Ⅹ 『夢の終わりには』
相次ぐ戦乱で父親は亡くなったと聞かされた。
寡婦になった母親は、儚い希望をお腹に宿し、昼夜を問わず真っ黒になって働いた。
一年後。人の目も陽の目も届かぬ地下住居で、彼――『ピエッド・ピッパー』は産まれた。祝福は
束の間だった。ピエッド・ピッパーは、生を受けたその瞬間から、既に生命の危険に晒されていた。
母親は、毛織物業などの下働きをして生計を立てていたが、一日働いてパン一個を買うのが精一杯
だった。中世における婦人の地位が一般的に言って低かったことは周知の通りだが、最大の受難は、
彼女たちが名誉の証である『市民権』を持っていなかったことだ。
市民権のない母親は、組合に入ることも師弟になることも出来ず、刑吏・牢守・皮剥人等、賤民の
職業とされていたものにさえ就くことが叶わなかった。そのため、彼女は組合を結成していない様
々な仕事に頼るしか他なく、寝ても覚めても生活は不安と空腹との戦いだった。
光が欲しい……そう何度も思った。裕福な人々がほんの少し手を差し伸べてくれるだけで、我々は
卑しくも生への執着を見い出せるというのに。どうして我々には陽の光が当たらないのだろう――
地下住居に射し込む僅かな日脚に手を伸ばし、ピエッドは通行人の足や犬猫の顔を見ながら育った。
「どこまでも希望に縋りつく哀れな者たちよ。その姿を見て少々過去を思い出してしまいましたよ」
キャペリンの先に軽く触れ、そのつば広を下方へと傾ける。眼光に陰りが差し、遮蔽で表情が読み
取れなくなる。退廃的に話すピエッドの『思い出した過去』とは、ヘンゼルがハーメルンからハー
メルンヘヴンへの移動の際、瞬間的に垣間見たピエッドの幼少期の事だろうか。
「……いいですか? 私たちのいる〝この世界〟に希望などありはしない。あるのは嘘とまやかし
で塗り潰された〝偽りの幸せ〟のみ……貴方たちにも見せてあげますよ。本当の物語とやらをね」
ピエッドの手の中で、ロマンスグレーの横笛が光芒を放つ。輝きはやがて無数の小さな水滴となり、
兄妹をハーメルンから隔離するように働いた。
「僕たちの本当の物語……?」
両刃斧を握るヘンゼルの拳が強くなる。時間系統が倍速で動いているのか、先ほどまで陽光として
いた町並みから一斉に光が吹き飛んだ。夜が訪れたらしい。ピエッドが頭部管を口元へと近づける。
「ええ。とっても素敵な物語でしょう」
歌口に息を吹きかけ、ベーム式フルートから、露払いと思われるイントロダクションが流れ始めた。
物語の開幕を告げるオーバーチュアだ。グレーテルはその楽曲に神経を尖らせ、兄に注意を促した。
ピエッドの吹奏する楽曲は、自身が体験した《夢幻童術》を初め、どれもこれも高等幻術だからだ。
兄妹が互いに距離を縮める。何か不穏な空気が漂っているのは間違いなかった。
「希望に縋ったその眼光に、しっかりと刻むがいい……《童術・闇芝居ジングシュピール!》」
真っ黒い暗転幕が兄妹に迫り来る。黒幕はやがて二人を包み隠し、兄妹を闇の彼方へと押しやった。
♪
まだ日の昇らないうちから、兄妹は濃霧が立ち籠もる暗い森の中を歩いていた。
黒い森――ではない。閑寂枯淡な雰囲気は似ているが、そこは見知った森・見慣れた森の中だった。
「この道は……」
双林の合間を縫って、ヘンゼルが蒼い森の中を見渡す。三三五五に点在している切り株は、この森
が、実家の借有地であることを顕示しており、高い木々に囲まれた緑色のあぜ道は、兄妹が父親の
職場に行くためによく通った道だった。
兄妹の古い記憶の中に懐かしい思い出が甦る。舞台は黒い森から一転して、ドイツ南西部に位置す
る小さな村――兄妹の家郷の森へと移り変わっていた。
「……お兄さま」
ヘンゼルの右隣下から少女の声がする。ヘンゼルに手を引かれて歩いていたグレーテルが、兄妹の
少し前方を歩く二人の大人を遠見して、こちらに雲を掴んだような何とも言えない表情を向けてき
た。前方には、つい先ほどまで誰の姿もなかったはずだが、彼女に倣って見やった先には、紛うこ
となき両親の懐かしい後ろ姿があった。
「父……さん? 母さん……?」
霧に隠れてよく見えていなかったのか、願いに願った望郷の想いが届いたのか、ヘンゼルは弱々し
くもその背中に声をかけた。
肩に伐採斧を抱えた父親と、隣でランチバスケットを携えた母親が不思議そうに振り返る。ほんの
数ヶ月、両親と離れていただけなのに、ヘンゼルの心情は、何十年も会っていないかのような錯覚
に陥っていた。
ヘンゼルがグレーテルの手を引っ張って両親の膝元に駆けつける。
何一つ変わっていない両親の元気そうな姿を確認して、ヘンゼルは溢れんばかりの喜びから二人の
間を割って両親の前に飛び出した。
『こら! ヘンゼル!! お父さん斧を持っているんだから危ないでしょ!!』
母親が腰に手を当て、唐突に飛び出してきたヘンゼルを叱責する。
『そうだぞヘンゼル。久しぶりに家族みんなで森に入るんだ……ケガでもしたらどうするんだい?』
父親と母親……両親共々に注意を受け、ヘンゼルは口調や性格まで本物の両親である事に感服した。
これは幻術なんかじゃない。現実だと。どうやらヘンゼルたち一行は、家族揃っての休日を父親の
職場で過ごそうと物見遊山に向かっている途中だった。
『さて。ここら辺でいいだろうか』
『……そうね。ここならきっと誰にも見つからないわ』
すっかりと毒が抜け吟行気分な兄妹を尻目に、両親が途中の人跡まれな原野で立ち止まる。父親の
作業場まではまだ少し距離はあったが、東の空に太陽が昇るのを確認して、両親は〝事〟を急いだ。
『ヘンゼル……グレーテル。疲れたでしょう。さ、あなたも……一旦ここで休憩にしましょう……』
森に分け入ってから、おおよそ30分ほどしか経過していなかったが、母親は平らな切り株にラン
チバスケットを降ろしてグレーテルを呼び寄せた。
『グレーテル。お父さんとヘンゼルに、お水を配ってちょうだい』
母親が柳行李から木製のコップと古びたチョコレートポットを取り出して、手際よく給水をし始め
る。グレーテルは先に注がれた二つのコップを手に取って、中の水が勢いでこぼれぬよう、ゆっく
りと……慎重に身をひるがえした。少し先には父親とヘンゼルが切り株に腰をかけ茶話をしている。
そして、グレーテルが父親とヘンゼルに飲み水を渡そうと、足を一歩踏み出した時だった。
後ろから母親の小さく謝る声が聞こえ、出し抜きに身体が宙に浮いたのは。
血? 最初それを見た時は、いったいこの血液が、どこから流れ出たものなのか混沌としていたが、
やがて、地面に落ちた二つのコップと、胸部に突き刺さる、熱く焼け付くような痛みに目を向けて、
グレーテルは、これらの鮮血が自身の内部から溢れ出たものだと理解した。
ドサッ……グレーテルが両膝を着いて冷たい草むらへと倒れ込む。視界の端でグレーテルが突然倒
伏したことに気づいたヘンゼルは、その異様な光景を前に、血の気という血の気が、全身から引い
ていく感覚を覚えた。
「グレーテル……?」
虚ろな瞳をこちらに向け痙攣を繰り返す妹に、ヘンゼルが弱々しくも近づいていく。一体全体、何
が起こったというのか……うつ伏せに倒れた妹の周りには、紅く新鮮な溢血が、早くも血だまりを
形成している。グレーテルの背中には、残酷にも鋭く研かれた牛刀がヌイグルミごと縦貫していた。
母親が悲しげな表情でヘンゼルを見る。
『ごめんねヘンゼル。もうあなたたちを養っていくだけの余裕が家にはないの』
両親は家庭の経済状況が芳しくないことから、兄妹を森の奥深くに置き去りにすることを決断した
が、腹を空かせた猛獣たちに我が子を食べられてしまうくらいならと、辛酸を舐める想いで両親な
りの最愛の結論に辿り着いていた。
「グレーテル……嘘だ……そんな……」
痙攣が納まり、血だまりの中で虚空を見つめ息絶えた妹を遠くに、ヘンゼルが母親から距離を取る。
「はは……ははは……おかしいよ、こんなの。母さんが……母さんがグレーテルを刺すなんて……」
普段から何事にも厳しい母親だが、それはヘンゼルやグレーテルが悪い方向に道を踏み外さないよ
うにとの愛念であり、母親が父親と同じくらい家族を大切に持っている事をヘンゼルは知っている。
それなのに……それなのに何故?
