった。


……ドクン。心臓が飛び跳ねるかのように脈を打つ。


すぐさまそれは、細胞が活性化しているのだと分かった。純血が巡る。循環器官内にその血液を恢

(かいこう)して、全神経に「暴れろ」「暴れろ」と伝単を謀っている。


「……するな」


ドクン、ドクン。脈拍がいっそう速くなる。鼓動の高鳴りは、まったく持って治まらない。それど

ころか、(はや)る胸の内が秒を増すごとに膨れていき、気持ちを抑えるリミッターが利かなくなり始め

ている。いったい全体自分の身体に、何が起こっていると言うのか? 


例えるなら、何か憎しみを帯びた〝恐ろしいもの〟が、身体の奥底から(うごめ)き、(わめ)き立て、喧呼(けんこ)して

いるような、そんな境遇にあると言ってもいいだろう。本当の自分を呼び覚ませ、良い子を演じる

のは辞めにしろ。と、内なる良心に揺さぶりをかけられているようだ。


「はぁ? なんて言ってるのか、ぜんぜん聞こえないんだけど? もっと大きな声で喋りなさいよ」


口重たいグレーテル呟きを、イヴが耳朶(じだ)に触れてかき消した。グレーテルが今さら何をほざこうが、

腕を()し、大尽風(だいじんかぜ)を吹かすイヴに恐いものなんてない。童術の堅氷が地面を覆っている限り、戦敗

という幕切れは、一切考えられないからだ。それほどまでに、イヴはこの氷術に自信を持っている。


自明の理だ。敵方は相性の悪い能力者でもなければ、雲泥の差がある実力者とも違う。どう転んで

も下位ランクであろうグレーテルに、上級術であるこの技が破られるはずがないのだ。それこそ最

初だけ……最初こそグレーテルの凄みに飲み込まれはしたが、所詮は闘魂だけの初見殺しで、冷静

になって自分のフィールドで戦えば、まず間違いなく勝てる相手だと判明した。


それがまさか〝火種がくすぶっていただけの猫かぶり〟だったなんて、この時誰が思っただろうか。

それは次の瞬間に現実のものとなって現れた。


「これ以上……友だちを……かぞくのことを、ばかにするな!!」


氷面を揺るがすほどの咆哮。獣性を剥き出すような遠吠えで、グレーテルがヌイグルミと共に奮い

立つ。ここで言う『友だち』とは、ユーデリカやフラウミルたちのことで、『家族』とは、ムーち

ゃんのことだろう。


「うっ……!?」


ゾクッとした。一瞬だがグレーテルの背中に、黒い黒い、漆黒の羽が見えたような気がしたからだ。

気迫も言葉使いも、先ほどのまでのグレーテルとは、見間違うほどに荒々しい。


悪魔……いや、彼女の場合、『魔女』――と、呼ぶべきなのだろうか。


イヴには、立ち上がったグレーテルの形姿が、そんな風に見えてしまっていた。


「な、なによ! 急に強気になっちゃって。そんなのでイヴがビビるとでも思ってんの! こっち

 のほうが立場が有利なのに変わりはないんだから!!」


確かに依然として戦況が有利なのはイヴのほうだ。だが、


「!?」


グレーテルが大きくヌイグルミを振り上げる。氷の上で動けないのなら、そんなものは破壊してし

まえばいい――そう考え着いたのか、グレーテルのあまりにも大胆過ぎる戦法にイヴは目を疑った。


「ちょっと、あなたバっカじゃないの! そんなのでイヴの堅氷を砕けるわけがないじゃない!?

