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咆哮のグレーテル  作者: 胡桃ヌイ
★第八章 『ハーメルンの笛吹き男』――Kapitel 8:Rattenfänger von Hameln――
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Ⅸ 『偽りの英雄』

背中に背負ったヌイグルミが、足蹴(あしげ)に合わせて揺れ動く。

低木を跨ぎ、草薮を跳び越え、万朶(ばんだ)を掻い潜り、ヘンゼルは一人、子どもたちの船尾を追いかけた。


(グレーテルも、あの子たちのように……)


昨夜――妹がいなくなった時のことを思い出す。あの時、返事がなかったことに少しでも疑念を抱

き、すぐにでも起き出していれば、およそ、こんな事態にはならなかったのかもしれない。兄とし

て、妹の些細な変調に気づいてあげられなかったことが、そこつにも悔やまれる。


ヘンゼルは、子どもたちの行く末にグレーテルが居ることを信じ、深更(しんこう)しきった日の(たたし)を、音を殺

して駆け抜けた。幸はふにも、矢幹(やがら)を蔽う葉脈の隙間から(いぶ)し銀の輝きが漏れ堕ちている。一列に

なって夜行する子どもたちの様は、まるで、戦場に向かう兵士たちの閲兵式にも、未開の地へと入

植する植民者の大移動にも見えた。


「洞窟……?」


それから間もなくして、子どもたちの行進に終着駅が訪れた。



【子どもたちが消え失せた場所は、ハーメルン近郊の山『コッペンブリュッゲ』――って、云われているの】



道中――赤頭巾が教えてくれた物語での子どもたちの行き先。それは、(ふもと)の左右に二つの石が十字

形に立てられた、標高400メートルほどの低い丘であった。


『コッペンブリュッゲ』には、洞窟と言える深い窪みがあり、先史時代から古代ゲルマン人が、聖

地として使用してきた特別な場所だと言う。


その役割は祭祀(さいし)や埋葬、中世初期以降には、処刑場として利用されていたとも伝記されている。


そんな、コッペンブリュッゲを模した巡歴路に、子どもたちは何の迷いもなく入っていく。

先には、虚飾に満ちた悪魔が、大きく口を開けたような洞窟が待っていた――


暗澹(あんたん)を照らす幽かな木漏れ月。頭上に不調和な(れき)が降り注ぐ。


洞窟の一歩手前で立ち止まり、ヘンゼルは、子どもたちが消えた常闇の果てを目で追った。話の続

きでは、子どもたちは洞穴を通り抜け、ハンガリー東部の山地で、再び地上に現れたとされている。


(あつら)えたような邂逅(かいこう)だが、これらは全て、伝説の楽師〈パイド・パイパー〉の回顧録(メモワール)に拠るところが

大きい。現代に生きる〈笛吹き男〉が、(かつ)ての栄光を再現しようとしていることが窺い知れた。


「まずい! 急がないと――」


物語を思い出し、洞窟の前で佇立(ちょりつ)していた数秒間に、子どもたちはどんどんと闇に溶け込んでいた。

ここまで来たからには、子どもたちを見失うわけにはいかない。身体を張って音楽隊の追跡を食い

止めてくれている仲間たちに申し訳が立たなくなる。


ヘンゼルは意を決して洞窟へと飛び込んだ。


照らし灯であった月の輝きが遠くなる。洞穴の中は外域よりも気温が低く、肌に突き刺さる通気風

が、身体を震わせるほどに冷たかった。


ポチャリ……足先で何かが跳ねるような感覚がした。踏み止まった寸暇に、それはヘンゼルの頭上

にも降ってきた。


「わっ!」


突然の出来事に思わず声を漏らしてしまう。ヘンゼルはしまったという表情で口元を押さえた。た

だでさえ洞窟の中は声が響くのだ。子どもたちを追跡していることが〈笛吹き男〉にバレてしまう。


ひんやりとした旋毛(つむじ)に手を押し当てて、浸透しきれていないそれをヘンゼルは軽く拭き弾いた。


(水……?)


暗闇に慣れ始めた目で天井を見上げてみる。隔壁(かくへき)は波を打ったかのような(なめ)らかな造りになってい

て、経年によるひび割れが壁面のいたるところで見受けられた。


ポチャン……地表からの水分が割け目に染み込んで零れ落ちる。水滴は既に形成されている水溜り

へ、音を鳴らしてダイブした。土壌の水溜りに更なる波紋が広がっていく。


ポチャン……ポチャン……ポチャリ……水滴の滴る音と水溜りを踏む音が、一定のリズムで訪れる。

入り口であった幽かな円形は、とうとう見えなくなる位置にまで遠ざかっていた。暗闇と不安が一

気に襲ってくる。


子どもたちは皆、不安ではないのだろうか。文目も分からない闇の洞窟を、平然と突き進む子ども

たちの後ろ姿は、まさに〈笛吹き男〉の操り人形だった。


風の当たりが強くなる。俗界から隔絶されたような空間を歩き続けて、ようやく出口に近づいてい

る気配があった。遠方にぼんやりと光が見える。ヘンゼルは慎重だった足並みを速め、まっしぐら

に光を目指した。


森厳な月明かりがヘンゼルを出迎える。先駆けて聞こえてきた音響は、清く安らかな流水音だった。


「川……? そうか……この川の水が、洞窟内に流れ込んでいたのか」


つい先ほど抜け出した洞窟を振り返り、ちょうど洞窟が、大河の真下を潜っていたことを見知する。


ヘンゼルは薄暗い渓谷の先に、先行して洞窟から這い出ていた子どもたちを発見した。子どもたち

は、川に架けられたアーチ状の石橋を渡ろうかというところで、橋の中央では見知らぬ人影が、横

笛を吹きながら子どもたちの到着を待っていた。



【伝説の楽師〈パイド・パイパー〉は、中世の時代、一所不在の『遍歴芸人』とされてたみたいね】



遍歴芸人――赤頭巾の話の中でその言葉を思い出す。土地の所有が社会的価値の源泉であった当時、

都市から都市へ、村から村へと暮らしを立てるために渡り歩いていた多くの者たちは、社会から除

け者にされ、差別された存在だったと。


彼らは生まれによって、あるいは何らかの運命によって、当時の〝正当的社会秩序〟から、因業(いんごう)

もはみ出してしまったらしい。


楽師・放浪乞食・娼婦・破戒僧や尼・犯罪人……実に多くの遍歴芸人が悲惨な生涯を送ったそうだ。


市民権を獲得していなかった。安住していなかった。すなわち土地を持っていなかっただけで、彼

らは『名誉(エーレ)』を持たない者とされ、時の皇帝〈ルードヴィッヒ敬虔帝〉の勅令(ちょくれい)により、賤民(せんみん)として

生きなければならなかったという。


そうした中、遍歴芸人は見世物をして報酬を得るために、人々の注目を惹くような派手な格好をし

ていたと赤頭巾に教えられていた。


列の先頭に立ち、子どもたちを橋の向こう側へ導かんとする喇叭手は、まさに今、ヨーロッパの過

ぎし日に登場した遍歴芸人のような格好をしていた。暗闇の中でさえよく冴える、色調の異なるま

だら服。宮廷道化を想わせる色鮮やかな服装を着込んだ少年は、『おとぎ話』でもその名を残した、

伝説の楽師〈パイド・パイパー〉を再現したような人物だった。


「もしかして……あの子が〈笛吹き男〉?」


石橋の向こう側、闇に消えゆく子どもたちの先頭を眺め、ヘンゼルは身を潜めるように後を追った。


やけに静かな夜である。河川に沿って石橋を目指し、途中にあった水車小屋を横目に右折する。一

瞬、男の視線が、こちらに向いたような気がしたが、おおかた、子どもたちがきちんと付いてきて

いるかの振り返りに違いない。


大丈夫。辺りは、こんなにも闇に染まっている。〈笛吹き男〉からヘンゼルの姿は見えないはずだ。


ヘンゼルは洞察を持ちつつも、念には念を入れ石橋を抜き足差し足で渡りきった。そして、渡りき

ったところで己の目を疑った。


「なんで……どうして……さっきまで森は、真っ暗な夜だったはずなのに……」


緩やかな陽光が唖然とした表情に降り注ぐ。青天井の空。満目の大地。振り返れば虹色のアーチ橋。

千里一跳ねに移り変わった景色を前に、ヘンゼルは、悪い夢でも見ているかのような錯覚に陥った。


数匹のチョウが、花蜜を求めて戯れる。翅脈や触覚の動きには妙な臨場感があり、とてもじゃない

が、これが夢だとは到底思えなかった。


ヘンゼルは何度か目を(しばた)かせ、あぜ道を進む子どもたちの追跡を再開した。行進によって踏み荒ら

された大地には、すでに新しい草花が、蒼穹に向かって芽吹いている。眼前には、歴史的な建造物

を想わせる、白壁造の建物がひっそりと佇んでいた。


鉄鎖がキリキリと巻き上がり、歯車の噛み合う音で、鉄を打った鎧戸が上方へと開門する。ヘンゼ

ルは扉が閉門する前に門へと急いだが、それは杞憂に終わった。子どもたちが門を(くぐ)った後も、扉

はどういうわけか開門されたままだったからだ。


ヘンゼルは辺りを警戒して門へと近づいた。鎧戸が閉まる気配はない。しかしながら、それが罠だ

ったと気づいた時にはすでに遅かった。ヘンゼルが建物に駆け込んだのを確認してか、扉は雪崩れ

のごとく外域との垣根を閉ざした。まるで、ヘンゼルが通過するのを知っていて、待っていたかの

ようなさじ加減である。


(――しまった! 扉が!!)