「……と……父さん。僕……悪い夢でも見ているのかな……だって……母さんがグレーテルを……」
ヘンゼルが自嘲的な物言いで父親に答えを求める。父親は軽く目を伏せて、
『すまないヘンゼル……こうするしか、他に俺たちが生き残れる道がないんだ』
切り株に立てかけてあった鉄斧に手を伸ばす。その様子を見てヘンゼルは、いよいよこれは〝夢で
はない〟という事実に瞳孔を見開いた。
「うそ……だ。こんなの……こんなのって……」
父親が右手に持ったそれを振り上げる。ようやく昇り始めた太陽が錆びれた銀を光らせた。
「う……うわああああああああああぁぁぁ!!」
☆
暗転幕が上がり場面転換が完了すると、そこには元の景色が広がっていた。ヘンゼルは草むらに両
膝を突き刺し、頭を下げて夜風に揺れる雑草を眺めていた。いつの間にか元の舞台に戻っていたら
しいが、彼の表情は生気を失ったままだった。
先ほどの出来事が尾を引きずっており、今だ神経経路が麻痺を続けている。額からは止めどもなく
汗雫が噴出し、ここが『現実世界』である事を理解するのに幾分と時間がかかった。
「ふっ、ふふ……〝戻ってきた〟ようですね。妹さんが突然倒れたと思ったら、今度は貴方様がい
きなり大声を発するものだから吃驚してしまいましたよ。一体全体〝真実〟の中で何があったの
です?」
ピエッド・ピッパーに妹が倒れたと伝えられ、ヘンゼルはハッとしてグレーテルの方を振り向いた。
実の母親に刃でヌイグルミごと背中を貫かれ、血だまりの底で無残にも落命した妹を心配する。グ
レーテルはペタンと座り込んだまま放心状態に陥っていた。
「いやはや困りますね~これくらいの術で音を上げてもらっては。御二方の『本当の物語』は、ま
だまだ始まったばかりですよ?」
「今のが……僕たちの本当の物語だって……?」
あまりの生々しさに、ぬるりとした感触が全身を駆け巡る。怖い。悍しい。身体が臆病風に吹かれ、
ヘンゼルの士気がたちどころに下がっていく。
改めて、先ほど体験した血なまぐさい悪夢は、ピエッドが《夢幻童術》で創り出した〝偽りの幻術〟
だと何度も自分に言い聞かせているが、どこか別の世界の自分たちが、本当に経験したような感覚
だった。
「さてさて息継ぎはこれくらいにして、そろそろ第ニの幕を開けるとしましょうか。さあ、さっさ
と次の舞台にお上がりなさい」
第一幕で弱体化した兄妹に追い討ちをかけるよう、笛吹き男が再び魔笛を口にする。開幕演奏とは
打って変わり、七下がり七上がりの激しい疾走感漂う楽曲だった。
利休白茶色の魔法円が底光りによって出現し、兄妹に再び黒い暗転幕が降りかかる。
決して広範囲の術ではないのだが、舞台に暗転幕が下りたら最後。場面転換に抗うことは、極めて
不可能だった。
兄妹の意想とは裏表に意識レベルが急低下し、思考が闇の彼方へと沈んでいく。兄妹が次に目覚め
た先は、家郷の森と黒い森が非現実的に繋がった『狭間の森』だった。
♪
――森の中をさ迷っているうちに、兄妹は一軒の家屋へと辿り着いていた。
「この家は……」
両親に森へと置き去りにされた兄妹は、どこからともなく現れた白い鳥に誘われて、森の奥深くに
足を踏み入れていた。みすぼらしい庭園や生え方の異なる大樹など雰囲気こそ違うものの、その家
は、正真正銘、兄妹のホーム『魔女の家』だった。
ギィィ……兄妹の帰宅に反応したのか扉が一人でに開く。魔女ドロテーアはたしか黒ミサに出払っ
ているはずだ。ホームに残してある魔女の本体が、魔法でも使ったのだろうか……二人を家の中へ
と招き入れる。
『おかえりぃ。ん? どうしたんだい二人とも? 私の顔に何か付いとるかえ?』
どうして魔女がホームに? おそらくそんな表情をしていたのだろう。兄妹は互いに顔を見合わせ
て魔女がホームに在住している状況に首を捻った。時刻はちょうどお昼時。そう言えば今夜は満月
ではなかったかとヘンゼルが蛇影を払拭する。宵闇になるのを待たず、一足先に戻ってきたという
ことだろうか。魔女たちの住む世界とこちらの世界とでは協定世界時が異なるため、魔女界ではす
でに満月になっていたのかもしれない。
ホームに魔女が戻ってきている状況に納得したところで、
『今からちょうどお昼にしようかと準備を始めたところさね……二人とも手伝ってくれるかい』
魔女はヘンゼルに巻き割りを言いつけ、グレーテルには台所に入るよう促した。魔女が早速の仕事
をグレーテルに言いつける。
『手始めに竃に火を点けようかね。最近また一段と足腰が弱ってきてのぅ。パンを焼くのも一苦労
じゃ。お前さんがいてくれて助かるよ』
グレーテルはいつもパンを焼いているように、手際よく石窯の掛け金を外した。燃料を焚いて石板
を温めるため、身体を折りかがむ。ドンッ! その瞬間、強い衝撃が彼女の背中を襲った。
グレーテルは後方からの衝撃で前へと転倒し、たまらず石窯の奥へと転がった。
バタン! 視界が急激に暗くなる。慌てて振り返った先に見えたのは、長方形に縁取られた小さな
のぞき穴からの微光。石窯の扉を閉められたと気づいた時にはすでに遅かった。
「お……ばあさま?」
チリチリと身が焦げ始めて、グレーテルはようやく自分の身に何が起きているのかを理解した――
グレーテルが必死になって内側から戸を叩く。全身から汗とも蒸気とも分からない水滴が流れ、石
窯内の温度がどんどんと熱くなる。
『ホォッホッホッ……馳走が二つも飛んでくるなんてね。お前を竃で焼き殺したら、今度は兄さん
を煮鍋で茹でてやるわい』
ゴオッと炎が唸りを上げた。グレーテルは石窯の火勢をまともに受け、その熱さから逃れるために、
小さなのぞき穴に身体を近づけた。
今度は眼孔に激痛が走った。小さなのぞき穴から魔女が火かき棒を突っ込んだのだ。くぐもった声
が竃内に轟く。グレーテルは火かき棒に潰された片目を手で蔽い、よろよろと微光窓から後退した。
やがて、グレーテルの髪に火の手が燃え移り、グレーテルが炎に包まれて悶え狂う。
そして、いつしか裂帛の声は断末魔へと変わった。
どれくらいの時間を火に炙られたことだろう。最期の最期まで脱出を試みたグレーテルは、死に体
ながらも懸命にのぞき穴に手を伸ばし、光を求めたところで事切れた。
☆