 だいたい童術には童術でしか――」


彼女の言い分は正論だ。童術で作られた銀盤を、普通の道具で叩き割ったり融かし切ったりするこ

とは出来ない。あくまでも『《童術》に対抗できるのは《童術》のみ』――能力者なら誰もが知っ

ている常識だ。ゆえに、視野狭窄(しやきょうさく)による軽挙妄動(けいきょもうどう)だとイヴが誹謗する。


しかし、そんなことはグレーテルにはお構いなしだった。一度大きく振り上げられたヌイグルミは、

留まることも躊躇することもなく、遠心力そのままに氷地へ向かって降り下ろされた。


一瞬の激しい地核の揺れ。それまで揺蕩(たゆた)っていた冷脈が波紋のごとく顫動(せんどう)し、花おこしとなって吹き

つのる。空気が地面に激突した際、風が水平に向かって広がる『ダウンバースト』と呼ばれる落下

現象だ。


皮肉にも氷術によって層が乾燥してしまっていたために、おおよそ下降気流を高めてしまい、摩擦

抵抗が強くなっていたことまでがグレーテルに味方した。


四方へと黒風が噴き上がる一方で、砕破地点からは蜘蛛の子を散らしたかのように亀裂が入りだす。


「――っ!? ヌイグルミが光って……!」


淡く、桃色に輝くグレーテルのヌイグルミ。それを見て、イヴはグレーテルのヌイグルミが、実は

童力を練り込んで創っていた童具なるモノだったのかと独り合点した。でなければ、この乱調子に

弁明が付きやしない。


猛り、暴れ狂う波濤(はとう)に、パタパタと両の結髪が浮動する。さすがに四部五裂に広がるひび割れには、

彼女も難色を示すしか他ならなかった。


ほどなくして、全ての氷面にクレバスが生じ、間隙(かんげき)から氷塊が競り上がるようにして山を成す。一

撃必中だったイヴの童術は、まさにグレーテルの蜂の一刺しで、大小様々な砕氷(さいひょう)となって飛散した。


氷の融けた跡地には、元の土気色だった草花が顔を出し、雪晶と共に紗幕が垂れ込んでいる。地面

に水たまりが出来ていないのは、本来なら天地万物である氷が、童術という創作術で生成された人

工的なモノであったからだ。


これは正反対の自然物質『炎』にも言えることで、その姿・形・体感は幻想的なモノ……今風に例

えるのなら、VR――バーチャルリアリティーと言ったところだろうか。要するに童術の発現条件

である『想い』を《カタチ》にするという行為は、言い換えれば『想像』を《現実》にするという

意味で、つまるところ、子どもたちは互いに〝想像力で戦っている〟と考えてもらえばいい。


「……なんで、なんでこんな奴にイヴの童術が」 


イヴが焦り目で言葉を吐き捨てる。自信のあった童術が破られてショックが大きいのだろう。悪態

の割には(とう)が立っている。


「ここで……ここで負けたりなんかしたら……」


脳裏に失望の眼差しでこちらに顔を向けている母親の姿が浮かぶ。双子の兄であるアデムだけを連

れて自分から遠ざかっていく母親。自分は使えない子として捨てられてしまうところまで連想する。


「いやだいやだ……ママ……イヴのことを捨てないで。イヴ……まだ戦えるから、あんなボロボロ

 の子なんかに負けないから……童術だってまだまだたくさん持ってるから……だから……だから

 お願い、イヴのことを見捨てないでママ……」


去りゆく母親を追いかけてイヴが転倒する。誰も助けてくれない。誰も手を貸してくれない。双子

の兄ですら起こしに来てくれない。自分の力で立ち上がらなければずっと転んだままだ。


「ママ……ママ……」


これ以上のしくじりは許されない。母親に……大好きな母親に自身を認めてもらうには、あの厄介

な幸薄少女――覚醒しかけの魔女――グレーテルに大勝を上げ、その旨を母親に報告する必要があ

る。あの少女の首を……グレーテルの首を討ちとって持って帰れば――


そのグレーテルは、すでに反撃へと打って出ていた。


氷術の消えた草むらを、グレーテルが上げ潮に乗って駆け抜ける。尾を引くように映えていた暗幕

の翼は、イヴの感じたとおり幻影だったようで、迫り来る彼女の背にそのシルエットはない。ただ、

先ほどとは打って変わり、溢れんばかりの闘気に禍々しさが加わって凶暴性に拍車がかかっていた。


「ああああっ! 調子のんな! ブス!!」


グレーテルの走りながらのフルスイングを、イヴが身を捻って上空へと回避する。大振りで前へと

踏み出たグレーテルと空中交差ですれ違い、隙だらけになった彼女の後部へと両手をかざす。