扉は押しても引いてもビクともしない。吊り上げ式のため当然と言えば当然なのだが、人力で開門

できるものではないということの、釘を刺しての表現だ。


ヘンゼルは、〈笛吹き男〉のホーム内で迂闊にも退路を断たれ、必然的に建物の奥へと進むことを

余儀なくされた。門の先には、立派な白壁造の家が道路を挟んでずっとずっと奥にまで伸びている。


「この場所……学校の教科書で見たことがある……」


――ハーメルンの町は、いったいどこにあるのでしょう。そんな議題から始まった社会理科の授業。

今となっては懐かしい思い出だが、ヘンゼルはその時たしかに、ハーメルンという町を教科書で閲

覧していた。現在でも文明の埃を受けていない、清く・ひっそりとした土地にハーメルンはあると。


授業での内容と、知っている知識を総動員して、ヘンゼルはハーメルンの場所がどこにあったのか

を思い出す。覚えていることと言えば、河。大きな河の近くに、ハーメルンの町が白黒で写ってい

たところを必見した記憶があった。


ドイツ連邦共和国には大きな河が四本ある。フランスとの境近くにあるライン河。オーストリアと

の境を貫くドーナウ河。北の境にあるエルベ河。そして、北海からドイツの真ん中を流れるヴェー

ゼル河。ヴェーゼル河は『ブレーメンの音楽隊』でも知られる、ハンザ都市ブレーメンを通り、ミ

ンデンからミュンデンにいたって、ミュンデンから、更に二つの河に分岐して南に伸びている河だ。


地理的に見れば、北海から始まったヴェーゼル河は、その下のブレーメンに向かって南に下り、ブ

レーメンから南に位置するミンデンに向けて緩やかな弧を描く。ミンデンより東――ハーメルンに

流れたヴェーゼル河は更に南東に下り、南東の町ミュンデンを抜けて、ヴェラ河とフルダ河の二つ

の河に合流・分岐されている。


ハーメルンはミンデンからミュンデンの間を流れる、ヴェーゼル=ベルクラントと呼ばれる流域に

その前身を置いていた。


「そうだ……ヴェーゼル河の上流には、たしかフルダ修道院があって、キリスト教を布教するため、

 街道が通う要衝に前進基地を設けたと書いていた。人船の行き交うヴェーゼル河に橋を架け、通

 過する船や市場を訪れる者から、貨幣を徴収しては布教の資金に充てていたと。そうして出来た

 のがハーメルンの始まりだ。橋を維持するために、周囲に隷農の村を設置して、市場の安住地化

 を計ったんだ」


1170年頃に死去したキリスト教の伝道者〈ヘルモット〉は、当時この町のことを『ヴィラ・プ

ブリカ・クヴェルンハーメレ』と呼んでいたらしい。これは水車を持っている市場安住地のことで、

ハーメルンが水車を使った製粉業に依存していたことを言及している。


大きな軸が横に。また、縦に。ゆっくりと回る、水車小屋の床や柱はいつも粉まみれ。壁の穴や天

井裏からは、鼠の目が光っている――子どもの頃に読んでもらった『まだら男とネズミたち』の一

説。思えば、赤頭巾から教えてもらった『ハーメルンの笛吹き男』に、どことなく酷似している部

分があった。


二つの物語に共通していることは、笛を吹く男。そして、男に連れられて、人気のない場所で消え

失せる従者たち――という構図である。


ヴェーゼル河・石橋・水車小屋……物語に出て来るすべての小道具を、ヘンゼルは頭の中から引っ

張りだした。バラバラだったピースを、一つの枠に当てはめるように。


「だんだんと思い出してきたぞ……この場所に心当たりがあったのは、教科書で見ただけじゃない。

 子どもの頃に読んでもらった『おとぎ話』の中で、その全景を自分なりに想い描いていたからだ。

〈笛吹き男〉とはどういう人物で、ハーメルンとはどんな町なのかと――だとすれば、おそらくこ

 こは、男の『想い』が《カタチ》になった幻想郷。間違いない……グレーテルはこの場所にいる」


門の真正面に見える黒ずんだ建物。聖堂を構えた古き建築物に目を凝らし、ヘンゼルはその建物こ

そがハーメルンの前身であり、この場所がハーメルンを再現した町であることを確証した。


『聖ボニファティウス津院』――ザクセン人への布教のために、フルダ渓谷に建てられた大修道院。

ドイツのキリスト教化に重要な役割を果たした、キリスト教文化の中心地である。 


ヘンゼルはボニファティウス津院を横切り、交叉した広道を左へと折れ曲がった。『ベッカー通り』

と呼ばれるメインストリートには、子どもたちの後ろ姿が見えている。しばらく進んだ後、やがて

ベッカー通りは、『オスター通り』と呼ばれる、第二のメインストリートと行き当たった。


「あれは……マルクト教会? それじゃあ、この通りは……」


オスター通りのずっと先――物語での子どもたちが、ハーメルンの町から出て行ったとされる場所――

東の町ヒルデスハイムへと続く『東門』をヘンゼルは遠望した。


物語での子どもたちは、この大通りの先にある『東門』を経て、ハーメルンの町から消え失せたと

言い伝えられているが、現在、〈笛吹き男〉に連れられて先を進む子どもたちは、オスター通りを

縦断し、正面にそびえる『市参事会堂』すらも透過して行った。


赤頭巾の話どおりなら、〈笛吹き男〉の目的は東にあるはずなのだが、今のところ彼らが東門を抜

ける気配はない。いや……物語の〝再現〟に従うのなら、彼らは一旦どこかに〝集合〟し、その後、

喇叭手を先頭に東門から抜け出る筋書きになっていなかっただろうか。


そうなると、子どもたちの集合場所というのは、旧市場安住地にある『ノイエ・マルクト広場』が

真っ先に浮上してくる。物語ではこの場所に集合し、舞楽禁制通りを抜けて東門に辿り着いている。

〈笛吹き男〉が物語の再現に従い、集合場所を定めるとしたら、十中八九、この場所に行き当たる

はずだ。しかしながら、子どもたちの行き先はヘンゼルの考えとは裏腹に、北門へと向かっていた。


「皆様。大変長らくの旅路ごくろうさまでした。ここは『原初村落ハーメルン』……ハーメルンの

 始まりにして終わりの場所。貴方たち『良い子たち』を夢の町『ハーメルンヘヴン』へと運ぶ出

 発地点でございます」


市参事会堂を通り過ぎ、少し進んで左に入ったところで、〈笛吹き男〉の声が唐突に聞こえた。鮮

やかな格好とは対照に、落ち着きのある丁寧な言葉使いだった。


笛の音が聞こえてくる。街角を曲がってすぐに、それはヘンゼルの視聴覚にも劇的に入り込んで来

た。街並みがグニャリグニャリとふやけていく。ハーメルンの古い記憶を辿った末に、ヘンゼルは

緑と風が緩やかに薫る永年牧草地に立っていた。


「ハーメルンの過去が……〈笛吹き男〉の過去が僕の頭の中に……」


モノクロで見えた遠き日のハーメルン。電光石火で駆け抜けた――おそらく〈笛吹き男〉の記憶で

あろう――走馬灯には、変わりゆくハーメルンの町と男の生涯が途切れ途切れに映し出されていた。


……眠りなさい。今だ唖然と立ち尽くすヘンゼルの耳に、再び〈笛吹き男〉の声が響き渡った。(まばゆ)

い散光に包まれながら、子どもたちが一人、また一人と、ガラス玉のような球体に変えられていく。


ヘンゼルはガラス玉になった子どもたちが、近くで浮遊している球体と同固体であることに感づい

た。もしかして、これら一つ一つが子どもたちの成り代わりなのかと。ガラス玉の中では、見知ら

ぬ子どもたちが幸せそうに眠っていた。どの子もみんな、グレーテルと同じくらいか、それよりも

低学年の子たちばかりだった。


(それじゃあガラス玉のどれかにグレーテルも……)


球体の中に子どもたちが隔離されていると判り、ヘンゼルはガラス玉の一つ一つに目を向けた。し

かしながら、全部で4つの球体が出来上がったところで、〈笛吹き男〉が口元に笑みを浮かべ、深

く被った帽子の隙間から切れ長の目を光らせた。


「さて。神聖なカナンにネズミが一匹。いいかげん退治しておかねばなりませんねぇ……」


端倪(たんげい)すべからない威圧感がヘンゼルを襲う。球体の一つに身を隠してどうにかやり過ごしていたが、

男にはヘンゼルの居場所が手に取るように分かっていた。


「この町は私が創り出した《夢幻童術》の一部。ヒト一人・アリんこ一匹に至るまで、私の手の中

 にあるのです。ネズミ一匹の侵入に、私が気づかないとでも思っていたのですか?」


当に袋のネズミだった。彼いわく、ヘンゼルの存在は早い段階で認識していたと言う。ヘンゼルは、

徒労の末してやられたと額にしわを寄せた。要するに泳がされていたのだ。男は自身のホームにネ

ズミを誘き寄せ、物語〈まだら男とネズミたち〉の様に、湖の中へ沈めるつもりだったに違いない。


「さあ、いいかげん出てきたらどうです? とまれ私を倒さないことには、この町からは逃げられ

 ませんよ」 


〈笛吹き男〉の攻勢に晒され、ヘンゼルが立ち往生する。出来れば〈笛吹き男〉との戦闘は避けて

通りたかったが、前門のトラ後門のオオカミに成り上がってしまった。妹を見つけ出したとしても、

この町を支配するまだら男を倒さない限り、この町からは出られないということが宣言されてしま

ったからだ。


(くっ……)