「うっ……あ……」
場面転換と同時にグレーテルは地面にうずくまっていた。素肌に突き刺さる冴えゆる風が、彼女の
意識を『現実世界』へと呼び戻し、魔女に焼かれた火照った身体を冷ましてくれる。
極度の緊張と焼死への恐怖からか、心臓の高鳴りがいつまでも収まらない。息の荒さから、グレー
テルの精神的ダメージはかなりのようだった。あたり近所からヘンゼルの吐息も伝わってくる。
「グレーテルが……グレーテルが……」
ヘンゼルがパクパクと声を漏らす。彼は『平行世界』のホームで、グレーテルが魔女に焼かれて没
した後、魔女が妹の肢体を鬼の形相で貪る場面に出くわしていた。
恐らく、あの後の自分は生きていない。妹と同じように殺されて、骨の髄まで魔女にしゃぶり尽く
されているのだろう。あちらの世界で最悪の結末を迎えきれなかったのは、『平行世界』での精神
的負荷が増えすぎて、結末を迎える前にこちらに戻されたからだった。
「やれやれ……ずいぶんと期待ハズレですね。二人して粋がったわりには、つまらない幕引きです」
精神の崩壊まで秒読みに入った兄妹に、笛吹き男が能面のような表情で告げる。精神攻撃をこんな
にまで続けられたら、たとえ兄妹じゃなくても自我を保ち続けることは難しい。
むろん、相手の術を糧として取り込むヘンゼルの『ハーナウ&シュタイナウ』であっても、実体の
ない〝カタチ無き〟幻想術が相手では、その効果を発揮するどころか、吸収に結びつけることさえ
不可能だった。
その理由には、《童術》のカタチに大きく分けて四つの『形態』があるからだ。
『形態』とは、『想い』を《カタチ》へと昇華させる際の起動プログラムの一種で、術者の想いを
〝最も発揮できるもの〟――に置き換えるという戦闘補助能力である。
グリムの仔達、並びに民謡伝承者の間で比較的多いとされている『形態』は二通り。ヘンゼルを始
め、赤頭巾や白雪のような、想いから武具を練成する『童具型』。それに、狼や七人の小人達が繰
り出す、想いを波力エネルギーに変える『童波型』がそれらに当てはまる。
またレアリティの高い形態として、自分自身を想いに同化させる、タエマナシ王子の『童化型』や、
想い入れのあるモノに想いを宿す、グレーテルの『童宿型』が確認されている。
そして、それら四つの形態に当てはまらない、異例な型式がもう一つ。
想いを〝想いのまま〟で留まらせ、想いをカタチとして発動させない『童匿型』の存在だ。
「さて、そろそろ最後の幕といきましょうか。大いに盛り上げて、大いに悲しんでくださいよ」
ピエッドが滑らかに五指を働かせ、頭部管に甘い口づけを交わす。物語が終幕へと向けて走り出し、
衰弱しきった兄妹に黒い暗転幕が降りかかる。
「ひどく儚い想いは、想いのままで充分です。だいたい想いをカタチへと変えたところで、結局最
後に行き着く先は、死――という名の『不幸』でしかないのですから」
♪
――月光に輝く丸い小石を辿って、兄妹は暗い森の中を家へと向かって歩いていた。二人は森の奥
深くに住む『人喰らいの魔女』を倒し、戦利品であるたくさんの宝石を抱えて暗夜の灯火を追った。
両親に森へと捨てられる前――家の外でこっそりと拾って道すがら落としておいた小石が、兄妹に
家への方角を示してくれる。
月の綺麗な夜だった。ハッピーエンドには誂え向きの最終局面だ。
あぜ道の先に一軒の家屋が見えてくる。兄妹は家庭の再起を願い、競うようにして玄関を目指した。
そして、先に玄関へと辿り着いたヘンゼルが勢いよく扉を開けた。
「父さん! 母さん! 見てよこれ!! こんなにたくさんの宝石が……父さん?」
ヘンゼルが暗い部屋を前に言葉を切る。家の中に灯りはなかった。代わりにヘンゼルを出迎えたの
は、窓辺から射し込む月の薄光と、精彩を失いひっそりとした空間だった。
「お兄さま?」
なかなか家に入ろうとしない兄の背中にグレーテルが声をかける。その直後――
「う……うげえええええっ!」
突然の吐き気にヘンゼルが倒れるように膝を着く。兄が突然の吐しゃに背中を屈めたため、グレー
テルの視界にもその光景が焼きついた。
暗い部屋の中、天井から一本の荒縄が吊り下がっていた。荒縄はその重さに耐え切れていないのか、
ギィギィィと嫌な音を立て、結んである首下をさらに強く締め付けている。
グレーテルが愕然と肩を落とした。どうして、どうしてこんなことになっているのか……そんな表
情で彼女はロープにぶら下がる父親の姿を眺めた。床面には借金の返済を促す催促用紙が散らばっ
ている。
「つ――!」
ヘンゼルは父親の死体から逃げるように外へ出た。
水、水、水――胃袋を空っぽにしたら、今度は喉がカラカラになった。ヘンゼルが裏庭の井戸場へ
水の汲み上げに走る。考えるのは後でもいい。とにかく今は落ち着きが欲しかった。
ヘンゼルがポンプの前に滑り込みハンドルにしがみ付く。
ハンドルを狂ったように上げ下げして、吐出口からの水を待った。
しかしながら、なんどハンドルを上げ下げしても、地層からの真水が吸い上がってこない。
シリンダー内に何か詰まっているのだろうか。
ヘンゼルは水の汲み上げを一旦諦めて、円形からなる井戸淵へと近づいた。
底の様子を調べようと地層を覗き込む。
「――!!」
母親がこちらを眺めていた。長い赤髪を水面いっぱいに浮遊させ、首をくの字に傾けてヘンゼルの
ことを凝視している。
厳密に言えば、母親は彼の後方に冴えている、眩いばかりの満月と星空に目を向けていた。
「うっ――」
ヘンゼルがとうとうその場に座屈する。両親が共に死亡している場面に遭遇し、精神的限界がヘン
ゼルを襲った。
両親の死因は、借金による自殺だった。
「は……ははは……これは夢……夢だよね……」
『……いいえ。現実ですよ』
☆
闇芝居の中にピエッドの声が冴え渡る。
平行世界から現行の世界へと戻された兄妹は、笛吹き男を前に絶望に打ちひしがれていた。
「貴方達が見た夢は、本来、貴方達が辿るはずだった物語の一つ。どの夢も夢であって夢ではない。
〝現実に〟起こりえるはずのものだったのですよ。パラレルワールドって言葉をご存知ですかな?」
『パラレルワールド』――この世界とは別に、もう一つの現実が存在しているということ。