「《童術・冷飴ぷるもーる・ちぇりー!》」


水色の魔法円が宙に星状六花を描く。そこから複数の冷光体(ルミネセンス)が弾頭を覗かせ、照準をグレーテルへ

と定めた。グレーテルが背に発光を受け振り返る。弾頭はやがてガトリングガンよろしく噴射され、

熱を伴わない弾幕となって戦場に撒き散らされた。


パララ、パララララ、パラパラパラ。その音響は、まるで降雹のようであり、燐光にあるまじきノ

イズだ。いくら実体を持たない光とはいえ、着弾および被弾すれば、実弾並のダメージになること

は間違いないだろう。


グレーテルは素早く体勢を立て直し、閃光に向かって真正面にヌイグルミを構えた。幸運なことに、

この展開は対〈赤頭巾〉戦で赤頭巾が披露した、小銃一斉掃射時の瞬間と状況が似ている。正攻法

で対処をするならば、素体前方にデフレクタシールドを展翅(てんし)させ、弾雨から身を守るという方法が

堅実的だ。


しかしながら、『魔女の血脈』を漏洩させてしまったグレーテルに、隠れ(みの)になるなんていう専守

防衛的な考えは無かった。案に相違してバリアは張らず、体重を後ろの足へと移し、テイクバック

挙措(きょそ)を取る。重心がやや(しも)に傾いているのは、上空からの光弾をアッパースイングで打ち返す算

段でいるからだ。


そう――グレーテルは、弾幕に怯むことなく、自身の攻撃を続行するつもりでいた。逆さまになっ

て童術を振るうイヴに、致命的な一撃を叩き込むために。


グレーテルはヌイグルミを力強く握りしめた。上半身はしっかりと残したまま、下半身だけをひね

って運びを作る。自身の中央に直球が来るまでタイミングを見計り、それ以外の散弾は、()えて受

け流すことにした。


「――!? あなた正気なの!!」


イヴの言うとおり、正気であればこのような愚策には出ないだろう。痛手を負ってまで反撃の機会

を伺う必要性はどこにもない。防御力に定評のあるグレーテルなら、それこそ無意味なダメージは

避け、防衛に専守することだって可能なはずだから。



……ドクン。血が……血が足りない。心臓が再び激しい鼓動に襲われる。血を流せ……もっともっ

と血を流せ……と、身体中にしつこくせがんでくる。



声の主が誰かは分からないが、グレーテルはその要望に応えようと血を流し続けた。


光弾が衣服を切り裂き、雪のような真っ白い肌に創傷を残していく。例えるなら、切っ先が鋭く尖

った氷柱(つらら)で、全身をめった刺しにされているような感覚だ。生半可な覚悟では耐えられない所業と

も言えるだろう。それだけの出来事をグレーテルはやってのけていた。


撃ち漏らされた冷光は雹害のごとく地上に埋没(まいぼつ)し、そこから氷霧を発生させ戦場を白に焚き上げる。

それとは逆に、肌身から血潮が吹き出し、多くの赤が流れても、グレーテルは〝その時〟を待った。

前々から無鉄砲なところはあったが、今回はいつにも増してそれに拍車がかかっている。《魔女の

血脈》には、細胞を活性化させ、血液を煮えぎらせる『潜在能力の向上効果』でもあるのだろうか。


「いい度胸じゃない……だったらお望み通り、氷漬けにしてやるっ!」


それまでの弾頭の中に、ひときわ輝く星状六花の紋章。イヴの手中に特別大きな結晶が出来上がる。

これまでの冷光が細氷(さいひょう)であったと例えるのなら、その六出(りくしゅつ)はおおよそ氷山の一角だ。グレーテルの

挑発に、イヴが乗っかった形になる。


「《童術・極冷飴ぷるもーる・ちぇりー・かるふぁ!》」


巨大な氷塊は、六方晶系と呼ばれるダイヤモンドのような形をしていた。物質自体は実体を持たな

い冷光体のままだが、前途で記した降雹とは違って、術そのものから〝当たり判定〟が消えている。

それ故に、直撃――あるいはそれを打ち返そうものなら、たちまちの内に氷水に飲み込まれ、その

まま身動きが取れなくなって、凍てついてしまうだろう。


茫洋(ぼうよう)の観点から見ても、避けることはおろか、冷弾に当たり判定が無い以上、打ち返すことも不可

能だ。まさに絶体絶命のピンチだが、グレーテルには、この危機をやり過ごせるだけの方法が残っ

ていた。


グレーテルが全童力をヌイグルミに注入すると同時に、特大の氷塊がイヴの両手から解き放たれる。


グレーテルに宿存している回避術は、本人を中心に《球体型》のシールドを展開し、冷光から一時

的に身を守るというものだ。しばし一切の反撃術を諦めることで防衛に童力を全振りし、危機的状