ヘンゼルが球体の陰から姿を(さら)け出す。〈笛吹き男〉は辟易とした様子で左右に首を振り、


「やれやれ。音楽隊の屑共は、いったい何をやっているのやら。まあいいでしょう……儀式の余韻

 に浸るのもまた一興。私自らが、直々にお相手して差し上げますよ」


断罪の教鞭を握った(のち)、改めて自己紹介をした。


「いやはや、申し送れました。(わたくし)、音楽隊のコンサートマスターを兼任させていただいてます。笛

 吹き担当のピエッドと申します。貴方に以後なんてものはありませんが、以後、お見知りおきを」


炯々(けいけい)たる目でヘンゼルを睥睨(へいげい)する。心無(うらな)しにヘンゼルが及び腰になる。


ヴァイオリン1stが圧倒的多数を占めるオーケストラで、フルート演奏者がコンマスを務める音楽

隊。赤頭巾の忠告どおりというか、一筋縄ではいかない者たちばかりが集まっている。ピエッドは

ヘンゼルを見るや否や、彼の背部に目を細めた。


「随分と可愛らしいヌイグルミをお持ちですね。貴方の趣味……というわけではないのでしょう?」


背中に背負っていた妹のヌイグルミを指摘され、ヘンゼルが羞恥を覚える。年頃の男の子に少女趣

味があったとなれば一大事だ。必死に弁解する。


「これはっ。これは……妹の私物で……」

「ほう。妹……ですか」


〈笛吹き男〉の口角が吊り上がる。そのヌイグルミを知っている――とでも言い出しそうな表情だ。


「ふっふふ。なるほど。妹さんの行方が分からなくなったものだから、彼女の近況を洗い出し、そ

 こから〝私の物語〟に結びつけてきたというわけですか」

「――!! グレーテルを……知っているのかい?」

「ええ。そのヌイグルミには見覚えがあります。共に毎日来ていましたからねぇ」

「毎日? 毎日ってグレーテルはいったい何を!?」


まだら男には聞き出したいことが山ほどあった。今ほどの発言といい、赤頭巾が立てた仮説といい、

グレーテルが毎日のように森へと出向いていた背景には、やはりこの男が関係しているようだった。


「おやおや? 彼女からは何も聞いていませんでしたか。ふむ。約束どおり誰にも話さなかったよ

 うですね。幻想を打ち壊そうとする『悪い子』なのに、頑なにも約束を守ろうとは……やれやれ、

 馬鹿正直もいいところです」

「!? グレーテルが悪い子だって!!」


グレーテルが森で何をしていたのかは分からないが、〈笛吹き男〉に妹のことを悪く言われたよう

で、ヘンゼルは衝動的に語気を強めた。


「はい。悪い子も何も……〝超〟が付くほどの愚か者でしたよ」


せせら笑い、グレーテルを慰みものにする。言葉の時詞が過去形だということは、妹もやはりあの

球体の中に閉じ込められてしまったのだろうか。


「いやはや、一方ならず滑稽でしたね。愚にも付かぬ紙芝居ごときに、よくもまあ貴重な糧を持っ

 て来られたものです。まあ、そうなるように仕向けたのは何を隠そう私なんですがね」

「紙芝居? それじゃあグレーテルは、毎日森に紙芝居を見に行っていたって言うの?」

「ええ……そういうことになりますね。実にたくさんの子どもたちが、私の下に紙芝居が見たいが

 ために集まってきましたよ。魔笛から流れる『幻曲』を聞いたことでね」


胸の前で〈笛吹き男〉が銀色の笛を掲げる。おとぎ話の中で〈伝説の楽師パイド・パイパー〉が子

どもたちを引き連れたという、操り笛とも魔笛とも云われるベーム式フルートだ。


「この魔笛から流れる『幻曲』は、純粋な心を持った『良い子たち』にしか聞こえません。疑うこ

 とを知らない無垢な『良い子たち』には、どうやら音楽隊どもの紙芝居は好評だったようですね。

 私は語り笛を吹くだけの簡単なお仕事で、楽に食料を調達させていただきましたよ。なんたって、

 芝居の続きが気になるよう、音色に依存性の高い楽曲を混ぜ込むだけで、毎日毎日、食料品を差

 し出してくれるのですから。黒い森にて、これほどまで効率の良い食料確保は他にありませんよ」


ピエッドの物柔らかな声調が、ヘンゼルのまぶた裏に焼きついていた、グレーテルの異常行動を思

い出させる。朝な朝な、朝食もそこそこに、ホームから飛び出していく姿。森での行いを尋ねてみ

ても腫れ物にさわるような返事に、何かを隠そうとする仕草――日を追うごとに、より虚ろになっ

ていく表情。グレーテルの数々の奇行がピエッドの話と繋がっていく。


朝、グレーテルが朝食も食べずにホームを飛び出していたのは、森の中で秘密裏に行われていた紙

芝居を観に行くためで、彼女はそのために必要な〝観賞料なる物〟を支払うため、朝食を残し、そ

れらを観賞料として充てていたからだっだ。更にそれらの行為が日並び習慣化していった背景には、

紙芝居の続きが気になるよう、依存性の高い《幻曲》で、〈笛吹き男〉がグレーテルを操っていた

からだとも浮き彫りになった。


まして、文字の読み書きが出来ないグレーテルにとって、絵本や紙芝居といった、『視覚的表現物』

は、幻曲を聴いていなかったとしても彼女を惹きつけるには充分な代物でもある。


「さてさて。長話はこれ位にして、ここまで辿り着いたご褒美に妹さんに会わせてあげますよ」


パチン……! 〈笛吹き男〉が親指と中指を弾いて一弾指(いちだんし)する。寂光(じゃっこう)に包まれた草原に乾いた一音

が響き渡り、途端に一つのガラス玉がピエッドの後背地に降ってきた。


「グレーテル!?」


ヘンゼルが衝動的に妹の名を口にする。〈笛吹き男〉の後背で浮かぶ、薄膜を張ったガラス細工の

中には、他の者と争って傷跡を残したグレーテルが、幸せそうな表情で眠りに就いていた。


「ふっふふ……相も変わらず幸せそうで何よりです。昨日の剣幕がまさし嘘のようですねぇ」


球体内のグレーテルにピエッドが悪魔の微笑みをかける。加えて妹たちは今、自身が望むモノは何

でも揃っている『夢の世界』にいるとヘンゼルに説明してやる。


悲惨な争い事も、毎日の心配事もなく、失うモノもなければ奪われるモノもない――そんな夢のよ

うな世界で、彼女たちは幸せに浸りながら〝己の意思で〟生きていると――


「おっと……無理やりガラス玉を割って彼女を助けだそうだなんて考えないでくださいね。この玉

 は言わば胎児を抱え込んだ『共存母体』――現在、妹さんの意識系はこの薄膜と共にあると思っ

 てください」


我を忘れ妹の下に走り出そうとしたヘンゼルに、〈笛吹き男〉が警鐘を鳴らした。今やガラス玉と

子どもたちは一心同体になっていると告げ、ガラス玉の破壊は、その中にいる子どもたちの死だと

並び立てる。


裏を返せば、ピエッドの気分次第でガラス玉なんぞいつでも割ることができるという脅しでもあっ

た。ヘンゼルが靴底を減らして踏み止まる。


「そうそう。そう言えば貴方の妹さん。観賞料を支払えない〝お友達〟のために、食料品の肩代わ

 りをしたんですよ……まったくお人好しもいいところですね。他人のために身を(なげう)つなんて。こ

 こは黒い森ですよ? そのような甘い考えだから、私を前に力不足で終わるのです」

「――!? それじゃあグレーテルのあの傷は……」

「ええ……貴方の妹さんには少々手を焼かされましたよ」


〈笛吹き男〉が、グレーテルを小バカにしたように笑う。他人のために犠牲を支払うという行為が、

彼には心底、理解できないといった様子だ。


「ふっふふ。私はただ、『悪い子』にお仕置きをしたまでです。同じく『悪い子』である貴方に恨

 まれる筋合いは……何がおかしいのです?」


雄弁の最中、〈笛吹き男〉がヘンゼルの微笑を見咎めて顔色を変えた。ヘンゼルの表情に怒りや悔

しさといった負の表れがなく、むしろ、清々しいといった笑みを浮かべていたからだ。


「よかった……グレーテルは『悪い子』になんかなっていなかったんだ」

「はてさて。貴方は私の話を聞いていたのですか? 貴方の妹さんは幻想を打ち壊そうとする――」

「グレーテル!!」


〈笛吹き男〉の言葉を遮って、ヘンゼルがガラス玉の中にいる最愛の妹に呼びかける。自分に何も

告げず、黙って森の中へと入って行く姿を見て『悪い子』になったとばかり思っていたが、魔女ド

ロテーアの観察どおり、心配ごとなんて何にもなかった。今も昔も変わらず、グレーテルは〝グレ

ーテルのまま〟だったからだ。


お友達のために観賞料を肩代わりしたことが愚かだって? 違う! 自己の犠牲を省みない〝強く

真っ直ぐな想い〟があるからこそ、グレーテルは他人に優しくできる。そしてそれこそが、昔から

変わらない彼女の存在意義であり、グレーテルが『悪い子』になんかなっていなかったという証明

でもあった。


さらに、グレーテルが森での小事をヘンゼルに何も話してくれなかったのは、ピエッドからの〝約

束〟により妹が口止めされていたからだと独り合点した。


グレーテルは昔から芯の真っ直ぐした子だった。曲がったことが大嫌いで、約束したことは絶対に

守り通してきた。例えそれが悪魔の囁きであっても、彼女は自身が交わした約束に嘘をつくことは

しない。



【ごめんなさいお兄さま……今は、何も答えられません……】



何も話してくれなかったじゃない。何も〝話せなかった〟のだ。〈笛吹き男〉との約束を守るため、

グレーテルは律儀にも約束に従ったに違いない。彼女にとって約束を破ることは、自分自身に嘘を

ついているような感覚でもあるからだ。


ヘンゼルが大きく息を吸い込んで、グレーテルに向かって『想い』を吐き出した。


「グレーテル!! 君の幸せはそこにあるのかい? そこにあるのが本当に君の物語なのかい!!」

「無駄ですよ……いくら呼びかけようが私の創った《夢幻童術》からは出られません」


〈笛吹き男〉がヘンゼルの行為を一蹴する。ヘンゼルは『想い』がグレーテルに届くまで、何度も

何度もガラス玉に向かって叫び続けた。


「グレーテル!! 目を覚ますんだ!! グレーテル!!!」


      ♪


声が聞こえた……ような気がした。


バサリと上掛けを持ち上げて上半身だけを起こすと、グレーテルは訝しげな表情で暗闇を見渡した。

一旦は眠りについたものの、ふと誰かに呼ばれた気がして、真夜中にも関わらず唐突に目を覚まし

たのだ。星の瞬きが視界を駆け抜ける。


窓枠を見上げれば、聖杯から溢れ出した銀貨が、宇宙で散らばったような星空が広がっていた。真

夜中の宵闇を照らさんとする幸福じみた光景だ。


そんな魅惑の光景にグレーテルは不思議と吸い寄せられた。

もそもそと布団から這い出し、そのまま満天の星空に釘付けになる。輝星が一つ、また一つと夜の

空を滴り落ちては消えて行く。


小さい頃は夜が怖くて、夜中に目を覚まそうものなら、布団の中に潜り込んで震えながら朝の陽射

しを待った。それがいつからだろう……夜の世界には、こんなにも素敵な世界があるってことを知

ったのは――


父親だったろうか……それとも母親だったろうか。夜、誰かと流れ星を眺めたのが、きっかけだっ

た気がする。小さいベッドで二人、流れる星に瞳を輝かせ、祈るように『想い』を願ったのを覚え

ている。


遠くで星たちが砕けた。互いにぶつかり合ったのだろう。砕けた星屑が、(はかな)く宵闇へと散っていく。

グレーテルは、落ちゆく星たちを眺め、とある少女のお話を思い出した。



【星が一つ落ちるとき、一つの魂が神の下へと昇っていく】



それは冷たい雪が降りしきる晩冬。少女が最後に残した名言で、悲しくも幸せな結末を迎えた『お

とぎ話』の一節だった。


世界では、今日も今日とて誰かの命火が消えている。どの国の、どんな人が、どのようになんて知

らないけれど、空から落ちた明星の数だけ、人命も世界(そら)から失われていると少女は言った。


ただ、その局面には、悲しみもあれば幸せもあった。消えた炎は天へと還り、そして再び、この世

界に『生』を受けるからだ。流星は命、輝きは誕生。神の下へと昇った命は、やがてこの世界に小

さくも新しい命火を灯してくれる。だからこそ星は強く輝いている。次の『生』を享受するために、

生まれ変わった命に希望を与えるために――


声が……また聞こえた。今度は、先ほどよりも強く、聞き覚えのある声だった。


そうだ。その『おとぎ話』を読んでくれた知っている者の声だ。文字を読むことが出来ない自分が

本を読む事はできない。他の誰かに読んでもらわなければ、そのお話をこんなにも覚えているはず

がないのだ。


それは祖父だったろうか……それとも祖母だったろうか。その声がひどく懐かしい。手を伸ばせば、

すぐにでも届きそうなほど近くにいるのが分かる。誰? グレーテルが誰もいない闇に問いかける。

両親が寝静まった夜に返ってくる声はない。ただ、一方的に聞こえてくるのだ。


【グレーテル、目を覚ませと。そこに君の物語があるのかと】


      ☆


段丘の上で派手やかな音色と白亜の白薔薇が咲き乱れる。

空圧砲の嵐を掻い潜り、白雪は岩場の荒上を駆け抜けた。連発された空圧砲が削れた地面に大穴を

開け、あわや前のめりになる。


白雪は岩場の端まで追い詰められたところで、ふいに方向を転換した。

フルールドレスの裾が、軸足の転換によってフワリと浮き上がる。背後に迫っていた空圧砲に、武

器手ではない、もう片方の手のひらを向けた。周りで護衛のように散開していた花弁が、掲げた手

の先に集まり、螺旋を描きながら相手の音をミュートする。


「上等なドレスといい……可憐な童術といい、いちいち育ちの良さを見せ付けやがって。あたいは、

 あたいは……そーゆう金持ちの女が大っ嫌いなんだよ!!」


左手に持った金管楽器を動力に、キカリが右手を振り上げて白雪に特攻する。別段、彼女に限った

ことではないが、『黒い森』という貧しい子どもたちが集う場所では、白雪のような裕福層の存在

は、時に妬みや憎悪を生むことになる。


白薔薇の吹雪に真っ向から挑み、花弁を蹴散らして、ミュートされていた音を取り戻す。


「!!!」


渾身の一撃が白雪の頬を殴打し、キカリの表情が驚きに変わった。避けようと思えば避けられたは

ずの攻撃だったにもかかわらず、白雪が防御の構えも取らずノーガードでそれを受け入れたからだ。


白雪の雪のような肌が真っ赤に腫れ上がり、口の端に血痕を滲ませる。


「――っ! 何故だっ! 何故避けない!!」


白雪の綺麗な顔に傷をつけてしまった罪悪感なのか、白雪からキカリが距離を取る。もしもこれが

黒い森の外であれば、王家の姫に手を挙げたとして、良くて流刑。最悪の場合、死刑にもなっても

おかしくはない。


「これが……貴女の『想い』なんですね……」


軽く目を伏せて、白雪が頬の痛みに耐える。そして、自らの手でビリビリとスカートの裾を破り捨

て、風波へとその生地を流した。


「お前、何を――!」


少女たちが憧れて已まない、上質なフルールドレス。着たくても着れない高価な衣類が瞬く間にみ

すぼらしくなり、なりたくてもなれないお姫様の形姿が一変する。


「これで、動きやすくなりましたわ」


真っ白な太ももが露になり、ぞんざいに破られたスカートの隙間から、短めのペチコートが見え隠

れしている。王家の者としてはあまりにも無様で破廉恥な格好だ。王妃である母親がこの姿を見た

ら、卒倒するか、激怒して平手打ちが飛んでくるかのどちらかだろう。


「……動きやすくなっただと? どういうつもりだ?」


高価なドレスを軽率に引き裂いた白雪の行為は、キカリのような貧困育ちには砂を噛むような思い

だ。そこにどんな理由があろうとも、怒りを買うことは必須。キカリに対して、誤解を招くような

行為であることは白雪も知っているはずだ。


無防備な肌に触れる秋月の夜風に少し冷たさを感じ、白雪がフルーレの柄を逆手に構えた。刀身を

抱きしめるように胸に当て、左手で剣先に向かってそっと撫で付ける。瞬間、刃に白薔薇のつるが

駆け走り、白刀だったフルーレがさらに美しく、いっそう白く発光し始めた。


「わたくしは、この森で散花になる覚悟を決めています。『お姫様』などという肩書きは、とっく

 の昔に捨て去りましたわ」


神々しくも不気味に光る月明かりが、白く発光したフルーレを妖艶に照り輝かせる。


「……だから何? お姫様じゃなくなったから、立場はあたいと一緒ですって言いたいの? ふざ

 けんな! それだよ……その、弱者に目線を合わせてやってるっていう金持ちの偽善が、あたい

 は最高にムカつくんだよ!!」


分かってはいたことだが、火の点いていたキカリの感情に、さらなる油が注がれる。白雪がいくら

お姫様じゃなくなったとはいえ、キカリとは育ってきた環境に絶対的な雲泥の差がある。裕福層と

貧困層――黒い森という閉鎖された空間で、被検体として立場は同じになったとしても、そこには

〝品差〟という埋まらない壁が残っていた。

  

「目障りだ……」


停止管内を爆発させ、キカリが再び空へと舞い上がる。


「お姫様はお姫様らしく、か弱く生きて、最後まで華々しく生きていろ。あたいらに無理やり目線

 を合わせる必要もない。合わせたところで、『想い』なんてどうせ伝わらないのだからな」


両手に持ったトロンボーンを、上下並行に組み合わせ、朝顔の両門を一つの大きな砲門へと変える。


「キュールタイン・アンサンブル」


おそらく最大級と思われる空圧が停止管内に集まっていく。まるで、血と涙を流し続けてきたキカ

リの人生を執念として吸い取っているようだ。熱気が生暖かい風となって全ての織物(はたもの)をなびかせる。


「あたいは泥水を啜ってでも、汚い男どもに身を捧げても、この手を鮮血に染めてでも、この黒い

 森で生き抜いてみせる。誰も信じない、信用しない。信じたらきっと裏切られる。あんたの覚悟

 だって、あたいらを見下しての偽善なんだろ?」


最大級の空圧は、すでに発射寸前の段階で、インサイトに白雪の麗姿を捉えている。


「そうですわね。言葉での覚悟なんて何の信用にも値しませんわ」


逆手に構えていたフルーレを順手に持ち構え、白雪はキカリの最大童術に備えるため、腰を落とし、

その身を低くした。防御の態勢というよりも、相手方の『想い』に全身全霊で答えようとしている

かのように見える。


「っ……お姫様にしちゃあいい覚悟じゃない……いいわ。認めてあげる。その心意気だけはね!!」


言葉と同時に支柱を引き、先ほどまで熱の噴射口だった朝顔から爆音が打ち鳴らされた。

停止管内に溜まっていた空圧が、主管抜差管を回ってベル管を通過する。圧縮されていた空気に蒸

気が加わり、喰らえば熱症じゃ済まされない暖風が、その身・白肌を焦がせと白雪に肉薄した。


激しい鳴動が2度、3度と続く。数分前まであった岩場の面影は崩れ、代わりに瓦礫の山が次々と

ビルドされていく。


白雪は飛び散る瓦解をフルーレで捌きつつ、岩場から岩場へと華麗に飛び移り、足場を移動してキ

カリの猛攻を掻い潜った。発光する白刀が暗闇で人魂のように揺れる。


「その白く光っている剣。どんな術か警戒していたけど、どうやらただの照らし灯のようね。あな

 たの位置、丸わかりよ」


まるで、闇夜に浮かぶ提灯(ちょうちん)だとキカリが揶揄する。

夜戦において火を点す行為は、自分たちの位置を敵に知らせているようなものだからだ。


夜戦における基本戦術は、光を消し身を闇に溶かすこと。それが戦況を優位にするための常套手段

だ。不鮮明な視界を死角にし、奇襲・強襲・謀襲と、夜戦でこそ狙える戦略が勝利を掴む鍵になる。


お姫様時代、白雪が兵法学を学んでいるかは定かでないが、闇の中で明かりを点せば、そこに相手

のターゲットスコープが当てられることくらいは承知しているはずだ。


彼女にとって何かしらの策ではあるのだろうが、今回ばかりは、フルーレに光を宿してしまった行

為が(あだ)になってしまっていた。


「残念だけど、あなたの手法はお見通しよ。そうやってあたいに狙いをつけさせ、空域から地上へ

 の接近を伺っているんでしょ? 考えがお姫様ね。机上の空論だわ」


地上との距離を充分に保ち、キカリが見える標的を追い続ける。心なしか、発光物の動きに鈍みが

増してきているようだ。何十分も走り続け、白雪の体力に限界がきていると考えられる。 

 