ある同一の次元から分岐した行き先が、元の次元と平行して進んでいる世界を指す。
しばしば『ifの世界』――とも呼ばれている。
「そんな……あれが僕たちの物語だなんて……」
「ふふふ……嫌でしょう? 怖かったでしょう? 一歩、シナリオを踏み間違えていれば、今の貴
方達もあのような運命になっていたのですよ? 貴方達は実に運がいい。今、こうして希望をも
って生きていられるのですから」
現行の世界に感謝せよ――ピエッドが両手を広げ、そのように振舞う。
「ただ、それでも貴方達はこの森に幽閉されてしまった。いつ・どこで命を落としても不思議では
ない、この『シュヴァルツヴァルト』にね。ですから、この先に待っているのは、必ずしもハッ
ピーエンドだとは限らないんですよ。だからこそ……私は貴方達のような幸せを求める者に夢を
与えているのです。これから先、悲しい思いを、不幸な思いを……体験しなくてもいいようにね」
ピエッドの夢語りには一理あった。たしかにあのような悪夢を体験するくらいなら、いっそのこと、
夢でも幻想でも〝現実逃避〟をしているほうが幸せだったからだ。
「ようやく理解していただけましたか? 当てのない希望にすがって厳しい現実を生き抜くよりも、
現実から目を背け、争いも不安も失うモノもない夢のような世界にいるほうが幸せだという事に」
ヘンゼルが拳を握り締める。笛吹き男から精神的外傷を与えられ心が折れたからではない。
彼の言葉に感化され、彼の理想図に納得してしまった〝弱い自分〟に、やるせなさを覚えたからだ。
「御二方の〝生き方〟は間違っていませんよ。光を求め、希望を抱き、未来に向かって決して諦め
ない。実に『グリムの仔達』らしい生き方です。ですがね……現実というのは斯くも厳しい世界。
奇麗事だけで生きて行けるほど、『世界』は甘くはないんですよ!」
兄妹の心底に、ピエッドの見えないカタチが突き刺さる。ヘンゼルは、ピエッドの絵図に支配され
るその一歩手前で必死の抵抗を試みた。
思い出せ――平行線の物語はどれもが最悪なシナリオを進んだが、決して辛いことばかりでは、な
かったということを――どんなに貧しくても、幸せを感じれた瞬間が絶対にあったはずだ。
闇に呑まれるな光に手を伸ばせ――楽しかった時の思い出を結末だけで奪われるな。
足掻け、叫べ、未来を恐れるな――絶望に負けないくらいの希望を自分たちは持っている。
たった一つの幸せで、人は笑うことができるんだ!
「つ……グレーテル。思い出すんだ……楽しかった時のことを……結末だけが全てじゃないはずだ」
ピエッドのジングシュピールに打ち勝つ方法――ヘンゼルがその足懸かりをグレーテルに指し示す。
「たのしかった……こと……」
グレーテルの短い人生の中に様々な思い出が甦る。ヘンゼルに倣って思い出した過去には、辛かっ
たことや苦しかったこともあったけど、心から笑顔になれた瞬間もたくさんあった。
兄妹が互いに手を取り合い、お互いを支えに立ち上がる。
「困難に立ち向かうことも物語の一つ。苦しくても……怖くても、自分たちの物語は自分たちの手
で決めたい。例えそれで命を落とそうとも、僕たちは自分で選んで、自分で進んだ物語を後悔し
ない。だから全力で今を生き抜いてみせる。そうして掴んだ幸せこそ僕たちの本当の物語だから」
ヘンゼルの信念にピエッドが唾を吐く。
「愚かな……自ら困難な道を選ぶとは。悪夢の中の貴方達は未来の貴方達の姿でもあるんですよ?」
「それでも構わない。だって……まだそうなると決まったわけじゃないから! 最後の最後まで僕
たちは光を求めて見せる。諦めない想いを持つことが、この先の物語に光を与えてくれる! 僕
たちはそう教えられたから!!」
兄妹の心像に、光球の中で聞いた――グリムの名を冠した――男の教えが木霊する。
物語はいつだって残酷で悲劇の渦はいつも隣り合わせだ。
生は死を招き、死は生きることを考えさせる。どちらに転んでもおかしくないこの世界で、子ども
たちは希望と絶望の天秤に命運を預けている。
そして、それら二つの境界を作中で隔てているモノ――
それは、
「すぐ近くにある〝小さな幸せ〟を感じてみてよ。なんでもいい。おいしいものを食べたとか、温
かい布団で眠れたとか……他から見れば些細な出来事かもしれないけど、僕たちはその小さな幸
せに支えられているんだ。そうやって幸せを求め続けることで、物語はいくらでもハッピーエン
ドになれる!」
兄妹が血と死臭に蔽われた『狂気の闇芝居』を振り払う。
「やれやれ……理解力のない子は嫌いですよ。私は自分の信念も言葉も変えるつもりはありません。
この想いを聞き入れないのなら、ここで私が貴方達の物語をバッドエンドにしてあげますよ!!」
序破急、および3部作で構成された闇芝居が打ち破られ、ピエッドが冷静を欠いた激しい演奏を露
悪する。その音色は、とてもじゃないが幻想的と呼べるものではなく、チューニングの狂った、た
だ喧しいだけの金属音にしか聞こえなかった。
「……霧?」
ピエッドの笛の音で、いつしか辺りには白い靄のようなものが立ち篭っていた。
兄妹は互いに離れないよう、背中同士をくっつけて四方に目をやった。そこに衝撃波が飛んでくる。
「ぐあああっ!」
突然の殴打に、ヘンゼルが真横に吹っ飛んだ。グレーテルが一驚を喫して兄のほうを振り返る。
「お兄さま!? ――つ!」
グレーテルにも同じように見えない一撃が飛んでくる。ヌイグルミを抱いて地面を転がり、グレー
テルは霧の中に隔離された。兄の姿が見えなくなり兄妹が離れ離れになる。
視界は最悪だった――自身の全姿以外、瞳には白だけの景色が映っている。
グレーテルはヌイグルミを持つ手に力を入れ、ようとして知れないピエッドの霧討ちに身を備えた。
『グレーテル! 右だ!! 右に避けるんだ!!』
おそらく霧の向こう側から、ヘンゼルの声が響く。
グレーテルは兄の指示に反応して、その場から右下弦へと足場を動かした。しかし、
「――――!!」
身体を動かした矢先、鋭い波状のようなものがグレーテルの肌身を削った。衣服の一部が破れ落ち、
左の二の腕に、細長い赤腫が残る。
兄の指示通り、右方向に避けたはずだったが、ピエッドの攻撃をかわしきれなかったのだろうか?