況を凌ぎ切るという回避方法である。


もともとがディフェンス力に定評があり特出している彼女だ。シールドの形態を変化させることく

らい術中の範囲内とも言える。


しかしグレーテルは、ヌイグルミにつぎ込んだ童力でバリアを形成せずにいた。『魔女の血脈』が

彼女をそう動かしているのか、防衛に甘んじるなど端からないような素振りを見せる。


なんと、テイクバックの体勢からグレーテルが強引にヌイグルミを振りかぶったのだ。童力の宿っ

たムーちゃんを、冷光体に向かってアッパースイングで投げつける。氷塊に堅牢なヌイグルミをぶ

つけることで相殺を狙っているのだろうか。


ただ、グレーテルの眼光に結晶は映っていなかった。どうやら氷塊を叩き割るつもりはないらしい。

冷光体に当たり判定が無いと〝知っていて〟なのか、光弾の先にいるイヴ本人に狙いを定めている。


氷弾に当たり判定が無いのなら、当然投げつけられたヌイグルミはそれを透過する。ましてや、童

力の宿ったムーちゃんは、これまでの戦闘でも攻守共に優れた力量を発揮しており、攻撃において

も、屈強な剛性度で幾人もの強者と渡り合ってきた。


特大の童術を発動して無防備になっているイヴにムーちゃんが直撃すれば、それだけで大ダメージ

だ。だが、この方法では、いくらヌイグルミが氷彫刻を透過してイヴに痛打を与えたしても、当た

り判定の無い冷光体が消えるわけではない。そのままグレーテルを目がけて童術の氷水が飛翔して

くることに変わりはなく、彼女自身もイヴの童術を喰らう羽目になる。


運が良ければ、両者相打ちという結果で引き分けに終わるかもしれないが、下手をすれば、気絶を

間逃れたイヴだけが生き残り、グレーテルだけが氷漬けになって、戦闘不能に追い込まれてしまう

だろう。


まさに『肉を切らせて骨を断つ』だが、肉を切らせるにしては、あまりにも切らせすぎだ。


ムーちゃんが空を飛ぶ。行き着く先は悪魔(魔女)の天敵、天使(イヴ)――ではなかった。


「クスクス……どこを狙ってるのよ、へっぽこ!」


驕慢(きょうまん)な態度でイヴがグレーテルに唾を吐きかける。氷塊に向かって投球したと思っていたヌイグル

ミが、意外や意外まさかの方向に飛んだため、イヴ自身、泡を食らったようだ。


グレーテルの投げたヌイグルミは、イヴ本人を狙うどころか、冷光体にすら向かってなく、まった

くの見当違いで明後日の方向へ一躍していた。


氷弾が地上に激突し、グレーテルが氷水に飲み込まれる。その瞬息から身体がすぐさま凍結を始め、

やがて数秒足らずで彼女は氷像体となった。生きたままの氷漬けだ。そのまま心肺停止するのも時

間の問題だろう。恐れていた光景が現実となった瞬間だった。


ひろがりには、イヴの痛快この上ない莞爾(かんじ)。勝利への確信と母親からのご褒美が待ち遠しいと言っ

た具合である。もはや、ヌイグルミを手放したグレーテルに、冷光を溶かす手段はない。確実な防

衛に専念せず、無茶な攻撃に転じたことが仇になったようだ。


ゆっくりと……それも、天使が舞い降りるように、イヴが地上へと降り立つ。氷漬けになったグレ

ーテルに、最期の一息をかけるために。


「ほんと、哀れな姿ね。でもまあ、庶民にしてはよくやったほうじゃない? イヴを相手に、ここ

 まで奮闘できたんだから。感謝しなさい。あなたは特別にイヴのコレクションに加えてあげるわ」


遠くから泣き叫ぶユーデリカとフラウミルのすすり声。グレーテルの防風に守られている以上、二

人に出来ることは何もない。グレーテルの心臓が止まったら、やがてこの風も消えるのだろう。そ

うなったら、自分たちもグレーテルと同じく氷漬けだ。


「グレーテルちゃん……ごめんね……ごめんね……わたしたちのために」


刻一刻とその時が近づいてくる。イヴが氷塊の中のグレーテルに触れるように手を伸ばす。まるで

美しいモノを見るかのようにうっとりとした表情で――


「――!?」


それは唐突だった。突然の轟音が伸ばしかけた手に歯止めをかけ、イヴを反射的に氷像体から退か

せた。砕け散る氷片から後ずさるイヴ。最初こそ落雷か何かだと思ったが、示し合わせたかのよう

に降ってきた轟きの正体は、なんと先ほどグレーテルがぶん投げたムーちゃんの砲声だった。


「何?? なんなの!?」


一瞬の出来事に理解が追い付かない。グレーテルが適当に投げたと思っていたヌイグルミが、どう

して〝彼女の元へ戻ってくる〟というのか?