「そろそろ疲労困憊でしょ。特大の音撃で終わりにしてあげる」


地上の発光物に狙いを定め、愛器であるトロンボーンに、キカリが全童力を込める。


「ハァ、ハァ……忠告して、おきますわ……」


空域を見渡せる岩場の絶壁に立ち、白雪がキカリの前に姿を現す。あれほど発光を極めていた白刀

はすでにその輝きを失い、持ち手から先は、丸みを帯びた元の白銀色に戻っていた。


「忠告だと? そんなものにあたいが耳を傾けるとでも思っているのか? そうやって油断を誘い、

 隙を見て反撃しようって魂胆なんだろ? 分かっている」


眼下の白雪に砲門の筒先を向け、彼女の忠告をなおざりにする。


「目の前にあるものだけが〝全て〟ではありません。次にその楽器を演奏すれば、貴女は間違いな

 く落下します……演奏を止めて、後塵を拝していただけないでしょうか」

「あたいに降参しろだって? 何だその自信は? 何が言いたい?」

「目的を遂行しようとするあまり、周りが見えなくなっている――ってことですわ」


一片の花弁が、キカリの頬を撫で付けるように舞い抜けていく。白く儚い真っ白な白薔薇の花弁だ。


「もう一度忠告します。演奏するのを止めて、楽器を降ろしてくださいな」


白雪の絶対的な自信に業を煮やしたのか、キカリの表情が見る見るうちに修羅化していく。


「……誰がお前なんかの忠告を信じるか。あたいに……あたいに偉そうに指図しないで!」


最終忠告を振り切って、トロンボーンの支柱を目一杯に引き寄せる。停止管内に溜めていた全童力

を朝顔に集め、熱風と共に怒りに任せて吐き出した。


「?? しまっ――!」


豪快な爆発音が夜空に音符を描く。白い煙と白い花弁……それは破壊された楽器から文字のように

漏れ出したものだった。キカリが虚ろな瞳を空に向け花弁と共に落下する。


「いつのまに……花弁を……」


破損した楽器の管内には多くの花弁が詰まっていた。

通気口が花弁で満たされているにもかかわらず、溜っていた空圧を無理やり吐き出したことで、逃

げ場を失った空圧が一気に膨張し、無残にも爆発してしまったようだ。


「……そうか、あの光の剣に気を取られていて、周りで花弁が舞っていたのに気づかなかったのか」


白雪という標的を追うあまり、キカリは周りで散開していた、白雪の《童術の花》を見失っていた。

白雪は発光剣でキカリの注意を逸らし、白薔薇の花弁を彼女に気づかれることなく停止管内に紛れ

込ませることに成功していた。誘蛾灯。光に誘われる蛾のように、キカリは白雪の策にまんまと踊

らされていたのだ。


「まさに誘蛾灯だな……お前は蝶……あたいは所詮、蛾だったというわけね……」


浮遊力を失ったキカリが、壊れた楽器を手に崖下へと消える。幸いにも長く伸びた下草が落下時の

衝撃を和らげ、身体への負担は軽い打撲のみで事なきを得た。


白雪は岩場の絶壁を滑るように駆け下り、速やかにキカリへと近づいた。


「うっ……さっさとトドメを刺せ……」


フルーレを手にした白雪に、キカリが乱暴に言葉を浴びせる。満身創痍の彼女に、これ以上戦える

だけの余力は残っていない。足音が近づくにつれ、キカリは自身の死を覚悟した。


白雪の足がピタリと止まる。彼岸を見据えるキカリの前でフルーレの切っ先が一旦持ち上げられた。


「くっ――!」


最後を覚悟したはずなのに、その恐怖で目を瞑ってしまう。しかしながら、キカリの身体に降って

きたのは、刺突による痛みでも、あの世への暗転でもなかった。


暖かな人の肌触り……白雪の抱擁だった。


「な、なにをっ! 離せ!!」


余力を振り絞り、キカリが激しく抵抗する。情けは無用だ。同情などしてもらいたくない。過去の

経験がそう反応するのか、身体が自然と切歯扼腕(せっしやくわん)した。


「今まで……独りで頑張ってきたのですね……」


薄ら寒い小望月の下、彼女の声が五線譜に優しい音符を落とす。同情などではなく、少なくとも共

感できる部分が白雪にはあった。


母親である王妃から命を狙われ、小人たちの言葉だけを信じ生きてきた7年間――白雪は魔法の鏡

から身を隠し、黒い森で密かに生き延びるため、他人に対して強い不信感を抱くようになっていた。


再三ホームを訪れてきた老婆に、髪は女の命よと言われ、毒薬が塗られた梳きクシを買わされたり、

美しい胴紐が手に入ったのでお一つどうですかと言われ、試着時に腰を強く締められて殺されかけ

たりと、彼女の生存を知って命を狙ってくる者が後を絶たなかったからだ。


類は友を呼ぶ――とはよく言ったものだが、キカリの生き様は白雪の過去によく似ているのだ。だ

からこそ『結びつき』が発生したのだろう。


「わたくしが今こうして貴女を抱きしめられるのは、小人さんを始め、多くの信頼できる仲間たち

 に出会えたからですわ」


小さな灯火が一瞬にして燃え広がるように、幸せにだって輝きがある。その輝きを人から人へと分

け与えることが出来るのならば、この森は、きっと溢れんばかりの幸せで春爛漫になることだろう。


『グリムの仔達』に与えられた使命。それは自身が持っている幸せを、一人でも多くの子どもたち

に分け与えること。そうすることで、絶望にも負けないたくさんの希望が生まれ、小子の命が軽い

この時代に、革命的な終止符を打つことができるかもしれないからだ。


白雪は自身が仲間から貰ってきた幸せを、今度は同じ『グリムの仔達』であるキカリに、共感と共

に分け与えようとしていた。


「信頼できる仲間だと? あたいには関係ないね。ピエッドもイーアーも、ヴァオもミャウミャウ

 も……ただこの森で生き残るために集まっただけの間柄で、最初から信用などしていない」


同性ながら気恥ずかしさを感じる白雪の乳圧から、キカリが尚も逃れようとする。

あんな奴らが仲間だと? 互いに利用し、利用されての関係で何が仲間だ。自分は食べ物さえ手に

入ればそれでいい。強く、拒絶的につっぱねるキカリを押さえ込み、白雪はそれでも放すことを止

めなかった。


「いきなり信用してくださいとは言いません。少しだけ……ほんの少しだけで構いませんから、わ

 たくしの腕を抱き返してはいただけないでしょうか?」

「断る! 少しの信用でどれだけ痛い目にあってきたことか!! くっ、離せ!」

「離しません。貴女がわたくしの腕を抱き返してくれるまで、ずっとこのままですわ」


お互いに一歩も引かない状況が続く。先に折れたのは、他人に触れられ、客観的に自分を観てしま

ったキカリのほうだった。


「どうして……どうしてそんなにあたいのことを……」


他の森ガールと比べても、自分の評価はけっして良いものではない。

がさつだし、男勝りだし、自分勝手だし……加えて、チビ・根暗・不細工ときたものだ。自分でも

誰かに好かれるようなタイプではないと思っている。


それなのに、何故このお姫様は、自分をこんなにも見てくれているのか? 自分が彼女の立場なら、

絶対に関わりたくない人物の一人だ。それなのに何故? 何故このお姫様は、こんなにも自分を受

け入れようとしているのだろう……。


彼女のこの抱擁が、情けや哀れみではないとしたら、いったい何が目的だというのか? 