グレーテルの表情が、たちまちのうちに強張った。もしもこれが、上肢ではなく面部に受けていた
と想像したら、大変な事になっていたからだ。相手の為すこと・考えが見えないというだけで、人
はどこまでも心胆を寒からしめる。
グレーテルは、傷口の痛みを無視することで耐え凌ぎ、愛玩人形を構え直した。
視界は完全に霧に閉ざされ、兄の姿はおろか、ピエッドの姿さえ見えない。早いこと兄と合流しな
ければ、自分も兄もピエッドの童術でやられてしまう――グレーテルがそう薄氷を踏んだ時だった。
再び兄の指示が飛んでくる。
『グレーテル、前方から攻撃が来ている! 左に避けるんだ!!』
グレーテルは素早く、後方を振り返るよりも早く、サイドステップを駆使して左舷方向へと身をか
わした。前からの攻撃に対処することも忘れない。ヌイグルミで前衛のセーフガードを固める。が、
今度は、ずっしりと重たい衝撃がグレーテルの小さな体躯を吹き飛ばした。
僅かに気が遠くなる。グレーテルは下草を巻き込んで、その勢いが収まるまで地面を転がった。
「う……っ……」
身体をイモムシのように丸め込み、グレーテルはヌイグルミを強く抱き締めた。思わず目じりに涙
が浮かぶほどの激痛が彼女を襲う。何か鉄槌のようなもので骨ごと砕かれたような感覚だ。
脳内回路が不要な思考を停止させ、身体にかかる痛みを和らげようと集中する。そのため、グレー
テルはしばらくの間、ただただ痛みに耐える事しか出来なかった。
緑陰を渡る風が身体を撫でつける。散乱葉がそれに伴って巻き上がり、ふわりふわりと落ちてくる。
どれ位の時間、鎮痛に費やしただろう。その間ピエッドからの攻撃はない。時間にすれば数分程度
の出来事だが、痛みが治まるまでの感覚は永遠にも感じられるほど長いものだった。
ようやく思考が戻ってくる。
不思議だった。何故、兄の指示通りに動いているのに、敵の攻撃を喰らってしまうのか?
どうして自分には敵の姿が見えていないのに、兄にはその姿が見えているのか?
暗中模索を繰り返した結果――グレーテルの頭の中で一つの矛盾に行き当たる。
「もしかして……」
グレーテルがむくりと起き上がり、小石を投げてみようと試みる。
ヌイグルミを両手持ちから片手持ちへと切り替え、専守防衛を諦める代わりに機動性を向上させる。
そして、再び聞こえてくるだろう〝兄の誘導指示〟――を待った。
『グレーテル、今度は左だ! 左から攻撃が来ている!!』
一瞬、左舷からの襲撃に対処するため、ヘンゼルの指示通り右舷へと舵を切ったが、踏みとどまり、
グレーテルは兄の誘導指示とは〝真逆の〟左方向へと飛び移った。
ピエッドからの攻撃は……こない。代わりに、鞭のようなものが右方で風を切ったのが見えた。
『ちぃ――!』
微かな舌打ちと共に、その鞭が再び霧の中に溶けていく。間違いない。
グレーテルが確信を持った表情になる。今のは横笛を《童術》で『鞭』に変化させ、ピエッドが近
接戦で使用していたものだ。中世では拷問にも使用され、まともに打たれれば重傷は避けられない。
あのまま兄の指示に従っていたら、今の攻撃を喰らっていたのだろう。
だんだんとカラクリが見えてきた。おそらく兄の声を幻術で真似して、敵である自分を攻撃範囲へ
と誘導していたんだ。
グレーテルに『霧隠れの術』が破られ、ピエッドの襲撃が止まる。こうなってしまっては、次に誘
導指示でグレーテルを攻撃範囲に誘ったとしても、彼女は〝その指示通り〟に動くだろう。心理戦
だ。一度その手の遊撃に疑いを持ち始めたら、100%命中するはずだった攻撃は50%まで半減。
さらに、襲撃への対処まで強くなれば、その数値は更に下回るだろう。近接戦を得意としないピエ
ッドからしてみれば、相手への姿晒しは危険極まりない。視覚を奪っているという有利的状況を生
かせなければ、相手に居場所を割られそのまま近接戦に持ち込まれてしまうからだ。
しかしながら、彼にはまだ余裕の笑みさえあった。
ピエッドが霧の中で薄笑いをする。グレーテルのダメージ量からして、彼女を戦闘不能にするのに、
もはや大きな技は必要ないからだ。そのためにわざわざ『霧隠れの術』で兄妹を分離した。
一人ずつ撃破していけば勝てる戦いだ。だからこそ慎重になる必要がある。僅かに数発攻撃を叩き
込めば、彼女とて立ち上がる事は出来ないだろう。問題ない。まずは確実にグレーテルを仕留める。
「大丈夫かいっ! グレーテル!!」
霧の海を掻き分けて、ヘンゼルがグレーテルの視界に現れる。
「――!? お兄さま!」
ヘンゼルとの再会に安心したのか、グレーテルが兄の下へと駆け寄り、兄妹が敵の陣内で合流した。
「ずっと君の居場所を探そうと霧を振り払っていたんだけど、なかなか振り払うことができなくて」
ヘンゼルが四方に目をやり、
「グレーテル、この霧は危険だ! どこから攻撃が飛んでくるか分からない! 早いこと脱出しな
いと、笛吹き男のいい餌食にされてしまう! こっちだ!」
無理やりグレーテルの手を引いて、濃霧からの脱出を試みる。
「あっ……」
ヘンゼルに急かすように手を引っ張られたせいで、彼女の手からヌイグルミが零れ落ちた。グレー
テルがもう片方の手でヌイグルミを拾い上げようと懸命に手を伸ばす。
「グレーテル、何をしてるんだ! グズグズしていると再び奴の攻撃が飛んでくる。そんな汚いも
のは捨てて、早く!!」
ヌイグルミを見放し、強引に手ごめにしようとする兄の手を、グレーテルがしゃにむに振り解いた。
「どうしたんだグレーテル!? さあ、早く!!」
グレーテルが優しく、それでいて抱え込むようにヌイグルミを拾い上げる。
「……違う」
「グレーテル……?」
「あなたはお兄さまじゃない!」
「グレーテル、何を言って……」
「お兄さまは大切な家族のことを〝そんなもの〟だなんて言わない!」
ヘンゼルがグレーテルの言葉に驚き下を向く。ヘンゼルなら……〝本当の兄〟なら、ムーちゃんの
ことも、家族に思っているはずだ。
ヘンゼルが左右に首を振り、億劫そうにグレーテルを睨み付けた。
「やれやれ……上手い具合に演じたつもりだったんですがね。まさかそんな所に落とし穴があった
とは。やはり付け焼刃程度では、『グリムの仔達』は倒せませんか」