氷像体の真上から、ヌイグルミが重力を利用して豪打のごとく氷を砕きにくる。『溶かす』なんて

ものじゃない。文字どおり『粉砕』しにきているのだ。極氷の一部がそれに伴ってひび割れを起こ

す。亀裂はあっと言う間に氷像全体へと拡がり、ほどなくして隙間風が吹いた。


グレーテルが最初からこれを狙っていたのかは分からないが、氷像の中であっても彼女の眼光が死

んでいなかったのは確かだ。


これは古き時代――魔女の存在がまだ許されていた時代――より紡がれてきた言い伝えだが、世の

中に『女の勘』という直感があるように、魔女界隈にも『魔女の勘』と呼ばれる《直感能力》があ

ったとされている。


それは熱の方向を感じ取るピット器官だったり、電場を感知できるロレンチーニ器官だったり、反

響定位エコロケーションやメロン体、タペタムと言った『感知能力』に相当するものだと定義

してもらって構わない。


魔女の場合、それら全ての『感知能力』に加え、匂いだけでその生物の死期を悟ったり、空気から

天候状態を知り得たり、はたまた一寸だけだが爾後(じご)を見ることが出来たりと、通常の人間よりも五

感が何倍にも優れ『第六感』にも精通していることが挙げられる。


おそらくだが、グレーテルはその『魔女の勘』を頼りに、イヴの当たり判定の無い童術を感覚だけ

で見極めたに違いない。


どういった術式で、どのような効果があるのか。どう対処すればその術に対抗できるのか、を――


氷像が砕け散ると共に、ユーデリカたちからは歓声が上がる。それにしても、これほど賭けに出た

大勝負は『肉を切らせて骨を断つ』と言うより『骨を断たせて骨を断つ』だ。


回避不可能な術を敢えて受け、自身が氷漬けになっても、空に逃がしておいたヌイグルミでその氷

を叩き割ってしまえばいいなんて誰が想定するだろうか。あまりにも無謀が過ぎる。それこそ『魔

女の勘』が働いていなければ、術に当たり判定が無いことも、自ら術を受けることもなかっただろ

う。そうなれば、また違った結果になっていたかもしれない。


グレーテルらしい戦法と言えばグレーテルらしいが、いつもの彼女より無鉄砲さが勝っている。や

はり『魔女の血脈』による《血液酔い》が少なからず効いているからなのだろうか。


とにかく何はともあれ、中級クラスの童術を破ったことに変わりはない。問題は術を破られたイヴ

のほうにあった。一度どころか二度までも堅氷を砕波され、イヴの心境に焦りと揺らぎが再熱する。


「あ、ああ……このままじゃあイヴ……イヴ、お家に帰れない……ママにまた怒られちゃう」


両手で頭を抱え込み、嫌だ、嫌だと頭を左右に激しく振るう。何とか保っていた自尊心が、ことご

とくグレーテルに破壊され、完全に折れかけている様子だ。負ける……? イヴが? あんな貧乏

人に……? 戦績も戦術も戦闘力も自分のほうが勝っているというのに? なぜ……なぜ、あの子

に勝てないの??