彼女を信じた先に、何が待っていると言うのだろう。


やりきれない脱力感がキカリを襲う。


「……貴女に幸せになってもらいたい。心からそう想ったからです。他に理由が必要でしょうか?」

「――っ!」


次から次へと涙が溢れてくる。他人を信用せず、一人で頑張ってきたキカリにとって、白雪の抱擁

は、彼女が〝一番欲しかったもの〟だ。


「うっ、うわああああん!!」


白雪の腕の中でキカリが泣きじゃくる。こんなにも人の温もりを感じたのは初めてだ。頬を伝う彼

女の涙がそのように物語っている。誘蛾灯は蛾を誘い込むだけのものじゃない。蛾を美しく、蝶に

も負けないくらい輝かせるものだということをキカリは知らなかった。白雪は彼女に殴られた最初

の接近戦で、そのことをキカリに伝えようと決心したのだろう。


午前0時の魔法に始まり、女の子は誰だってお姫様になれるのだと――


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃっ」


過去に犯してきた過ちや、笛吹き男の一芝居に加担した罪から、贖罪の念に苛まれる。


「好きなだけお泣きになって。そうしたら、新しい自分に生まれ変われますわ」


楽器は一人で弾いても楽しいものだが、誰かと一緒になって演奏することで、もっともっと様々な

音を出すことができる。アンサンブルを覚えた少女の五線譜には、『涙』という音楽記号が列にな

って重なり合っていた。


      ☆


キカリとの一騎打ちに、白雪が決着をつけた頃。崖下ではもう一つの戦いに、同じく勝敗がついて

いた。勝った者は負けた者に寄り添い、脈拍を確認して安堵の表情を岩場に向ける。視線の先には、

一輪の月光花が羽化したばかりの蝶を従え、罪を許す聖者のように広い心で微笑んでいた――



時は数分前に(さかのぼ)る。長く雑に伸びきった草むらの中、二人の少年が激しく声を荒げた。

白獅子に変化した王子の蹄が、猛虎とヴァオに襲いかかる。


「へへっ……こいつを飼いならせば、一儲け出来そうだな」


猛獣の調教から、サーカスの開催を夢見る。商売上手なヴァオにとって、利益になりそうなもの

は何でも利用するが経営スタンスだ。全身白毛という珍しい幻獣を目にして商売魂が沸き起こっ

たのだろう。シャリン、シャリンと、両手に余るヘッドレスタンバリンが彼の鼓動を高めていく。


「大人しく俺のモノになれ」


右、左の順番で、手にしていたタンバリンを白獅子に向かって投擲(とうてき)する。

回転の加わった枠太鼓はジングルを刃とし、猛獣の四肢を滑るように切り刻んだ。軽い(うめ)き声が、

ヴァオのサド心に火を点ける。


「そうかそうか痛いか。そりゃそうだ。血が出てるもんな」


円形の軌跡を描き、水平になって戻ってきたタンバリンを、ヴァオが難なくと落掌した。彼の両

腕に付いている腕輪が、タンバリンの制御を担っているのだろうか。


単調な攻撃ではヴァオを仕留められないと分かり、王子は猛獣に有るまじき妙技で獲物を狙った。


巨大な臀部(でんぶ)を相手に向けたかと思うと、さらに反転を加え、遠心力が加重された体躯で、一気に

周囲をかき回した。先ほどのタンバリンの投擲を真似したような動きだ。


「おっと……なかなかおもしれー動きをしやがる。ますます俺のモノにしたくなったぜ」


枝木をひょいひょいと駆け上がり、白獅子の転撃を空へと回避する。樹木の頂上からヴァオが宙

へと身を投げ出し、両手をクロスさせタンバリンを真下に向かって振り下ろした。


ジングルが白獅子の背部を肉ごと削り取る。シャリン、シャリンと、鮮血をぶちまけた回転刃は

地上で旋回し、再び持ち主に向かって戻ってきた。


「まだまだぁああっ!」


ヴァオは両手を縦横無尽に動かし、タンバリンを操り人形のごとく操作した。回転枠太鼓が何度

も何度も白獅子と宙との間を往復する。光沢を放つ真っ白な毛皮が赤色に染まり、白獅子がつい

に地面に膝を着いた。


黄金色の輝きが白獅子を王子の姿へと戻す。


「ハァ、ハァ……青卑下くんとの戦いから少しは熟練したと思っていたけど……ここまで『獣化』

 の能力を使いこなせていないとはね……」


滴る汗を粗雑に拭い、王子が血だらけの身体で立ち上がる。他の『グリムの仔達』にはない、希

少な変身能力。その能力を上手く使いこなせてない自分に、王子が自身の未熟さと実践不足を引

き合いに出す。


戦闘開始前――ヴァオに場数が踏まれていないことを当てられていたが、九割がたは正解だった。

王国を治める王子として一通りの教育や作法は身につけてはいるものの、軍隊を動かす仕官能力

や、国民の日常生活を知る、『アリアドネの道標』までは学びきれていない部分があったからだ。


仕官能力にいたっては前線はおろか、最高指揮官として戦場に立ったこともない。側近の軍師教

育係から兵法学や軍事学を学んだりはしていたが、実際に荒野を踏みしめたことはなかった。国

の次期象徴を危険な場所に立たせるような真似は、父親が許しても、母親が絶対に許さなかった

のだ。


そしてその圧倒的な実践不足は、現在タエマナシ王子の弱点になってしまい、『獣化』という希

少能力を使いこなせていない確たる証拠になってしまった。所詮、付け焼刃は付け焼刃。ヴァオ

は早々と見抜いていたのだ。王子に黒い森で生き残るための〝ための糧〟が備わっていない事を。


「目と足先を見れば分かる。童術に至っては、ごく最近『幸遺伝子』に目覚めた感じだろ?」


ニヶ月ほど前だ。茨の森に住む、魔女フラウ・ゴーテルに薔薇にされた時である。


「まいったね……君の言うとおり実践不足は(いな)めないみたいだ……」

「ハハッ。誰だって森に来たばかりの時はそんなもんだ。俺だってイーアーさんに声をかけても

 らわなければ、今頃どうなっていたか分かんねぇ」

「経験が人を強くするってのは間違いないようだね」

「そりゃあお前、人間は経験を積み重ねてこそ成長していく生き物だからな。経験の深~い奴と、

 経験の浅い奴との間には、絶対的な〝差〟があるってわけよ? ゆえに4年プレイヤーの俺と、

 数ヶ月ルーキーのお前とじゃあ〝力の差〟も絶対ってわけだ」


確かに『黒い森』という特殊な場所では、経験の差が生死を左右するとまで言われている。知恵

の無い者は森での生活方法に苦しみ、力の無い者は争奪戦で格好の餌食になるからだ。


ただ、王子はそんな経験の差にも負けない者たちを知っていた。森に入った折節(おりふし)では自分と大差

のない者たちで、なおかつ自分よりも年下な者たち。


どんな逆光にも、強い想いと諦めない勇気で立ち向かっていく期待の新人プレイヤー。そんな者

たちを知っているからこそ、王子はヴァオの言葉に素直に頷けなかった。


「あの二人を見ていると、不思議と自分にも出来るんじゃないかって思えてくるんだ」

「二人? 誰のことを言っているのかは知らないが、そんな奴らは(まれ)だ。要するに『天才』って

 言われている奴らだろう?」


枠太鼓の内輪に人差し指を這わせ、ヴァオがヘッドレスタンバリンをクルクルと回し始める。外

に内にと枠太鼓が揺れる度、シャンシャンシャンと鈴音が鳴り響く。


「そうだね。天才は天才でも……あの兄妹は『努力の天才』だ!!」


王子の身体が再び黄金色の輝きに見舞われる。

宵闇が一瞬明けたかと思うほど、一辺が丸分かりになった。


「《童術・変想ファンタスマゴリーク! F/――!!》」


黄色光の魔法円がタエマナシ王子を包み込む。輝きは最高値に達し、思わずヴァオが目を伏せた。

光の消失が訪れる。辺りに常闇が戻り、ただ一つを除いて視界が元通りになった。


「――!? おいおい……どこに消えやがった……」


注意深く辺りを見渡して、ヴァオが消えた王子の姿を索敵する。魔法円の散光後、元に戻った彼

の視界には王子の姿がなかった。逃走した――ってことはまずないだろう。音楽隊の足止め役を

買って出た王子が、逃げるなんて選択をするはずがないからだ。


おそらく、〝何かに変身〟したのだろうが、いったい何に変身したのかまでは聞き取れなかった。


ドスン! 鈍い衝撃がヴァオの身体を地面に転ばせる。


「ってぇ~なクソっ! どこだ! どこにいやがる! いるのは分かってんだよ!!」


近くの木々に罵声を浴びせ、ヴァオが王子の居場所を割り出そうとする。遠距離系の術が乏しい

王子に、遠くから自分を撃てる手段はないと彼は踏んでいるようだ。攻撃の糸口を掴むため、王

子が近くに潜んでいるのは間違いない――そう結論付ける。


ガツン! 透明化した王子の右ストレートがヴァオの右頬を吹き飛ばす。頬を押さえ、フラフラ

とたじろぐヴァオに、王子が追加の一撃を水月にお見舞いした。


「がはっ!!」


ヴァオが胃液を撒き散らし、その場に屈み込む。


「くそっ……そりゃねーぜ。消えるなんて、だいたい卑怯だろ」


弱音を漏らし、無防備を貫くヴァオに、王子がトドメだと言わないばかりに襲いかかる。

が、その瞬間を待っていたのか、ヴァオの口元が三日月を描いた。


「……知ってるか? 犬の嗅覚が人間の100万倍だってこと」

(――!?)


何も無いはずの空間に衝撃が走る。ヴァオの放ったカウンターパンチが、見えないはずの王子

を捉え、大気に微かな歪みを生じさせた。


「へへっ……匂うんだよな~お前がどこにいるのか」


王子を油断させるため、ヴァオは渾身の演技でやられたふりをしていた。犬の嗅覚は、刺激臭

なら人間の1億倍にもなるという。争奪戦でかいた汗や血、体臭で、王子の居場所は、すでに

丸裸の状態にあったようだ。


王子が立ち上がる。姿は消したままだが、居場所は確実に割れていた。


「オラオラッ! いいいかげん出てこいやぁ!!」


両手に持ったタンバリンを扇風機のように回転させ、ヴァオが場に突風を巻き起こす。風塵の

当たり判定を確認し、そこを目がけタンバリンを一直線に振り下ろした。


縦回転の刃が王子の両肩を切り刻む。鮮血は次なる移動場所を指し示し、彼に逃げ入る場所を

与えない。たとえヴァオとの距離を充分に取ったとしても、犬の嗅覚は発情したメスの匂いを、

4キロ先からでも嗅ぎつけることが出来ると言われている。


「なかなかしぶといな。いったい何に獣化した? 移動場所からして『飛行系』なのは間違い

 ないはずだが……ライチョウか? ヨタカか? それとも定番のカメレオンか?? お前が

『擬態化』で姿を眩ましていることはお見通しなんだがな」


三度四度、回転刃によるスプラッター攻撃を受け、すでに虫の息と化している王子に、ヴァオ

が月を見上げて囁いた。彼の解析によると、どうやら王子は、自身の姿を〝消して〟いるので

はなく、単に〝隠して〟いるだけだと言う。


自身の形姿を背景に溶け込ませ、錯覚的に消えたと思わせる手法――擬態化を駆使していると。


天へと届く一本の枯れ樹木――千枝には、何枚かの乾燥葉が、落ち葉になる瞬間を待っている。

そんな細く、今にも折れそうな幹の先端に止まり、王子は少しでも両翼を休めるため、しばし

泥落しに時間を充てた。


「はっ! 休息なんてさせるわけねーだろうが!」


容赦ない追撃が王子を枝ごと切り落とし、回復しきれていない身体を地上へと招待した。微弱

な輝きが王子を包み込む。擬態化が薄れ、一瞬だがその姿が露になった。


ハート型の顔盤に、短く折れ曲がった(くちばし)。左右で大きさが異なる聴官に、白く幅広い翼。音を

立てず、暗殺者のように獲物に飛びかかることから、『森の忍者』――そう称されている猛禽

類。光の中で人間の姿へと戻るその生物は、フクロウと呼ばれる鳥類の一種だった。


「ぐっ……」


『獣化』時の被ダメージが限界を迎えたことで、王子が強制的に人間の姿へと戻される。


「なるほど……フクロウに化けてやがったのか。どおりで物音がしないと思ったぜ」


皮肉にも、派手に音を出したいヴァオとは正反対の生き物だ。音を楽しむ者と音を殺す者――

両者の対決は、場数の差で〈鈴鳴らしのヴァオ〉に軍配が上がった。


「さてと、そろそろ大技でフィナーレといこうか」


タタンッ! 片方のタンバリンに、もう片方のタンバリンを打ち付けて、まるで、バイラオー

ル(踊り手)であるかのような態勢になる。


「俺たち音楽隊の秘密を知った以上、悪いが生かしておくわけにはいかねぇ……残念だがこれ

 もバッドエンドの一つだと思って、次の物語で参考にしな」


右、左。右、左と軽快なステップを踏み始める。どこからか民族音楽が聞こえてきそうなリズ

ム調だ。かかとを草むらに打ち付け、足首をくるりと回す。右、左。右、左。それを左右交互

に繰り返し、


「激しく踊ろうぜ。フィンスターニス・タランテラ!」


死と再生の舞踊が開演された。


「ハァ、ハァ……こちらとて、壊れたくるみ割り人形になるつもりはないんでね」


激しいヴァオの足踏みに王子がついていく。踊りなら得意分野の一つだ。宮殿にて毎年のよう

に開かれていた舞踊会では、何人もの女性をエスコートし、リードしながら踊った経験がある。


タタンッ! 右手を煽るようにひるがえし、両足を×の字に交差させる。左手を顔の近くに持

っていき、右手でバランスを取っての回転蹴り。シールドに使われたヴァオのタンバリンが豪

快に鳴り響く。


「くそっ。この俺がダンシングで負けているだと!?」

「踊りなら負けないよ。経験=強さである君の理論で言えば、僕は十年プレイヤーだからね!」


サイドステップからの肘打ちが、汗に塗れたヴァオの顔面を吹き飛ばす。


「がああっ! まじかよ……」


よろよろと千鳥足で後退し、それでも尚、タランテラのステップを踏み続ける。このまま夜が

明けるのではないかと思うほどに二人の舞踊は続いた。


汗が散り、血が流れ、埃が舞う。苦しいはずなのに……痛いはずなのに踊るのを止められない。


「こんなに……楽しく踊ったのは……初めて、だ……」


シャンシャンシャンと両腕を上下して、枠太鼓についたジングルを打ち鳴らす。その音に合わ

せて、王子が疲れを知らない軽やかな跳ね返りを魅せつける。


「もったいねぇ……もったいねぇなおい……せっかくいい音が出てんのによぉ……くそっ、身

 体がげんかい、だ……」


次第に衰えていくヴァオの踊りに見切りをつけ、王子は最後にフィニッシュを飾るため、よろ

めくヴァオの身体を支えた。タタンッ! 2時間超にも及ぶ長いタランテラに終わりが訪れる。


「ハァ、ハァ……今度は……みんなも交えて踊りたいものだね」


すっかりと毒の抜けたヴァオに、王子が白い蒸気を発しながら力強く語りかけた。

鈴の音がシャリンと一つ落ちる。王子の腕の中で眠るように気絶したヴァオの表情には、絶対

だぞと言う期待に満ちた片笑みが浮かんでいた。


      ☆


「むん――!」


豪腕から撃ち放たれた鍵盤が水平に空を切る。片膝を立て、身を沈めた狼は、相手の懐に頭か

ら猪突した。骨をも断ち切る狼の《虎爪(こそう)》が、空振りに終わったイーアーの隙を突く。


「――! なんだ……?」


しかしながら、思わぬ防壁が虎爪を弾き返し、狼は小首を捻った。わき腹に決まったはずの柏手(かしわで)