ヘンゼルの足下に魔法円が出現し、利休白茶色の光がヘンゼルを包み込む。
光芒はやがて白の景色と同化していき、たった今ヘンゼルだった者が道化師のような男に変わった。
「霧を薙ぎ払え! 《童術・羽箒斧フライエンシュタイナウ!》」
笛吹き男の出現と同具合に、漂っていた霧が一気に吹き飛ぶ。それは巨大な扇子で風を仰いだよう
な光景だった。ピエッドがキャペリンハットを押さえる。突風は、やがて全ての濃霧をかき消して、
笛吹き男にグレーテル……そして、ヘンゼルの姿を露にした。
ヘンゼルの掌には『両刃斧ハーナウ&シュタイナウ』の第2形態、極限まで軽量化された羽箒のよ
うな片刃斧が握られている。
「グレーテル!」
「お兄さまっ!」
兄妹が互いに寄り集い互いの無事を確かめる。そんな様子を白眼視し、ピエッドは大きな溜め息を
吐いた。
「ふぅ……この霧をかき消すほどの童術を持っていましたか。困りましたね……ここまで算段を立
てても事が進まなかったのは貴方たちが初めてですよ」
滋味豊かな口調とは裏腹に、焦りとも怒りとも取れる想いが、彼の気骨から伝わってくる。
闇芝居に続き、霧隠れの術までも攻略されたのだ。気持ちが泡立つのも無理はない。だが、
「こうなってしまってはしかたありませんね。いいでしょう。とっておきの大技でバラバラにして
あげますよ。貴方たちが選んだシナリオが、バッドエンドだったと後悔するほどにね!」
思わず目を背けるほどの眩い光がピエッドの足下から照らされる。二つもの《童術》を破られて尚、
彼は特大の隠し玉を用意していた。利休白茶色の魔法円に金粉が混ざり始める。
「《童術・金の鎖カテナ・アウレア!》」
光陣に向かって片手を着き、ピエッドが幸遺伝子を具現化させる。二重に敷かれた円形の周を黄金
が走り、そこから上空に向かって、一気に紐状のようなものが伸びた。
その数は全部で8本。黄金色の輝きと地響きから練成されたのは、
金属製の環が複数連結された巨大な長鎖環だった。
「――っ! あんな鉄の塊、まともに受けたら……」
ヘンゼルが上空に浮かぶ鉄の鎖に尻込みする。
過去に『茨の塔』で草食獣を複数相手にしたことがあったが、それは、
童術の相性――鉄製の刃と草木――がよかったのもあって切り抜けられた事で、それが鉄と鉄の打
ち合い、それも複数の鉄塊を相手にしなければならないとなると、必然と先に刃がこぼれるのはこ
っちのほうだ。
全ての鎖を受け流せる自信はない。少なくとも何本かは捌く必要があるだろう。
「くっ……」
両刃斧を握るヘンゼルの手が強くなる。右隣のグレーテルも同じようなことを考えていたのだろう。
ヌイグルミを掴む両手が明らかに固くなっている。
「さあ、もう物語はお終いですよ。貴方たちの結末はデットエンドで決まりなんですからっ!」
笛吹き男の最大童術、金色の鎖が兄妹に向かって猛攻を仕掛ける。
森の中はたちまちの内に砂煙でいっぱいになった。
黄塵にまみれ、疾呼と流血が飛び交う。一度、地面に突き刺さった長鎖は、乾反るように引き抜か
れ、繰り返し敵を追撃する。捌いても、捌いても、鎖は兄妹にまとわりついた。
1本の長鎖がグレーテルの足場を削る。転倒した彼女にすかさず数本の環が迫った。
ヘンゼルがグレーテルの下に駆けつけ両刃斧を振り回す。黒鉄と金鉄が鈍い音を立ててぶつかり合
い、互いに鉄を零していく。そのうち、何本かの長鎖が両刃斧に絡みつき、ヘンゼルは身動きが取
れなくなった。
「お兄さま!」
グレーテルが一もニもなく立ち上がり、捕縛されたヘンゼルの後ろ盾に向かう。
ヌイグルミを背中へと背負い直し、ヘンゼルに絡み付いた鎖を無理やり引き離そうとする。が、一
度まとわりついた鎖は簡単には解けず、そこに新たな鎖が押し寄せてきた。
兄妹が鎖という名の波に飲み込まれる。鋼鉄が肉を裂き、骨を砕いて深紅の花を開かせる。
散地にはしめやかな風が流れ込み、一帯は静けさに包まれた。文字通り狂鎖に噛み砕かれた兄妹は、
ボロと血だるまになって戦地に沈んだ。
「ハァ、ハァ……さすがに、童力の消耗が激しいですね。この術を使ったのは、〈双子〉との争奪
戦以来でしょうか……やれやれ、とんだダークホースでしたよ。貴方たちは」
過去に戦った中央区最強の被験体と比較して、ピエッドが兄妹の善戦を褒め称える。後にも先にも
最大童術を引っ張り出されたのは、兄妹を含めてたった2組だけだったからだ。
「さて、これでこの森に希望などないということがお分かりいただけたでしょう? 希望なんても
のは、結局、幻の中の〝延長線〟にしか過ぎないのですよ。奇跡なんてものは夢幻と同定義。最
後に行きつく先は、詰まるところ『現実逃避』なんですよ」
ボロとなった兄妹に、ピエッドは乗り越えられない絶望の壁を語った。
それを聞いて、グレーテルの身体が微かに動いた。朦朧とした意識の中で、彼女は小さな粒子を追
いかけていた。
森の広場で出会った同年代の友達。優しい音色の中で見た紙芝居。自分の帰りを心配してくれる兄。
そして、一人の少女との約束――これら全ての項がバッドエンドのシナリオだなんて思いたくない。
例えこの先の未来に、絶望しかなかったとしても、確かな幸せは、確かなカタチとして残っている。
結末だけを見てその物語がバッドエンドだったなんて言わせない。
だってそれは、これまで歩んできた自分の物語を、自身の生き様を全て否定することになるからだ。
この森にある希望が夢幻の延長線なら、幸せの1ページをどんどん繋いで、ハッピーエンドに辿り
着いてみせる。絶望の壁は越えられない壁じゃないんだ。
グレーテルが小さな幸せを、一つ一つ宝物のように繋ぎ止め、超えられない絶望の壁を乗り越える
ために、跳躍台へと仕立てていく。
「まだ……負けてない……」
震える膝を懸命に立たせて、グレーテルが満身創痍で立ち上がる。その手には、ユーデリカに作っ
てもらった希望の花――桃色のガーベラが釈迦力に握られていた。
「なっ……ん、だと」
驚きのあまり、ピエッドの道化のような表情が硬直する。
彼にとっては、有り得ない状況だったのだろう。瑞鳥のごとく身を起こす少女に彼は恐怖を覚えた。
「わたしはまだ……負けてない!」
グレーテルが力強く、烈風が吠え狂うほどの声を張り上げる。先に立ち上がった妹の様子を眺めて、