その答えの意味をイヴが知ることになるのは後ほどだった。錯乱している今の彼女には、当然なが

らグレーテルの『想い』は伝わらない。『想い』というのは力量だけで決まるものではないからだ。


グレーテルの手にムーちゃんが戻ってくる。『童力』はヌイグルミの遠隔操作と、氷像を砕くのに

全てを使い果たしたため、ここから先の戦いに《硬質化》や《羊毛綿の盾》と言った光の術式――

《民謡伝術》は使役できない。


それでも彼女には『魔女の血脈』による闇の術式――《黒曜魔術》が貯蓄されていた。


「負けるものか……負けるものか……」


精神状態が安定したのか、イヴが繰り返し闘気を燃やし始める。自分は〝一国の姫君〟で、グレー

テルは〝ど田舎の村娘〟。公女として生まれてきた以上、貧民なんかに舐められてたまるかと――


「負けるものかあああっ! あんたなんかにっ!!」


イヴとグレーテルがほとんど同時に地面を蹴った。互いに真正面からの衝突になる。先に仕掛けた

のはイヴのほうだった。『アクセルスピン』からの下段狙い。意表を突いた攻撃だったが、それは

グレーテルに難なく避けられる。彼女は『魔女の勘』を利用して一寸先を見通し、イヴからの攻撃

を《先読み》してかわしていた。


グレーテルがヌイグルミを振りかぶる。その殴打力は先ほど氷像を粉砕されたことで目にしている

ので、イヴも迂闊に受け止めようとはしなかった。


「《童術・凍鳳梨あななす・むーみえ!》」


グニャリとした感覚がグレーテルの手に伝い渡る。イヴだと思って当てた形像は、人体がドロドロ

に融けてゼリー体になったものだった。『ゴーストアップル』と呼ばれる自然現象からヒントを得

た術で、実体だけをどこかへ逃がしたようだ。


グレーテルがイヴを見失う。グレーテルは全方位に向けて勘を働かせた。あれだけの童力を使って

おいて、今だこれだけの術が使えるなんて。いったい、どれだけの技を持っているのだろうか。余

力が桁違いだ。


「後ろよ、バーカ!」


実体はグレーテルの後方に潜んでいた。背後から氷片と共に現れたイヴが、グレーテルを羽交い締

めにする。がっちりと両腋の下から自分の両腕を通し、グレーテルの後頭部で両手を組む。身動き

が取れないよう頭を強く押さえ、圧迫からの絞め技に入った。グレーテルを失神させ、屈伏させる

つもりだ。


「――っ」


呼吸が出来ないほど強く固められ、グレーテルが両膝を突く。



……ドクン。ほら……このままじゃ堕ちてしまうぞ。血だ……血を流せ。そうすればお前に力を授

けてやる……さあ……早く。ワタシはお前の味方だ。



また……だ。ピンチになればなるほど心臓が鼓動を速め、あの声が聞こえてくる。そして血を流せ

ば流すほど身体は熱くなり、もの凄い力を得る代償に理性が吹き飛びそうになる。このままあの声

に従って血を流し続ければ、何だか全てがどうでもよくなりそうで怖い。



ドクン、ドクン。何を怖がっている……ワタシはお前だ。お前の本能だ。お前はワタシに従って血

を流せばよい……憎き血を、悲劇の血を、人間に復讐するための血液を!