が、皮肉骨(ひにくこつ)に深入りすることを拒絶され、爪痕も残せぬまま、どこと吹く風に流されてしまった

からだ。


「ほう……細身のわりには、重い攻撃を仕掛けてくるな」


何食わぬ顔で、イーアーがギロリと狼に視線を落とした。

狼は一旦その場を飛び退いて、目の前の巨体に、自立式の泥人形を重ねた。


「木偶の坊が……ゴーレムにでもなったつもりか?」


右手の甲に稲妻が走り、バチバチと黒い火花を飛び散らせる。『防耐』に重点を置いた相手と

は、過去にも何度か戦ったことがあった。大抵は《民謡伝術》を使うに至らなかったが、時と

して例外もあった。


ひとつは格下の相手に、自分のほうが上だということを威嚇・誇示するために。そして、もう

ひとつは、同じ『グリムの仔達』であり、相手の能力が《民謡伝術》によるものだと明確に判

明している場合だ。


『《童術》に対抗できるのは《童術》のみ』――その言い伝え通り、狼は漆黒の魔法円を出現

させた。右手首に絡まっていた黒雷が六線星型に明滅し、時空内に『四次元理論』が発生する。

幾何学的な文字盤が二重になって流動し、使い手に、『想いをカタチ』にするよう、幸遺伝子

越しに呼びかける。


「黒雷? もしや貴公……黒い森最強の被験体か?」


〈黒い影〉の存在は、彼の活動本拠地『東ブロック』だけに留まらず、黒い森全域に知れ渡っ

ていた。黒い稲妻を操る、強暴で目つきの悪い長身の被験体がいると。


「実に運がいい。〈黒い影〉とは一度手合わせ願いたいと思っていた。俺の《童術》が、黒雷

 にどこまで耐えられるのかを実証してみたくてな」


ドスン! 大型鍵盤の底面を草むらに突き刺して、イーアーは防耐の態勢に入った。


「こい」


残影の中に黒雷を残し、狼の姿が消える。イーアーが目を据えた瞬間に、狼は既に走っていた。

頂上から落雷が生じる。禍々しい黒雷が狼の身体に纏わり付き、二次エネルギーを右手へと流

し込む。


「喰らえ……《童術・黒爪ヴォルフガング!》」


放電された黒雷が瞬く間に壁を築き上げ、イーアーの立てたマーチングキーボードを撃ち壊す。


「ぬうぅおおおっ!!」


数十秒に渡る致死電力が鍵盤から全身へと流れ込み、硬直した筋肉がブルブルブルと波を打つ。

痙攣は、やがて焼け付くような鋭い痛みへと変わり、すべての電力が解放されたのち、焦煙へ

と変化した。


イーアーが片膝を突く。湯煙が蜃気楼のごとく舞い上がり、その一帯だけを黒く染め上げてい

る。低圧とはいえ、人体に影響が及ぶほどの電力だ。傍から見ても、彼の戦闘不能は間違いな

かった。


巨体がゆっくりと起き上がる。盾にした電子機器に破損の様子は見られない。イーアーは起立

時の初動負担を鍵盤に全面的に預け、服に着いた埃を振り払うかのように返り咲いた。


「ふむ……想像していたよりも遥かに強い。ただ……手加減されているのは解せぬな」

「ばかな……42(死に)ボルトだぞ……」


イーアーの言葉どおり、たしかに手加減はした。致死量すれすれのライン。

だがそれは、手加減と呼ぶためのものではなく、相手の防耐力を見極めるための試し手で、か

つ、童力の消耗が激しい『童波型』の初撃といえるものだ。


この初撃で相手方がくたばってくれればいいが、耐え抜いた時には、次の一手は出し惜しみし

なければならない。無蔵ではない童力を、むやみやたらとは使えないからだ。


相手が強敵であれば強敵であるほど、童術の使い方が問われてくる。ゆえに、狼が黒い森最強

の被験体と呼ばれる所以(ゆえん)には、《童術》の使い方が、ずば抜けて上手いことが挙げられていた。


「上だ。もっともっと上の《童術》を解放しろ。でなければ、この俺は倒せぬぞ」


草むらから引き抜いた鍵盤で、イーアーが狼を振り払う。

カーブを描いた鋭利な先端が、横一文字を切って狼に距離を測らせる。


「ちぃ――」


夜風に消える漆黒の繊維を見送り、狼は刃が皮膚にまで達していないことに怒りを覚えた。余

裕を持って回避できる上、隙だらけの大技なのに、相手が『防耐』に絶対的自信を持っている

ためか、その隙を突くことができなかったからだ。


仕方なく相手の挑発に乗って、より強力な電流をお見舞いする手を考える。相手の能力が、た

とえ『耐久性』に特化していようとも、見たところ、物理ダメージを通さない『コピー型』や、

物理ダメージを吸収する『ドレイン型』ではないようだ。ダメージが通る相手なら、軍配は限

りなく狼にあった。


「……感電死した後で後悔するなよ」


通電枠を開放する。一般に『電界』と呼ばれている電圧空間を自ら作り出し、『幸遺伝子』か

ら黒雷を送電した。黒雷のカタチである《黒雷の型》は、狼の意思で自在に変えることができ、

放電型の『針金スタイル』から砲電型の『B玉スタイル』まで、戦況や戦略に応じて使い分け

ている。


電流が互いに切っ先をぶつけ合い、結合して、一つの大きな球になっていく。蹴球で言う、4

号ほどの大きさになったところで、狼は雷球を手に足場を蹴った。


「なるほど……放電先を結合する事で電位の差を無くし、威力の安定化を図ったか。だが――」


盾代わりの鍵盤をイーアーが再び地面に突き刺した。初撃と同じ態勢で防御の構えを取る。


「この俺に雷撃は効かん!!」


致死帯の電流がキーボードを伝い、イーアーの身体へと流れ込む。先ほど繰り出した電光より

も遥かに強力な黒雷だ。たちまちのうちに、足場が炭化現象を起こしていく。


「ぬおおおおおおおおっ!!」


雷光の中心でイーアーが唸る。自身が招いた高電圧に必死の(あらが)いを見せる。

ようやく怒りを収めた稲妻は、物足りなさそうに火花を飛ばし、小さく弾けたのち煙になった。


「お前が招いた結末だ。悪いが怨まれる筋合いはねぇぞ」


膝を突いて固まったままのイーアーを眺め、狼は腑に落ちない様子で敵対者に背を向けた。


「……怨む、だと? それは負けた者の言いがかりではないのか?」

「――!? な、に……」


眉間にしわを寄せ、狼がイーアーに振り返った。巨体が鍵盤盾を支えに立ち上がる。長年、操

縦席を空けていたロボットがようやく操縦者を見つけたように、ゆっくりと、のっそりと……

錆び付いたギアを動かすようにギギギと起き上がる。


「黒い森最強と知って期待していたが、この程度か……つまらぬな」

「あ?」

「期待外れだと言っておるのだ。貴公には失念したぞ」


炭化した草むらから鍵盤盾を引き抜く。黒雷による炭化は見受けられるものの、イーアー本人

には、まったくと言うほどにダメージの形跡がなかった。


「ちぃ……こいつも面倒くせぇ能力使いか……」


過去に戦った能力者の中で、ヘンゼル・青卑下に続く、相性の悪いグリムの仔達だと判断する。


「ふむ……これ以上の挑発には乗ってこなさそうだな。もう少しほど《童力》を消耗させられ

 ると思っておったのだが、まあよい。能力の使えない者に勝利しても、それは『正義』とは

 言えぬからな」


鍵盤盾を右肩に担ぎ、巨体が旗揚げをする。今度はネズミがネコを(かじ)る番だと、キーボードに

《童力》を注ぎ込む。


「いいか? 世の中、死にたくなければ生まれてくるな、なんて国もある」


まるで、自身に言い聞かせてるかのように、イーアーが淡々と吐き捨てる。狼は、場の状態・

雷撃時の状況・イーアーの持つ鍵盤盾から、彼の《童術》がどのような能力を内蔵しているの

かを分析した。


巨体が雄叫びを上げて動き出す。ただでさえ重量級の少年だ。そこにソード・シールドなる鍵

盤盾が加わった今、彼の一撃は、まさに壊滅的打撃と化していた。喰らえば狼とて重傷もので

ある。


「ド・レ!!」


右肩に乗せた鍵盤をイーアーがストレートに突き出す。狼は身を反らしてそれを回避し、イー

アーの左手が届かない右手側から攻撃は仕掛けた。が、急速旋回したイーアーの裏拳が狼の背

中を直撃した。


電子部品から原音が独りでに鳴り響く。レゾナンス効果を受けていない、遮断周波帯の打音だ。

冷たい草むらの上を、漆黒の影が波状に離転していく。


背後を突かれることなど、実に何年ぶりのことだろう。侵攻した方面より真逆に吹き飛ばされ

た狼は、高ぶった苛立ちを貧相な草むらへとぶつけた。


「――む!?」


危機的状況だと言わないばかりに、イーアーが草上から(おもむろ)に飛び退いた。地面を伝う狼の雷撃

が、草むらにジグザグの地割れを走らせる。


「哀れな攻撃よ。闇雲に放電したところで、俺には当たらぬぞ?」


イーアーが肩を落として鍵盤を地面に突き刺した。強張っていた顔色が、途端に緩やかになる。


「くそ……イライラするぜ……」


不発に終わった己の雷撃を見据え、狼が歯噛みをした。

攻撃が避けられたことも不快だが、命中したところで相手は雷に対して抵抗を持っている。

どのみち、大したダメージは与えられなかっただろう。そう考えさせられてしまう状況だけに、

苛立ちが収まらない。


狼が拳に集めた電流を放出する。自分でも、らしくないなと思っているが、相手の能力を見極

めるには、《童術》を当てていくしか方法がなかった。


「無駄だ。この鍵盤はアースの役割を担っている。先端を地表に突き刺すことで、電流を大地

 へと逃がすことが可能なのだ」

「………………」

「………………」

「なるほど……そういうことかよ」

「…………OH」


うっかりと失言してしまったことにイーアーが頭を抱えた。


「アースを取らないと雷撃は防げない……それで、さっきの雷撃は〝回避〟に切り替えたのか」


狼が闇夜で鋭目を光らせる。相手の鍵盤は、雷に対して絶対的な抵抗を持っているはずなのに、

咄嗟の雷撃を飛び退きで回避したのは、イーアーが地表に鍵盤を突き刺していなかったからだ

と、彼の失言と合わせて確信した。


「一つ……いいことを教えてやる」


次の瞬間――巨体であるイーアーの身体が宙を舞った。

雑草が刈り取られ、散りゆく緑木が闇夜に溶けていく。


「ぬうううっ!」


狼は闇に同化して、イーアーを何度も何度も宙に向かって捌き上げた。イーアーの呻き声が爆

速に紛れて聞こえてくる。そして、


「黒い森で生き残りたいと思うなら、おしゃべりは控えることだな」


天空に拳を突き上げて、狼が黒雷の壁を召喚した。イーアーの身体が、衝撃で地上へと逆戻り

する。残煙が狼の周りで熱気へと変わり、彼の月影をもうもうと揺らめかせた。


瑠璃色の空に黄鉄鉱(おうてっこう)の粒が降り注ぐ。


まさに急転直下だった。なまじ口を滑らせてしまったばかりに、イーアーは一瞬にして敗北を

喫した。空中ではアースになるものを取れないため、電流に対する抵抗手段がない。鍵盤を地

表から切り離された時点で、彼の行き着く先は〝炭団(たどん)〟だと決まっていた。


「ふん……つまんねぇミス、してんじゃねぇよ」


地べたに沈んだ巨体を後に、狼は場を去ろうとした。

いいかげん仲間たちも、決着が着いている頃だろう……そう考えて、足を踏み出した刹那――


「どこへ行くつもりだ。勝敗はまだ決まっておらぬぞ?」

「――!?」


背後に巨大な影が浮かび上がる。絶縁はなかったはずなのに、巨影は平然と立ち上がっていた。


「おいおい。その盾がアースの役割じゃなかったのかよ」

「無論だ……だが、鍵盤だけが絶縁物ではない」

「なに?」

「見るがいい! 何年にも渡って鍛え上げてきた、この美しき肉体を!!」


イーアーは、交差していた両腕を勢いよく広げた。

絹衣が無理やり引きちぎられて、あっという間に、イーアーは上半身裸になった。


傷跡だらけだが、極限まで鍛え上げられた大胸筋。

森での食生活が功を成しているのか、体脂肪率8%帯のシックスパック。折らずとも大々的に

盛り上がった上腕二頭筋。三頭筋から浅指屈筋(せんしくっきん)にかけ、血管の浮き出た前腕筋は、過去に幾人

もの強者(つわもの)を葬ってきたのだろう。


男であれば、見事だと言わざるを得ない完璧な肉体美だ。


「筋肉こそ至高。肉体一つで人は強くなれるのだ」


イーアーが上空に鍵盤盾を放り投げ、宙に向かって雄叫びを上げる。

鍵盤に内蔵された電子部品が彼の《想い》と共鳴し、白鍵と黒鍵が、パズルのピース枠のよう

に真っ二つに分断された。


松葉色の魔法円がイーアーの上下に出現し、分断されていた鍵盤が身体に吸い寄せられていく。


ガコン、ガコン。分断されていた鍵盤が両肩にのしかかる。両肩に装着された鍵盤は、立方体

を平面に展開するかのように、そこから更に身体へと蔽いかかった。


ガコン、ガコン。シャキーン、シャキーン! 肩から腕に、腕から甲に。かつて鍵盤盾だった

ものが、イーアーの身体と一体化していく。


魔法円の輝きが強くなり、両側のパーツが大胸筋の前で繋ぎ合わさった。

最後に「フェイスオン!」の号令で、イーアーの面長の(つら)が機械的なマスクによって隠される。


「《童術・音響合成シンセサイザーああああぁっ!!》」


電子的でくぐもった声がマスクの下から漏れ出して、直角三角形型のアイズが松葉色に光った。


ドスン! 変身――いや、合体を完了したイーアーが草むらに片手を突いて着地する。白色と

黒色……それに灰色を組み合わせた、グレースケールのボディカラーが、闇夜に鋼鉄の輝きを

放つ。兜頭部には、鶏冠(とさか)を模した派手な装飾。背部には、加圧した空気を音として吐き出す複