「ぐっ……レーテル」
ヘンゼルが感化され、両刃斧に全童力を込めた。
グレーテルの想いをカタチにするため、最後まで彼女のことをサポートするために――
「ハーナウ&シュタイナウ! グレーテルにすべての光を!」
ヘンゼルの想いが両刃斧に伝わり、斧全体がエメラルドの輝きを放つ。
輝きは、夜空を割るように伸び上がり、光の粒子となってグレーテルに降り注いだ。
痛手を負っていたグレーテルの身体が、体力が、童力が、全てがヘンゼルの放った『恩恵回復』に
より全治する。最初、自分の身に何が起こったのか分からなかったが、その翡翠色の優しさをグレ
ーテルは知っている。
そして、この術を使った場合の代償も。
「グレーテル……僕が君にしてあげられるのはここまでみたいだ。後は君が……君が自分の想いを
ぶつけるんだ!!」
ヘンゼルからの激励を受け、グレーテルが大きく頷いた。兄は戦闘不能になるのを覚悟で、全ての
童力を自分に使ってくれた。最後まで自分を信じて力を貸してくれたのだ。
「なぜ、です……なぜ貴方が彼の者の術を!?」
ヘンゼルの《童術》をまざまざと見せ付けられ、ピエッドの脳内にある人物が浮かび上がった。
「彼の者に〝託された〟というのか……」
兄妹が起こす、番狂わせの連発に、ピエッドが思わずたじろいだ。
そんな時代の寵児に、グレーテルが闘志をむき出しにして焦点を合わせた。グレーテルがヌイグル
ミを引っ下げて野を駆ける。
ピエッドは《童力》が底突きすることも忘れて、縦横無尽に長鎖を操った。
「く……来るなあああああっ!! 私に近づくんじゃない!!」
連結された長鎖の切っ先が、束になってグレーテルに襲いかかる。グレーテルは鉄の嵐に臆するこ
となく、ピエッドに向かって直線的に猛進した。
ヌイグルミに反映された桃色の遮蔽システムが、前方からの連結鎖をことごとく弾き返す。
黄金の長鎖は何度も軌道を修正し、グレーテルの侵攻を何が何でも止めようと迫った。
ピエッドが苦渋の表情を浮かべる。もどかしい想いが頭から離れない。
希望を捨てず、真っ直ぐに絶望に立ち向かってくるグレーテルの姿に、自分がまだ希望を抱いてい
た頃を重ねる。手の届かない微かな光でさえ追いかけた、あの純粋だった頃を。
ピエッドが苦悩を掻き消すようにかぶりを振る。気がつけば、
グレーテルが眼前にまで距離を詰めてきていた。ピエッドがこれ以上ない雄叫びを上げる。
「私に……私に現実を突きつけるなあああああっ!」
8本全ての鎖が一斉にグレーテルを叩き潰した。その勢いで土煙が舞い上がる。ピエッド、グレー
テル共々に視界が奪われた。
右、左、後ろ。各方面に監視の目を張り巡らせ、ピエッドはグレーテルがあの程度でくたばってい
ないことを危惧した。視界が損なわれているこの状況に便乗して、彼女は必ず攻撃を仕掛けてくる。
そんなピエッドの予測が的中したのか、黄塵の中に人影が見えた。
「上!? くっくっくっ……甘いんですよ!!」
沙幕に隠れて、上部から飛び込んできた人影に、ピエッドが連結鎖をぶつける。
人影は真っ二つに割れるよう霧散され、無残にも地面へと叩き落ちた。
「ふっ、ふふ……いい線ついていたんですがね。最後の最後で少々詰めが甘かったようですな……
残念ですがこれもシナリオ通り。最後に勝利を掴んだのは私というわけです! はっはっはっ――は!?」
叩き落した人影に今一度目を向け、ピエッドが口をあんぐりとさせた。
何故ならそこに横たわっていた人影は、グレーテルではなく、白い羊型のヌイグルミだったからだ。
「ヌイグルミ!? はっ!」
慌てた様子で、ピエッドが再び上空を見上げた。
「しまっ――!!」
すでに時遅し。グレーテルが両手を突き出してピエッドの両肩を掴むよう飛び込んできた。
空からの重みに加え、両肩を圧すように押さえられた勢いで、ピエッドの身体が後方へと反り返る。
そこに、大きく頭を振り上げたグレーテルの額が飛んでくる。
隙を作るため、ヌイグルミを変わり身に使ったグレーテルに力はない。
相手がいくら、接近戦を得意としていなくても、相手は彼女より年上の男の子である。
非力なグレーテルが、5歳も年上の少年に打ち勝つ方法。
それは、強者だろうが弱者だろうが同じ痛みを分かち合えるもの――
「いっけええええええグレーテル!」
「やあああああああっ!」
グレーテルが叫んだ。友達との約束を守るため――想いをカタチにするために。
鈍い音がした。グレーテルの額と、ピエッドの額が正面衝突する。骨が砕けるほどの豪快な勢いは、
そのままピエッドの脳天を直撃し、彼の自意識を夢幻の彼方へと吹き飛ばした。
「頭突き……ですか……」
グレーテルの両手からピエッドの身体が離れる。ピエッドは反り返るように綺麗に後方へと倒れた。
そういえば……産まれてから一度も母親の幸せそうな顔を見たことがなかった。もしかして自分は、
そんな母親に笑顔になってもらいたくて希望を追いかけていたのかもしれない。
そう……あの少女のように、真っ直ぐな瞳を持って――
全ての幻想が解かれていく。額を真っ赤に染め上げたグレーテルがヘンゼルのほうを振り返る。そ
の表情に浮かんでいたのは、驚いたようなやり遂げたような、どっちともとれる力強いものだった。
ヘンゼルが親指でサムズアップをする。『恩恵回復』を最大まで使った負担で、身体は動かないが、
グレーテルの獅子奮迅の活躍に千両の笑みで応えてやる。
☆
長夜が明けた。蒼白い光が暗い森に照らし出す。
先ほどまでハーメルンだった夢の町は、密林が生い茂る、黒い森の一角になっていた。
街並みやストリート、白壁造の建物から水門に至るまで、全てが異空間だったと言わないばかりに
消滅している。唯一、黒い森に戻ってなお残っていたモノは、ヴェーゼル河を模していたのだろう
浅瀬の川だけだった。
そんな川辺の近くで、グレーテルはヘンゼルの前に畏まっていた。
「お兄さま……その、わたし……」
一人でに森の中に紙芝居を観に行っていたこと。それをはぐらかして、兄に心配をかけてしまった
ことを、グレーテルはヘンゼルに謝らなければならなかった。
「わたし……ずっと、お兄さまに隠しごとをしてました。森でやっていたかみしばいが……どうし
てもみたくて……」