ボワッ。それは折り畳まれていた羽根が大きく拡がる音。それは束の間の休息から、小鳥が再び大

空へと羽ばたかんとする時。


膨らんだ蕾が花を咲かせるように、帯蛹(たいよう)した蝶が脱皮・変態するように、四枚の漆黒がグレーテル

の背中から生え光る。その際に羽化した翼が地伸ばしをし、羽交い締めにきていたイヴを、(きた)し方

角へと弾き飛ばした。


「つつ。あれは、さっきの……」


ずでんどうとひっくり返ったイヴに悪寒が走る。先には禍々しくも妖艶な翼。グレーテルを包み込

むように展開された漆塗りの全貌を見て、本能が一方的に排斥を命じた。


最初に垣間見た時の幻影とは違って、きょう日、現下の羽には、ぼんやりとだが輪郭がある。朧に

かすむ、完全体とは言い難い姿だが、そこには確かな双翼があやめも分からぬよう〝映えて〟いた。


黒羽が宙を舞い地に堕ちる。それは、自分の意思で生やしたわけではない翼。意識の半分が遠のい

て、あの声に自我を委ねてしまった結果、しめしめと生れ出てしまった魔女の一部分だ。どうやら、

頸脈をイヴに圧迫され、気を失いかけたことが魔女化の前触れを許してしまったらしい。


翼は直ぐにでも消えそうなほど弱々しいものだったが、その代償に、グレーテルはこれまでに無い

邪悪な『魔力』を感じた。今なら何か《魔術》的なものが使えそうな気がしてならない。


試しにイヴに向かって適当な呪文を唱えてみる。うろ覚えだが、魔女ドロテーアが時々口ずさんで

いた調理に関する魔法だ。


「いいっ!? ちょっと、何よコレ!?」


慌てふためき、喚き散らすイヴの声。いったい何がどうなっているのか、グレーテルもせっつかれ

たかのように効果のほどを眺め入る。


カロッテだ。地域によってはメーレとも呼ばれるセリ科の二年草。赤カブの一種とも言われている

それが、地中から巨大な姿で複数体這い出てきている。カロッテはイヴを中心に、海藻のごとく踊

り狂い、彼女の動向に制限をかけていた。様子から察するに、イヴはカロッテが苦手なようで、悲

鳴を上げてはそれを払い除けている。


一方でグレーテルは、あの呪文は『小ぶりのニンジンを太くする』ための魔法だったのか。と、個

人的に納得していた。


「ああっ、もう怒った! 本気で怒ったわ!! こんなふざけた術でイヴに歯向かいやがって……」


全身に鳥肌を立たせながら、イヴが次なる術を発動すべく、目の前のカロッテを蹴り倒す。互いに

一進一退の攻防で戦ってきたが、ここにきて決着しそうな予感が漂った。


それは、イヴの《童力》が膨らみを増しているのに対して、グレーテルのほうは、ひたすらに《魔

力》が下がり続けていたからだ。やはり、未熟なままの魔女化では、いくら強大な魔女の力を手に

しても、それを維持・操作するだけの身体が追い付いていないと見える。その証拠に、魔女化に手

を出した反動が、今まさにグレーテルを襲っていた。


全身を槍で突かれるような鋭い痛み。加えて、鉛を付けられたかのように手足が重い。それに何だ

か呼吸まで上手くいかない気がする。まるで、水の中にいるような溺れているような、そんな感覚

だ。気が付けば、背中の黒翼はすでに禍々しさを失い、あの声も収まりを見せていた。


グレーテルは絶え間のない痛みと苦しみに耐えながら、あれは……『魔女の血脈』は、麻薬に似た

代物だと思い知った。ほんの少し魔女になっただけでこの償い。安易な気持ちで手を出していいも

のではないと痛切に実感した。


「はっ。何よあなた、死にそうな顔をしてるじゃない。さっきの術はともかく、黒翼の力はまだコ

 ントロール出来ていないようね」


イヴの足下に魔法円が敷かれ、その矛先がグレーテルに向く。


「……つ」


《童力》も《魔力》も全てを使い切った。その上、身体を動かすことすらままならない。これでは、

さすがのグレーテルも、万事休すと言った具合になる。


「今度こそ本当の終わりにしてあげる。身体の奥底から凍えるといいわ」


星状六花の円陣が一瞬、水色から白色になるほど輝き出す。効果の範囲はグレーテルの立ち位置に

まで伸び及び、今回ばかりは、グレーテル自身も負けを悟った。


「《童術・爽泡ぺるふぇ――》」 「てやああああっ!」


イヴが呪文を唱えるより先に、空からの乱入者。その乱入者は、背中に少女を抱え、片方の手でも

う一人少女を引き連れていた。


「お……兄さま? それに……」


イヴとグレーテル、二人の間に割って出てきたのは、数分前に森の中に姿を消したヘンゼルと、グ

レーテルの友人ユーデリカたちだった。


「はぁ!? なんであなたがここに? それにその子ら……兄さまは何をやってるのよ! っ!? 