数のパイプ。


騎士――そこに立っていたのは、紛れもない、電子的な鎧を着込んだ聖騎士団の姿だった。


「目つきの悪い悪党よ……このシンセサイザーが、貴公を永遠の闇へと葬ってやる」


機械化した指を狼に向け、イーアーが正義の名の下に決裁を扇いだ。


「異議ありだ鉄塊……容姿中傷は民法ものだ」

「黒い森に裁判官などいない。判決を下せるのはこの私、絶対正義シンセサイザーのみ!」


甲冑を着た少年が片肩を突き出して猛攻する。キーボードと同化したイーアーの速度は、人間

体だった時に比べ、何倍増しにも速くなっていた。まさに『音速』と言われる域に達している。

狼は横への回避を諦めて空への退避に切り替えた。


「逃げ場は与えんぞ!」


背面に武装された『気鳴型鍵盤』が唸る。高音が闇夜の森に鳴動し、背部から2オクターヴ超

の『鍵』が噴出。イーアーの一撃を空へとかわした狼に、数十の白黒が我先にと襲い掛かった。


小望月の下、小さな爆発音が連なり、生いぶりが上がる。

煙を纏った狼が防御の姿勢そのままに地上へと落下した。


「蛇腹拳ハンド・エオリーネ!」


落下して間もない狼に、今度は両腕に武装された、イーアーのメイン兵器が火を噴く。肩から

腕にかけては『シャフト』が張り巡らされており、繋がった空気弁から対応した波音が漏れ出

す。アコーディオンを連想させる、伸びやかで高貴的な音響攻撃だ。


狼の肢体が無抵抗に波を打つ。ここまで一方的に攻め込まれたのは、森に来るちょうど4年前

――〝狐の面を被ったあいつ〟に、家族だった仲間を殺され、自身も再起不能なほどの重傷を

負わされて以来だった。


「つけあがるなよ三下……俺は……」


狼とイーアーの足元に、漆黒かつ、広範囲の魔法円が浮かび上がる。狼は怒っていた。忘れた

くても忘れられない悲惨な過去を思い出し、幸せだった頃の《想い》が『カタチ』へと変わる。


「この絶対正義シンセサイザーに、悪の攻撃など通用せんわ!」


全身絶縁体であるイーアーは、魔法円に怯むことなく強気になって攻めた。雷に対しては絶対

的な抵抗を持っている。例え最大クラスの放電を喰らったとしても、耐え抜ける自信があった。


イーアーの主武装が狼に迫る。ガシッイィ――イーアーの拳を受け止めて、狼は《童術》を発

動した。魔法円に稲妻が招雷する。黒くトゲトゲしい、針のような雷撃だ。


「《童術・ヴォルフガング・ヴィントガッセン!》」


鎧の繋ぎ目を狙うかのように、極細の稲妻がイーアーの全身に突き刺さる。


「がああああっ! 効かぬっ! 効かぬぞおおおおぉぉっ!!」


グレースケールのボディから黒煙が立ち昇る。すでに電子部品の大半はイカれにイカれ、その

機能を成していない。不快な低音が、イーアーの叫声と交じり合う。


「むん――!」


右肩のショルダータックルで狼を弾き飛ばす。魔法円の輝きが薄くなる中、イーアーは、不屈

の精神で立っていた。高圧による雷撃でシンセサイザーに耐久限界がきているのか、彼の全身

からエラー音が鳴り響いている。一秒でも早く装着を解除しなければ、童力を吸いに吸われて、

本体もろとも大爆発してしまう。


「このシンセサイザーに、解除命令が出るほどのダメージを与えたのは貴公が初めてだ。さす

 がは最強の被験体……私とてこれ以上の合体は死を招くが、童力を使い果たした貴公に反撃

 の余力は残っていまい。合体を解除し、生身の姿でトドメを刺してやろう……それだけ貴公

 は強かったのだ」


草むらに沈んだ狼に向け、イーアーが合体解除の号令を出す。一瞬の出来事だった。合体を解

除したその途端、イーアーが感電して倒れた。狼が月に向かってほくそ笑み、片手を突いて立

ち上がる。イーアーは自身に何が起こったのか全然理解していなかった――


「ぐううぅ! なぜだ! なぜ電流が流れるうぅぅ!?」


イーアーが痺れる身体で問いかける。


「ふん……お前、何か勘違いしていないか?」

「勘違い……だと?」

「アースの役割を〝感電防止〟だと思っていないかってことだ」


狼の説明にイーアーが目を丸くする。


「……違う、のか?」


返す言葉もない。イーアーの返答に、狼は目元を押さえ溜め息を吐いた。


「アース自体に絶縁機能はない。アースは超過電流や漏電した際に電気を地面へと逃がすだけ。

 つまり……電流の〝逃げ道〟を担っているだけなんだよ。加えて、電力の供給で溜った電子

 機器をいきなり開放なんてしてみろ。それこそ放電(アーク)が起きるに決まっている。『パンタ降下』

 ってやつを学んでおくべきだったな」


狼の真の狙いは、最初から〝放電〟にあった。高い電圧をイーアーのシンセサイザーに流し続

けることで、鍵盤盾の精密な電子部品を内部から破壊し、合体を解除した瞬間、電子鎧に蓄積

された高圧電流が一気に開放されることを計算していたようだ。


「全ての雷撃が……このための、布石だったというのか……」


音楽隊の首席奏者を下し、狼がイーアーに背を向ける。


「俺は……〝あいつ〟をこの手で殺すまで、倒れるわけにはいかねぇんだよ」


後ろ姿に哀愁を漂わせた狼が静かに森へと歩いていく。仲間と合流し、兄妹の元に駆けつける

ために。仲間を……家族を失わないために。


      ☆


やさしい風が頬を撫で付ける。お気に入りの髪留めを手中に握り締め、赤頭巾は〝その時〟を

待っていた。彼女をハープ型の弓矢で撃ち抜き、勝利を確信したミャウが安堵の隙を見せてく

る、その〝一瞬の時〟を――


「気絶してる……だけだよね? 大丈夫……急所は外したつもりだし、目が覚める頃には、森

 も明るくなっているから、ホームには帰れるよね……うん」


真鍮に光る小型のハープを胸に抱き、ミャウは倒伏した赤頭巾を覗き込んだ。弓撃で髪留めが

外れたのか、二つ結びでお下げ頭だった彼女は、何の(ほどこ)しもしていないストレートなセミロン

グを披露している。職務の執行を邪魔されたとはいえ、自身の性格上、傷ついた相手をこのま

まほっぽって置いていいものなのか迷いに迷っていた。


「……それじゃあ私いくね。音楽隊のみんなが待ってるから」


打っても響かないことは知っているが、相手を(たな)ざらしにしてしまう罪悪感から、ミャウは謝

罪も込めて赤頭巾に言葉を投げかけた。もちろん返事はない。安心してミャウが後ろ足を引く。


赤頭巾にとっては、それだけの隙で充分だった。赤頭巾がミャウの隙をついて森へと走り出す。


「え? あ! ちょっと!?」


風を食らってミャウが後ろを振り返る。が、振り返った時には、既に赤頭巾は森の中へと身を

滑り込ませていた。ミャウが矢を月へと向け曲射の体勢になる。しかしながら、先ほど赤頭巾

を森から炙り出すために、かなりの童力を消費していたことに気がついた。


「うそ……でしょ。私の童術は完璧に決まったはず……急所を外しているとはいえ、致命傷な

 のは間違いないはずよ。どうして直撃を喰らって無事でいられるの……」


勝利への喪失が不安へと変わる。赤頭巾がミャウの攻撃にやられたふりをして森の中へ逃げた

となれば、彼女はまだ戦うことを諦めてはいないということになる。こちらの様子を探り、し

ばし回復に時間を当て、必ずや反撃に出て来ることだろう。


「これはやばやばだよ……残りの《童力》じゃあ矢の連射はできない……」


ミャウは自身の童力・体力を緻密に計算し、ピンチからの打開作を練った。赤頭巾を森に逃が

してしまった以上、窮地に立たされているのはミャウのほうだったからだ。


「やっぱり相手が『グリムの仔達』じゃあ、簡単には勝たせてくれないか。いいよ……それな

 ら、私の《全童力》を賭けて、最大の一撃をお見舞いしてあげる!」


これ以上の〝負け〟は重ねられない。音楽隊の一員として、イーアーに見込まれたあの時から、

ミャウの『想い』は《癒しの音楽》を森に届けるためだけにあった。


腐敗しきったこの森に、争奪戦で疲れきった子どもたちに。

心が(ほが)らかになる、そんな『幸せの一譜』を届けるために。


幾何学的な魔法円がミャウの前方に出現し、身体を承和色の光が染め上げる。その光の先、場

末の光源が森の中へと行き着く頃、赤頭巾は木立の一つに身を隠し、相手の出方を覗っていた。


「おじいちゃんに教わった狩人術……『身を伏せて時を待て作戦』大成功ね」


いわゆる死んだふりから危機的状況を回避して、赤頭巾がやってやったという顔になる。お気

に入りの髪留めをサロペットのポケットにしまい込み、


「うう……お気に入りだったのに……でも、あの子のハープ……構えは同じなのに、矢の速度

 が違うってカラクリ。ようやくそのカラクリが分かったよ」


速度の違う3発もの矢を受けて、ようやくその正体に赤頭巾は気づいた。何も難しいことなん

てなかった。相手の《童術》が、ハープという〝楽器〟であることに焦点を当ててれば、すぐ

にでも対処できていた事だった。


「当てがう〝ストリングスの位置〟によって、速度を変えていたとはね。どおりで〝音の鳴り

 方〟が毎回違ってたわけだ」


弓に矢をつがえる時、本来なら決まった位置に矢を引っかけるものだが、ミャウの場合はその

引っかける位置にカラクリがあった。それは、彼女の持つ楽器が〝4本のストリングス〟を設

備している、ハープという弦鳴竪琴だったからだ。


長さの異なるストリングスは、ハープ演奏において〝無くては鳴らないもの〟――つまるとこ

ろ、ハープの演奏には、弦をしっかりと張り、ストリングスに〝打ち鳴らすための動作〟が必

要だということになる。


赤頭巾はハープから矢が射抜かれる度、音の鳴り方が毎回違うなと思っていた。


【ポロロロ~ン♪ ポロン♪ ポロロ~ン♪】


そして、その身で矢を受け続けて、それは〝違和感〟ではないことに気がついたのだ。つがえ

た位置から巻き込んだストリングス分の音。支柱側なら4本、奥側なら1本分の音色が打ち鳴

らされ、その波長に合わせて速度も変わっていたことに――


要するに赤頭巾はミャウが〝どのストリングスに矢を当てて音を鳴らしていたのか〟――とい

ことに気づいてしまったのだ。


つがえる矢の位置と、その速度さえ分かってしまえば、回避はもちろん、対処の方法はいくら

でも見えてくる。撃ち合いになっても、優勢なのは弓矢よりも拳銃なのだから。


「私って音楽の才能ないからなぁ……もしあの子と仲良くできたら、音楽のこと教えてもらい

 たいんだけどね」


そう言って、赤頭巾は遠くからミャウの魔法円を目で追った。

魔法円の輝き具合から、彼女が《最大童術》を使おうとしていることを悟る。


ただ、それはピンチでもあるが、赤頭巾にとっては好都合な展開でもあった。


「向こうからは攻撃してこない……ううん。おそらく、もう矢を連発できるほどの《童力》は

 残っていないんだ……」


相手の『残存童力』が、およそ、最大童術分しか残っていないのだと直感し、赤頭巾は両手に

ある二丁のタクティカルリボルバーに着眼した。相手の残存童力と比較して、自身の戦力具合

を見定める。


残存童力だけを見れば、赤頭巾のほうも余裕はない。

弓矢より連射が利く分、童力の消耗もミャウより激しいからだ。


「こっちはもう撃てそうにないなぁ……フレームに大穴が開いてるよ。再練成は……うん。分

 かってる。この銃じゃあ、あの子には勝てないよね」


右手の拳銃を夜月に掲げる。弓矢の直撃を銃側面で防いだため、右手の拳銃はフレームに穴が

開き、とてもじゃないが弾丸を放てる状態ではなかった。一応フレームの修復には、『再練成』

という形で、再度、想いをカタチにすることが可能だが、小型の拳銃を練成し直したところで、

ミャウの最大童術に対抗できないことは知っていた。


《童術》には《童術》でしか――

《最大童術》には《最大童術》でしか対抗できないからだ――


「こっちの残弾数は……とっ、こっちのほうもピンチかな……」


一方、左手の拳銃を眺める。左手の拳銃は、主に右手の上乗せに使用しているため、実のとこ

ろ右手の拳銃よりも弾の消費が激しかった。右の拳銃1発に対して、左の拳銃はそれに4発も

の補弾を加えているからだ。


もともと、二丁の拳銃を使うようになったのも、生硬い赤頭巾の命中率を〝数〟で補うためで、

射撃に関しては、まだまだくちばしが黄色い彼女が、苦肉の策で始めたものである。


そのため、彼女の童具『鶏銃ケプフェレ』には、残弾数が一目で判断できる、赤色のインジケ

ーターが付いていて、戦闘の最中、弾薬切れという非常事態に陥らないよう、充填の目安とし

て、目測できる仕様になっていた。


赤頭巾は、そのインジケーターの位置を確認し、深いため息を吐いた。


「発動できる童術はおよそ1回分。『ケプフェレ』の充填に使用すればフルチャージできるけ

 ど、それじゃあダメ……鶏銃じゃあ、あの子の最大童術は貫けない。童術に対抗できるのは

 童術のみ……最大童術に対抗するためには、こっちも最大童術でいかなきゃ!」


トゥルン、トゥルンと、矢を引き寄せる音が響いてくる。いつでも射抜ける準備は出来ている

――そう言わないばかりの張り音が森の外で待ち構えていた。


「赤い頭巾を被った小ウサギさん。今度こそ射抜かせてもらうよ!」


薄暗い森を注視し、ミャウは右手と左手で〝47本〟ある弦の中心を挟み込んだ。