それに伴って嘘をついてしまったことを正直に告白する。
「ほんとうに、ごめんなさい……」
グレーテルがヌイグルミと一緒に平身低頭する。今回の件で、しばらくの間は森には行かせてもら
えないだろう。それくらい兄には心配をかけてしまったのだ。もしかしたら嫌われたかもしれない。
そう思い込み、グレーテルが伏し目がちになる。
「グレーテル、今夜は満月だ。おばあさんも帰ってくる。おとぎ話の続き、読まなくちゃね」
今にも泣き出しそうな妹の頭にヘンゼルが優しく手を置いてやる。
笛吹き男との交戦前、彼から森でのグレーテルの様子を聞かされていたヘンゼルには、妹の森での
行いや気持ちが誰よりも分かっていた。
ヘンゼルがグレーテルの髪を慰撫しながら微笑みかける。グレーテルは驚いて顔を上げた。怒られ
ることを覚悟していた……それなのに、兄からの言葉が、思い込んでいたものと違っていたからだ。
ヘンゼルは、『紙芝居が観たかった――』というグレーテルの想いを、自分なりに汲み取っていた。
兄から『おとぎ話』の続きを読んでもらえると言われて、グレーテルの表情がみるみる明るくなる。
大好きな兄に嫌われたと思っていたグレーテルにとって、ヘンゼルからの思いもよらない恵み心は、
まだ夢の中にいるのかと錯覚してしまうほどに幸福感あるものだった。
「グレーテルちゃん!」
そこへ遠くから掛け声と伴に一人の少女が近づいてきた。
グレーテルがその声を聞いて振り返る。灰色瞳に飛び込んできたのは、花柄のワンピースに、頭を
お花盛りにした小柄な女の子。約束の少女ユーデリカだった。
少女は勢いそのままにグレーテルに抱きついた。
「――っえ。うっ……わたし、グレーテルちゃんが戦っているところ、ずっと夢の中で見てた」
泣きじゃくるユーデリカの身体から芳香が漂う。笛吹き男が気絶したせいで、彼の幻術が溶け始め、
一人……また一人と、夢に囚われていた子どもたちが目を覚まし始めたのだ。
「えと、その……こんど……」
グレーテルは、ユーデリカに今度、一緒に花園へ行こうと誘ってみる。
「うん。わたしもグレーテルちゃんとその花園に行ってみたい」
ユーデリカは涙を拭きながら、グレーテルの手を握った。森の中で出会えば、争奪戦も厭わない環
境下で、自分たちを助けるため必死に戦ってくれる友達がいたことに、ユーデリカは切なくも喜び
を感じていた。
「――お~い。ヘンゼルくん、グレーテルちゃん」
そして、錦上に花を添えるかのように、頭巾のネコ耳を揺らしながら金髪の少女が走ってくる。兄
妹とユーデリカの下に駆け寄ってきたのは、同じ『グリムの仔達』で、音楽隊の足止めを買って出
てくれた『チーム:リンゴスターズ(赤頭巾が勝手に命名)』の仲間達だった。
傷つきながらも全員無事なようだ。
「みんな……それと……」
仲間たちに交じって見知った顔がもう一人。ボサボサの黒髪を不揃いに両端で結んだ、確かキカリ
と呼ばれていた少女がみんなの後に続いていた。
少女は兄妹の姿を一見して直ぐに、気絶した笛吹き男の下に向かっていった。
「彼女がここまで道案内してくれましたの」
赤頭巾に続いて白雪がキカリの改心を報告する。グレーテルはユーデリカに、彼女たちはみんな仲
間であることを教えてあげた。
「み、みなさん助けていただいてありがとうございましたっ」
ユーデリカが律儀に礼を口にする。
「にしし……まあ、私にかかれば何もかもハッピーエンドになるんだけどね。いたたた……」
横腹を押さえて赤頭巾が地面にうずくまる。それを見て呆れた様子の狼がヘンゼルに近づいた。
「……ふん。少しは強くなったなお前」
「ははは……ほとんどグレーテルのおかげだったけどね。負けられないって想ったから」
二人の師弟のような関係に王子が一人頷きながら腰に手を当てた。
そんな仲間たちの輪に、更に姦しい声が響いた。ユーデリカよりも後に目を覚ましたフラウミルた
ちが、一斉にヘンゼルに詰め寄ったからだ。
「見てみて、夢の中に出てきた勇敢な彼よ!」 「まあ、なんて凛々しいの!」
「グレーテルちゃんとはどういった関係なのかしら」
ナスターシャを筆頭に異口同音が飛び交う。どうやら彼女たちは、夢幻の世界で見た〝ニーベルン
ゲンの主人公――若きジークフリート〟に、ヘンゼルの形姿を投影してしまっていた。
ヘンゼルの周りに集まって騒ぎ出すナスターシャの隣で、フラウミルがヘンゼルの裾を引っ張った。
「グレーテルちゃんのお兄様ですか?」
「え? う、うん。そうだけど……君たちはグレーテルの友達かい?」
「キャー! グレーテルちゃんのお兄様ですって!」 「決めた! 私、お兄様の親衛隊になる!」
「私も私も!」
「え? 親衛隊? なんのこと?」
「今日からお兄様は私たちのお兄様でもあるのです」
わけの分からないことを呟きながら、フラウミルが包囲網を狭めてくる。
「ちょ、ちょっとグレーテル助けて!」
少女たちに揉みくちゃにされヘンゼルがグレーテルに助け舟を要求した。
「あーあ、いいのグレーテルちゃん。ヘンゼルくん取られちゃうよ?」
赤頭巾に促され、グレーテルがオロオロとし始める。
「えと、それは……」
「グレーテル、たすk――ぶはっ!」
フラウミルがヘンゼルに飛びかかる。
「……ったく、付き合ってられるか」
ヘンゼルたちに背を向けて狼が帰路に着く。それに倣って白雪・王子と続き、夢から目を覚ました
多くの子どもたちも狼たちに続いた。
「おーい、ヘンゼルく~ん。みんな行っちゃうよー」
赤頭巾に呼ばれ、グレーテルにユーデリカ、ヘンゼルにその親衛隊が慌てて列に加わった。
「そういえばあいつ……」
先頭を行く狼が、隣の赤頭巾に呟く。
音楽隊のキカリに介抱され、狼たちとは真逆の方角に消えていった笛吹き男の真相を語る。
「まあ勝手な推測だが、笛吹き男の目的は、案外、東の空にあったのかもな」
「空に?」
「ああ……笛吹き男は、太陽が昇る〝東の空〟に、希望を見い出していたんだろう」
狼が眩いばかりの朝日に目を細めた。気がつけば、東の空から新しい朝が訪れている。
明けない夜はない――そう伝えるかのように太陽は子どもたちを照らし出す。
西から東へ。多くの子どもたちが自分たちの帰る場所へと帰っていく。
子どもたちの行進は長く東ブロックに向けて続いた――