 もしかして……」


思いもよらないヘンゼルの登場に、イヴが童術を取り消して動揺に走る。まさかとは思うが、兄が

……アデムが、ヘンゼルにやられたのではと信じ込む。


「グレーテル、動けるかい! 一旦『魔女の家』まで撤退する。僕が殿(しんがり)を引き受けるから、この子

 らを引き連れて、ここから一番近いマギまで走るんだ!!」


ヘンゼルはそれだけをグレーテルに伝えると、


「《童術・羽箒斧フライエンシュタイナウ!》」


残りの残存童力で、片刃の斧を錬成した。ユーデリカがグレーテルに寄り添い、肩を抱いてグレー

テルを引き起こす。フラウミルはヘンゼルの背中にしがみついたまま、彼とともに行動を共にする

つもりだ。ヘンゼルが羽箒斧を目いっぱい振り回した。塵が突風と成ってイヴに襲い掛かる。


「あなたたち、そんなことさせるわけ――」


塵風に煽られながらも、兄妹たちを逃がすまいとイヴが反撃に打って出る。しかしながらここにき

て、ガクンと膝が折れ、身体が沈む様を覚えた。《童力》はまだ尽きていないのに、風を押し返せ

るだけの力が沸いてこない。その間グレーテルたちは、遥か遠くへと移動していた。


「くっ……逃げるな! ブス! イヴはお前を、お前を倒さなきゃいけないだよ!」


根性と執念でイヴが立ち上がる。右手を掲げグレーテルたちに向けて乱雑に氷弾を発射した。


「きゃあああっ!」


後方から飛んでくる冷光に、ユーデリカが頭を必死に押さえて走る。弾幕の的が定まっていないと

はいえ、あのような塊に直撃されたら一溜まりもない。様子を見かねたヘンゼルが間に入って冷弾

を食い止める。


「みんな、頑張るんだ! マギまであと少し! 走れ! 走れ!!」


グレーテルたちに激励を送りつつ、ヘンゼルはイヴからの追い打ちを振り払った。アデム戦で《童

力》を残していなければ、この〝戦略的撤退〟は出来なかったかもしれない。ヘンゼルはアデムと

の戦いで自己と相手との力差を分析し、一旦『ホーム』へ帰還することを考えていた。


じくじたる思いはあったが、このまま戦ったところで、アデムに勝てる見込みがないと判断した結

果だ。押してばかりでなく、時には引くことも大事である――これは、樹木を伐採する際に父親か

ら伝授された言葉だ。


ようやく一番近いマギが見えてくる。ユーデリカたちには、どれがその木なのか判別がつかないが、

ヘンゼルたちには〝色〟でマギが分かっていた。


「はぁ、はぁ……その木だ! みんな、飛び込め!!」


ヘンゼルの一声で、全員がマギの中に飛び込んだ。ユーデリカたちは、樹木にぶつかるかもしれな

いという恐怖から目を瞑りつつも、グレーテルたちを信じてそれに乗りかかった。兄妹たちの形姿

が森の中に消える。


「――!? どこに……行ったのよ!」


ようやく追いついたと思ったイヴが森の中を見渡した。彼女にマギの存在は知られていないようだ。


「ははは。上手く逃げられちゃったね、イヴ」


そこへ、イヴを追って駆けてきたのか、彼女の兄アデムがやってくる。ヘンゼルにやられたとばか

り思っていた彼女は、安心したのも束の間に声を荒げた。ヘンゼルさえ乱入してこなければ、こう

はならなかったとアデムを責め立てる。


「何をやってるのよ! 兄さまのせいで逃げられちゃったじゃない!! あと少しで……あと少し

 で、あの子を倒せてたって言うのにっ!!」

「そうは言うけど、イヴだってフラフラだったじゃないか。あのまま争奪戦を続けてたところで勝

 てたかどうかなんて分からないよ」

「勝てたわよ! 勝てたに決まってる! だってあのブス、もう動けなかったのよ! とどめを刺

 すところまで行ってたんだから!」

「とはいえ、逃げられちゃったものはしょうがないだろ。ぼくだって、まさか逃げられるなんて思

 ってもみなかったし。いや、あれは計画的な犯行だね。あのお兄さん恐ろしく賢いよ」

「そんなのイヴに関係ないわ! 兄さまがあいつに撒かれたのが悪いんでしょ。それよりもどう責

 任取ってくれるのよ。このままじゃイヴ、お家に帰れないじゃない! ママにいい子だって言っ

 てもらえないじゃないの!」

「もう、うるさいなぁ……そんなに心配しなくても、あの兄妹はまたやってくるよ。近いうちに絶

 対に、ね。身体を休めて《童力》が戻り次第、もう一度必ずしかけてくる。そのためのデータを、

 あのお兄さんは取っていたからね」


間違いなく再戦するだろうという兄の言葉に少し落ち着いたのか、イヴはアデムを責めるのを止め、

近くの石ころを蹴り飛ばした。今さら言い争ったところで何の意味もないことは分かっている。心

には、まだ少しモヤモヤが残っているが、それでも、グレーテルをあと一歩のところまで追いつめ

た自信が、イヴに再戦時の勝利を確信させた。


「まあいいわ……次に会った時に容赦をしなければいいだけ。次こそは、次こそは――殺してやる」

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