「――!? な、何よアレ! さっきのハープなんかより全然大きいじゃない……アレがあの

 子の最大童術?? あんなのに射抜かれたら、私、真っ二つになっちゃうよ」


二丁の拳銃を腰のホルスターにしまい込み、赤頭巾が森の外をチラ見して嘆いた。森の外には、

ハーピストで猫目の少女ミャウが、高さ190cm、全幅100cm超、推測重量40kgの

『グランドハープ』を出現させていた。


標準47本の弦に、7本のペダル。弦は低音・中音・高音とあり、それぞれ左からスチール弦、

ガット弦、ナイロン弦を使用している。加えて、演奏時どの弦がどの音に対応しているのか判

別できるよう、『ド』の弦は赤色、『ファ』の弦には青色の着色がなされていた。


ミャウがペダルを踏んで調弦する姿が目に入る。共鳴板およびネックの材質はメイプル材だろ

うか。森にぴったりの優しい音色を奏でそうである。


「赤い魔法円……? 向こうの残存童力がどれ位のものなのかは分からないけど、あの銃じゃ

 あ、このグランドハープは撃ち抜けない……貴女が引き金を引く前に、こっちが先に射抜い

 てあげるわ!!」


森の中に見えた赤色の魔法円を見据えて、ミャウは相手が戦闘体勢に入ったのだと脇を固めた。

ペダル内部のロットが作動する。ディスクと呼ばれる回転式のピッチコントローラーがネック

の内部を経由したのだ。いつ・どこから・どのタイミングで飛び出してくるか分からない赤頭

巾に対応するため、帳尻を合わせている。


照準への安定性を持たせるため、共鳴板側から、楽器を抱え込むよう椅子に座り、共鳴胴を右

肩にもたせかけた。


「おじいちゃん……見てて。私、この戦いであの子とも仲良くなってみせるから」


赤頭巾は両手で〝大型の銃〟を握り締め、中腰の体勢になった。静寂がコンサートのフィナー

レを演出している。しばらくの沈黙が両者の間に流れ、激突の時は唐突にやってきた。


「いくよっ!」


木立の側から勢いよく離れ、赤頭巾が薄暗い森の中から飛び出した。両手には大型のマスケッ

ト銃を抱えている。


「――!! 銃のカタチが違う?? 向こうも最大童術ってこと!?」


赤頭巾の手にある大型のマスケット銃を目にして、ミャウが焦りを感じた。ペダルを忙しく踏

み込み、標的に向けて矢尻をセットする。負けるわけにはいかない。


全ての弦を巻き込んだ連続奏法は、ハープを代表する演奏の代名詞。魔法の演奏は、いつだっ

て奇跡を起こしてくれるから――


「《童術・猟銃シュヴァルムシュタット!》」


赤頭巾がグランドハープに向かって的を絞る。

それに合わせて、ミャウの小指以外の指先が流れるようにしなった。


「《童術・響鳴女王ケーニギンハルフェ!》」


メイプル材を使用したグランドハープから、癒しの演奏が掻き鳴らされる。

矢が赤頭巾を目がけて発射された。同時に、彼女も猟銃の引き金を引いた。


乾いた砲弾とハープの音色が交差する。千にも万にも組み合わさることのない組み合わせだが、

薬莢の匂いが夜風に乗っていい塩梅を出し、そこに幻想的で攻撃的な空間が生まれた。


「きゃああっ!」


ミャウの側に衝撃が走る。地面から飛び散った石粒や砂屑が彼女を襲った。

お互いの『想い』が衝突し合い、その反動が互いに降りかかってきたのだ。


「――っ! やった……の?」


砂煙の吸引を避けるため、顔の半分を袖口で蔽い、ミャウは赤頭巾の残姿を砂煙の先に探した。

衝突の具合では、相撃ちのように思えたが、赤頭巾の銃撃を押し切った感覚があった。


煙が少しずつ晴れていく。その長いような短いような静寂がミャウの喉奥をゴクリと鳴らした。


「ミニスカートでのグランドハープ演奏はなかなか斬新だね。下着、丸見えだよ」

「!!!」


足下から聞こえてきた声にミャウが目を見開いた。ミャウの足下――そこに出来た深い溝から、

赤頭巾が彼女をロックオンしていたからだ。防空壕にも似たその穴に、し止めた思っていた赤

頭巾の姿がある。あの大型のマスケット銃で開けたものだろうか……(いず)れにせよ、赤頭巾の狙

いは最初から〝相殺〟ではなく、敵陣地の近くに〝大穴を開けること〟だったようだ。


赤頭巾が腰のホルスターから鶏銃を引き抜いて両手に構える。赤頭巾に懐に入られたミャウは、

慌てた様子で椅子台から飛び退こうとした。


(しまった! 撃たれる――)


「ばぁーんっ!!」

「ひぃいいっ!!」


銃声を耳にしてミャウがヘナヘナと腰を抜かした。


「にしし……なーんちゃって。実はこの銃、両方とも弾切れなんだ。だからこの勝負、引き分

 けだね……って――!」


左手の拳銃を顔の横で掲げて見せる。シリンダー局部に表示された、赤色のインジケーターは、

残弾数0を示す位置に矢印が重なっていた。今さらだが、残弾0で勝負に出るとは無鉄砲にも

程がある。


赤頭巾は、引分けの旨をミャウに伝えようと銃を取り下げたが、ミャウは虚空を見つめたまま、

ガクガクと身を震わせて意識を失っていた。彼女が腰を落とした辺りには、じんわりと水溜り

ができている。


「え? え? えー!!」


赤頭巾が、しまったやりすぎたという顔になる。そして、


「ご、ごめんねっ! 脅かすつもりはなかったんだけど、まさかそこまで驚くなんて思ってい

 なかったからっ!」


失禁して虚脱状態になったミャウに赤頭巾が近づき、労わりの言葉を必死に投げかける。


「もー! どうして私って、いつもこうなのよー!!」


ブレーメンの音楽隊、ハーピストのミャウを下し、赤頭巾が納得のいかない様子で声を荒げた。


      ☆


幻聴ではない。間違いなく誰かが自分のことを呼んでいる。目を覚ませ、目を覚ませと叫んで

いる。グレーテルは、その声が誰であったのか、だんだんと思い出していた――




「てやあぁっ!」


勢いに任せたヘンゼルの一撃が、月夜に浮かぶピエッドの幻影を()き裂いた。


「やれやれ……どこを狙っているのです? 私はそんなところにはいませんよ?」

「くっ……この笛吹き男も(まぼろし)


両肩の上げ下げで呼吸を整える。ヘンゼルは森の中に散らばった数十人の笛吹き男を見渡した。

森の中には、彼が自身の《童術》で創り出した、『夢幻分身体』が蜃気楼のごとく(うごめ)いている。


「今度はこちらから行きますよ」


ピエッドの分身体がヘンゼルを取り囲む。

分身体とはいえ、彼らはそれぞれが固有の意思を持っていて、予測不能な攻撃を仕掛けてくる。

まるで、平行世界の笛吹き男が、この世界の笛吹き男――本体の物語に集結したような感覚だ。


「あぁっ!」


分身に背中を突き飛ばされ、ヘンゼルが前のめりに膝を突く。横っ腹に別の分身が蹴りを加え

てきて、今度は真横に転がった。立ち上がろうとして顔を上げれば、前方からの分身に襟首を

掴まれ、乱暴に引き起こされたのち、鳩尾(みぞおち)へ豪快な膝蹴りが飛んできた。


激痛が血反吐となって口から零れる。しかしながら、分身体の攻撃はこれだけでは終わらない。


ふらつくヘンゼルの足元を分身がすくう。バランスを崩したヘンゼルは肩から草むらに叩きつ

けられ、再び現れた分身に横っ腹に蹴りを喰らった。草埃を巻き込んで転がった先、そこには

ニヤニヤと薄気味悪い笑顔で別の笛吹き男が立っている。次の瞬間、ヘンゼルは先ほど自身が

転がっていた場所まで、同じように蹴り飛ばされた。


集団的リンチ――そう呼ぶのが相応しい光景だった。


「うっ……ゴホッ、つ……」


ピエッドの分身に散々(もてあそ)ばれて、ヘンゼルが屠所(としょ)の羊のようになる。


「さて、もういいでしょう。貴方たちはそれぞれの世界に戻りなさい」


笛吹き男はそう言って横笛を吹いた。分身体が揺らめく炎のように次元を歪ませて消えていく。


「……グレーテル。目を……覚まして……」


ほとんど聞こえない声でヘンゼルが妹に呼びかける。


「貴方も懲りない人ですね。いくら呼びかけても無駄だと言っているでしょう? 夢の世界以

 上の幸せが、この森のどこにあると言うのです? 私は……先の見えない希望にすがるのは、

 もう懲り懲りなんですよ」


(つば)付き帽を軽く弾いて、ピエッドは横笛の先端をヘンゼルに突きつけた。


「お別れです。貴方の行き先は幸福な夢の世界ではなく、絶望が蔓延(はびこ)る『悪夢の世界』にして

 あげますよ。微かな希望にすがる偽善者で愚かな者よ」


ヘンゼルが横腹を押さえ立ち上がる。正直なところ、笛吹き男の思想なんてどうでもよかった。

男の生き方を否定する気はさらさらなかったからだ。彼の過去を垣間見たヘンゼルには、ピエ

ッドの物語が、現在の笛吹き男を創り出してしまったのだと知っている。


《笛吹き男》という英雄に憧れた少年は、少なくともその男に希望を抱いていたはずだ。賤民

だった遍歴芸人から、王宮に呼ばれるほどの大出世を果たした有望な男。


《伝説の楽師パイド・パイパー》は、いつだってピエッドの希望だったからだ。


「あなたの『想い』を否定するつもりなんてないよ。だって、それはあなたが歩んできた物語

 の証明だからね……あなたの物語を奪うなんてことは僕にはできない。でも……これだけは

 言わせてほしいんだ」


肺の底から溜った空気を吐き出して新鮮な空気を取り入れる。闇夜に浮かぶ蒼銀の月が綺麗だ。

草原で浮遊するガラス玉に光が反射する。ピキピキピキ……どこからか、そんな音が聞こえた。


「笛吹き男……いや、『グリムの仔達』ピエッド・ピッパー。僕はあなたに何と言われようと、

 本当の幸せを……誰もがハッピーエンドになれる物語を掴んでみせる! だから……」


ヘンゼルが口角泡を飛ばして熱弁を奮う。


想いは願わなければ叶わない。想っているだけじゃ何も変わらない。

大切なのは、その強く・儚い想いをカタチに変えようとする、勇気ある第一歩を踏み出す事だ。


「だから……僕たちの物語を、グレーテルの幸せを偽りなんかで奪わないで!」


ピキピキピキ! 男が創ったガラス玉に亀裂が入る。吐き出し続けたヘンゼルの『想い』がよ

うやく妹に届いたのか、グレーテルが入ったガラス玉に波風が立つ。


「――!? ばかな!!」


笛吹き男が振り返る。今だかつて、彼の《夢幻童術》から抜け出せた者は、誰一人としていな

かった。別段、術式が強かったからじゃない。『夢の世界』という、絶望のない心地よい世界

が、子どもたちに帰れる場所を与えなかったからだ。

 

『帰りたい』――夢の中の自分じゃない、本当の自分がいる場所に。

その『想い』こそが《夢幻童術》から抜け出すキーワードであった。



【わたしは……お兄さまがいるから頑張れる。お兄さまがいない物語はわたしの物語じゃない】



パリイイィィン! 小望月の空にガラス片が飛び散った。均等に粉砕されたガラス玉の中でグ

レーテルが覚醒する。ガラス玉は飴細工だったのか、ほのかにキャンディのような匂いがした。


「お兄さま!」

「グレーテル!!」


グレーテルがトコトコと兄に駆け寄り、ヘンゼルが妹を迎え入れる。お互い話したいことは山

ほどあったが、それはこの幻想郷を打ち壊してから。再会の余韻に浸るのもほんの数秒だった。


「グレーテル、これ……」


ヘンゼルは背中に背負って持ってきた、妹のヌイグルミを手渡した。グレーテルはそれを大事

に受け取り優しく抱きしめた。そして、


「お兄さま……わたしに……わたしに、力を貸してください!」


グレーテルが真剣な目になってヘンゼルを見る。彼女の想いが『闘気』となって伝わってきた。

妹が何をしようとしているのか……どうしてそれを自分に頼ってきたのか。


笛吹き男との戦いで、グレーテルは一度ピエッドに敗れている。自分一人の力では彼に歯が立

たなかったのもあるのだろうが、それはヘンゼルとグレーテルの物語が二人で一つの『兄妹物』

で、グレーテルが何よりもヘンゼルを信じているからこその『想い』だった。


「グレーテルは、ここにいる、みんなの想いを守りたいんだね」


ヘンゼルが妹の長髪に触れる。彼女はいつだって自分の力になってくれた。羊飼いとの契約時

も、ホームを守るために飛び出した〈三匹の子豚〉戦でも、自分が自信を無くし、意気消沈し

た〈狼&赤頭巾〉戦でも。いつだってグレーテルは自分の側にいて無力な自分を支えてくれた。


グレーテルが兄の問いかけに強く首肯する。


「グレーテル……守ろう。みんなの想いも、そして笛吹き男の物語も」


だからこそ今度は、自分がグレーテルに力を貸す番だ。グレーテルが成し遂げようとしている

想いに兄として応えるために。


「《童術・両刃斧ハーナウ&シュタイナウ!》」


翡翠色の魔法円がヘンゼルを照らす。宵闇をオーロラに染めるその輝きの円から、ヘンゼルは

大型の両刃斧を練成した。笛吹き男が魔法円の出現に身を引き締める。


「なるほど……どおりで《夢幻童術》が破られたわけです。いいでしょう。相手が『グリムの

 仔達』なら一切の手加減はいたしませんよ!」


精巧に出来たピエッドの顔に、一瞬、修羅が走る。ヘンゼルが両刃斧を肩に担ぎ、グレーテル

が両手でヌイグルミを構えた。


「いくよ、グレーテル!」

「はい、お兄さま!」


音楽隊との最終決戦。『黒い森』西区最強の男〈ピエッド・ピッパー〉と兄妹が対峙した――

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